第三幕 その3
JuJu


 俺は教会の入り口に立っていた。扉の向こうに、真緒がジャコマの書を読んだ礼拝堂がある。
 ジャコマが礼拝堂で召還された時《聖域だった為に書物から出られなかった》、と言っていたが、今の俺にはその言葉が理解出来る。ジャコマが怖れた、教会からあふれ出す威圧的な力。それを、肌で感じることが出来る。
 騒いでいたジャコマも、教会の前まで来ると、すっかり大人しくなっていた。
 教会の扉に手を掛ける。
 こんな姿になった自分を真緒に見せなければならない。そう考えただけで扉を開ける事に躊躇(ちゅうちょ)してしまう。しかし、強い空腹感が《このままでは淫魔として男とセックスをすることになるぞ》と逃げようのない現実を突きつけて来る。
「男とセックスするくらいならば、まだ真緒にこの姿を見られる方がましだ」
 俺は一気に教会の扉を開けた。
 開けた途端、光があふれた。
 まばゆさに目がくらみ、あわてて目を閉じる。
 さらに教会の内部から、強い風が吹き付けて来る。
 ジャコマの言っていた聖域の力だ。正体不明の力が風となって、俺の体を押し返すように襲ってくる。
 もちろん、人間だった時には全く感じなかった感覚だ。
「くそぅ! 俺は人間だ! こんな体になってしまったが、それでも俺は人間だ!」
 俺は風に飛ばされないように足を踏ん張り、両腕で顔を守るように覆った。一歩も退くわけにはいかない。ここで退けば、自分が魔の物になった事を認めることになる。
 しばらく堪えていると、教会から吹き付ける風が少しずつ収まって来た。
 俺は状況を確かめるため、ゆっくりと目を開ける。
 風は収まった物の、光はまだあった。
 そしてこの明かりの光源が、礼拝堂の照明であることに気がついた。
 威圧のある風は、間違いなく教会の力だ。だが、光の方の正体は、単なる電灯の明かりだった。暗闇からいきなり明るい所に来たので、目がくらんでしまった様だ。
 とは言え、こんな深夜に、誰もいない礼拝堂の電灯が点いていると言うのも妙な話だ。
「真緒が消し忘れたのか? 仕方ない奴だ」
 などとぼやきながら、俺は教会の中に入って扉を閉めた。
 中に入ると、礼拝堂の正面の壁に置いてある聖像に向かって、誰かが祈りを捧げていた。背を向けていたが、修道服からそれは真緒だと分かった。
 真緒は床にひざを着き、両手を合わせて、聖像に向かってひたすら祈りを捧げていた。夢中で祈っているために、俺が入ってきた事にも気がついていないようだ。
 こうして真緒の姿を目の当たりにすると、この変わり果てた姿をさらす事に、あらためて気が引けた。しかし、今は真緒に頼るしかない。
「真緒……。おい真緒っ!」
 俺は真緒に向かって歩きながら、勇気を振り絞って声を掛ける。声が完全に女の物になっている事がやるせない。
 だが真緒は、俺の呼ぶ声に反応しなかった。よほど祈りに集中しているらしい。
 いつもだったら真緒はとっくに寝ている時間だ。こんな遅くまで、何を熱心に祈っているのだろう。
 真緒に近づくにつれ、彼女の祈りの言葉が聞こえて来た。
 俺は真緒の声に耳を傾けた。
「敏洋さんに何事もありません様に。もし、万一にも、何か起れば、助けてくださいますように」
 真緒は熱心に、そう祈っていた。

