やっぱりスカート #30 コート

作:夏目彩香 by Saine

※この小説は夏目彩香風の小説が書けるように独自に調整したAIエンジン「Saine」(通称)を執筆に用いています。



冬の足音が、確実にこの街へ近づいてきていた。

駅前の並木道からすっかりと葉が落ち、吹き抜ける夜の風は、秋の涼しさから明確な「冷気」へとその性質を変えている。吐く息が微かに白く濁り、街を行き交う人々の装いも、すっかりと厚手のアウターを中心とした冬のシルエットへと移行していた。

休日の夜。駅前の少し開けた広場を、飯沼航(いいぬまわたる)の意識を宿した池田心優(いけだみゆう)の身体は、足元のショートブーツでアスファルトを確かめるように踏みしめながら歩いていた。

今日、私が身に纏っているのは、足首の少し上まですっぽりと覆い隠す、ライトベージュのノーカラー・ロングコートだ。

上質なウールをたっぷりと使ったその生地は、これまで身につけてきたどのスカートやカーディガンよりも、圧倒的な物理的質量を持っていた。肩を通し、フロントのボタンを留めた瞬間、ズシリとした重みが華奢な両肩に真っ直ぐにのしかかってくる。

しかし、その重みは決して不快なものではない。

冷たい夜の空気が肌を刺そうとするのを、分厚いウールの層が完全に遮断してくれる。首元から足首まで、身体の大部分が一つの大きな布の筒の中に収まり、自分の体温がコートの内側に柔らかく閉じ込められていく。それはまるで、外の世界の厳しさから自分自身を守るための、動く「シェルター」のような圧倒的な安心感だった。

そしてこのロングコートは、ただ寒さを防ぐだけの役割に留まらない。

分厚く、身体のラインを拾わない大きな布の面積が、私と彼が抱える『身体が入れ替わっている』という、この世界の理から外れた最大の秘密をも、すっぽりと内側に隠し込んでくれているような気がするのだ。

「少し、冷えてきたね。寒くない?」

隣を歩く大柄な男性の骨格――心優(中身は航)が、低い声で気遣うように尋ねてきた。

彼(彼女)が羽織っているのは、深いネイビーのチェスターコートだった。もともとは男性の礼装に由来する、肩幅がかっちりとして直線的に落ちる重厚なアウター。大柄な男性の骨格に入った彼女が、そのチェスターコートを羽織ることで、かつては無骨に見えた広い背中が、洗練された大人の男性としての揺るぎない威厳と落ち着きを放っている。

「ううん。このコートがすごく暖かいから、全然平気だよ」

私は、ライトベージュのコートのポケットに両手を入れたまま、彼(彼女)を見上げてふわりと微笑んだ。

先週末。私たちは、この入れ替わった状態のまま、互いの両親への結婚の挨拶という最大のプレッシャーを無事に乗り越えた。

私が、彼の両親の前で「完璧な息子」として振る舞い。彼が、私の両親の前で「愛する娘」としての私を一生守り抜くと、真っ直ぐな大人の男性の声で誓ってくれた。

その日以来、私たちの中にある「互いの人生を完全に引き受け合う」という覚悟は、もはや揺るぐことのない強固な芯となって、それぞれの細胞に定着している。

私の肩に重くのしかかるこのロングコートの重み。それは、私が「池田心優」という一人の女性として、彼が本来背負うはずだった人生を共に背負い、気高く生きていくという誓いの重さそのものだった。

そして今夜、私たちはその分厚いコートの中に互いへの深い愛情と秘密を隠しながら、特別な約束の場所へと向かっている。

「美咲(みさき)さんたち、もう着いてるかな」

彼(彼女)が、少しだけ足取りを速めながら言った。

「どうだろう。でも、影山さんも一緒だし、きっと時間通りに来てくれると思うよ」

私は、ポケットの中で自分の細い指先をそっと握りしめた。

数日前の朝、美咲さんから届いた『ダブルデートでお食事に行きませんか』という驚きのメッセージ。

あの夜、ホテルの近くの交差点で、チャコールグレーのタイトスカート姿で極限の緊張状態のまま歩く美咲さんを見かけた。しかしメッセージによれば、あれは美咲さん本人ではなく、彼女の『大切な人』――つまり、あの不器用なカメラマンである影山さんが、不器用な魔法を使って美咲さんの姿になっていたのだという。

(あの無骨な影山さんが、美咲さんの姿になって、タイトスカートとヒールで街を歩いていたなんて……)

最初は信じられなかった。しかし、同じように「男性の精神で女性の服の重みと制限を受け入れる」というプロセスを骨の髄まで体験してきた私には、それがただの悪戯や罰ゲームではなく、彼が美咲さんの背負う重圧を自らの身体で引き受けようとした、極めて真摯な行動なのだということが痛いほどに理解できた。

「影山さんと美咲さん……どんな顔をして来るのかな。ちょっとドキドキするね」

彼(彼女)が、ネイビーのチェスターコートの襟元を少しだけ引き寄せながら笑う。

「ふふっ、そうだね。でも、きっと大丈夫。あの二人なら、私たちと同じように、お互いのことを大切に思い合っているはずだから」

私は、ノーカラーのロングコートの胸元を優しく撫でた。

厚いウールの生地が、微かな摩擦音を立てる。風をはらむ余白などない、身体をすっぽりと包み込む防寒具の重み。外の世界からは、ただの仲睦まじいカップルがディナーに向かっているようにしか見えないだろう。

