やっぱりスカート #17 サーキュラー 作:夏目彩香 by Saine ※この小説は夏目彩香風の小説が書けるように独自に調整したAIエンジン「Saine」(通称)を執筆に用いています。 秋が深まり、オフィスの窓から差し込む日差しも、どこか輪郭を柔らかくし始めていた。 午前中のミーティングルーム。池田心優(いけだみゆう)は、会議用チェアの座面に自分の体重を深く預け、配られた資料へ静かに視線を落としていた。 資料の端を押さえる華奢な指先には、ほんのりと薄いピンク色のネイルが施されていた。かつての心優なら、コンサルタントというハードな職業柄を気にして、透明なトップコートだけで済ませていただろう。けれど今、この身体を動かしている航(わたる)の意識は、オフィスの厳しい勤務規定の範囲を超えないギリギリのラインを探り、この身体を少しでも綺麗に、女性らしく彩りたいと無意識に追求するようになっている。 大柄な男性の骨格を持っていたかつての感覚は、もう遠い昔のことのように薄らいでいる。今、彼が動かしているのは、紛れもなく一人の美しい女性の身体だった。 足元には、黒のスエードパンプス。タイルの床にちょこんと揃えられたつま先から、ふくらはぎの細いラインが伸びている。そして、その膝から下を豊かなドレープで覆っているのが、今日心優が選んだマスタードイエローのサーキュラースカートだった。 完全な円形(サーキュラー)に裁断されたそのスカートは、これまでに彼女(彼)が穿いてきたどの服よりも圧倒的な布量を持っていた。立っている時は重力に従って足首のあたりで波打っているだけだが、こうして椅子に座ると、その真価を発揮する。たっぷりと使われた少し張りのあるポリエステルブレンドの生地が、膝の周りで無数の深いひだを作り、座面の横へと半円状に大きく、美しく広がっていくのだ。 上半身に合わせた黒のコンパクトなタートルネックニットが、華奢な肩のラインをすっきりと見せている分、下半身で広がるマスタードイエローの波が、空間の中に女性特有の柔らかな余白を生み出していた。 「――では、この案件については池田さんのチームで進めていただけますか」 「はい。午後からの在宅勤務中に、ベースの資料をまとめておきます」 進行役の言葉に、心優は落ち着いた少し高めのトーンで応えた。 会議が終わり、参加者たちが立ち上がり始める。心優もパンプスの踵に体重を乗せ、スッと姿勢を正して立ち上がった。その瞬間、椅子の上に広がっていたマスタードイエローの生地が一斉に重力に引かれ、バサリと力強い衣擦れの音を立てて脚のラインに沿って落ちた。 「池田さん、お疲れ様です。……最近、すっかりスカート派ですね。そのマスタードイエロー、すごく秋らしくて素敵です」 隣の席で資料を片付けていた同僚の女性が、心優の足元を見てふんわりと微笑んだ。さらに、資料を揃える心優の手元へと視線を落とし、嬉しそうに目を細める。 「それに、ネイルもされるようになったんですね。前はトップコートだけだったのに。その薄いピンク、指先がすごく綺麗に見えて似合ってますよ」 「お疲れ様です。ありがとうございます。最近、こういう服やメイクの方が落ち着くようになってきまして」 心優は、ごく自然に、そして柔らかく微笑み返した。無理に作っている笑顔ではない。スカートの重みと一緒に身体の奥底から引き出された、嘘のない柔らかな表情だった。 同僚の女性は周囲に視線を配ると、少しだけ声をひそめ、悪戯っぽく微笑んだ。 「なんだか最近の池田さん、雰囲気が柔らかくなりましたよね。しなやかで、すごく話しかけやすいです。……もしかして、彼氏さんとすごくうまくいっていて、そろそろ、とか? あっ、今の時代、こういうプライベートな質問はセクハラになっちゃいますね。ごめんなさい、でも本当に幸せそうに見えるので」 「えっ……いえ、そんな」 心優は少しだけ頬を染め、苦笑しながら誤魔化した。 (彼氏とうまくいっているって……その彼氏本人が、今の僕なんだけどな) 内心でそんなツッコミを入れつつも、あながち間違ってはいない事実におかしくなる。彼(彼女)とさらに仲が深まっているのは事実であり、同棲から次の一歩へと踏み出すまで、もはや秒読みに入ったところなのだから。幸せそうに見えるのも、当然と言えば当然だった。 