やっぱりスカート #20 ハイウエスト

作:夏目彩香 by Saine

※この小説は夏目彩香風の小説が書けるように独自に調整したAIエンジン「Saine」(通称)を執筆に用いています。



秋の夕暮れが完全に夜の闇へと溶け込んだ頃。

駅前で有名な洋菓子店の紙袋を両手で固く握りしめ、影山隼人(かげやまはやと)はマンションのエレベーターの中で息を詰まらせていた。隣に立つ若本美咲(わかもとみさき)が少し動くたびに、アシンメトリースカートのシフォンとサテンの生地が擦れ合い、シャラッ、という不規則で艶やかな音を立てる。

先ほどのモールでの出来事から、そのままの足で美咲の自宅へ招かれることになった。年頃の高校生の娘たちがいる家へ、自分のような不器用で無骨な男が足を踏み入れる。その圧倒的な緊張感が、影山の分厚い筋肉をカチコチに硬直させていた。

「影山さん、そんなに緊張しないでください。娘たちには、私の友人だと伝えてありますから」

美咲が、エレベーターの扉が開くのと同時に柔らかく微笑んだ。

「は、はい……」

影山は、美咲からプレゼントされたばかりの薄手のカーディガンの裾を少しだけ引っ張り、無骨なワークブーツの足音を殺すようにして、彼女の後ろを静かに歩いた。

玄関の重い扉が開く。

「ただいまー」

美咲の声に反応して、リビングの奥からパタパタという軽い足音が近づいてきた。部屋着のカーディガンを羽織った長女の美波(みなみ)と、スウェット姿の次女の咲(さき)だった。

「おかえり、お母さん。……あっ、お客さん?」

美波が、玄関のたたきに立つ大柄な男性を見て目を丸くした。

「ええ。こちら、影山さんよ。お母さんのお友達の」

美咲が紹介すると、影山は紙袋を胸の前で持ち直したまま、二人の女子高生に向かって直角に近い角度で深く頭を下げた。

「か、影山隼人と申します。……夜分遅くに突然お邪魔して、申し訳ありません。これ、つまらないものですが」

そのあまりにも真面目で硬すぎる挨拶に、咲が思わず「うわ、めっちゃ固い」と小さく吹き出した。美波も少しだけ目を瞬かせた後、「あ、若本美波です。……よろしくお願いします」と礼を返した。

影山はワークブーツを脱ぎ、靴箱の端に自分の靴を極めて丁寧に揃えた。

リビングへ通され、影山はソファの端に勧められるままに腰を下ろした。

「お部屋の中、少し暖かいですから、どうぞ上着は脱いで楽にしてくださいね」

美咲にそう気遣われ、影山は「ありがとうございます」と頷いて、羽織っていた薄手のカーディガンを脱いだ。そして、それを無造作に置くことはせず、きっちりと四角く折りたたみ、自分の座るソファの端にそっと置いた。カーディガンの下は、飾り気のない厚手のグレーのコットンTシャツと、丈夫な黒のチノパンという無骨な姿だ。

影山は決して背もたれに寄りかかろうとはせず、広い肩幅を縮こまらせて膝の上で両手を握り合わせている。

美咲は、いただいた手土産の箱をテーブルに置いた。

「影山さん、素敵なお菓子をありがとうございます。……せっかくだから、これに合う美味しい紅茶を淹れたいんですけど、ちょうど切らしてしまっていて」

美咲はポンと手を打つと、アシンメトリースカートの裾をふわりと揺らして立ち上がった。

「すぐそこのスーパーまで、少しだけ買い足しに行ってくるわ。……その前に、ちょっとだけ服を着替えてきますね」

美咲は影山と娘たちにそう言い残し、自分の寝室へと向かった。

ドアを閉め、美咲は静かに息を吐いた。

サイドのファスナーを下ろし、今日一日、自分の心を不規則に揺さぶり続けてきたアシンメトリースカートを脱ぐ。シフォンとサテンの複雑な重みが足元へ滑り落ちる。

今日、彼は自分の罪から逃げず、真っ当な姿で自分に向き合ってくれた。そんな彼を、自分の最もプライベートな空間である「家」に迎え入れたのだ。リラックスした部屋着に着替えるという選択肢もあった。けれど美咲は、あえてクローゼットの中から、一着の張り詰めたスカートを取り出した。

