ゆすら荘のペットな彼女【1】(全4回)
 作・JuJu


「いってきまーす!」
 マンションの玄関から飛び出してきた小学生の少年は、満開の桜が立ち並ぶ住宅街の坂道を駆け上がった。春の朝のやわらかい日差しが少年を照らす。車道を走るバスがゆったりと彼を追い抜き、舞い散る桜の花びらが坂道を走りつづける少年にふりそそいだ。
 少年は坂の上に立っている白い外壁の一軒家に来た。しゃれた装飾がほどこされた玄関の扉の前に立つと、ノックもせずにいきなり扉を開く。
「誰!?」
 家の中にいた二十歳(はたち)前後の女性は、突然の侵入者に驚きながら振り返った。
 彼女は全裸だった。
「ご、ごめん」
 裸の女性を目にした少年は、その場で硬直してしまった。それでもその視線は、女性の大きな胸を見つめていた。
「あっ! ご主人さま!」
 扉を開けたのが少年だとわかると、女性の表情が安堵(あんど)したものに変わる。同時に彼女の頭に犬の耳がはえ、おしりにも犬のシッポが伸びた。
 女性は裸であることを恥じらいもせずに、少年に向かってかけよって来た。彼女の巨大な胸が揺れる。その揺れる胸を見て、少年はますます顔を赤くした。
 女性は少年のそばまで来ると、甘えた表情をしながら両腕を伸ばして少年に抱きついた。少年の頭が裸の女性の胸の谷間にうずもれる。
「ご主人さまぁ、さみしかったよぅ」
「たった一日じゃないか」
 少年は耳まで真っ赤にしながら、それでも精いっぱい強がって平然とした声でこたえた。
「だって、だってぇ……」
「今日は夕方まで一緒にいてやるからな」
「うんっ!」
 少年は、抱きしめる女性の腕に、いっそうの力がこもったのを感じた。
(美由紀さんの胸が顔に当たって気持ちいい。それに良い匂いがするなぁ。
 ぼくは裸を見てもいいんだ。この大きくてやわらかい胸を、好きなだけ触ってもいいんだ。
 全部ぼくのものなんだ)
 少年は思った。
(――だって美由紀さんは昨日、ぼくのペットになったのだから)

 ―――
 ――
 ―





 ゆすら荘のペットな彼女

 作・JuJu





 町のはずれに、小さな山があった。
 その山を、息をはずませながら早足でのぼる少年がいた。カバンをたすきに掛け、手にはバケツとスポンジ。もう片方の手にはハタキや雑巾などの掃除道具がにぎられていた。
 木々と草に挟まれた山道は、むき出しの土と小石でできていた。山といってもそれほど高くはないので、坂もゆるやかだった。
 やがて少年――佑太(ゆうた)――は坂をのぼる足をとめ、遠くの景色をながめた。山頂に近いこの場所は、佑太たちの住む町が一望できた。その向こうには海がのぞいている。佑太はこの場所から見る海が大好きだった。
 佑太はふたたび歩きだし、頂上までのぼった。そこには、ほこらがあった。神社を小さくしたような社殿は、犬小屋程度の大きさだった。なんの神を祀(まつ)ってあるのか、佑太には見当もつかなかった。ほこらを管理する者はおらず、参拝にくる者もなく、社殿は朽ち果てていた。ここをおとずれた佑太もまた、お参りに来たのではなかった。
 社殿から物音がしたと思うと、中から犬の子供が顔を出した。子犬は佑太の姿をみとめると、あわてて駆け寄ってきた。
 それは佑太の飼っている捨て犬だった。彼はメスの子犬が捨てられているのを見つけたものの、マンション暮らしなので飼うことができなかった。かといってふたたび捨てるのもしのびなく、しかたなくこの社殿で飼うことにしたのだ。
 淡い桜色の首輪をつけた犬は、嬉しそうに佑太の足に体をこすりつけた。
「ゆすら、おまたせ。お腹がすいただろう」
 佑太はカバンを地面に降ろすと、中からドッグフードの袋を取り出した。ドッグフードを皿のうえに乗せると、ゆすらと呼ばれたメスの子犬はおいしそうにほおばった。
 食事をするゆすらをながめながら、佑太はいった。
「今日は、おまえの家をきれいにしてやるからな。おまえは女の子だからね。家もきれいな方がいいだろう?」
 佑太は食事をしているゆすらから離れ、もってきた道具を使って社殿の掃除をはじめた。
 掃除をしていると、社殿の奥に神体らしき小さな犬の石像を発見した。リンゴを二個縦に並べた大きさの石像は、ながいあいだ風雪にさらされていたらしく、コケが生え泥にまみれていて、体のところどころにくさりかけた落ち葉や木の皮が付着していた。
「おいなり様かな……」
 その石像の形は狐ではなく犬の形をしていたが、佑太はその神体をいなりだと決めつけた。
「ついでにおいなり様もきれいにしておこう。ゆすらが家を借りているんだからね」
 佑太は犬の石像を社殿から取りだすと、コケや泥を取りのぞいた。
 きれいになった石像をしずかに地面に置くと、佑太は目をつむって手をあわせた。
「神様。どうかこの犬に過ごしやすい家を与えてください。
 今は春だからいいけれど、ここだと真夏や真冬は大変だと思うんです。雨漏りもするし。だからゆすらに、家を与えてやってください。
 あ、あとそれから、ついでにもうひとつ。
 ――ぼくには好きな人がいるんです。どうか成就させてください」
 祈りがおわると、佑太は石像を社殿の中に戻した。
 掃除が終わるのを待っていたゆすらが、佑太の足に身をよせた。
 佑太はいった。
「本当にごめん。今日は遊んであげられないんだ。
 今日はどうしてもやらなければならないことがあるから」
 それから、佑太は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「そうだ。今日こそ、やるんだ……」