同僚は「すごく素敵ですよ」と嬉しそうに頷き、会議室を出て行った。 心優は、自分の足元で静かに波打つマスタードイエローの布地を見下ろした。 この身体に入ったばかりの頃の航を、ふと思い出す。あの頃は、服の制限や歩幅の違いに戸惑うばかりで、ふとした瞬間に大股で歩こうとしたり、男性である航の無骨な言動が表に出てしまったりして、周囲を驚かせてしまうことが何度もあった。そのたびに慌てて取り繕い、冷や汗をかいていたものだ。 しかし、今は違う。 最近では、仮に週五日でオフィスへ出社するのだとしたら、そのうち四日はスカートスタイルを選んでいる計算になる。在宅勤務で過ごす日に至っては、もはや完全にスカートスタイルばかりだ。パンツスーツを着る日は激減した。周囲の同僚たちから見れば、それは単なるファッションの好みの変化ではない。かつて、隙のないパンツスーツを「鉄壁の鎧」として身に纏い、男性社会のコンサルタント業界で一人戦っていた池田心優に、何か心境の変化があったのだろうと映っている。 彼女の心境が丸くなったのではない。男性である航の意識が、この女性の身体に入り、スカートの重みや歩幅の制限、そしてストッキングの摩擦といった「女性としての物理的な縛り」を、不自由なものとしてではなく、自分を守り形作る「日常」として完全に受け入れた結果だった。 そしてそれは、毎朝鏡の前で施すメイクやネイルにもはっきりと表れていた。かつての心優のように、同性から支持されるような隙のない完璧な武装メイクではない。中身が男性である航は、自分自身の目線――『男性から見て一番魅力的で、安心できる柔らかいナチュラルメイク』――を、無意識のうちに自分の顔や指先へ施しているのだ。 男性としての好みの視点が、結果として女性としてのしなやかな色気と美しさを引き出し、新しい池田心優という女性の輪郭となって社会に受け入れられていた。 心優は、デスクに戻ってノートパソコンをバッグに仕舞うと、午後からの在宅勤務のために少し早めにオフィスを後にした。 秋晴れの空が広がる、ターミナル駅のホーム。 昼下がりの時間は人もまばらで、電光掲示板にはまもなく通過する特急列車の案内が点滅していた。 心優は、ホームの白線の内側に立ち、足元の黒いスエードパンプスをピタリと揃えた。風通しの良い駅の構内を歩くたび、サーキュラースカートの圧倒的な布量が脚に触れ、バサリ、バサリと力強い重みを感じさせていた。 『まもなく、1番線を列車が通過いたします。危険ですから黄色い点字ブロックの内側までお下がりください』 アナウンスが響き、遠くから列車の低い走行音が近づいてくる。 次の瞬間だった。 ゴォォォォォッ!! 猛スピードで駅を通過する特急列車が、ホームの空気を激しく切り裂き、強烈な突風を巻き起こした。 秋の冷たい風と列車の風圧が混ざり合い、心優の足元を容赦なく煽る。 サーキュラースカートの円形に裁断されたたっぷりの生地が、その強風をパラシュートのように孕み、膝の上、そして太腿へと大きく捲れ上がろうとした。 女性としての「社会的な危機」。無防備な肌が、公共の場で視線に晒される恐怖。 「あ、危な――」 心優の頭の中で、その思考の言葉が完全に形になるより、コンマ数秒早かった。 スッ、と。 彼女の両腕が、誰に教えられたわけでもなく、考えるよりも先に自動的に大腿部の横へと伸びた。薄いピンクのネイルが施された指先が真っ直ぐに伸び、下から捲れ上がろうとするマスタードイエローの生地を、太腿の横にピタリと押さえ込む。布の膨らみを最小限に抑え、周囲からの視線を完全に遮断しつつ、決して慌てふためいた無様な姿勢にはならない。 それは、風が通り過ぎるのを静かに待つ、完璧で優雅な女性としての防御の所作だった。 列車の轟音が遠ざかり、ホームに巻き起こっていた突風がスッと収まった。 心優は、太腿の横でスカートの生地を押さえ込んでいる自分の両手を、まるで知らない他人の手であるかのように、ゆっくりと見下ろした。 航だった頃の自分なら、絶対にこんな反応はできなかった。風が吹けばただ立ち尽くすか、大股で踏ん張って耐えることしかできなかったはずだ。それが今、この華奢な身体の筋肉と神経は、脳の指令を待つことなく、自らの尊厳を守るための防衛本能として「女性の動き」を自動的に選択したのだ。 自分自身は、本来は飯沼航という大柄な男性だったはずだ。 