第三幕 その2 JuJu 時が過ぎた。 敏洋はだいぶ落ち着きを取り戻していた。しっぽと翼が邪魔で仕方ないと言った様子で、図書室のイスに座っている。 「いいかげん、俺の体から出ていけ」 『いやだね。追い出せる物ならば、追い出してごらん』 こんな対話を、何度繰り返した事だろうか。 とうとう、敏洋は根を上げた。 「わかった、もういい。好きにしろ」 敏洋はふてくされた顔で腕を組んだ。目を閉じて、これからどうしたものかと思案した。が、良い案など出るはずもなかった。シスター・マザーが戻ってくるまで、この姿で待っているより他に方法はないのだ。 マザーならなんとかしてくれる。その確信があったからこそ、敏洋は平常心を保てた。 (ジャコマが、俺は淫魔になったと言っていたが、姿が変わった位で、他に問題はないらしい。 マザーが戻ってくるまで、図書室で古書を読みながら、ひっそりと暮らすしかないようだ。食事などは、真緒に事情を話せば用意してくれるだろう) そんなことを考えていると、突然、腹の虫が鳴いた。 身の振り方が決まったせいか、それとも食事のことを考えたせいだろうか。緊張の替わりに、今度は激しい空腹が敏洋を支配した。敏洋は食が細い方なので、これほどの空腹感は久しぶりだ。 『おや? ご主人様もお腹が減ったのかい? アタシも、本から出た後ずーっと腹がへっていたんだよ。 それじゃ、食事に行こうか』 「……」 ジャコマの言葉を無視して、敏洋はイスから立ち上がった。食器棚の前に立ち、しまっておいたマフィンを取り出す。真緒が夜食にと作ってくれた物だった。 だが不思議なことに、マフィンを見ても食べたいという気持ちが起こらなかった。 真緒は、性格はボケているが、家事や料理の方の腕は確かだ。しかも、手作りなので、敏洋の好みの味付けにされている。それなのに、手にとっても食欲がわいて来ない。いや、それどころか、これが食べ物だという実感さえわいてこないのだ。 『あ〜、ダメダメ。そんな人間の食べ物じゃ、腹はふくれないよ。 アタシたちは淫魔なんだからね。淫行をしなけりゃ、腹はふくれないよ』 「淫行? セックスの事か」 『そうだよ。アタシたち淫魔は、人間の淫欲を食べて生きているんだ。 アタシたちだって、食べなければ消滅してしまう。夜露みたいにね。 でも、淫魔の姿では人間の淫欲は得られない。淫欲は、人間の体から発生して、人間の体を伝わり、人間の体に消えていく。人間だけが持つ、特殊な気なのさ。 そこでアタシたち淫魔は、人間と融合する事によって、半分だけ人間の体となって、淫欲を得るのさ』 「早い話が人間に寄生し、人間から生まれる淫欲を横取りして生きているって訳か」 『ほんのちょっと、分けてもらうだけさ。 その代わりご主人様には、人間では絶対に体験できない、淫魔の快感を味あわせてあげるよ。 分かったら、早く男あさりに行こう』 「待て! 男あさりだと!? 誰がそんなことをするか!」 『いちいち、飲み込みが悪い人だねぇ。 さっき鏡で、自分の体を見ただろう? アンタはもう、女の淫魔なんだよ。女だったら、相手は男にきまっているだろう。 さっさと男あさりに行くよ。アタシだって腹が減って我慢出来ないんだ!』 敏洋はそれを聞いてあせった。 いくら体が女の淫魔になったからとはいえ、心は男のままなのだ。 だが、とてつもない空腹が敏洋を襲っていた。この空腹感を満たすには、彼女の言うとおりにするしかないらしい。 あるいはジャコマを追い出す方法が、ジャコマの書に記されているのかもしれないが、読むことが出来なければ意味がない。 『そんなに心配しなくたっていいよ』 ジャコマは、なだめる声で言った。 『怖いのは最初だけさ。 一度、淫魔の快感を覚えてしまえば、後は、たとえアタシが止めたとしたって、夢中になって男を襲うようになるから。 これから、どれだけの数の男の精を食べられるかと思うと、期待が止まらないよ』 「いい加減にしろ! 男とセックスなんて出来るか!」 