やっぱりスカート #16 ニットワンピース

作:夏目彩香 by Saine

※この小説は夏目彩香風の小説が書けるように独自に調整したAIエンジン「Saine」(通称)を執筆に用いています。



少しずつ日が短くなり、夕暮れを過ぎた街には秋の始まりを告げる涼しい風が吹き始めていた。

モールの外に設けられた待ち合わせの広場で、影山隼人(かげやまはやと)は無意識のうちに何度も腕時計へ視線を落としていた。

着慣れた厚手のヘンリーネックシャツの上に、少し色褪せたオリーブ色のマウンテンパーカーを羽織っている。下半身は、建築現場の足場にも耐えうる丈夫な黒のチノパンと、ワークブーツ。カメラマンという職業柄、飾り気のない無骨で実用的な服装ばかりだ。分厚い生地の中で、影山の太い筋肉が微かな緊張で強張っているのが自分でも分かった。

過去の罪を告白し、本来の姿に戻ってから数週間。

彼は、決して迷惑にならないよう気をつけながら、若本美咲(わかもとみさき)のショップへ定期的に通い詰めていた。差し入れを持っていき、言葉少なに挨拶を交わす日々。そして今日、ようやく「もしよろしければ、夕食でも」と誘うことに成功したのだ。自分のような罪を背負った人間に、彼女が真っ当な時間を割いてくれる。その事実だけで、影山の大きな手は少し汗ばんでいた。

「お待待たせしました、影山さん」

背後から、落ち着いた声がした。

振り返ると、仕事を終えた美咲が小走りでこちらへ向かってくるところだった。

「いえ、俺も今来たところです」

影山は少しぎこちなく会釈をした。

美咲は、少し肌寒くなってきた夜風を防ぐために、薄手の秋用トレンチコートを羽織っていた。しかし、急いで歩いてきたせいでフロントのボタンは開いており、風に煽られるたびに中に着ている衣服の質感が露わになった。

深いボルドー色の、リブニットワンピースだった。

首元から足首の少し上までをすっぽりと覆うIラインのシルエット。伸縮性の高いリブ編みの生地が、歩調に合わせて滑らかに伸び縮みし、女性らしい柔らかなカーブをそのまま外へと映し出している。

「急に風が冷たくなりましたね」

美咲が、トレンチコートの襟元を少しだけ引き寄せながら微笑んだ。

「そうですね。……風が強い。こちらの道を歩きましょう」

影山は、美咲が冷たい秋風に煽られないよう、無意識のうちに風上へと自分の大きな身体を移動させた。大柄で無骨なマウンテンパーカーの背中が、文字通り「物理的な壁」となって冷気を遮断する。

並んで歩きながら、美咲は影山の広い背中を横目で見上げた。

最近、飯沼航(いいぬまわたる)や池田心優(いけだみゆう)からは、二人で買い出しに行ったことや、少しずつ新しい日常が定着しているという微笑ましいメッセージが届いていた。しかし美咲は、その不思議なカップルの話を、隣を歩く影山には一切していない。

影山には彼が背負うべき過去と向き合う時間があり、航たちには彼らの大切な日常がある。それらを安易に混ぜ合わせることは、店長としての美咲の静かな線引きだった。美咲はまだ、影山に対して恋愛感情と呼べるほど熱に浮かされているわけではない。ただ、自分の罪から逃げずに真っ当に向き合おうとしているこの不器用な大人のことを、「一人の人間として、もう少しだけ見てみたい」という思いで隣を歩いていた。

「予約してあるお店、すぐそこです」

影山の低い声に導かれ、二人は路地裏にある落ち着いた雰囲気のイタリアンレストランへと入った。

店内の暖かい空気に触れ、美咲はホッと息をついた。案内された奥のテーブル席に着くと、美咲は羽織っていたトレンチコートを静かに脱ぎ、椅子の背もたれへ掛けた。

その瞬間、ボルドーのリブニットワンピースの無防備さが、より一層際立った。

保温性の高いウールとカシミヤの混紡素材は、チクチクしない滑らかな肌触りを持っているが、同時に肌へ密着し、身体のラインを一切隠すことなく拾い上げる。タイトスカートのように歩幅を厳しく制限するわけではない。しかし、生地そのものが第二の皮膚のように隙間なく寄り添うため、緊張感を解けばその僅かな緩みさえもそのまま外へ伝わってしまう服だった。