しかし、もう戻れない。いや、戻りたくないのだと、心優(中身の航)は静かに悟った。 毎日のようにスカートの重みを感じ、ヒールの痛みを受け入れ、男性目線で自分を美しく彩り、社会の中で一人の女性として微笑み返す。その日々の積み重ねが、男性であった自分の過去を静かに遠ざけ、もはや完全に、池田心優という一人の女性に変えられてしまったのだ。 胸の奥に、喪失感とは全く違う、満ち足りた静かな感慨が広がっていく。 「ふふっ。お見事な手さばきですね、心優さん」 不意に、背後から落ち着いた女性の声がした。 ハッとして振り返ると、ホームの階段を上ってきたばかりの若本美咲(わかもとみさき)が立っていた。薄手のベージュのトレンチコートのフロントを開け、その下には顔周りをパッと華やかに見せるアイボリーの上質なボウタイブラウスと、歩くたびにしなやかに揺れるディープグリーンのワイドパンツを合わせている。午後からのシフトへ向かう大人の女性らしい、エレガントで洗練された私服姿だった。 秋の風に揺れるコートの裾をそっと押さえながら、美咲は柔らかく微笑んでいる。 「あ……美咲さん。こんにちは」 心優は、押さえていたスカートから手を離し、少しだけ照れくさそうに会釈をした。 この不思議な入れ替わりの秘密を知る、数少ない大人の女性。彼女の前では、心優の中にある航の意識はいつも少しだけ、本来の自分としての素直な安堵感を覚えてしまう。 「こんにちは。お仕事の帰りですか?」 「ええ、午後からは在宅に切り替えようと思いまして。美咲さんは、お店のほうへ?」 「はい。今日は午後からのシフトなので、これからお店に出るところなんです。クローズ作業まで担当する日なので、少し遅くなるんですけどね」 美咲は、心優の足元で静かに波打っているマスタードイエローのサーキュラースカートと、それに合わせた黒のパンプスを見つめ、嬉しそうに目を細めた。 「そのサーキュラー、とても綺麗に揺れていましたよ。色も心優さんの雰囲気にぴったりです」 「ありがとうございます。でも……さっきの突風は、ちょっと焦りました」 心優が苦笑しながら言うと、美咲はくすりと笑い声を漏らした。 「焦っているようには全く見えませんでしたよ。風が吹いた瞬間、スッと裾を押さえる所作が、あまりにも自然で美しかったですから」 美咲は、少しだけ声を落とし、心優の目を真っ直ぐに見つめた。 「……もう、どこからどう見ても、一人の素敵な女性にしか見えませんね。心優さん」 その言葉は、美咲がアパレル店長として、そして同じ秘密を共有する者として与えてくれた、彼(彼女)に対する「定着」の最終的な証明だった。 「……はい。なんだか、もう昔の自分の歩き方を、思い出せないくらいです」 心優は、サーキュラースカートの生地を指先でそっと撫でながら、静かに、そして誇らしげに微笑んだ。 やがて、ホームに二人が乗る方向の電車が滑り込んできた。 開いたドアから車内へ入り、隣り合って座席に腰を下ろす。心優が座る動作に合わせて、マスタードイエローの生地が座席の上で大きく、そして美しく半円状に広がった。 昼下がりの空いた車内。電車の心地よい揺れに身を任せながら、二人はぽつぽつと、これからの他愛のない予定について言葉を交わした。 「そういえば心優さん、今度のお休みは何かご予定ありますか?」 美咲が、トレンチコートの襟元を少し整えながらふと尋ねた。 「私が普段立っているお店は学生さん向けの制服がメインですが、隣のフロアにある大人の女性向けの系列店に、新しい秋物がいくつか入ってきたんです。心優さんに似合いそうな綺麗な色のスカートやブラウスがたくさんあったので、もしよろしければ、見にいらっしゃいませんか?」 美咲の提案に、心優は目を輝かせた。 「本当ですか? ぜひ行きたいです。秋物、気になっていたんです」 「ええ、お待ちしています。その時は、私がしっかりコーディネートさせていただきますね」 「嬉しいです。……あ、そうだ。美咲さん」 心優は、手持ちのバッグからスマートフォンを取り出すと、少しだけ照れくさそうに微笑んだ。 「せっかくこうしてお会いできたので、一緒に写真、撮ってもいいですか?」 「ふふっ、もちろんですよ」 美咲が少しだけ身を寄せ、二人の距離が近づく。 心優はインカメラを起動し、スマートフォンの画面に自分たちの姿を映し出した。 