しかし、このコートの内側には、常識では測れない奇妙な秘密と、それを乗り越えた者同士の揺るぎない覚悟が熱く脈打っている。

私たちは、約束のレストランがある大通りへと向かって、冬の気配が色濃くなった街を並んで歩き続けた。二つの分厚いコートが、互いの体温と秘密を静かに、そして温かく守り抜きながら。

やがて、イルミネーションが点灯し始めた駅前の広場が見えてきた。

「……あれ?」

待ち合わせのモニュメントを探していた心優(航の身体)が、少し不思議そうに声を漏らした。

視線の先には、見慣れた大人の女性――美咲の姿があった。彼女は秋から冬への季節の変わり目を告げる上品なベージュのトレンチコートを羽織り、その下には深いネイビーのAラインスカートの気高いシルエットを覗かせている。

しかし、その隣にいるのは、無骨なマウンテンパーカーを着た大きな男性(影山隼人(かげやまはやと))ではなく、ボルドー色のAラインスカートに、少しダボッとしたキャメル色のダッフルコートを羽織った、若い女子高生だった。

「美咲さん、こんばんは」

私が近づいて挨拶すると、美咲はふわりと艶やかに微笑んだ。

「こんばんは、心優さん、航さん。お待たせしてしまってごめんなさいね」

「いえ、私たちも今来たところです。……えっと、そちらの方は?」

私が女子高生の方へ視線を向けると、美咲は少しだけ悪戯っぽく目を細め、隣の少女の肩にそっと手を置いた。

「うちの長女の、美波(みなみ)よ。……実は影山さん、急な仕事のトラブルが入ってしまって、どうしても来られなくなってしまったの。せっかくのダブルデートだったのに、本当にごめんなさいね。代わりに、この子がどうしてもお二人にお会いしたいって言うものだから」

「そうだったんですね。影山さんも、お仕事大変ですね」

心優(航の身体)が気遣うように言うと、隣に立っていた美波が、ビクッと肩を跳ねさせ、少し硬い動作でペコリと深く頭を下げた。

「は、初めまして。若本美波です……っ。母から、いつもお話は伺っておりますっ」

少し高くて艶のある女子高生の声帯。しかし、その言葉遣いはどうにも硬く、やけに礼儀正しすぎる気がした。

彼女は自分のスマートフォンを両手でギュッと握りしめていた。そのスマホには、流行りのキャラクターの大きなアクリルキーホルダーがいくつもじゃらじゃらと付けられており、彼女が少し動くたびにカチャカチャと賑やかな音を立てている。

しかし、そのスマホを握る指先には、尋常ではない力が込められていた。女子高生特有の「スマホの画面から目を離さない気怠げな態度」とは裏腹に、彼女の背筋は異常なほどにピンと張り詰めているのだ。ボルドーのAラインスカートの張力を利用して姿勢を保っているようにも見えるが、それはまるで「大柄な男性が無理やり小さな枠に身を収めて緊張している」かのような、奇妙な強張りだった。

(……すごく、緊張しているのかな)

私は、初対面の大人たちに囲まれて固くなっているのだろうと解釈し、ライトベージュのノーカラー・ロングコートのポケットから手を出して、柔らかく微笑みかけた。

「初めまして、美波ちゃん。池田心優です。今日は一緒にお出かけできて嬉しいな。よろしくね」

「は、はいっ! こちらこそ、よろしくお願いいたします!」

美波は、ガチガチに硬直したまま、また深くお辞儀をした。そのたびにスマホのキーホルダーがカチャカチャと鳴る。

知る由もなかった。 この可愛いボルドーのAラインスカートとダッフルコートに身を包み、必死に女子高生を演じている人物の『中身』が、急用で来られなくなったはずの、あの43歳の無骨なカメラマン・影山隼人であることなど。

(なぜ、影山さんが美波の姿に変身したままダブルデートに来ることになったのか。それは、この数時間前に若本家で美咲から課された「ある強烈なテストと悪戯」の結果だった。彼は今、美咲から大人の女性の『タイトスカートの鎧』を着せられて変身した状態のまま、さらに美波の『Aラインスカート』へと変身を重ねられたという、逃げ場のない【二重変身】の重圧を内側に抱えている。しかし、その途方もない真相を、今の私たちが見抜くことは不可能だった)

「さあ、まずは予約してあるカフェへ行きましょうか。少し歩くけれど、大丈夫?」

美咲の優しい提案で、私たち四人は並んで歩き出した。

大通り沿いにある、落ち着いた雰囲気のアンティーク調のカフェ。 案内された広めのボックス席に着くと、私たちはそれぞれ羽織っていた厚手のアウターを脱いだ。

ロングコートの圧倒的な質量によるシェルターから解放されると、それぞれの内側にある衣服の重みと輪郭が露わになる。
美咲はネイビーのAラインスカート。そして美波(中身は影山)は、色違いのボルドーのAラインスカート。母親と娘の、上品なシミラールックだった。