影山は、グラスの水を一口飲もうとして、その柔らかなシルエットが視界に入った瞬間、呼吸を止めた。

脳の奥底で、ミラベルが残していった『女性の痛みに共鳴する回路』が、バチリと弾けるような感覚があった。

肌に密着する、薄いニット一枚で外の世界の視線に晒される感覚。

自分が白鳥舞衣(しらとりまい)の姿に変えられていた時、サテンのスカート一枚で夜のモールを歩いた時の、あの心細さと圧倒的な恐怖が、生々しい幻覚となって影山の太い筋肉の上を這い回ったのだ。

これほどまでに自分の輪郭をはっきりと外にさらけ出す服。どこから無遠慮な視線が飛んでくるか分からない恐怖。かつての自分は、カメラのレンズ越しに、こうした女性たちの無防備な柔らかさをただの「欲望の対象」として一方的に消費し、彼女たちの尊厳を踏みにじっていたのだ。

自分がどれほど卑劣で、恐ろしい暴力を彼女たちに向けていたのか。

ニットワンピースの密着感と脆さを細胞レベルで理解してしまった影山の胸の奥を、猛烈な後悔と自己嫌悪がギリギリと締め上げた。

「影山さん? どうかしましたか?」

美咲が、不思議そうに首を傾げた。

「っ……いえ。なんでもありません」

影山は、分厚い手で水のグラスを握りしめ、美咲の柔らかなシルエットから意図的に視線を外した。

そして、自分の背中を少しだけ広く保ち、通路側からの他者の視線を完全に遮断するように、椅子の位置をずらしてどっしりと座り直した。

この無防備な服を着ている彼女を、もう二度と、誰の無遠慮な視線にも晒させはしない。

自分がかつて犯した罪を清算することはできないかもしれない。だが、せめて今、目の前にいる彼女が、この柔らかく密着する衣服のまま、安心して呼吸ができる空間を作ること。それだけが、今の不器用な自分にできる唯一の贖罪であり、誠意だった。

美咲は、影山のその無骨で不自然な座り直しを見て、少しだけ目を細めた。

通路を歩く他の客の視線から、自分を隠すように壁となっているマウンテンパーカーの大きな背中。その不器用すぎる優しさが、どこか可笑しく、そして少しだけ胸を温かくさせた。

「このお店、お料理の匂いがとても良くて落ち着きますね」

美咲がメニューを開きながら、柔らかく微笑んだ。

「……良かったです。静かで、あまり人目につかない場所を探したので」

影山も少しだけ表情を緩め、安堵したように息を吐いた。

食事が進み、前菜のプレートが空く頃には、二人の間の少し硬かった空気もほどよくほぐれていた。ワイングラスを指先で回しながら、美咲はふと、以前からずっと気になっていたことを口にした。

「影山さん。……以前お聞きした、あなたが白鳥さんの姿に変えられていた時のこと。もう少しだけ、聞かせてもらえませんか?」

その問いかけに、影山はグラスを持っていた手をピタリと止めた。

自分の最も恥ずべき過去と、不可解な罰の記憶。しかし、目の前でボルドーのリブニットワンピースを着て、真っ直ぐに自分を見つめている彼女に対して、はぐらかすことなどできなかった。

「……本当に、信じられない話だと思いますが。あの時は、ただ怖かったんです」

影山は、テーブルに視線を落とし、絞り出すように低い声を漏らした。

「足元がスースーして、薄い布一枚で外の世界に放り出されたような心細さがありました。女性の服がこんなにも頼りなくて、心細いものだとは、男の身体で生きてきた俺には全く想像もつかなくて」

「女性の服は、不自由でしたか?」

「不自由というより……『視線』が怖かったんです」

影山は、自分の分厚い手を見つめた。かつて、カメラのシャッターを切っていた自分の手。

「どこから、誰に見られているか分からない。自分の身体の輪郭が外に晒されているような息苦しさ。……今まで自分がカメラのレンズ越しに、その恐怖を一方的に押し付けていたんだと、サテンの生地が脚に触れるたびに思い知らされました。服の重みや薄さが、俺の罪の深さを直接教えてくれたんです」

