第三幕 その4
JuJu


『ななな、なにぼんやりしているんだよ。
 あの子、本気でアタシたちを殺す気だよ? 早く逃げるんだ!』
 俺の頭の中でジャコマが叫ぶ。その声が、俺を現実に引き戻した。
「真緒! 待て、俺だ! わからないのか?」
『わかるはずが無いだろ! アンタは淫魔になったんだよ!
 かーっ! だから、教会なんて所に来るのは御免だったんだ。それに、なんでご主人様とシスターが知り合いなんだい! もしかしてアタシは、とんでもない奴と契約しちまったのかい!?
 あーもう! 悠長な事しているから、あの子の詠唱が終わっちまったよ。きっと技が完成したんだよ。どうするんだい、もう逃げられないよ! 嫌だよ、アタシはこんな場所で死にたくはないよ!』
「ならば、今すぐ契約を破棄して俺の体から出て行け。そうすればすべては解決する」
『アタシだってね、出ていきたいよ。だけどね、契約をしておきながら一度も性交をしなかったなんて、淫魔の誇りが許さないんだよ!
 しかもその理由が、シスターを恐れて逃げ出したなんて……いい笑われ者だよ。
 いや、それだけならばまだいいよ? もしもその事がユディット様に知れでもしたら……。それこそ死ぬより恐ろしいお仕置きが……。
 ああっ、アタシはどうしたらいいんだい!!』
 頭の中で、ジャコマはギャーギャーと止めどもなく騒ぎ続けている。
 俺はそんなジャコマなど放って、真緒を観察することにした。
(真緒が呪文をとめたのは、技が完成したからではない。何かしらの理由で詠唱をやめたのだ)
 俺はそう考えた。
 なぜなら、鉄槌から吹き付けて来る風が止まっていたからだ。ジャコマは興奮して気が付いていないようだが、真緒が呪文をやめると風は弱まり、やがて消えてしまった。
 敵を目の前にして、わざわざ矛を収めるような行動。その奇妙な行いの答えを求めるように、俺は真緒の目を見た。
 応えるように、真緒もまなざしを返す。
 彼女の表情はやや厳しさを残していたものの、敵対した気配は消えていた。
 真緒は静かに話し出す。
「いくつか伺いたい事があります。
 あなたは、どうしてわたしが名乗る前から、わたしの名を知っていたのですか?
 それに、その眼鏡。敏洋さんの物にそっくりです」
 真緒は構えを解いた。せっかく稼いだ距離を捨てて、ゆっくりと俺に近づく。近づきながら問いかける。
「そして、その面影……。
 もしかしてあなたは……」
 真緒が、俺の目の前に立った。
「――敏洋さん?」
「ああ。俺だ」
「やっぱりっ!!」
 真緒は目を見開いて驚いた。そして、いつもの穏やかな、見慣れた真緒の表情に戻る。
『そんなまさか! その子は本当に、アンタの正体に気が付いたって言うのかい?』
 俺の頭の中で騒いでいたジャコマも、事の異変に気が付いたらしく、そう叫んだ。
 その疑問は、俺も同じだった。
「だが、どうして俺だと分ったんだ?」
 真緒は答えた。
「わたしはマザーの助手として、多くの魔物を見てきました。でも相手にしてきた魔物たちは表情も恐ろしく、体の底から敵意が溢れていました。
 でも、敏洋さんの場合、姿こそ魔物ですが邪悪な気配がありませんでした。それに、戦おうとする意志も感じませんでしたし。
 そんな魔物は初めてでした」
「しかし、戦意は無いと分っても、俺だとまでは分らないだろう?」
「それは……。なんとなくです」
「は? なんだそれは?」
「うまくは言えませんが……。なんとなく、敏洋さんの様な気がしたんです」
「はぁ……。なんとなく、ね」
 俺はあきれた。
「今回はそれでよかったし、俺も助かった。しかしこんな事じゃ、命がいくつあっても足りんぞ」
 そんな俺を尻目に、ジャコマはつぶやいた。
『はは〜ん、そうかい。この子はひょっとして……。なるほど、なるほど』
 ジャコマが一人で納得しては、悦に入っている。
「何が、なるほどなんだ――」
 と、ジャコマに問いかけようとした時、真緒が床に崩れた。
 おそらく緊張が解けて、体の力が抜けたのだろう。俺はジャコマへの質問をやめ、真緒に手を伸ばした。
 自分の腕が目に入る。細い褐色の、女の腕だった。その腕を見て、俺は手を止めた。
(そうだ。俺は魔物になってしまったんだ。そして真緒は見習いとはいえシスターだ。こんな体で真緒に触れる事は許されるのだろうか?)