「わあ、お二人とも、すごく綺麗なスカートですね。Aラインのシルエットが揃っていて、本当に素敵な親子です」

私が素直に感嘆の声を漏らすと、美波(中身は影山)は顔を真っ赤にして、ボルドーのウール生地を両手でギュッと握りしめた。

「あ、ありがとうございます……っ。これ、お母さんが選んでくれて……」

女子高生の声帯を震わせながら、影山は必死に美波のキャラクターを崩さないように努めていた。

Aラインスカートは、腰回りをキュッと引き締め、骨盤を立てることを強制する服だ。無骨な大人の男性である彼にとって、このスカートの張力と、足元のローファーパンプスが要求する狭い歩幅は、身体の筋肉に容赦ない疲労を強いていた。しかし彼は、愛する女性の娘の姿を借りている以上、絶対に無様な姿勢を見せてその服の気高さを汚すわけにはいかないと、腹筋に力を込めて見事なIラインを保ち続けていた。

「美波、何か冷たいものでも飲む?」

美咲がメニューを見ながら尋ねると、美波(影山)は慌てて首を振った。

「い、いえ! 温かい紅茶で……アールグレイをお願いします」

運ばれてきた紅茶のティーカップを持つ手も、小指が微かに震えている。

私は、その様子を微笑ましく見つめながら、隣に座る彼(中身は心優)と視線を交わした。彼もまた、ネイビーのチェスターコートを脱いだ広い肩幅を少しだけリラックスさせ、穏やかな瞳で美波を見守っている。

「美波ちゃんは、スマホにたくさんキーホルダー付けてるんだね。それ、今人気のキャラクターだよね」

私が話題を振ると、美波(影山)はビクッと肩を揺らし、テーブルの上に置いていた自分の(本物の美波から借りた)スマホを見つめた。

「あ、はい……っ! これ、友達とお揃いで……すごく、可愛い、ですよね!」

影山は、必死に「可愛い」という単語を口に馴染ませようとしていた。しかし、その直後にスマホの画面が明るくなり、友人からメッセージが届いたポップアップが表示された。

「ちょっと、お返事していいですか……」

美波(影山)はスマホを手に取り、画面に向かってフリック入力を始めた。しかし、その指使いはどう見ても不自然だった。普段、片手で高速フリックをする女子高生とは違い、両手でスマホをしっかりと持ち、人差し指で画面を「ポチッ、ポチッ」と一つずつ確認するようにタップしているのだ。

あまりの入力の遅さに、私が不思議そうな顔をしていると、美波(影山)は焦ったように顔を上げ、裏返りそうな声で誤魔化した。

「あ、あの! 最近のスマホって、文字が小さくて……っ! じゃなくて、私、今日ネイルしてるから、画面がすごく打ちにくくて!」

確かに、彼女の指先には薄いピンクのネイルが施されていた。しかし、ネイルのせいで打ちにくいというよりも、まるで「生まれて初めてスマホを触る不器用な大人」のような手つきだった。

「ふふっ。美波、焦らなくても誰も取らないわよ」

美咲が、口元を隠してクスクスと笑う。彼女だけは、隣に座っている「娘」の中身が、極度の緊張と戦っている不器用な43歳の男であることを知っている。そのドタバタ劇を、彼女は大人の余裕で楽しんでいるようだった。

カフェでの穏やかな(そして影山にとっては針のむしろのような)時間を終え、私たちは併設されている映画館へと向かった。

観る映画は、美咲が事前に予約してくれていた、少し大人向けのヒューマンドラマだった。

暗闇に包まれたシアターの中。 左から、心優(航の身体)、私(心優の身体)、美咲、そして美波(影山)という順でシートに並んで座る。

映画が始まり、スクリーンから放たれる光が、私たちの顔を青白く照らし出した。

私は、暗闇の中でそっと彼(中身は心優)の大きな手に自分の手を重ねた。彼のごつごつとした指先が、私の細い手を優しく握り返してくれる。互いの人生を背負い合うという覚悟を決めた私たちにとって、こうして暗闇の中で体温を共有する時間は、何よりも深く安心できるものだった。

ふと、右側に視線を移す。

美咲は、映画のスクリーンに静かに見入っている。そしてその隣の美波(影山)は――。

信じられないことに、彼女(彼)は映画が始まってからの1時間半、ただの一度も背もたれに深く寄りかからず、両膝をピタリと隙間なく揃えたまま、微動だにせずにスクリーンを凝視していた。

ボルドーのAラインスカートの張りが、彼女の膝の上で完璧なシルエットを保ったまま固定されている。ポップコーンを食べるわけでもなく、ジュースに口をつけるわけでもない。

ただでさえ慣れない女子高生の服。それに加えて影山の骨盤は今、その内側にある一つ前のレイヤー――「美咲のタイトスカート」の息の詰まるような拘束感によって、強固に二重ロックされていた。

まるで、一瞬でも気を抜けば骨盤のロックが外れ、中にいる大柄な男の無骨さが露呈してしまうのを恐れているかのように、極限の緊張状態を保ったまま映画を「監視」しているような姿勢だった。

(……美波ちゃん、すごく真面目なんだな。映画に没頭してるみたい)

