『淫魔のジャコマ アフターストーリー』 その3
JuJu


 闇に包まれた夜の森を、俺と真緒はたんたんと歩いていた。大気は乾燥しきっていて、きんと冷たい。
 頭上の樹から漏れたわずかな月明かりをたよりに、目をこらして探るように進んでゆく。
 辺りは恐ろしいほど静かだった。ざっ、ざっ、と鳴る俺たちの足音のほか、何も聞こえない。
 俺が立ちどまると、うしろにいる真緒も歩みをとめたのがわかる。
 俺は懐から地図を取り出し、ジャコマの書の上に広げると、小型の懐中電灯で照らした。
 明かりをつけていられるのは短時間に限られていた、それも手元にしか向けられない。俺たちが来たことを、魔物に知られないようにするためだ。
 それでも、暗闇に浮かぶささやかな光は、俺の心をなごませた。真緒も安堵したのだろう。ちいさく息を吐いたのが聞こえた。
 地図によれば、魔物退治の依頼を受けた場所は近い。
 俺はふと、もしもひとりだったら、どれほど心細いだろうと思った。あたりは暗く、しかもこの先は、夜になると出るという魔物が待っているのだ。
「敏洋さんがいっしょに来てくれて助かります。
 敏洋さんが案内をしてくれなかったら、夜の森なんて、ぜったいに迷子になってます」
「気にするな。俺にも、真緒をひとりだけで魔物退治をするようにけしかけた責任があるからな。
 それに魔物を見るのは、魔法の文字の理解に役立つはずだ」
「でもよく、敏洋さんが一緒に来ることを、マザーが許してくれましたね」
「真緒が俺をかばいながらでも倒せるような、弱い魔物だからというのか理由らしい。
 しかし、いくら弱いといったって相手は魔物だろう? 本当にひとりだけで大丈夫なのか?」
 真緒からの返事はなかった。
 俺は地図から目を離し、真緒に視線を向けた。真緒の顔の輪郭(りんかく)が、地図から反射した懐中電灯の光に照らされている。だが、真緒の顔は影に覆われて分からなかった。ただ、目を伏せ、視線を合わせようとしない彼女の表情が、雰囲気から想像してとれた。
 魔物退治は常に死と隣り合わせだという、いつかマザーが言っていた言葉を思い出した。真緒はマザーの戦いを見ているから、それを肌で知っているのだろう。
 そうだ。いくら弱いとはいえ、相手は魔物なのだ。そして、彼女はまもなく、その魔物とたったひとりで対峙しなければならない。
 しばらくの沈黙のあと、真緒が話しかけてきた。
「敏洋さんはぜったいに魔物には近づかず、遠くからながめるだけにしてくださいね。
 もしも危なくなったら、迷わず逃げてください。敏洋さんは魔物退治師じゃないんですから、魔物から逃げ出しても恥にはなりませんから」
「ああ」
 明かりを消す。
「まもなく魔物が出るという場所だ。ここから先は、会話も最低限に抑えよう。足音も忍ばせた方がいいな。魔物に気配を感づかれるとまずい」
「はい」
 俺たちは、ふたたび歩き始めた。

   *

 魔物がいる場所に近づくにつれ、ジャコマの書を掴んでいる俺の手にも、自然と力が入ってくる。
 どうして俺が、こんなところにまで分厚いジャコマの書を持ってきたのかといえば、それはマザーからジャコマの書を持っていくように、命令されているからだ。
 もちろん、バッグなどに入れておいてもよいのだが、この書のなかにジャコマがいると思うと、しまい込むのはなんとなく気が引けて、手で持ち歩くことにしている。
 マザーに言われたのはこれだけではない。
 俺がこうして真緒と同行しているのは、さっき真緒に言ったとおり、彼女に魔物退治をけしかけた責任を感じたのもあるし、魔物をこの目で見ておきたいというのもあった。だが、一番の理由は、マザーから一緒についていってくれと頼まれたからだった。