美咲は、静かに頷いた。彼がどれほどその数時間で深い絶望と自己嫌悪を味わい、そして真摯に反省したかが、その不器用な言葉の端々から伝わってくる。

「……その不思議な力で変えられた時、何か特別なことや、きっかけのようなものはあったんですか?」

美咲の探るような質問に、影山は少しだけ眉間へ皺を寄せ、当時の記憶を呼び起こすように目を閉じた。

「ミラベルという存在が現れたのは覚えています。ただ……思い返してみると、奇妙な感覚でした。魔法のようにポンと姿が変わったというよりは、白鳥さんが着ていたような服の感覚が、無理やり自分の中に押し込まれてくるような……」

影山は、言葉を探すように宙を見つめた。

「服に触れたわけでもないのに、まるでその服の重みや摩擦が、細胞の中に直接流れ込んでくるような感覚があったんです。もしかすると、あの不思議な力は……『服』というものを通して発動していたのかもしれません。服が持つ感覚そのものが、変身の鍵だったような……」

『服が、変身の鍵』。

その言葉を聞いて、美咲の胸の奥で小さな好奇心が微かに跳ねた。

服がその人の中にあるものを引き出すというのは、アパレル店長である美咲自身がずっと大切にしてきた価値観だ。もし、そのミラベルという存在の力がまだどこかに残っていて、衣服を通して他者の姿になれるのだとしたら。

(じゃあ、もし私が違う服を着て彼に触れたら、何か変わるのかしら。……あるいは、彼が私の服に触れたら……?)

美咲は、ボルドーのニットワンピースに包まれた自分の腕をそっと撫でた。荒唐無稽な想像だと分かってはいる。けれど、目の前の彼が実際にそれを体験し、痛みを学んでここにいるという事実は、どうしようもなく彼女の興味を惹きつけた。

「不思議な力ですね」

美咲は、小さく微笑んでワイングラスを持ち上げた。

「でも、その服の痛みを影山さんが分かってくれたから。私は今、この無防備なニットを着ていても、こうして安心してお食事ができているんだと思います」

「……俺は、ただの不器用な男ですから。壁になるくらいしか、できません」

影山が照れくさそうに視線を逸らすと、美咲はくすりと笑い声を漏らした。話題は自然と、互いの日常のことへと移っていく。

「うちには、高校生の娘が二人いるんです。美波(みなみ)と、咲(さき)って言うんですけど」

美咲が、サラダを取り分けながら何気なく口にした。

「高校生……ですか。美咲さんがお若く見えるので、そんなに大きな娘さんがいるとは思いませんでした」

「もう私よりずっとしっかりしてますよ。女手一つで育ててきたので、色々と迷惑もかけたと思うんですけどね」

美咲は少しだけ愛おしそうに目を伏せた後、影山の方を見てクスリと笑った。

「影山さんくらいの年齢だと、あの子たちから見たら、ちょうどお父さんみたいな世代ですよね」

その「お父さん世代」という言葉に、影山は一瞬だけ複雑な表情を浮かべた。

自分が美咲に好意を寄せていることは、自分でも痛いほど自覚している。しかし、彼女にとっては自分はまだ「真っ当に生き直そうとしている、娘の父親くらい歳の離れた男」という認識なのだと、明確な線引きを示されたような気がした。