キャメル色の、ハイウエストスカートだった。

白いブラウスをしっかりとタックインし、みぞおちのすぐ下あたりまである高いウエストラインのファスナーを引き上げる。太めに取られたベルト幅が、コルセットのように胴回りをしっかりとホールドした。

通常のスカートよりも数センチ高い位置にあるその締め付けが、自然と重心を上へと引き上げる。深く息を吸い込むと、硬いギャバジン素材の微かな反発を感じる。少しでも気を抜いて背中を丸めれば、高い位置にあるベルトが胃のあたりを圧迫してしまう。

だからこそ、この服を着ている間は、常に胸を張り、強制的に背筋を真っ直ぐに伸ばし続けなければならない。

それは、アパレル店長として、そして二人の娘の母親として、この不器用な男性と真っ直ぐな姿勢で向き合っていくという、美咲自身の「大人の女性としての覚悟」の表れだった。

「お待たせしました」

寝室からリビングへ戻ってきた美咲の姿に、ソファで硬直していた影山がハッとして顔を上げた。

アシンメトリーの不規則で艶やかな揺れは消え、代わりに、キャメルのハイウエストスカートが作る凛としたIラインのシルエットが、彼女の気高い美しさを際立たせている。背筋をピンと伸ばしたその立ち姿は、影山にとって眩しいほどに真っ直ぐだった。

「二人とも、影山さんのお相手、少しだけお願いしてもいい? すぐ戻るから」

「え、私が買いに行こうか?」

美波が立ち上がろうとするのを、美咲はハイウエストの張りを保ったまま、柔らかく手で制した。

「ううん、私が選んでおきたい茶葉だから。影山さん、申し訳ありませんが、少しだけお待ちいただけますか?」

「あ、はい。お気をつけて」

影山が慌てて立ち上がりかけるのを、美咲は微笑んで押し留め、玄関へと向かった。

ガチャリ、と重い扉が閉まる音がする。

リビングには、無骨な大人の男性である影山と、美波、咲の三人だけが残された。静けさが、部屋に降りてきた。

対面のソファに座っていた美波の視線が、影山の分厚い手や、緊張で強張った広い背中を、文字通り「品定め」するようにゆっくりと舐めていく。

(……この人が)

美波の脳裏に、数日前に解読したあの古いノートの文字列が蘇る。

『対象の衣服に触れ、強烈な庇護の渇望を抱く時、姿は変容する』。

母のメッセージへの返信は、明らかに何かをはぐらかしていた。そして今日、このカチコチに緊張した不器用な男性を家に招き入れた。

(もしかして……この不器用そうな人が、あの魔法を使える人?)

美波の胸の奥で、密かな好奇心と、ある「企み」がチリチリと音を立てて燃え上がり始めていた。

美咲が買い出しのために玄関を出ていき、リビングには気まずいほどの静かな緊張感が降り下りていた。

ソファの端に座る影山は、ハイウエストスカートに着替えて出かけていった美咲の真っ直ぐな姿勢を思い返しながら、カチカチに背筋を伸ばし、両膝の上で分厚い手を固く握り合わせている。

その影山を観察していた美波は、自分が着ている部屋着――オーバーサイズのスウェットパーカーと、足首までを覆うチャコールグレーのコットンマキシスカート――の袖口をいじりながら、ゆっくりと立ち上がった。

「影山さん、お茶のお代わり、いかがですか? 別の茶葉も上の戸棚にあるので、淹れ直しますよ」

「あっ、いや、お気遣いなく。俺はこれで十分ですから」

影山が慌てて辞退しようとするが、美波は「気にしないでください」と柔らかく笑い、キッチンカウンターの奥へと向かった。

キッチンボードの最上段。普段は使わない茶葉の缶が置かれている高い場所へ手を伸ばすため、美波は隅に置いてあった木製のスツールを引き寄せ、その上に乗った。

背伸びをして、指先を戸棚の扉へ掛ける。

(……よし。このくらいなら、怪我はしないよね)