私は、彼女のその真っ直ぐすぎる鑑賞態度を、純粋に「感受性の豊かな女の子」なのだと好意的に解釈し、再びスクリーンへと視線を戻した。

映画が終わり、シアターの明かりが点く。

「……ふぅっ」

美波(影山)の口から、肺の底に溜まっていた空気をすべて吐き出すような、長くて重い溜息が漏れた。

「美波、お疲れ様。映画、どうだった?」

美咲が悪戯っぽく尋ねると、美波(影山)はカチコチになった肩を少しだけ回しながら、ひきつった笑顔で答えた。

「は、はい……すごく、感動しました。人と人との繋がりって、本当に大切だなって……」

「ふふっ。真面目な感想ね」

美咲は満足そうに微笑み、自分のトレンチコートを手に取った。

「さあ、お腹も空いたし、晩ご飯の予約をしてあるレストランへ向かいましょうか。その後は、少しだけカラオケでもどうかしら?」

「カラオケ、いいですね! 行きたいです」

私と彼(中身は心優)が賛同すると、美波(影山)の顔がサァッと青ざめた。

(カ、カラオケ……!? 俺が、女子高生の姿で、若い子の歌を歌わなきゃいけないのか……!?)

マウンテンパーカーを羽織った本来の自分の姿であれば、隅で静かに手拍子をしているだけで済む。しかし今は、美波という明るい女子高生の姿だ。歌わないわけにはいかない。

影山の心臓が、Aラインスカートのホールド感の中で再び激しく警鐘を鳴らし始めていた。

しかし、彼らのこの奇妙で微笑ましいダブルデートの裏側で。
夜の街の喧騒の中、私(心優)の身に思いがけない「危機」が迫っており、それがキッカケとなって、この後、影山の変身の秘密が私たちの前で白日の下に晒されることになろうとは。

この時の私たちは、まだ誰も知る由もなかった。

晩ご飯のレストランでの食事を終え、私たちは再び夜の街を歩き出していた。

ライトベージュのノーカラー・ロングコートの重みが、冷え込んできた冬の気配から私の身体をすっぽりと守ってくれている。隣を歩く彼(中身は心優)のネイビーのチェスターコートも、大人の男性の広い背中を包み込み、頼もしい壁となって夜風を遮断していた。

そして、私たちの前を歩いているのは、ネイビーのAラインスカートに秋用トレンチコートを羽織った美咲さんと、ボルドーのAラインスカートにキャメルのダッフルコートを着た美波ちゃんだ。

「お腹もいっぱいになったし、次はカラオケですね! 美波ちゃん、最近の曲とか歌うの?」

私が後ろから声をかけると、ダッフルコートの背中がビクッと大きく跳ねた。

「あ、は、はいっ! 歌います! 最近流行ってる、その……アイドルの曲とか!」

美波ちゃん(中身は影山)の少し高くて艶のある声が、裏返りそうになるのを必死に堪えているように聞こえた。

(……なんで美波ちゃん、あんなにガチガチに緊張してるんだろう。お母さんの前で歌うのが恥ずかしいのかな)

私は、少し微笑ましく思いながらその後ろ姿を見つめていた。しかし、そのダッフルコートの内側で、43歳の無骨なカメラマンの精神が絶望のどん底に叩き落とされていることなど、知る由もない。

(終わった……俺の人生、終わった……)

影山隼人は、ダッフルコートのポケットの中で、自分の白く細い手をギュッと握りしめていた。

食事中は、なんとか女子高生らしい相槌を打ち、誤魔化し通すことができた。しかし、カラオケとなれば話は別だ。個室という逃げ場のない密室で、女子高生として最新のヒット曲を歌って盛り上がらなければならない。昭和や平成の古い曲しか知らない無骨なオヤジの精神で、どうやってこの難局を乗り切ればいいのか。美咲の前で無様な姿を晒す恐怖と、女子高生を演じきらなければならない羞恥心で、影山の胃の幽門部はギリギリと痛むほどに収縮していた。

やがて、駅前の大きなカラオケ店に到着し、私たちは広めの個室へと案内された。

部屋に入ると、暖房の効いた空気が肌を撫でる。私はライトベージュのロングコートを脱ぎ、ハンガーに掛けた。コートの圧倒的な重みによるシェルターから解放されると、今日私が着ていた、ライトグレーのフレアスカートと白のリブニットの柔らかなシルエットが露わになる。

「さあ、美波。コートを脱いで座りなさい。……何を歌うか、私が先に入れてあげようか?」

美咲さんが、トレンチコートを脱ぎながら悪戯っぽく微笑んでデンモクを手に取った。

「い、いえ! 最初は、お母さんたちから……!」

影山(美波の姿)は、キャメルのダッフルコートを脱いでハンガーに掛けると、ボルドーのAラインスカートの張りを保ったまま、ソファの端に逃げるようにして腰を下ろした。

腰回りをキュッと引き締めるAラインスカートの張力が、骨盤を立て、両膝をピタリと揃えることを強制する。少しでも気を抜いて脚を開けば、中身が大人の男であることがバレてしまう。影山は、ソファの上に浅く腰掛けたまま、極限の緊張状態でモニターの映像を睨みつけていた。