「……そうですね。俺みたいな無骨な男は、今の若い子から見たらただの面倒なオヤジでしょうから」

影山は自嘲気味に笑い、グラスに残った水を飲み干した。

「そんなことありませんよ。不器用でも、誠実に向き合おうとしてくれる大人のことを、あの子たちはちゃんと見ていますから」

美咲の言葉は、影山の胸の奥の澱を静かに掬い取ってくれるような、不思議な温かさを持っていた。

食事が終わり、テーブルに伝票が置かれる。

影山は当然のように手を伸ばし、全額を支払おうとクレジットカードを取り出した。

「ここは俺が払います。無理を言って付き合っていただいたので」

「いえ、それはお断りします」

美咲は、影山の手を柔らかく、しかし確固たる意志を持った手つきで制した。

「今日はお互いを知るための食事ですから。自分の分は、自分で払わせてください。それに、一方的にご馳走になってしまうと、次にお誘いしにくくなってしまいますから」

その凛とした言葉には、アパレル店長として自立して生きてきた大人の女性の気高さがあった。彼女はまだ、影山に完全に寄りかかっているわけではない。対等な人間として、真っ直ぐに向き合おうとしてくれているのだ。

影山はその意志を尊重し、「……分かりました」と静かに引き下がり、綺麗に割り勘にして店を出た。

店から外の路地へ出た瞬間だった。

ゴォォォッ、という低い唸り声を上げて、ビルの谷間から突発的な秋の強風が吹き下ろしてきた。

空気が急激に冷え込み、路地に置かれていた立て看板がガタガタと激しい音を立てて揺れる。

「きゃっ……!」

突風に煽られ、美咲が思わずトレンチコートの襟元を強く握りしめ、顔を背けた。

その時、風に乗って飛ばされてきた街路樹の太く硬い枯れ枝が、美咲の顔の高さに向かって勢いよく飛んできた。

「危ないっ!」

影山の筋肉が、思考するよりも先に爆発的に弾けた。

大柄な身体を一歩前に滑り込ませ、美咲の前に文字通り「肉の盾」となって立ちはだかる。

その瞬間、影山の分厚い手が、風で煽られたトレンチコートの隙間から、彼女のボルドーのニットワンピースへ咄嗟に強く触れた。

「この人を、絶対に守り抜く!」という限界を突破した強烈な庇護欲のスパーク。

ドンッ、という鈍い音がして、飛来した枝が影山の背中を打つ。

しかし、その衝撃は影山が予想していた分厚い筋肉の防御とは全く違う、華奢で痛覚に鋭く響く頼りないものだった。

強風の轟音が通り過ぎた後、路地裏には不自然なほどの静寂が落ちた。

「……え?」

美咲の小さく震える声が響いた。

影山が恐る恐る目を開けると、目の前には、ボルドーのニットワンピースに包まれ、驚きに目を見開いている「本物の美咲」が立っていた。

そして影山は、自分の視線が先ほどよりも十数センチも低くなっていることに気づく。視界の端に入る自分の手は、分厚くごつごつしたものではなく、白く細い女性の手になっていた。ダボダボに余った無骨なマウンテンパーカーと、丈の合わないチノパン。影山は、自分自身が「若本美咲」の姿に完全にコピーされていることに気づいたのだ。

本物の美咲が常に毅然とした気高い態度の裏に隠している、その計り知れない『人生の痛みと重さ』が、彼女の身体構造を通じて生々しく伝わってくる。

毎日、高いヒールを履いて店頭に立ち続けることで骨格に蓄積された、足先から腰にかけての逃げ場のない鈍い疲労感。女手一つで二人の娘の学費と将来を背負い、絶対に倒れることは許されないという、胃が握り潰されるような経済的・精神的な重圧。そして今、飛来する枝に対して自分自身の力では絶対に身を守れないという、女性としての物理的な脆さと純粋な恐怖。