   *

 敏洋は、その時のことを思い出していた。
 それは魔物退治に出かける数日前のことだった。
 敏洋は、真緒を魔物退治にけしかけた責任を感じていた。真緒にもしものことでもあったら自分の責任だ。そう思うと、心配でたまらなくなった。
 そこで彼は、マザーに相談をもちかけた。
「え? 真緒のこと? 大丈夫でしょ。別に」
 マザーはあっけなく応えた。
「なにしろ相手はザコよ? ザコ。あの子の魔力ならば、あんな魔物ひとひねりよ。
 ただ、あれでもう少し度胸があればねぇ……」
 マザーはすこし考え込むような表情をする。
「あんなにやさしい子は、魔物退治師なんか向いていないのよ。ほんとうは魔物相手に戦いなんてする子じゃないから、しかたないんだけどね。
 あたしがこの世界に引きずり込まなければ、こんな命がけで戦うことなどない、平穏な生活を送ったんでしょうね。勉強は出来ないけど、家事は得意だから、いいお嫁さんになったはず。
 でも、魔力を持って生まれて来る人はあまりにも少ないの。だからいつも、慢性的な人手不足。真緒にはかわいそうだけど、魔力を持って生まれたからには、どうしても魔物退治師になって欲しいのよ」
 マザーが敏洋の目を見た。
 敏洋は、またあの半開きのダルそうなまぶたの奧にある、刺すようなするどい視線で見られるのかと思った。だがそこには、ふだんのマザーらしからぬ憂いが、瞳の奧にうかがえた。
「あの子はこれからますます、魔物と戦う機会が増えていく。
 そこで敏洋くん。勝手なお願いだということはわかっているけど、真緒が魔物と戦うときに、できるだけ一緒に行ってあげてくれない?
 もちろん無理強い(むりじい)をするつもりはないわ。だから、できるだけでいい。なるべく真緒を見守ってあげて欲しいの。真緒は敏洋くんになついているみたいだからね」
「でも、俺は魔力を持っていないから真緒の力には……」
「人ってね、ただ好きな人がそばにいてくれる――たったそれだけのことで、ものすごく強くなれるものなのよ」
 その声には、そのことを確信した者の力強さがあった。
「まあ、同行するのは、別にいいですけど。
 ただ、俺は魔力を持っていないから、魔物に襲われたらたまりません。
 そこで、こう……俺みたいな魔力を持たない者でも使える道具……、たとえば、魔物に攻撃できる聖水とか、即席の聖域が作れる巻物とか、そんなのがあったら貸してくれませんか?」
「そんな便利な物があったら苦労はしないわよ。
 唯一、金(きん)に魔法の文字を彫り込んだものならば武器や防具になるけれど、刻んだ呪文に耐えさせるために地金を厚くしなければならないから、そうとう重いわよ? 敏洋くんって筋肉なさそうだし、もって歩くのは無理だと思うわ。
 それに……」
 マザーは指を立てながら言った。
「真緒がいるんだから大丈夫よ。彼女を信じてあげて」
 あまりに自信たっぷりにきっぱりと言うマザーに、敏洋は安堵した。
「……たぶん」
 最後に、顔を背けて、ぼそっと言う。
「な、なんですか? その最後にぼそっと付け加えたセリフは?」
「相手はザコとは言え魔物。魔物相手に、絶対はないわ。
 それに、初めてひとりだけで戦うわけだからね。誰だって初めての経験は緊張するもの。このあたしでさえ、さすがに初めてひとりで戦ったときは緊張したわ。
 まあ、そんなに心配しないことね。万一の時も真緒があなたのことを必ず守ってくれるはずよ。
 それよりも問題なのは、真緒の戦闘意欲ね。いくら魔力があっても、戦わなければ絶対に勝てないんだから。
 あ、そうそう。真緒に同行してくれるならば、この前あげた本を持っていきなさい。役に立つかも知れないから。
 あら? 不満そうね? なんのために、あたしがあの本をあげたと思っているの? 今回に限らず、遠出をする時は必ず携帯すること。約束よ?」
 それを聞いた敏洋は、『いつ、どこででも勉強できるようにって渡したんだから、常に携帯していなさい』とマザーが言いたいのだと思った。
『魔物退治に行くのに空いた時間なんてあるか!』といいたがったが、マザーはそれとなく〈常に本に封印されたジャコマの監視しなさい〉と言っているんだなと察して、黙っていることにした。

   *

「敏洋さん、とまってくださいっ!」
 とがった声色が、俺に警戒をうながした。
 マザーとの会話を回想しながら歩いている間に、どうやら魔物のなわばりに入ったようだ。
 俺は立ち止まり、辺りをうかがう。
 魔力を持っていない俺にも、さっきまでの雰囲気とはまるで違う空気を肌で感じることが出来た。



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