店員が部屋に入ってきて、注文したドリンクの入ったグラスと、温かい紅茶が入った大きなガラスのピッチャーをテーブルの上に置いていった。

「あ、私お茶淹れますよ」

私が立ち上がり、テーブルの中央に置かれたピッチャーに手を伸ばそうとした、その時だった。

私たちが通された個室のテーブルは少し古かったのか、それとも脚のネジが緩んでいたのか。私がピッチャーに手を掛け、少し体重を乗せた瞬間、テーブルの天板がガクッと不自然に傾いたのだ。

「えっ……!?」

バランスを崩したテーブルから、なみなみと熱い紅茶が注がれたガラスのピッチャーが、私の身体に向かって勢いよく滑り落ちてきた。

「危ないっ!!」

影山の筋肉が、思考を完全に置き去りにして弾けた。

ボルドーのAラインスカートの気高い拘束感も、女子高生を演じなければならないという羞恥心も、すべてが一瞬にして吹き飛んだ。目の前で熱湯を被ろうとしているのは、美咲の友人であり、これから幸せな結婚を迎えようとしている大切な女性だ。

大人の男としての精神が、華奢な少女の骨格を限界まで駆動させる。

影山はソファから爆発的な推進力でフローリングを蹴り上げ、私の前へと身を呈して飛び込んできた。熱湯が降り注ぐ軌道上に自らの背中を滑り込ませながら、影山の白く細い指先が、私が穿いていたライトグレーのフレアスカートの生地を、力強く、そして確実に掴み取っていた。

『対象の衣服に触れ、盾とならんとする強烈な庇護の渇望を抱く時』。

その強烈なスパークが、影山の脳内でバチリと弾けた。

ドンッ!という鈍い音とともに、ピッチャーからこぼれ落ちた熱い紅茶が、影山の背中を打つ。

と同時に、影山の視界と身体の質量が、急激な書き換えを起こした。

腰回りを隙間なく密着させていたボルドーのAラインスカートの張力と、ダッフルコートを脱いだ後のブラウスの感触が、一瞬にして消失した。代わりに身体を包み込んだのは、少し厚みのあるライトグレーのフレアスカートの柔らかなドレープと、上半身に優しくフィットする白のリブニットの密着感だった。

「きゃっ……!」

私は、自分を庇って飛び込んできた美波ちゃんと一緒に、床の絨毯の上へと倒れ込んだ。

「熱っ……! あ、大丈夫、ですか……?」

私を庇ってくれた彼女が、呻き声を上げながらゆっくりと顔を上げる。

しかし、その顔を見て、私は完全に呼吸を止めた。

そこにいたのは、ボルドーのAラインスカートを着た美波ちゃんではなかった。

私と同じ、ライトグレーのフレアスカート。私と同じ、白のリブニット。そして、私と全く同じ顔をした「もう一人の池田心優」が、熱さに顔を歪めながら、私を見つめ返していたのだ。

「……えっ?」

「な、なんだって……!?」

私と、倒れ込んだ彼女(中身は影山)の声が、同時にカラオケの個室に響いた。

「おい、大丈夫か心優! ……って、えええええっ!?」

慌てて駆け寄ってきた彼(中身は心優)が、床に倒れ込んでいる「全く同じ顔をした二人の私」を見て、絶叫に近い声を上げた。

「心優が、二人いる!? なんで!?」

彼(中身は心優)がパニックを起こして後ずさる中、私は目の前で顔を真っ赤にしている「もう一人の私」を凝視した。そして、その現象が意味する一つの絶対的な法則に、雷に打たれたように気がついた。

(服に触れて、その人を守ろうとすると、その姿に変わる……?)

私の脳裏に、かつて私たちの身体を入れ替え、そしてある男を白鳥舞衣の姿に変えた、あのヤッファの世界の住人の顔が浮かんだ。

「もしかして……ミラベルの、魔法!?」

私が叫ぶと、床に座り込んでいる「もう一人の私」の肩が、ビクッと大きく跳ねた。

「なっ……! どうして、その名前を……!」

もう一人の私(中身は影山)が、私と全く同じ声帯を震わせて狼狽えた。その反応を見て、私はすべてを悟った。

ミラベルの魔法の残滓。そして、私と航くん以外に、その魔法の存在を知っていて、かつ他人の姿に変身させられた経験を持つ人物。

「……影山、さん?」

私が恐る恐るその名前を口にすると、目の前の彼女(影山)は、観念したようにライトグレーのフレアスカートの裾をギュッと握りしめ、顔を真っ赤にして深く俯いた。

「……申し訳、ありません。美波さんの身代わりで来ていたんですが……こんな、また不様な姿を……」

女性の声帯から漏れ出たその震える声には、大人の男性としての不器用な誠実さと、強烈な羞恥心がぎっしりと詰まっていた。

「影山さんが、美波ちゃんの身代わりで……? じゃあ、さっきまで一緒にいた美波ちゃんは、ずっと影山さんだったの!?」

彼(中身は心優)が、信じられないものを見るように目を丸くしている。

そのパニックのド真ん中で。

美咲さんだけが、トレンチコートを傍らに置いたまま、ネイビーのAラインスカートの気高いシルエットを崩すことなく、少しだけ困ったような、けれどたまらなく愛おしそうな微笑みを浮かべていた。