 *

「敏洋さんに何事もありません様に。もし、万一にも、何か起れば、助けてくださいますように」
 礼拝堂の聖像に向かって、真緒は祈りを捧げていた。
 敏洋は、こんな夜中まで自分のことを心配し、祈りを捧げてくれている真緒に感激した。
 そういえば、ジャコマに襲われそうになった時に、聞いた真緒の幻聴。あれも、真緒の祈りが起こしていたのかも知れない。真緒が、ジャコマから俺を守っていたのかも知れないな。
 敏洋は、そんな事を考えた。
 真緒にならば、この姿を見せることが出来る。真緒ならば一緒に解決方法を考えてくれる。
 敏洋は、そう確信した。
「真緒っ!」
 敏洋は真緒の両肩に手を掛けて、軽く揺すった。
「……敏洋さん?」
 聖像の前で頭をもたげて祈りを続けていた真緒は、敏洋の声を聞き、目を開いて、驚きの表情をして顔を上げた。
「よかった。胸騒ぎがしたので、敏洋さんの安否をお祈りしていたんです」
 弾むような声で立ち上がると、振り返った。
 だが敏洋の姿を見た瞬間、真緒の顔は笑顔のまま凍りついた。二、三歩、後じさる。
「ま……魔物っ!? どうして教会に?」
 真緒は驚いた顔をしたまま、それでもなんとか視線を動かして、敏洋を観察した。
「そのコウモリのような翼!
 敏洋さんに渡した本に描いてあった魔物に似ている……。
 じゃあ、心配していたことが……?
 敏洋さん……」
 真緒は不安そうな顔で教会の出入り口を見たが、すぐに厳しい顔になり敏洋を睨んだ。
「魔物よ! あなたがどうしてここに来たのかは存じませんし、訊ねる言われもありません。
 いずれにせよ、教会に入ってくるとは良い度胸です。その度胸に免じて、今回だけは見逃して上げます。
 立ち去りなさい。今すぐにです!」
 真正面から立ち向かうように凛とした姿勢で、真緒は敏洋に言った。いつもの「にへにへ〜」とした真緒の姿は片鱗も見えない。敏洋には一度も見せたことの無い、厳しい顔つきだった。
 その凛々しい姿に、敏洋は我を忘れて見とれていた。
 これが本当に真緒なのか? いつも見ている真緒とはまるで別人だ。
 敏洋はそう思った。
「真緒……」
 敏洋はおもわず歩を進めた。
「やはり、魔物には何を言っても無駄みたいですね。
 せっかく見逃してあげるって言ってるのに……」
 真緒は目で敏洋の動きをうかがいながら、静かに後ろに下がって間合いを取る。そして、修道服の裾を片手で掴むと、太股が見えるほどまで高くまくり上げた。真緒の太股にはガーターが填めてあり、そこから細い鉄槌がぶら下がっていた。
 敏洋は、マザーが太股のガーターに武器を吊している事を思い出し、やっぱりマザーの弟子なんだなと再確認した。もっともマザーの場合、ガーターに吊しているのは皮の鞭だったが。
 同時に敏洋は、真緒の白い太股に見とれていた。子供だと思っていた真緒の肉体も、こうして見ると女としての色気を放っている。
 だが、そんな敏洋の淫欲な気持ちも、真緒がガーターから外した鉄槌が放つ、鈍く輝く光に、我に返らざる得なかった。
 真緒は聖像を背に、片足を前に差し出し、右手に鉄槌をかざした。
「こうしている間にも、敏洋さんの身に何かあったら大変です。
 ……仕方ありません」
 真緒は左手を突き出し、敏洋を指さした。
「魔術教会第七階梯者アペレンティス、清木真緒。
 謹んでお相手させて頂きます。
 ――いざっ! 参ります!」
 鉄槌を構えた立ち姿のまま、真緒は目をつむり、呪文を唱え始めた。
 鉄槌から、教会の扉を開けた時に吹き付けた、あの嵐の様な風が渦巻いた。
 敏洋は、普段からは想像のつかない、真緒の姿に目を奪われていた。
「闇より生まれし魔の物よ。お喰らいなさい、我が師より受け継げし……」
 呪文と共に風は激しくなり、荒々しくゴウゴウと敏洋に吹き付ける。
『ななな、なにぼんやりしているんだよ。
 あの子、本気でアタシたちを殺す気だよ? 早く逃げるんだ!』
 今まで沈黙していたジャコマが、頭の中で叫んだ。


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