第二幕 その3
JuJu


 ジャコマだったゼリーが、敏洋に迫っていた。
 その事に気がついた敏洋は、イスから立ち上がると身構えた。ゼリーの動きを目で追う。
 人の大きさ程ある巨大なゼリー。その褐色の固まりは、図書室の天井の小さな照明を受けて、大海で揺らぐクラゲのように美しく透明に光を反射していた。
 突然、ガラス戸をたたく音がした。敏洋はそちらに目を向けた。風が強くなったらしく、窓が揺れて音を立てていた。だが、どれほど強い風が吹こうと問題はない。風で窓が音を立てるような古い家だが、教会と同じ日本では珍しい石造りだ。暴風雨が来たところで、びくともしないだろう。
 敏洋は音の正体に安堵すると、窓から目を離し、改めてゼリーを見た。
「ん?」
 敏洋は、ゼリーがほとんど移動していない事に気がついた。
 ゼリーになって死んだと思っていたジャコマが生きていた。しかもそのゼリーが迫って来る。敏洋はその事に圧倒され、うろたえていた。
 だが、落ち着いてよく見れば、ゼリーの移動速度は極めて遅い。
(この鈍さならば、恐れるほどでもないな)
 その事が敏洋に余裕を与えた。
 敏洋は窓を確認した。鍵が掛かっていた。
(窓と出入り口の戸。図書室から外に出るには、この二つしかない。
 窓には鍵が掛かっているし、戸の鍵は自分が持っている。
 ――外に出た後、すぐに戸に鍵を掛ける。次に庭に行き、窓の鎧戸を閉める。
 そうすれば、ゼリーを図書室に閉じこめる事が出来る。
 閉じこめてしまえば、丈夫な石造りの家だから、いくら暴れても逃げられまい)
 魔物を生け捕りにする。
 そう思うと、今までの恐怖心が、勇気に変わった。
 魔物を退治する能力。それは生まれついて持つ特殊な才能だ。敏洋にはシスター・マザーや真緒のような魔物を退治する才能はない。
(だが、閉じこめることは可能だ)
 敏洋は、真緒が自分のことを尊敬し、羨望のまなざしで見ている場面を想像した。
(真緒だって一人で魔物と戦った事などないはず。
 ましてや魔物を生け捕りにしたとなれば、真緒も俺のことを見直すだろう)
 図書室の蔵書の事が気になったが、魔物の問題の方が優先だと思い直した。
 そうこう考えている内に、ゼリーは少しずつ近づいていた。
 敏洋は机の引き出しを開いた。中にある図書室の鍵をつかみ取る。出口に向かって走り出した。
 だがその直後、敏洋の予想していない事態が起きた。
「なにっ!?」
 ゼリーが飛躍したのだ。
(遅い動きは、俺を油断させるための演技だったのか!)
 ゼリーは敏洋の背を軽く飛び越え、敏洋と図書室の戸の間に着地した。
「逃がさない……つもりか?」
 敏洋はゼリーを睨む。
 ゼリーはじわりじわりと、体の向きを変えている所だった。
「……」
 敏洋は考えた。
 騙すつもりだったのならば、もう演技をする必要はない。一気に襲ってきてもいいはずなのに、やはり動きが遅い。
(と言うことは、これは演技ではない)
 跳躍力だけはケタ外れだが、移動や体の向きを変えるのは苦手らしい。
 敏洋はそう読んだ。
 あくまで推測だ。ゼリーは一気に襲うつもりはなく、じわじわとなぶり殺しにするつもりなのかもしれない。が、敏洋はこの推理に賭けてみることにした。
 敏洋は再び出口目がけて突進した。
 立ちふさがるゼリーの前まで来ると、そこで進路を曲げて迂回し、再び出口に向かって走った。
 ゼリーも負けじと、力を溜めて大きく飛び上がった。今度は一気に戸の前に着地した。
 だが、そこに敏洋の姿はなかった。
 ゼリーは敏洋を捜しているらしく、体を左右に動かした。
 やがて、ゼリーは敏洋を見つけだした。
 彼は図書室の窓の前にいた。窓の鍵を急いで開けている所だった。
 足下には、ジャコマに脱がされた敏洋の服も回収してあった。
 敏洋はたしかに図書室の戸に向かって走った。だがそれは見せかけで、ジャコマがジャンプした途端、すばやく向きを変えて、床に散らかった服をつかみ、そして図書室の窓に向かったのだ。
 背後にいることに気がついたゼリーは、体を振り返らせていた。
 体を転回させているゼリーを見て、敏洋は勝利を確信した。
 敏洋のにらんだ通り、ゼリーは前方にしか飛べないらしい。跳躍力は優れているが、その反面、床の移動、つまり床を進んだり、体を転回させたりするのは時間がかかるのだ。
 敏洋は両腕で窓を開けた。秋の風が一気に入り込んでくる。窓のカーテンが揺れた。
 全裸の敏洋は、全身に風を浴びた。冷たい風も、今の敏洋には祝福の歓声に感じた。
 敏洋は床においていた服を掴み、窓枠に右足をかけた。そして振り向くと、ジャコマだったゼリーを見た。
 その顔は、勝利に満ちていた。
 だが、顔が一瞬にして恐怖に変わる。
「!?」
 ゼリーの一部が触手のように長く伸びたと思うと、目にも止まらぬ早さで、敏洋に向かって飛んできたのだ。それは、ジャコマの口から伸びた舌をほうふつとさせた。
 敏洋は窓を越えて逃げ出そうとしたが、その時にはすでに、触手が敏洋の左足に巻き付いていた。
「ぐっ!」
 敏洋は手を足に伸ばし、ゼリーを取り除こうとした。
 だがゼリーは粘ついており、なかなか足から離れない。
「くそっ!」
 敏洋はついにしゃがみ込み、ゼリーとの格闘に夢中になった。
 しばらくして大きな影に気がつき、顔を上げると、ゼリーの本体が敏洋に襲いかかって来ていたところだった。
 敏洋は立ち上がり、ゼリーでままならない足をなんとか動かして窓から逃げようとした。
 巨大なゼリーは、津波が人を飲み込むように、敏洋に襲いかかった。
 全身を包まれることは逃れたが、足がゼリーに捕まってしまった。
 ゼリーは、飲み込むように足を引っ張った。
 敏洋は足を奪われて、前のめりに床に倒れた。
 ゼリーは、床にうつぶせになっている裸の敏洋の体をはい上がってゆく。
 敏洋は四つん這いになって、窓を目指して逃げようとしたが、ゼリーは胸まで達していた。
 秋風で冷やされた体に、ゼリーの人肌程度の体温が心地よかった。その感触は、ネコの腹をなでたときの柔らかい感触とぬくもりを敏洋に思い出させた。そしてその心地よさが、この物体がジャコマだった事を思い出させて、不安を煽る。
 ゼリーはついに、敏洋の肩まで飲み込んだ。敏洋はゼリーから、かろうじて頭と腕だけを出している状態になった。
 さらにゼリーの一部が伸び、再び触手となった。その触手は、敏洋の口の直前まで来ていた。だが、ゼリーから抜け出そうともがいている敏洋には、その事に気がつく余裕などあるはずもなかった。


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