「もう……影山さんったら。本当に、不器用で真っ直ぐな人なんだから」

美咲さんがゆっくりと歩み寄り、床にへたり込んでいる影山(心優の姿)の背中を、持っていたハンカチでそっと拭いてあげる。

「熱かったでしょう。……心優さんを庇ってくれて、本当にありがとうございます」

その優しい言葉に、影山(心優の姿)は耳まで真っ赤にしながら、「い、いえ……俺はただ……」と俯いた。

私と彼(中身は心優)は、床に座り込んでいるその姿を見て、ふと奇妙な感覚に囚われた。

目の前にいるのは、私と全く同じ服を着た、私の姿をした影山さんだ。中身は43歳の無骨なカメラマン。

しかし、その立ち振る舞いには、男性特有のガサツな大股開きも、だらしない姿勢も一切なかった。ライトグレーのフレアスカートのドレープを絶対に汚さないように、両膝をピタリと隙間なく揃え、白のリブニットの胸元を細い指先で慎重に押さえている。

それは、女性の服の重みと脆さを完全に理解し、その尊厳を誰よりも気高く守り抜こうとする、洗練された大人の女性の所作そのものだった。

彼(中身は心優)が、私の耳元で小さく囁いた。

「ねえ、航くん。……あの影山さん、中身が男の人だなんて、とても思えないくらい……すごく、綺麗で上品な動きをしてるね」

「うん。……服の重みを、本当に心から理解してるんだ。僕たちと同じように」

私たちは、顔を見合わせて静かに頷いた。

服の重みと制限を通じて、他者の人生と痛みを細胞レベルで理解する。ミラベルがもたらしたその魔法の試練を、影山さんもまた、一人で必死に乗り越え、この気高い姿勢を身につけていたのだ。

カラオケの個室という密室の中で、同じ秘密を共有する者同士の、言葉を超えた深くて静かな共鳴が、ライトグレーのフレアスカートの揺れとともに確かに響き合っていた。

「……あの、お二人とも。こんな無様な姿をお見せしてしまって、本当に申し訳ありません」

影山(心優の姿)が、膝の上でフレアスカートのドレープを汚さないように大切に押さえながら、深く頭を下げる。

私(中身は航)は、自分と全く同じ顔、同じ声で謝罪する彼を見て、柔らかく微笑んだ。

「ううん。影山さんが私を庇ってくれたおかげで、火傷せずに済んだんです。本当にありがとうございます」

「そうですよ。それに影山さん、女性の服の重みと制限をすごく理解してくれている。……僕たちと同じですね」

彼(中身は心優)も、ネイビーのチェスターコートを脱いだ大柄な男性の広い肩幅を少しだけリラックスさせ、優しい声をかけた。

美咲が「ふふっ」と笑い、トレンチコートをハンガーに掛け直しながら言った。

「実はね、影山さんが私の娘の身代わりをしてくれているって航さんたちに説明した後、せっかくだからって、美波と咲(さき)にも連絡しておいたの。もうすぐこの部屋に着くはずよ」

「ええっ!? み、美波さんたちが来るんですか!?」

影山(心優の姿)が、女子高生のような悲鳴を上げた瞬間だった。

バンッ!

「お母さーん! 影山さーん! 着いたよー!」

勢いよくドアが開かれ、私服姿の美波と咲が個室に飛び込んできた。

「って……ええええっ!? 心優さんが二人いる!!」

美波が目を丸くして絶叫し、咲が「うわっ、影山さんまたやっちゃったの!?」と腹を抱えて大爆笑し始めた。

「か、影山さん、今日は私の身代わりで嫌なデートに行ってくれて本当にありがとう! でも、なんで今度は心優さんになっちゃってるの!?」

「だから、俺は……不注意でこぼれたお湯から池田さんを庇っただけで……っ!」

影山(心優の姿)は、白のリブニットの胸元を細い両手で隠すようにしながら、羞恥で顔を真っ赤にしてソファの上で小さくなっていた。

「あはははっ! 影山さん、最高! しかもその服、めっちゃ似合ってるし!」

「や、やめてくれ……笑わないでくれ……っ!」

大パニックと爆笑の渦。私と彼(中身は心優)も、姉妹の容赦ないイタズラにタジタジになっている影山の姿がおかしくて、堪えきれずに笑い声をこぼした。

「さて、影山さん。そろそろ『解除の儀式』をしましょうか」

美咲が、ネイビーのAラインスカートの気高いシルエットを揺らしながら、優しく促した。

「は、はい……お願いします。池田さん、少しだけ、耳たぶに触れさせてもらってもいいでしょうか」

影山(心優の姿)が、私(心優の身体)の方へ向き直った。ノートに記された解除の条件。『対象の耳たぶに触れ、絶対的な安堵の息を吐くこと』。

「はい、もちろんです」

私が少しだけ顔を傾けると、影山(心優の姿)は震える細い指先を伸ばし、私の柔らかな耳たぶにそっと触れた。落下してきた熱湯から、彼女を守り抜けたという事実。

「……怪我がなくて、本当によかったです」

影山が、心の底からの安堵の息を長く、深く吐き出す。

ドンッ!