『こうなった以上運命共同体なんだ。 それともこのまま餓死する気かい? まっ、アンタが空腹に、どこまで堪えられるか見ものだけどね』 ジャコマは見下すように言う。 きっとジャコマは、今までも幾人もの人間に取り憑いてきたのだろう。そして、取り憑かれた人は、俺と同じように当初は嫌悪していたが、やがて空腹に堪えられなくなり、泣く泣くセックスをしたのだろう。その後は、ジャコマに言うとおり、淫魔の体の快感に理性を飲み込まれ、性欲に任せて――おそらく死ぬまで――淫欲をむさぼったのだろう。 ジャコマはそれを何度も見て来ているからこそ、余裕のある態度で、俺を傍観(ぼうかん)しているに違いない。 そう、敏洋は思った。 * イスに体をもたれかかせる様に、俺はぐったりと座っていた。 『しぶといねぇ。アタシは腹ぺこなんだよ! 飢え死にしたくなければ、男を捕まえに行くんだ!』 ジャコマが頭の中で何度も訴えていたが、俺は無視を続けた。 (男とセックスをするなんて冗談じゃない。 とりあえず教会に行って真緒に相談しよう。真緒だってシスター・マザーの弟子だ。ジャコマを追い出せないまでも、なんらかの対処とか応急処置くらいならば知っているかもしれない) こんな姿で真緒に会うことに躊躇もあったが、もはや空腹に堪えられそうにない。 「よし!」 俺は立ち上がった。胸が揺れる感覚が伝わって来て、女になったのだと実感させられる。 『ん? ようやく男あさりをする気になったのかい?』 「教会にいく」 『きっ、教会ぃ!? ちょ、ちょっとお待ちよ! あそこだけは、だめだめ!』 俺の言葉に、ジャコマが激しく反応した。 (そういえば、真緒がジャコマの書を読んだとき、書物から出ようとしたが、そこが聖域だったために出られなかった……、みたいなことをジャコマが言っていたな。つまり、教会という場所は、ジャコマにとって危険な場所なのか……) そう思い当たった俺は、ジャコマに尋ねる。 「おまえ、もしかして教会が弱点なのか? 聖域だから、書物から出られなかったとか言っていたのは、この事だったんだな? うむ。今から教会に行くぞ。覚悟しろよ」 『ちょっとちょっと、お待ちよ! アタシの話を聞きなよ! ああ、そうだよ。アンタの言う通り、魔の物にとって教会ほど苦手な物はないさ。 でもね、よく考えてごらん? アンタも淫魔になったんだ。 今や、アンタにとっても、教会は苦手な場所になったんだよ』 ジャコマは、落ち着きのない声で言った。 (間違いない。こいつを弱らせるには、教会に行くしかない) そう確信した俺は、なんとしても教会に行く事を決心した。 さっそく服を拾って、着ようとした。だが、羽やしっぽがじゃまで着ることが出来なかった。 淫魔の能力なのか、裸でいても寒さは感じないのだが、真緒の前に裸で行くのは恥ずかしい。 どうした物かと考えていたら、ジャコマが脱ぎ捨てたボンデージが目に入った。 ボンデージを着るのは恥ずかしいが、裸で行くよりはましだろう。 しかたなく、俺はボンデージを着る事にした。 体の線に形取ったように、ボンデージは新しい俺の体に適合した。 その間も、ジャコマは俺が教会に行くことを止めようと騒いでいたが、俺は一切無視した。 玄関に置かれた、俺の靴をはいてみたが、靴が大きくなっていた。いや、俺の足が小さくなったのだろう。これではうまく走ることが出来ない。しかたなく、靴はあきらめ、裸足で行くことにした。 俺は図書室の玄関の戸を細く開けた。そこから頭を出し、辺りを慎重に見回す。人気が無いことを確認する。 教会の二階の、真緒が見ていた部屋の明かりは消えていた。空を見ると、月は雲に隠れていた。ここに着た時は、秋の名月が見られなかった事を残念がったが、今は月明かりがない事に感謝をした。万一にも、この姿を人に見られるわけには行かない。月の出ていないこの明るさならば、闇に紛れて移動出来るだろう。 俺は図書室から抜けだすと、闇の中を教会目指して、一直線に駆けぬけた。 第三幕その3へ |