その瞬間だった。心優の身体が、自分でも驚くほど自然に「一番綺麗に映る角度」を探り当てていた。 腕を少し高く上げ、レンズを斜め上からのアングルに固定する。無意識のうちに顎を微かに引き、小首を右へと傾けた。華奢な肩を少しだけ内側に入れて、美咲の顔と自分の顔を柔らかくフレームの真ん中に寄せる。 画面の中には、アイボリーのボウタイブラウスで顔周りが華やかに彩られたエレガントな美咲の顔と、男性目線のナチュラルメイクが施された自分の顔が、上目遣いになるような絶妙な視線の置き方で綺麗に収まった。 それは、男性であった頃の自分なら絶対に知らなかった、そして恥ずかしくてできなかったはずの「女性らしい自撮りの完璧な所作」だった。 カシャッ、と軽いシャッター音が鳴る。 「綺麗に撮れましたね」 画面を覗き込んだ美咲が微笑む。心優は、そこに映る自分自身のあまりにも自然で柔らかい笑顔を見て、胸の奥で小さく息を呑んだ。 風から裾を守る防衛本能だけでなく、自分を魅力的に見せるため、そして隣の美しい女性と一緒に綺麗に写真に収まるための微細な仕草までもが、もはや「心優の真似事」ではなく、完全に自分自身の細胞に定着している。その事実が、写真という形で明確に切り取られていた。 数駅を過ぎたところで、美咲が降りる駅のアナウンスが流れた。 「それじゃあ、また今度ゆっくり」 「はい、お気をつけて。後で写真送りますね」 美咲が立ち上がり、ドアの向こうへと歩いていく。ホームに降り立った彼女が、一度だけ振り返って小さく手を振った。心優も、窓越しに薄いピンクのネイルが施された指先を揃えて、柔らかく手を振り返した。 閉まるドアの音。電車が再び動き出し、車窓の景色がゆっくりと後ろへ流れていく。 それから三十分後。 心優は、自宅マンションの重い扉を開け、玄関のたたきで黒のスエードパンプスを脱いだ。 かかとを浮かせ、脱いだ靴のつま先を綺麗に揃える所作には、もはや何の思考も介在していない。そのまま洗面所へ向かい、手洗いを済ませてから鏡の前に立つ。 午後からは在宅で資料をまとめる仕事が残っているため、ピアスを外して完全にリラックスしてしまうにはまだ早い。外の世界の緊張感を半分だけ残したまま、バッグを持って廊下を進んだ。 このマンションには、二人が生活する共同のリビングやダイニングとは別に、お互いの自室、そして航が仕事をするための「在宅勤務用の小さな部屋」が設けられている。心優は、その小さな作業部屋の少し開いたドアから、そっと顔を覗かせた。 そこでは、リモートSEとして仕事中の航(中身は心優)が、モニターに向かって真剣な横顔でキーボードを叩いていた。 「ただいま、戻ったよ。今、大丈夫?」 「あ、おかえりなさい! お疲れ様」 航(中身は心優)が顔をほころばせ、ワークチェアから立ち上がってこちらへ歩み寄ってくる。 心優(中身は航)も部屋へ足を踏み入れ、二人はごく自然に腕を回して軽くハグを交わした。少しだけ背伸びをして、男性の大きな顔と女性の小さな顔を近づけ、チュッと短いキスをする。同棲から次の一歩へと踏み出す秒読み段階に入った二人の間で、いつしか当たり前になった帰宅時の新しい甘い習慣だった。 身体を離し、航(中身は心優)が優しく微笑む。 「午前中の会議はどうだった? そのサーキュラースカート、やっぱりすごく綺麗に広がってるね。……なんだか、僕が本来の心優だった頃よりもずっと可愛く着こなしていて、自分の身体なのに僕の方が嫉妬しちゃいそうだよ」 航の大きな身体で、少しだけ拗ねるように、でも愛おしそうに笑って見せる彼(彼女)の姿に、心優(中身は航)も自然と頬が緩む。同棲の気安さと愛情が、二人の間に確かな質量となって漂っていた。 「うん、問題なく終わったよ。同僚にも服とネイル、褒められちゃった。……それにね、彼氏とうまくいってるの? なんて聞かれたりして」 「えっ、本当に? ふふっ、私の同僚たち、鋭いね」 「僕もこれから自分の部屋で午後の作業に入るから。何か手伝うことがあったら言ってね」 「ありがとう、航(こう)くんも頑張ってね」 短いけれど温かく満ち足りたやり取りを終え、心優は廊下の突き当たりにある自分の自室へと向かった。 お互いのことを身体の姿で呼ぶのも、すっかり慣れてしまい、それがいつの間にか普通となったようだった。 