美波は心の中で短く計算すると、スツールの上で意図的に足首の角度を狂わせた。

ガタッ、と。

木製のスツールが不自然に傾き、美波の身体が宙に浮いた。

「きゃっ!」

短い悲鳴がリビングに響く。美波の身体が、キッチンのフローリングへ向かって背中から落ちていく。

その瞬間だった。

「危ないっ!」

影山の筋肉が、思考を完全に置き去りにして爆発的に弾けた。ソファからフローリングの床を蹴り上げる轟音が響く。

目の前にいるのは、美咲が女手一つで大切に育ててきた、絶対に傷つけてはいけない存在。彼女の家族を、俺が身を挺してでも守り抜く。

その限界を突破した強烈な庇護欲のスパークが、影山の脳内でバチリと弾けた。

影山の分厚く大きな手が、落下してくる美波の身体を空中で受け止めようと伸びる。彼の太い指先が、美波が着ていたスウェットパーカーの背中側の生地を、力強く、そして確実に掴み取った。

『対象の衣服に触れ、盾とならんとする強烈な庇護の渇望を抱く時』。

ノートに記されていたその条件が、完璧に満たされた瞬間だった。

ドンッ!という鈍い音がして、影山は美波の身体を自分の胸に抱え込んだまま、キッチンカウンターの横のフローリングへと背中から倒れ込んだ。

しかし、その衝撃は、影山が予想していた分厚い背中の筋肉の防御とは全く違う、ひどく華奢で、床の硬さが直接骨に響くような頼りないものだった。

「……いたた」

美波が、影山の腕の中から起き上がりながら小さく声を漏らした。

「……大丈夫、ですか?」

影山が、美波の安否を確認しようと声を絞り出した。

しかし、自分の喉の奥から響いたその声に、影山自身が一番驚愕することになった。低くくぐもった男性の声ではない。少し高めの、若い女性の艶やかな声帯の震えが、鎖骨から直接響いてきたのだ。

「え……?」

影山は、フローリングの上にへたり込んだまま、恐る恐る自分の手を見下ろした。

分厚く、関節の太かった無骨な手ではない。白く、細く、爪の先まで滑らかな女子高生の手。

着ていたはずの厚手コットンTシャツと、チノパンの硬い感触はどこにもない。代わりに、上半身には柔らかなオーバーサイズのスウェットパーカーが羽織られ、下半身は足首まですっぽりと覆うチャコールグレーのコットンマキシスカートに包まれていた。ウエストの締め付けがない解放感と、たっぷりと使われたコットンの生地が、床に座り込んだ脚の周りに無防備なドレープを作っている。

視界の高さも、身体の質量も、何もかもが先ほどまでの自分とは全く違う。

ミラベルの残した変身能力は、対象の姿を完全にコピーする。しかし、魔法の干渉を受けるのはあくまで『発動の瞬間に物理的に身につけている衣服やポケットの中身』のみだった。

だからこそ、変身前に彼が玄関で脱いで揃えたワークブーツや、美咲に勧められて脱ぎ、ソファの端に折りたたんで置いていた「薄手のカーディガン」は、魔法の干渉を一切受けず、影山の所有物としてそのまま現実の部屋の中に取り残されていた。

影山は、息を呑んで顔を上げた。

目の前には、自分と同じ顔、同じ髪型、同じスウェットとマキシスカートを着た「本物の若本美波」が、目をキラキラと輝かせてこちらを見下ろしていた。

「……ええええええっ!?」

リビングの奥で一部始終を見ていた次女の咲が、持っていたスマートフォンを取り落とし、絶叫を上げた。

「お、お姉ちゃんが二人いる!? なにこれ、影山さんどこ行ったの!?」

咲がパニックを起こして後ずさる中、本物の美波だけは、口元を手で覆いながら歓喜に打ち震えていた。

「すごい……! 本当に、服に触れて守ろうとするだけで変身しちゃった……。あのノートに書いてあった魔法、本物だったんだ……!」

美波は、床に座り込んで呆然としている「自分と瓜二つの姿」の影山を、まるで珍しい動物でも見るようにぐるぐると観察し始めた。

「影山さん、ですよね? うわあ、服のシワから髪の毛の長さまで、完全に私のコピーになってる。感覚はどうですか? 私の身体、少し肩凝りやすいんですけど」

「な、なんだって……!?」

影山(美波の姿)は、混乱の極みに達していた。

今日、モールの路地裏で美咲を庇った時に起きたあのアクシデント。あの不思議な能力は、美咲のブラインドアシストによって解除され、もう消え去ったのだと、そう思いたかったのに。

