第三幕 その5
JuJu


 真緒がようやく泣きやんだ。
 俺は手を離した。
 真緒はまだ、しゃっくりをしている。
「敏洋さんと睨み合っていた時、ものすごく恐かったんですよ? 敏洋さんのことを本物の魔物だと思っていましたから」
「そうか? それにしては、ずいぶんと冷静なように見えたが?」
「それは、悟られないように、必死で強がっている演技をしていましたから。
 でも、心の中では、怯えてて、恐くて、泣き出したい気持ちでいっぱいでした。
 だから安心したら、あの時の怖さが襲ってきたんです」
「じゃあ、もう大丈夫なんだな?」
「はい。敏洋さんだと分かったので、もう平気です」
「しかし……魔物と対峙したくらいで泣き出すなんて、真緒も弱虫だな」
「そんな! だって、魔物って恐いじゃないですか!」
 そう言うと、真緒は熱を込めて、本物の魔物の怖さを話し始めた。
 真緒はシスター・マザーの助手として、魔物と戦ってきた。と言っても、後方からの援護専門だ。魔物と直接戦ったことはない。死闘を続けるマザーと魔物の争いを、マザーの影に隠れて震えながら見てきた。
 それでも魔物は強く、マザーの影にいたにも関わらず、殺されそうになった事も一度や二度ではない。その時は、マザーが身を盾にして守ってくれた。
 だから、魔物の怖さを肌で知っている。
「マザーでさえ、魔物には手を焼いてるんです。未熟なわたしが一対一で戦えば、教会でも、勝てる見込みなんてありません」
 だから怖かった。怖くて怖くて逃げ出したかった。
 だが、目の前の魔物の姿は、俺が図書室に持っていった本の表紙の絵にそっくりだった。もしも、この魔物が、あの本から召還された物だとしたら。
 真緒は、一刻も早く俺の安否を知りたかった。
 しかし、図書室に行くには魔物が通せんぼしている。
 俺の安否をを確かめるには、目の前の魔物を倒すしかない。
 場合によっては、俺の仇を討たなければならくなる相手だ。
 だから、腹を決めて、戦おうとした。
(それにしても……)
 と俺は思う。
 俺が真緒と対峙していた時、彼女が恐怖に震えていたなんて、まったく気が付かなかった。
 なるほど、体格差ひとつ取っても、俺の方が大きい。しかも魔物の体だ。この肉体にどんな能力があるのか、俺にはわからない。どうやったら引き出せるのか、それさえ知らない。だが、魔物の能力を使いこなせたら、真緒よりも遙かに強い可能性だってある。真緒など、ひと捻りかも知れない。
 いや、相手の力がわからないからこそ、恐いと言うこともある。未知の敵ほど、嫌な物はないだろう。
 それでもなお、真緒は見得を切り、魔物と戦おうとしていた。
 その理由が、俺の安否を知りたい。それだけの為だった。こんな小さな体で、震える心で、逃げることもなく、魔物と戦おうとしていた。
 俺が心配そうに見ている事に気が付いたのだろう、真緒は元気そうに言った。
「もう大丈夫ですよ。それに、すこしだけですけど勇気がついた気がします」
「まぁ、真緒の気持ちも分かる。俺だって魔物に襲われた時は焦ったしな」
「あ、そうか。敏洋さんも魔物と対峙していたんですね」
「対峙した上に襲われた。だから、こんな姿にされたんだ」
「なんか、すごく落ち着いているので、忘れていました」
「おいおい」
「でも、敏洋さんは、魔物に襲われた上に、そんな姿にされたって言うのに、ずいぶんと冷静でいられるんですね。わたしが同じ目にあったら、どうなっていたか……」
「いや、別に冷静って訳じゃないんだが」
「それでも……わたしなんかより、よっぽど落ち着いています。すごいです。
 わたしも敏洋さんくらい、いつも冷静でいられたらなぁ」
 俺は思う。
 たしかに、さっきの真緒の姿はハッタリだったかもしれない。だが俺は、そこに魔物退治師の片鱗を見た気がする。
 そこには、強く凛々しい魔物退治師の姿があった。
 マザーだって、足手まといな真緒をわざわざ戦場に連れて行くのも、真緒に実践での感覚を仕込みたいからなのだろう。
 そしてもし、弱虫な真緒が、数々の修羅場を超え、いつか魔物に動じなくなった時……。
 その時、真緒はマザーの様なすごい魔物退治師になれるんじゃないか?