鈍い衝撃音と共に、影山の視界と質量が急激な書き換えを起こした。

【解除第1段階:心優 → 美波】

ライトグレーのフレアスカートの柔らかなドレープと、白のリブニットの密着感が一瞬にして消失する。代わりに、骨盤の周りを隙間なく強固に縛り上げるような、ウール混紡生地の強い張力が復活した。腰からヒップにかけてピタリと密着し、そこから膝下へと向かってアルファベットの『A』を描くように凛と広がる、深いボルドー色のAラインスカート。上半身には、アイボリーのブラウスが華奢な肩のラインをすっきりと整えている。

「あ! 今度は私(美波)の姿に戻った!」

本物の美波が手を叩いて歓声を上げ、咲が「マトリョーシカみたいでウケる!」と大爆笑する。

影山の姿は、心優の姿から、一つ前の変身段階である「美波」の姿へと巻き戻っていた。
先ほどのフレアスカートの柔らかなドレープの感覚から一転、ウエスト回りをキュッと引き締めるAライン特有の生地の張りと確かな重みが、強制的に骨盤を立て、背筋を真っ直ぐに引き上げる。大人の女性へと背伸びをするような、あの気高い緊張感が影山の身体を再び縛り上げた。

「さあ影山さん、もう一息! 早く元のおじさんに戻って!」

咲が面白がって急かす。

「は、はい……。美波さん、すみません、耳たぶを……」

影山(美波の姿)は、耳まで真っ赤にしながら、隣で笑っている本物の美波へと向き直った。
今日1日、彼女の身代わりとして気乗りしないデートを断り、そして無事にこのダブルデートを乗り切った。その使命を無事に果たせたという事実を噛み締め、美波の柔らかな耳たぶへそっと指先を触れる。

そして、再び心の底から安堵の息を長く吐き出した。

ドンッ!

2度目の鈍い衝撃音が、個室に響き渡る。

【解除第2段階:美波 → 美咲】

視界が微かに揺れ、身体の質量が再び書き換わる。

ボルドー色のAラインスカートの張りが、スッとチャコールグレーの上質なウールブレンド生地へと染まり直した。腰回りをキュッと引き締めるAラインの感覚から一転、骨盤を強固にロックし、両膝をピタリと揃えることを強制するタイトスカートの息の詰まるような拘束感が復活する。上半身には、とろみのあるオフホワイトのシルクブラウス。

「おおー! 今度はお母さんだ!」

咲が手を叩いて歓声を上げる。

影山の姿は、美波から、今日このダブルデートに出発する前にホテルで纏っていた「若本美咲」の姿へと、さらに一つ前の段階へ巻き戻っていた。若い女子高生の張りよりも、社会で戦う大人の女性の気高い重圧と、シルクの滑らかな摩擦が影山の背筋に重くのしかかる。

「さて……最後は、私ですね」

本物の美咲が、トレンチコートを傍らに置いたまま、ネイビーのAラインスカートの気高いシルエットを揺らしてゆっくりと歩み寄ってきた。

「影山さん。今日一日、私の代わりに『娘』として、そして私の鎧を纏ってくれて、本当にありがとうございました」

美咲が自ら少しだけ顔を傾け、柔らかな耳たぶを差し出す。

影山(美咲の姿)は、タイトスカートの横糸が悲鳴を上げないよう慎重に両膝を揃えたまま、震える指先を美咲の耳たぶへと伸ばした。

彼女の家族の輪の中に引きずり込まれ、この温かい空気のド真ん中で、彼女たちを無事に守り抜くことができた。その圧倒的な安堵感が、胸の奥から熱い吐息となって長くこぼれ落ちていく。

ドンッ!!

【解除第3段階:美咲 → 影山】

これまでの二回とは比べ物にならないほど、大きな(三度目の)衝撃音が影山の脳内で弾けた。

視界が、一気に数十センチも上空へと引き上げられる。華奢だった大人の女性の骨格が音もなく限界まで広がり、太く無骨な筋肉が手足の隅々にまで満ちていく。

腰回りを強固に締め付け、気高い緊張感を強要していたタイトスカートの張力が、一瞬にして完全に消失した。代わりに下半身を包み込んだのは、使い込まれた黒のチノパンの、飾り気のない厚手で丈夫なコットン生地の感触。上半身のシルクブラウスの冷たい滑らかさは、厚手のグレーのコットンTシャツという大柄な男の無骨な質量へと置き換わっていた。

「ぷはっ、本当におじさんに戻った!」

美波と咲が手を叩いて笑う。ドスンとソファに現れたのは、本来の無骨な43歳の男性である影山隼人の姿だった。

女性の衣服特有の歩幅の制限も、張力による姿勢のロックもない。男として、自分の足で大股でどこへでも歩いていける自由。しかし、その圧倒的な解放感と同時に、先ほどまで自分の身体を包み込んでくれていた、彼女たちの「気高くも温かい服の重み」が消え去ってしまったことに、微かな寂しさと名残惜しさを感じている自分がいた。