デスクの前に置かれたワークチェアに腰を下ろす。マスタードイエローのサーキュラースカートが、椅子の周りにたっぷりと広がった。 手元のスマートフォンを開き、メッセージアプリを立ち上げる。先ほど電車の中で撮った、美咲とのツーショット写真を添付した。 『美咲さん、今日はありがとうございました。さっきの写真、送りますね!』 そして、少しだけ文面を考えた後、薄いピンクに彩られた軽やかな指先でフリック入力を進めた。 『今度のお休み、ぜひ系列店へ秋物を見に行きたいです。もし美咲さんのお時間が合えば、その前に二人でゆっくりランチでもどうですか?』 送信ボタンを押す。すぐに、既読のマークがつき、美咲からの返信が返ってきた。 『素敵な写真ですね。保存させていただきます。ランチ、ぜひご一緒しましょう。駅の近くに美味しいイタリアンのお店があるので、予約しておきますね。秋物を見るのも楽しみにしています。』 画面に並ぶ、女性同士の柔らかく穏やかなやり取り。心優は、そのメッセージを見つめながら、ふわりと自然な笑みをこぼした。男性であった頃には決して入ることのできなかった、この温かく気安い関係性の輪の中に、自分は今、完全に属している。 スマートフォンの画面を落とし、デスクの下でパンプスに一日中締め付けられていた足を軽く伸ばす。そのまま手を伸ばし、スカートの裾を少し引き上げて、太腿からストッキングの縁を両手の指先で掴んだ。 薄いナイロン生地を肌から剥がすように、くるくると丸めながら足首へと下げていく。ストッキング特有の、脚全体を均等に締め付けていた圧迫感から解放され、空気に直接触れた素肌が僅かに冷たさを感じる。最後につま先からすっぽりと脱ぎ捨てると、深い安堵の息が漏れた。 指先に残った、体温を吸った薄手のナイロン生地。それをランドリーバスケット用の小袋へ入れようとした瞬間、ほんの無意識のうちに鼻先へ近づけ、パンプスの中で蒸れた自分の足の匂いをクンッと嗅いでしまう。 女性らしい完璧な所作を身につけたはずなのに、一人の空間に戻って緊張の糸が切れた瞬間に飛び出してくる、男性であった頃の無骨な習性。 「……ん、ちょっと臭いな」 誰に聞かせるわけでもなく小さく呟き、苦笑いしながらストッキングを小袋へ放り込んだ。 パンプスとストッキングの拘束から完全に解放された素足を、フローリングの床に直接触れさせる。少し冷たい床の感触が、足の裏から心地よく伝わってくる。 重ねた両手の下で広がるサーキュラースカートの無数のドレープをそっと撫でる。 自分が男性であった頃の記憶は、この布の重みや、先ほど駅のホームで無意識に動いた自分の身体の感覚の下に、もう完全に溶け込んでいた。自分の細胞に定着したこの女性としての日常が、これからもずっと続いていくのだという確かな安心感。 秋の柔らかな日差しが差し込む自室の中で、足元に広がるマスタードイエローの波が静かに揺れる。 心優は姿勢を正し、少しだけ背筋を伸ばした。薄いピンクのネイルが施された指先をノートパソコンのキーボードへ乗せ、軽やかなタイピング音を響かせる。 男性であった過去を優しく上書きしながら、新しい自分としての確かな時間が、午後の仕事の静かな集中の中へと流れていった。 (つづく) あとがき 読んでいただきありがとうございます。夏目彩香です。 Saineによる作品はいかがでしたか。完全な円を描くようにたっぷりと裁断されたサーキュラースカートは、歩くたびに豊かな波を作る自由さを持つ反面、少しの風で大きく捲れ上がってしまう圧倒的な無防備さも抱えています。しかし、不意の突風に煽られた瞬間、思考を介するよりも早く、スッと伸びた両手がその波を美しく押さえ込む。それは、社会の中で生きるための凛とした防衛本能であり、もう昔の歩き方を思い出せないほどに、新しい日常が細胞の隅々にまで定着したことの静かな証明でもあります。マスタードイエローの布地が描く柔らかな弧と、それを完璧に制御するしなやかな所作。かつての戸惑いすらも愛おしい過去へと押し流し、当たり前のように深まっていく彼らの穏やかな秋の時間を、皆様もご一緒に感じていただけたなら幸いです。 読後のご感想などありましたら、X(旧Twitter)の @skyseafar までそっとお寄せいただけると嬉しいです。 |