   *

「ただいまー!」
 山のほこらから家に戻った佑太は、掃除道具をベランダに放(ほう)ると、掃除で汚れた服を着替えた。
「いってきまーす!」
 ふたたび家を飛び出した佑太は、桜が並んだ坂道を走った。道の先に、白い家が建っているのが見える。その家には、佑太のあこがれる大学生の女性が住んでいた。女性の家はお金持ちらしく、あの白い家は彼女の家の別荘だった。いまは大学に通うために彼女はここに住んでいる。
 佑太は白い家の前に来た。カバンからタオルを取り出して顔をぬぐう。タオルをカバンに戻した後、みだれている髪を手でなでつけ、シャツのえりやそでをひっぱってしわをとった。ついでに、いつのまにか肩に乗っていた桜の花びらを手で払う。
 息を殺し、ふるえる指で呼び鈴のボタンを押した。つばを飲み込んで、返事を待つ。
「はーい」
 透き通る声がしてドアが開き、二十歳前後の女性が出てきた。
「あら佑太くん、いらっしゃい。
 あがって。いつものとおりココアでいいよね」
 応接間に入った佑太は、天板がガラスでできている背の低いテーブルの前で、慣れない正座をしていた。頭をうつむかせ深刻そうな面持ちをしている。
 女性がキッチンからもどってきた。
「はいココア。熱いから気をつけてね」
 佑太の前で、マグカップがテーブルに置かれる音が小さく響いた。
 佑太はうつむいたまま口を開いた。
「……美由紀さん。聞いて欲しいことがあります」
「ん? なあに? あらたまって」
 佑太は目の前にいる女性――美由紀――に恋心を抱いていた。実は今日は、その想いを告白しようと思ってここに来たのだった。彼はこの春進級し、学年がひとつ上がって六年生になる。佑太にしてみれば、ひとつ大人に近づいた気持ちがあった。けれどもそれは佑太から見た場合の話で、大学生の美由紀から見れば、小学生の佑太など子供すぎて恋愛対象にもならないだろう。
 佑太もそのことは自覚していた。しかし男としてみられる歳になるまでまっていられなかった。なぜならば、彼女は大学に通うために、仮の住まいとしてこの別荘に住んでいるのだ。大学を卒業してしまえばこの家は空き家となり、美由紀は佑太の手の届かない遠くの世界に行ってしまうだろう。
 本当は春休みが始まった日に告白するつもりだった。だが勇気が出なかった。そして告白が出来ないまま毎日が過ぎてしまっていた。このままでは、なにもできないまま春休みが終わってしまうだろう。それだけは避けたかった。そこで佑太は、これ以上延ばしちゃいけない。今日こそ勇気を出して告白するんだ。と腹をくくり、なけなしの勇気を振りしぼり、こうして美由紀の家に来ていたのだった。
 佑太は顔を上げた。美由紀の顔を一心に見つめる。
「ぼく、美由紀さんのことが大好きなんです! ぼくと、恋人としてつきあってください!」