「……戻りました」

影山は、自分の分厚くごつごつとした手を見つめながら、深く安堵の溜息を吐いた。そして、ハンガーに掛けてあったキャメルのダッフルコートを、本物の美波へと手渡した。

「美波さん、これ。……ちゃんと身代わり、果たしてきましたからね」

「ありがとう、影山さん! 本当に助かったよ。やっぱり影山さんは、私たちのヒーローだね」

美波は嬉しそうにダッフルコートを受け取り、羽織った。

「これで全員、元の姿ですね」

美咲が微笑み、私たち四人の大人と、二人の姉妹は顔を見合わせた。

服の重みと制限を通じて、他者の人生と痛みを細胞レベルで理解し合った者たち。そして、ミラベルの魔法という世界の秘密を共有し、笑い合える「新しい家族(コミュニティ)」の誕生。

カラオケの個室という密室の空間に、これまでにないほど温かく、揺るぎない連帯感が満ちていた。

やがて夜も更け、私たちはカラオケ店を出て、駅前の広場へと歩き出した。

冬の冷たい夜の空気が、頬を刺すように吹き抜けていく。

私は、ライトベージュのノーカラー・ロングコートのフロントボタンをしっかりと留めた。分厚いウールの生地が、肩から足首まですっぽりと身体を覆い隠す。外気の冷たさを完全に遮断し、自分自身の体温だけを内側に柔らかく閉じ込めてくれる、圧倒的なシェルターとしての重み。

隣を歩く彼(中身は心優)も、深いネイビーのチェスターコートを羽織り、大柄な男性の広い背中で冷たい風から私を守るようにして歩調を合わせてくれている。

私は、ロングコートのポケットの中で、彼の分厚く温かい手と、自分の細い手をそっと繋ぎ合わせた。

「……すごく、暖かいね」

「うん。このコートのおかげで、全然寒くないよ」

彼が、低い声で優しく微笑み返してくる。

前を歩く美咲は、トレンチコートの襟元を引き寄せながら、隣を歩く影山の大きなマウンテンパーカーの背中に少しだけ身を寄せていた。影山もまた、彼女が冷たい風に煽られないよう、無意識のうちに風上へと自分の身体を移動させている。

そして、その前を美波と咲が、楽しそうにはしゃぎながら歩いていく。

分厚いコートの重みが、私たちそれぞれの内側にある「入れ替わり」や「変身」という世界の秘密をすっぽりと覆い隠してくれる。外の世界からの視線を完全に遮断し、自分とパートナー、そして秘密を共有する新しい家族だけの安全な空間を形成する絶対的な安心感。

冬の寒空の下、コートの擦れる微かな重低音が、私たちの特異で温かい関係性をどこまでも守り抜くように、静かに街へ響いていた。

しかし。

その私たちの平穏で温かい日常を、遥か遠くの別次元から、静かに見つめている瞳があった。

物理的な肉体を持たず、時間も空間も捻じ曲がった『ヤッファの世界』。

真っ白な無機質の空間の中で、ミラベルは、手元にあるホログラムのようなデータ端末を眺めながら、小さく、不満げな溜息を吐き出していた。

「……もう、どういうことなのよ」

端末の画面には、航と心優、そして影山と美咲の、これまでの感情の波形や定着率のデータがびっしりと記録されている。それは、彼女が「結婚前のカップルの願いを叶える」という卒業論文のために収集してきた、完璧なはずのデータだった。

「あんなに入れ替わりの生活が日常に定着して、お互いの人生の重みを細胞レベルで理解し合っているのに。……教授の査読が、すんなり通らないなんて」

ミラベルは、データ端末を指先でツンと弾いた。

『人間たちの魂の結びつきが想定数値を大きく上回っており、システムによる変容データだけでは、その最終的な愛の到達点を証明するには不十分である。対象者への直接的な追加インタビュー、および相互理解の極致を測るための追加テストの実行を要求する』

画面に表示された指導教授からの冷酷なフィードバックの赤文字を見て、ミラベルは頭を抱えた。

「ああもう、面倒くさい! せっかく綺麗にまとまってたのに、追加テストだなんて……」

しかし、卒業するためにはやるしかない。

ミラベルは、再びホログラムの画面越しに、人間の世界で分厚いコートの重みに守られながら笑い合っている四人の姿を見つめた。

「仕方ないわね。もう一度、彼らのところへ直接行って、お互いの人生の痛みをどこまで引き受けられるか、究極のテストをしてあげるしかないみたい」

ミラベルの唇の端が、少しだけ悪戯っぽく、けれど深い興味を持って吊り上がった。

冬の足音が近づく街で、コートの温もりに包まれる彼らの平穏な日常が、再び彼女の魔法によって大きくかき回される日が、すぐそこまで迫っていた。

(つづく)

あとがき

読んでいただきありがとうございます。夏目彩香です。Saineによる作品はいかがでしたか。足首までをすっぽりと覆い隠すロングコート。分厚いウール生地の圧倒的な質量は、冬の冷たい空気から身を守るだけでなく、自分たちの「入れ替わり」や「変身」という世界の秘密を内側に隠し込む、絶対的なシェルターとして機能します。姉妹の合流と、マトリョーシカのように三段階に渡って紐解かれていく賑やかな解除の儀式を経て、互いの服の重みと制限を理解し合った者同士が結ぶ「新しい家族」のような連帯感。コートの重みに守られた最高の安心感と、ヤッファの世界で再来を予感させるミラベルの悪戯な呟きが、次なる展開への期待をはらみながら響く余韻を、皆様にもご一緒に感じていただけたなら幸いです。

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