 戸惑っている間に、真緒の体は崩れた。
 俺は、真緒を見た。床に尻をつけて座り込んでいた。やがて、うつむいたまま泣き始めた。押し殺した泣き声が教会に響く。
「お、おい……」
 まさか泣き出すとは思わなかった。こうなると、俺はどうしたら良いかわからない。
『ご主人様。はやくこの子に手を差し出してあげなよ』
「ジャコマ? 魔物のくせに、ずいぶんと優しいんだな。シスターはおまえの敵なんだろう? 何かたくらんでいるのか?」
『たくらんでなんかいないよ。
 だいたい最初(はな)っから、アタシたちは人間の事を敵視なんかしていないよ。
 人間の方では、アタシたちの事をずいぶん敵視している見たいだけどね』
「それは、これだけ悪さをしていれば、敵視もされるだろう」
『はん! アタシたちは、ただ生きるための行為をしているにすぎないよ。
 ――ま、そんな事はどうでもいいんだよ。
 とにかく、女がこんな惨めな姿をしているのは、同じ女として見ていられないからね。
 さっ、早く』
 ジャコマに急かされて、俺は真緒に手を差し出した。
「大丈夫か?」
「はい。緊張が解けたら、立っていられなくなってしまって」
 真緒が、ゆっくりと顔を上げながら目を開く。
 泣いて赤くなった目が、俺を見上げる。
 差し出した手に、真緒の手が伸びてくる。
「俺は魔物になった。これは魔物の手だ。それでもいいのか?」
「はい」
 真緒は強く頷いた。
 躊躇している俺の手に、真緒がさらに手を伸ばした。
 手が繋がれる。
 真緒の手は柔らかかった。
「!」
 俺は、真緒の手が震えている事に気づき、慌てて手を離した。
 追いすがるように真緒が手を伸ばし、再び俺の手を掴む。
 真緒の震える手。
 いや、震えているのは手だけではない。全身が震えているのが見て取れる。
「俺が恐いのか? 俺が魔物だから、震えているのか?」
 汗ばんだ、真緒の手。
「違います。どんな姿になっても、敏洋さんは敏洋さんですから。
 敏洋さんの手、暖かくて……」
 そこまで言うのが精一杯だったようだ。真緒は再び泣き出した。
 今度は先ほどのような、こらえるような声ではなく、まるで小さな子供のように大声で泣き始めた。
(強がりを言っているが、やはり魔物になった俺の事を嫌なんだろう)
 そう思って、再び俺は手を離そうとした。だがその事に気が付いた真緒が、俺の手を強く握りしめてきた。まるで親と繋いだ手を離すまいとすがる幼子のように、必死に俺の手を求めて握っていた。
(どんな姿になっても、敏洋さんは敏洋さんですから)
 真緒の言葉が、心の中で響いた。
 自分のことを信じてくれている想いが、手のぬくもりを通して伝わる。
 俺は真緒の手を握り返した。
(そうだ。どんな姿になっても、俺は俺だ)
 そう思いながら、ただ真緒が泣きやむのを待った。


第三幕その5へ