まさか、こんな室内で、愛する人の娘の姿に変えられてしまうとは。

「み、美波さん……わざと、落ちたんですか……?」

影山(美波の姿)が、混乱した頭でどうにか状況を整理しようと、若い女性の高い声で尋ねた。

「ごめんなさい、ちょっと試してみたくなっちゃって」

美波は悪びれる様子もなく、舌をペロッと出して笑った。

「影山さん、すごく真面目で真っ直ぐな人だから、私が危ない目に遭いそうになったら絶対に庇ってくれるって思ったんです。……それに、これなら今週末の面倒なデート、私の身代わりに行ってもらえそうだし」

「み、身代わりって……俺は、43歳のおっさんですよ!? そんなこと、美咲さんに知られたら……っ!」

影山(美波の姿)は、マキシスカートの裾を握りしめながら、フローリングの上で必死に抗議した。自分が女子高生の姿になってしまったという羞恥心と、美咲にこの異常な状況を見られたらどう思われるかという恐怖で、頭がおかしくなりそうだった。

チャコールグレーのコットン生地が、彼の抗議の動きに合わせてシャラシャラと柔らかな音を立てて床を擦る。女性の服特有の、脚の間に布がない無防備な感覚が、彼から大人の男性としての威厳を完全に奪い去っていた。

「大丈夫ですよ。お母さんには、私たちがうまくごまかしておきますから」

美波は、影山(美波の姿)の前にしゃがみ込み、悪戯っぽく微笑んだ。

その時だった。

ガチャリ。

玄関の重い扉が開く音が、静かなマンションの廊下に響き渡った。

「ただいまー。ちょっと混んでいて、遅くなっちゃったわ」

美咲の声が、玄関からリビングへと近づいてくる。

その足音を聞いた瞬間、リビングに取り残された三人の時間は、完全に凍りついた。

「ただいまー。ちょっと混んでいて、遅くなっちゃったわ」

玄関から、美咲の落ち着いた声が響いた。

リビングにいた三人の時間は、完全に凍りついた。本物の美波(みなみ)は、咄嗟の判断でキッチンカウンターの陰に素早く身を隠した。リビングの真ん中には、パーカーとマキシスカートを着た「美波(中身は影山)」と、顔を引きつらせた妹の咲だけが残される。

カツ、カツ、と。室内履きのスリッパの音が、廊下から近づいてくる。

リビングのドアが開き、美咲が姿を現した。着替えたばかりのキャメル色のハイウエストスカートが、みぞおちの下までをしっかりとホールドし、彼女の背筋を凛と美しく伸ばしている。大人の女性としての気高さと、母親としての柔らかさが同居する完璧なシルエットだった。

「お待たせしま……あら?」

美咲は、エコバッグをテーブルに置きかけ、不思議そうにリビングを見回した。

「影山(かげやま)さんは? お手洗いかしら」

その問いかけに、影山(美波の姿)は全身の血の気が引くのを感じた。心臓が、女子高生の華奢な肋骨の内側で、早鐘のように激しく鳴り狂っている。チャコールグレーのコットンマキシスカートの中で、脚がガクガクと震えていた。自分が大好きな女性の娘の姿に化けて、あろうことか目の前に立っている。もしバレたら、完全に変質者だと思われて嫌われてしまう。

「あ、えっと、お母さん!」

沈黙を破ったのは、咲だった。彼女は面白半分と焦りが混ざったような声で、とんでもない嘘をついた。

「影山さんなら、なんか急用ができたって言って、さっき慌てて帰っちゃったよ!」

「えっ……? 帰った?」

美咲は、ハイウエストのスカートの張りを少しだけ緩め、不思議そうに首を傾げた。

「でも、玄関に影山さんのワークブーツがあったままだけれど。……それに、上着もあそこに置かれたままだし」

美咲の視線の先には、影山が先ほど脱いで、綺麗に折りたたんでソファの端に置いた薄手のカーディガンがそのまま残されていた。

もし彼が急用で帰ったのなら、自分の靴を履き、上着を着て出ていくはずだ。変身能力が『現在身につけている服』しか書き換えないのであれば、身体から離れて脱ぎ捨てられたこれらの衣服は、彼がまだこの部屋の中にいるという、決定的な物理証拠となってしまう。