   *

「気持ちはうれしいわ。でも、もうちょっと大きくなったらね」
 佑太の渾身(こんしん)の告白は失敗した。いや、失敗というよりも、軽くあしらわれたといったほうが正しい。
 年上の美由紀から見れば、自分は子供過ぎて恋愛の対象にならない、佑太はそのことを理解していた。それでも彼は本気だった。だから真剣に美由紀に自分の思いを告白した。それなのに、その真剣な告白を、美由紀は軽くあしらった。まじめに告白した佑太には、自分の心を踏みにじられた思いがした。せめて自分の気持ちを真摯(しんし)に受け止めてくれていたら、振られたとしてもかなわぬ恋だったとあきらめがついただろう。
 佑太は立ち上がると、美由紀の家を抜けだした。
 あとはただ、町の中を夢中で走った。いまにもあふれ出しそうな涙を、必至にこらえて走り続けた。男の子として、なにがあろうとも人前で涙だけは見せたくなかった。

   *

 気がつけば、佑太は子犬のゆすらのいるほこらに来ていた。
 ゆすらにも佑太の悲しい気持ちが通じているのか、なぐさめるように、その体を佑太の足にすり寄せた。
 佑太はゆすらを抱き上げた。
 ゆすらが佑太のほおを、やさしくなめた。
 それがきっかけとなって、必至にこらえていた涙があふれ出す。
「ゆすら……。なぐさめてくれているのかい?
 ありがとう。美由紀さんもゆすらみたいにやさしかったらなぁ」
 佑太はゆすらを抱きしめて泣いた。
 いちど涙腺が崩壊してしまえば、あとはとめることはできなかった。とめどなく、あとからあとから涙がこぼれ落ちる。
 だが、寂れたほこらには、ゆすら以外に見ているものはいない。
 佑太はきがねなく涙を流しつづけた。

   *

『おぬし……、泣いておるのか』
 とつぜん、あたりに声が響いた。
 佑太は泣いているところを見られたと思って、あわててゆすらを地面に降ろすと、目をこすって涙をふいた。
 そのあと周囲を見まわしたが、人の姿はなかった。
「気のせい?」
 佑太がそう思っていると、ふたたび声がした。
『ここだここだ』
 そう声が聞こえたかと思うと、社殿が内側から光った。
 佑太が社殿の扉を開けると、犬の石像が黄金に輝いていた。
「お、おいなりさま?」
『いなりではない!
 まあ、それはともかく。余と、余のすみかをよくぞ清めてくれた。居心地が悪くてまいっておったのだ』
 声の主は、先ほどの犬の石像だった。
「え、でもぼくは……」
 佑太は信仰心など無く、そもそも、このやしろが、何を祭ってあるのかさえしらなかった。ただゆすらの小屋に都合がよかったから利用していただけなのだ。そして掃除だって、ゆすらが住みやすいようにしただけなのだ。
 だが犬の像は、佑太のことなど気にせずに話し続けた。
『その礼として、先ほどの願い……かなえてしんぜよう』
 石像がいっそう明るく輝いて、佑太は思わず目をつむった。
 しばらくして、まぶしさに目の慣れてきた佑太がおそるおそる目を開けると、目の前に黒いうるしが塗られたひょうたんが浮いていた。
「おいなりさま、これは?」
『だからいなりではないと言っておろうが。
 まあよい。受け取るがよい。それを、おぬしの意中の者に飲ませるのじゃ。さすれば願いは成就されるであろう』
 佑太がひょうたんを手に取ると、石像の輝きはじょじょに衰えてゆき、ただの石像に戻った。
「おいなりさま……?」
 だが、石像からの返事はなかった。
 佑太は不思議なできごとに混乱していたが、手の中にある黒塗りのひょうたんが、先ほどの出来事は事実だと証明していた。
 ひょうたんをよく見ると、紙片がひもで首に繋がれていた。紙片には筆で《飲ませた相手を、自分の物にできる酒》と書かれている。
「これを飲ませれば、美由紀さんは……ぼくの物に……?」
 佑太の手がふるえる。ひょうたんの中の液体も、佑太のふるえに合わせて揺れていた。

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