『淫魔のジャコマ アフターストーリー』 その4
JuJu


(真緒、本当にひとりで戦う気なのか。ザコとは言っても相手は魔物なんだろう。万一の時は死ぬんだぞ。今ならば、引き返せる)
 そう、俺は言おうとした。
 途端、俺の視界を人影がさえぎる。
「ここからは、わたしが先頭に立ちます」
 凛(りん)とした真緒の声。
 その声に、俺は言おうとした言葉を飲み込む。飲み込んだ言葉のかわりに、「あ、ああ」などと言う、なさけない言葉を返す。
 梢から漏れる月影に、彼女の姿がほのかに映える。
 夜の森を歩きながら、真緒は俺に話しかけてくる。速さを変えず、前を向いたまま、まるで自分に言い聞かせるように。
「わたしだって魔物は怖いです。でも、魔物退治師の位を上げるためには、避けて通れない道なんです。
 マザーが魔物と戦うのを見ていて、わたし思ったんです。わたしもいつかは、マザーのような魔物退治師になりたいって」

   *

 さらに進んだところで、うなり声が耳に入った。
 俺は足を止めた。
 立ち止まった真緒が、修道服のスカートをあげ、中から鉄槌を取り出す影が見えた。
 この声が魔物の声だということは、魔物をジャコマしか見たことのない俺にもわかった。それほど、魔物のうなり声は深く重かった。
 魔物の種類は、マザーから教えてもらっている。そいつは〈魔獣〉と呼ばれる種類らしい。
 大きさは、やや大きめのイヌ程度。体全体が黒く、目だけが赤く光っている。性格は獰猛で、知性は低い。
 俺は魔獣をさがして、うなり声を見据えた。だが、その姿はどこにも見あたらなかった。あたり一面、どこまでも樹(き)が立ち並んでいるだけだった。ヤツはその赤く光るという目を、このなんの変哲もない樹に隠し、俺たちをうかがっているのだろう。
「……そろそろ来ます」
「がんばれよ」
 俺は魔獣の声から離れるように、背後にあった大きめの樹の後ろに回る。
 幹に身を隠したその時、真緒が小さい声をあげた。
「来ました!」
 俺は声の先を見た。
 闇の中でさらに黒く見える霧の固まり。そいつが樹の陰から現れて、ものすごい勢いで真緒に向かって突進していた。
 魔獣の姿は、体中に霧をまとっていて、正確な体の形は分からなかった。だが、その動作や身のこなしは、真っ黒な虎を思わせた。
 俺は真緒を見た。
 真緒も臨戦態勢だった。両手で鉄槌をつかみ、魔獣に向けて構えている。
 だが、魔獣の底知れぬ気迫に比べ、俺の眼に、真緒の姿がとても小さく映った。
 魔獣は一直線に、真緒に向かって突進した。一方、迫る魔獣に対し、真緒は妙に落ち着きをはらっている。
 そんな真緒を見て、俺は嫌な予感を受けた。暗いために真緒の表情までは見えなかったが、魔獣に狙われているというのに、死んだように動かない。
(おかしい。もしかして、魔獣におびえて動けないのか?)
 俺は叫んだ。
「真緒っ! しっかりしろ!」
 真緒は気がついたように体をびくっと震わせた。
 真緒の真正面で魔獣は飛び上がった。頭に食い付こうとする。彼女はあわてて鉄槌を振り、すんでの所で避ける。
 黒い魔物は、真緒の脇を走り抜けた。
 あとに残った黒い霧が、彼女の修道服のスカートを舞わせる。
(危ないところだった)
 やはり、真緒は硬直していたらしい。
 速度を止めないところを見ると、魔獣はこのまま走り抜けて、いったん森に消え、ふたたび樹の陰を利用して、隠れながら隙を狙うつもりなんだろう。
 これで、しばらくは安心だ。
 そう思い、俺は安堵した。
 だが、それは軽率だった。
 知性の低い魔物とはいえ、戦いの経験は相手の方が上だった。
 魔獣は疾走しながら、俺を目指して進行方向を曲げる。
 俺は、自分の楽観を呪った。
 魔獣は森に消える気などはない。
 真緒を外したために、次の獲物である俺に向かって走っていたのだ。
 魔獣の最初の狙いは間違いなく真緒だった。だが、真緒が倒せなかった場合は、替わりに俺を倒すという二重の攻めだったのだ。
 魔獣の狙いは真緒だけだと思っていた俺は、予想外の展開に、あわてて真緒の元に走ろうとした。だが、勢いに乗った魔獣の足は、俺よりもはるかに速い。
 その上襲いかかってくる魔獣にたいして、俺の体が縮み込んでしまっているのが分かった。
 さっき、硬直する真緒を見て俺は、息込んでいたわりには肝が座っていないと思った。だが、自分が襲われる状況になって、魔獣に狙われるその恐怖が実感として理解できた。
 虎のような形をした黒い霧が、銀色に光る牙をむきだし、泡を含んだよだれをたらし、ふたつの赤い眼が脇目もふらず、ものすごい速さで、俺を殺そうと迫ってくるのだ。
 その姿はまるで、大砲から撃ち出された巨大な弾丸のようだった。
 真緒も、魔獣が俺を狙っている事に気が付いたらしく声を上げる。
「敏洋さんっ! 逃げてくださいっ!!」
 真緒の助言がむなしくひびく。逃げたくても、足がすくんで動かない。いや、もしも逃げたとしても、魔獣の足の方が遙かに速い。
 そのうえ、魔獣には物理攻撃が効かない。魔力を持っていない俺には、真緒の鉄槌のような身を守るすべがないのだ。
 魔獣は、俺の手前で地面を後ろ脚で蹴ると、大きく飛躍した。俺の頭を狙って飛びかかる。
 いや違う。狙いは頭ではない。その牙の先は、俺の首に喰らいつこうとしていた。
 銀に光る牙が俺の首筋に迫る。
 俺は目をつむり覚悟を決めた。
「敏洋さんっ!!」
 真緒の絶叫が頭にひびく。


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