「そ、それは……ほら、すごく急いでたから! 裸足で上着も忘れて飛び出していったみたい!」

咲が必死に誤魔化そうとするが、服の機能と存在理由を知り尽くしたアパレル店長である彼女に、そんな矛盾だらけの言い訳が通用するはずもなかった。美咲は小さく溜息をつき、「仕方ないわね」と呟いて、自分のバッグからスマートフォンを取り出した。

「忘れ物がありますよって、お電話してみるわ」

その瞬間、影山(美波の姿)の喉が、ヒュッと引き攣った。

女性の細い声帯から漏れ出たその微かな音に、美咲の視線が、目の前でガチガチに硬直している「美波」へと向けられた。

美咲は、その「娘の立ち姿」を見て、わずかに目を細めた。

普段の美波なら、マキシスカートを穿いている時はもっと気怠げに重心を片足に崩し、気だるそうに立っているはずだ。しかし、目の前にいる美波は、まるで軍人のように背筋を異常なほどピンと伸ばし、両手を身体の正面で硬く握り合わせ、両膝を隙間なくぴったりとくっつけている。それは、大柄な男性が無理やり小さな空間に身体を収めようとしているような、ひどく無骨で、不自然極まりない姿勢だった。

そして、美咲の脳裏に、数日前に読んだあの古いノートのテキストが鮮明にフラッシュバックした。

『対象の衣服に触れ、強烈な庇護の渇望を抱く時、姿は変容する』。

美咲の唇の端が、少しだけ面白そうに、そして艶やかに上がった。

彼女は、キャメル色のハイウエストスカートのベルト部分に手を添え、みぞおちに掛かる張りと緊張感を確かめるようにして、スッと美しい背筋を保ったまま、スマートフォンの発信ボタンをタップした。

プルー、プルー……という規則的な発信のコール音が、美咲のスマホのスピーカーから漏れる。

数秒後。

ピピピピッ、ピピピピッ――。

リビングの静寂を切り裂いて、買った時の初期設定のままと思われる、味気なく無骨な電子着信音が鳴り響いた。飾り気のないシンプルな音をそのまま使っている、いかにも影山らしい着信音だ。

それは、ソファに置かれたカーディガンからではない。目の前でガチガチに硬直している「美波」が着ている、部屋着のパーカーのポケットから鳴っていたのだ。

変身した際、衣服だけでなく、元々穿いていたチノパンのポケットに入っていたスマートフォンもそのままこの身体のポケットに転送されていたのだ。

着信音が鳴り響く中、影山(美波の姿)の顔が、耳の先から首筋まで、一瞬にして真っ赤に染まった。ポケットの中で震えるバイブレーションの感覚が、嘘を誤魔化しきれない絶望となって彼を襲う。