 さっき俺が見た姿は、未来の真緒の姿なんじゃないか?
 そんな気がして、俺は見直したように真緒を見た。
 そこには、にへ〜っ、と惚けた顔をした真緒がいた。
 前言撤回。この、にへにへ〜とした性格じゃ、永遠に魔物と戦う事なんてできない。
 だいたいマザーだって、そういつもいつも、真緒の面倒ばかり見てもいられまい。俺が魔物と戦える力を持って生まれていれば、真緒と一緒に戦ってやれたのだが。
「ぐうぅ〜」
 その時、再度空腹が襲ってきた。いや、今度のは、空腹なんてなま易しい物じゃない。一瞬、目の前が暗くなった。
「敏洋さん!」
 頭を振って、眩みを払う。
「すまん。空腹で目が回りそうなんだ」
「あ、お腹がすいたのならば、何か作りますね。なるべく手早くできる物を……」
「そうじゃない。……いや、人間の食べ物は受け付けないんだ」
「え?」
 俺は、ジャコマに融合された経緯を手短に話した。さすがに、融合した魔物が淫魔だったと言うことは、適当に濁しておいたが。
 説明を聞いて、真緒は胸を締め付けられるような表情をした。
「それじゃ、あのジャコマの書には、本当にジャコマって言う魔物が封印されていて、敏洋さんはジャコマに取り憑かれてしまったんですね」
 俺の話しが終わったとき、真緒が言った。
「ごめんなさい!
 わたしが、冗談であの本には魔物が封印されているなんて言ったから……」
「いや。さすがにそれは関係ないと思う。冗談で、いちいち魔物が封印されていたり、召還されていたりしたら大変だ」
「でも、わたしが原因で、敏洋さんは魔物に取り憑かれてしまったんですよね」
「それは……」
「わたしがいけなかったんです。
 敏洋さんのお役に立ちたい気持ちもありました。
 でも、本当はそれ以上に、敏洋さんに、魔術の言語を読めるところを自慢したかった。私だって凄いんだぞ、と言うところを見せたかった。認めて、感心して、ほめて貰いたかった。
 そんなわたしのよこしまな気持ちが、敏洋さんをこんな目に……」
 今にも泣き出しそうな声。俺は真緒の言葉を遮った。
「思慮に欠いていたのは俺も同じだ。真緒だけのせいじゃない。
 それよりも、ジャコマを俺の体から祓ってくれ。
 こいつのせいで、俺は魔物の体になり、そのために人間の食べ物を食べられないようになってしまった。
 ジャコマさえ出ていけば、再び人間の食事が出来るようになると思う」
 真緒は激しく首を振った。
「わたしでは無理です。
 マザーならば何とかできるとおもいますが……」
「ああ。マザーは海外に行っているものな。今から連絡を入れて、急いで戻ってもらっても、相当な時間が掛かるか」
 俺はうなだれた。
 マザーが帰ってくるまで、この姿で居るしかないのか。
 もう限界だった。体が、淫欲を欲しているのだ。
(仕方ない、ジャコマの言うとおり、男を襲いに行くか……。それしか、俺が生き延びる方法はないのだから……)
 そんな気持ちが、頭を横切る。
 その時、真緒の言葉が脳裏に響いた。
(どんな姿になっても、敏洋さんは敏洋さんですから)
 そうだ。真緒の言うとおり、たとえ体が魔物になっても、俺は俺だ。いくら腹が減っても、強姦なんて出来るはずがなかった。ましてや、男とセックスするなんて。
 目の前が暗くなっていく。
 俺は真緒の足下に倒れたのだろう。かすんだ視界に、真緒の修道服のスカートが映った。
 俺の意識は、そこでとぎれた。


(第三幕 終わり/第四幕につづく)