「……なるほど。そういうことですか」

美咲は、スマートフォンを耳から離し、通話を切った。着信音がピタリと止む。

チャコールグレーのマキシスカートの裾が、影山の激しい動揺を拾って、シャラシャラと情けなく震えていた。

キッチンカウンターの陰から、「あちゃー」という顔をした本物の美波が、そっと顔を出す。自分と全く同じ姿の人間が二人いるという異常な光景。

しかし、美咲は全く取り乱さなかった。

彼女は、みぞおちをホールドするハイウエストスカートの気高い緊張感をそのままに、ゆっくりと影山(美波の姿)の目の前へと歩み寄った。

「……あの不思議な魔法、本当に存在したんですね」

美咲の静かな、けれどどこか嬉しそうな声が落ちる。

「か、影山さん。ですよね?」

「っ……!」

影山(美波の姿)は、観念したようにギュッと目をつぶり、マキシスカートの裾を力強く握りしめたまま、女子高生の高い声で小さく、絞り出すように答えた。

「……はい。本当に……申し訳、ありません。こんな姿を、お見せしてしまって……」

不完全な自分を恥じ、再び罪悪感に押しつぶされそうになっている影山の華奢な肩。

美咲は、そんな彼を責めるどころか、優しく手を伸ばし、彼の握りしめた細い手をそっと包み込んだ。

「謝らないでください。あなたが美波を庇ってくれたから、そうなったんでしょう?」

美咲は、本物の美波の方をチラリと見てから、再び目の前の「影山さん」に向かって微笑んだ。

「それに……こうして見ると、影山さんの誠実さは、どんな姿になっても変わらないんですね。不器用で、真っ直ぐで……とても、素敵です」

その言葉に、影山(美波の姿)は目を見開き、そしてさらに顔を真っ赤にして俯いた。

美咲は、ハイウエストのスカートがもたらす大人の余裕と気高さを纏いながら、この不器用な男性が元の姿に戻るための「解除の儀式」を、どうやってアシストしてあげようかと、楽しげに思案し始めていた。

彼が変身したという、絶対的な能力の実証。

それは、彼女の知的好奇心を満たすだけでなく、彼という人間の深さと愛情を、このプライベートな空間に完全に迎え入れた決定的な瞬間でもあった。

場面は変わり、数日後の夜。

航(わたる)と心優(みゆう)が暮らすマンションのリビング。

静かな照明の下、姿見の前に立つ一人の美しい女性の姿があった。
心優(中身は航)だった。

彼女(彼)が今日選んでいたのは、少し厚手のキャメル色のハイウエストスカートだった。
美咲が着ていたものと同じように、通常のウエストラインよりも高い位置までしっかりとホールドするデザイン。白のブラウスをタックインし、幅広のベルトでみぞおちの下をキュッと締め上げている。

少しでも気を抜いて背中を丸めれば、高い位置にあるベルトが胃のあたりを圧迫してしまう。だからこそ、この服を着ている間は、常に胸を張り、凛とした姿勢を保ち続けなければならない。
先日の重要なプレゼンを大成功で終えたばかりの心優(中身は航)は、この厳しい制限を「社会の中で自立した女性として立つ覚悟」として完璧に使いこなしていた。

そして、その後ろのソファには、大きな男性の身体を深く沈めて座っている人物がいた。航(中身は心優)だ。

心優(中身は航)は、ハイウエストスカートの張りを腹部でしっかりと感じながら、ゆっくりと振り返り、ソファに座る彼(彼女)へ、あのプレゼンの帰り道に抱いた「ある深刻な不安」を打ち明けた。二人きりの空間だからこそ、まだそこには男性としての本来の自分の呼び方が残っていた。

「ねえ。……もし、ミラベルが帰ってきて、突然この魔法が解けて……元の姿に戻されたらって考えたら、僕、すごく怖くなったんだ。女性としての生き方が細胞に染み付いた今の僕が、あの無骨な身体でどうやって生きていけばいいのか、想像もつかなくて」

完全に女性としての心を獲得した自分が、再び無骨な男性の骨格で生きていくことへの絶望。そして何より、今の本来の身体で男性として生きる重みを引き受けてくれている彼女の意見を聞かなければという、強い思いがあった。だからこそ、女性としての柔らかさと、本来の自分の無骨さが混ざったまま、包み隠さず本音を吐露する。

「僕はもう、元の身体に戻って生きる自分が想像できない。……でも、君の意見も絶対に聞きたかったんだ。君は、この先どうしたい?」

その言葉に、航(中身は心優)はソファからゆっくりと立ち上がった。
大きな男性の骨格が、静かなリビングの照明を受けて真っ直ぐに立つ。

「ありがとう、話してくれて。……実は私も、同じことを考えていたの」

男性の低い声が、静かに響く。これまで二人きりの空間では、お互いに本来の心の人称である「私」と「僕」を使い続けていた。

「私も、もう女性(そっち)に戻りたいなんて思わない。この大きな身体で、社会の重圧を引き受けて、君を守っていく覚悟はもうできているよ。だから、どんな未来が来ても、二人で一緒に背負っていこう」

その揺るぎない覚悟の言葉とともに、航(中身は心優)は、ハイウエストスカートで気高く立つ心優(中身は航)の目の前へと歩み寄った。

「だから……」

航(中身は心優)は、大きな男性の手で、心優(中身は航)の華奢な手を優しく、けれどしっかりと包み込んだ。そして、自分よりずっと小柄な彼女(彼)の瞳を、真っ直ぐに見下ろした。

男性の太い声帯から、言葉が紡がれる。

「私と……いや」

彼は、一度だけ言葉を切り、大きく息を吸い込んだ。分厚い胸板が膨らむ。
池田心優という女性としての自分を心の奥底にしまい込み、目の前にいる愛する人を守るために、彼が本来背負うはずだった「飯沼航」としての男性性と社会的な責任を、完全に引き継ぐという魂の宣誓。

「『僕』と、結婚してください。……この入れ替わった状態のままでも。もし元の姿に戻る日が来たとしても。僕がこの大きな身体で、一生君を守り抜くから」

静かな夜の空間に、明確なプロポーズの言葉が響いた。
外見は、大きな男性から小柄な女性への真っ直ぐなプロポーズ。しかしその内側では、男性としての重圧を引き受けた彼女の魂が、女性としての痛みを背負った彼の魂を一生守り抜くと誓う、究極の愛の形だった。

自分たちはもう、完璧なまでに自分自身を確立したのだ。だからこそ、この身体のまま、社会における最も重い境界線である「両親への挨拶」というプレッシャーから逃げずに向き合う。

その言葉に、心優(中身は航)の大きな瞳から、温かい涙が一筋だけこぼれ落ちた。ハイウエストスカートの張りに守られた胸の奥が、熱く、そして深く満たされていく。
これまで二人きりの時は、「僕」と「君」という、本来の男性としての距離感と呼び方で話していた。けれど、彼が男性としての人生を完全に引き受けてくれた今、自分もまた、過去の男性としての自分と決別し、女性としての人生を完全に引き受ける時が来たのだ。

「……ありがとう。あなたがそう言ってくれたから、私、もう迷わない」

彼女の口から紡がれたのは、もはや男性の残滓を一切含まない、一人の女性としての完全な覚悟の言葉だった。

「……はい。よろしくお願いします。私、あなたに一生ついていきます」

大きな男性の手と、華奢な女性の手が、しっかりと重なり合う。

二つの場所。二つの物語。
不器用な大人の二人が、不完全なまま互いの痛みを共有し合い、新しい家族の形へと踏み出そうとする部屋。
そして、服の重みと制限を完全に受容し、両親への挨拶という社会の大きな重圧に立ち向かっていくことを誓い合った二人の部屋。

ハイウエストスカートがもたらす『強制的に背筋を伸ばす』という共通の感覚が、二つの場所の彼らの魂を、一つの美しい決意としてシンクロさせていた。

これから先、どんな不可思議なアクシデントが起きようとも。どんな交錯が待ち受けていようとも。
彼らはもう、自分たちの選んだ服の重みから逃げることはない。

秋の冷たい夜風の向こう側で、みぞおちをホールドする心地よい緊張感とともに、彼らの新しい日常が、未来へ向かって静かに、力強く歩み出していた。

(つづく)

あとがき

読んでいただきありがとうございます。夏目彩香です。
Saineによる作品はいかがでしたか。通常のウエストラインよりも高い位置で、みぞおちの下までをしっかりとホールドするハイウエストスカート。少しでも気を抜けばお腹を圧迫してしまうその厳しい制限は、着る人に強制的に胸を張らせ、背筋を真っ直ぐに伸ばさせます。しかしその窮屈さを受け入れた時、それは決して逃げずに相手と向き合う「大人の気高い覚悟」へと変わるのです。不完全な自分を恥じながらも真っ直ぐに歩み寄ろうとする誠実さと、互いの人生の重みを完全に背負い合うという魂の宣誓。服の制限がもたらす心地よい緊張感とともに、二つの場所で同じように背筋を伸ばし、未来へ向かって歩き出す彼らの凛とした余韻を、皆様にもご一緒に感じていただけたなら幸いです。

読後のご感想などありましたら、X(旧Twitter)の @skyseafar までそっとお寄せいただけると嬉しいです。