「これが……あなたが普段、一人で隠している痛み……」

影山(美咲の姿)は、その途方もない重圧と痛みに耐えかねるように、ダボダボで不釣り合いなマウンテンパーカーの胸元を強く握りしめた。

しかし、自分の中に流れ込んでくる痛みよりも、目の前で呆然としている彼女の無事が最優先だった。

飛来した枝が、彼女の顔を掠めたのではないか。怪我はないだろうか。

影山は激しい焦燥に駆られ、白く細くなった自分の(美咲の)手を無意識に伸ばすと、強風で乱れていた本物の美咲の横髪をそっと耳に掛けた。

その時、自分の細い指先が、美咲の柔らかい「耳たぶ」に微かに触れた。

確かな体温。そして、彼女の顔にも耳周りにも、一切の傷がないことを指先から確認する。

「……怪我がなくて、本当によかった」

影山が、心底からの安堵の息を長く、深く吐き出した、その瞬間だった。

張り詰めていた感情の糸が切れると共に、影山の身体を再び不思議な感覚が包み込み、視界がぐんと上空へ引き上げられた。

次の瞬間には、元の無骨で大柄な男性の骨格へとスッと戻っていた。

ずり落ちかけたマウンテンパーカーを肩で止め、影山は荒い息を吐きながら自分の分厚い手を見つめた。

ハッとして視線を戻すと、影山の両腕のすぐ内側に、美咲がすっぽりと閉じ込められるような形になっていた。

先ほどまで同じ背丈だったはずの彼女が、今は自分の胸元の高さにいる。ボルドーのニットワンピースに包まれた美咲の柔らかな体温と、驚くほど速い心臓の鼓動がダイレクトに伝わってくる。

見下ろした先にある美咲の顔は、影山の顔からほんの数センチしか離れていなかった。

少しだけ潤んだ瞳。驚きと混乱に僅かに開かれた唇。ニットワンピースの密着感と、女性特有の甘く柔らかい香りが、影山の理性を激しく揺さぶる。ほんの少しだけ顔を傾ければ、そのまま唇が重なってしまう、極限の距離。

影山の太い腕に力が入り、彼女の華奢な肩をさらに強く引き寄せそうになった、その時だった。

スッ、と。

美咲の細い両手が、影山の広い胸板を柔らかく、けれど明確な力で押し返した。

「……助けていただいて、ありがとうございます。でも、大丈夫です」

美咲は、少しだけ頬を赤く染めながらも、冷静な大人の女性の瞳で影山を見つめ、静かに、そして確実に半歩だけ距離を置いた。

目の前で起きた信じられない現象に戸惑いながらも、彼女は順序を飛ばして安易な感情に流されることを良しとしなかった。大人としてのプラトニックな境界線を、今はまだ守るべきだと判断したのだ。

その明確な「線引き」に、影山の頭に冷や水がぶっかけられたように理性が戻った。

自分は何をしようとしたのか。彼女を守る壁になると誓ったはずなのに、一瞬でも彼女の無防備な柔らかさに酔い、彼女の尊厳を踏み越えようとしてしまった。

「っ……す、すみません! 怪我は、ありませんか!?」

影山は弾かれたように腕を離し、壁から背中を剥がして大きく一歩後ずさった。自己嫌悪で顔が青ざめている。

「怪我はありません。影山さんの背中が、壁になってくれましたから」

美咲は、乱れたトレンチコートの裾を整えながら、不思議そうに影山を見つめた。

「……今の現象は、先ほどレストランで話していた、あなたが以前白鳥さんの姿に変えられたという、あの力ですか?」

美咲は、かつて影山から罪の告白を受けた夜のこと、そして先ほど彼が語った「服が変身の鍵になっているかもしれない」という言葉を思い返していた。それが今、目の前で現実のものとして起きたのだ。

「……俺にも、よく分からないんです。あの時、元の姿に戻してもらったはずなのに。なぜ今になって発動したのか……」

影山は、自分の分厚い手を見つめながら、困惑したように低い声を漏らした。完全に拒絶されたわけではない空気を察し、美咲は少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。

「今日のところは、ここで失礼しますね。でも……」

美咲は、バッグを持ち直しながら、影山の目を真っ直ぐに見つめた。

「とっさに私を守ってくれたこと、本当に感謝しています。今日の食事は割り勘でしたから……近いうちに、私がどこかでお礼をさせてください」

「お礼、ですか……? いや、そんな、俺はただ……」

「約束ですよ、影山さん。また、お店のほうにも顔を出してくださいね。その時に、先ほどの不思議な現象のこと、もう少し詳しく聞かせてください」

美咲は、ボルドーのニットワンピースの柔らかなシルエットを夜風に揺らしながら、路地の向こうへと歩き出した。キャメル色のパンプスが、カツ、カツと軽やかな音を立てて遠ざかっていく。

残された影山は、自分の分厚い手のひらを見つめた。

そこにはまだ、彼女のニットワンピース越しに感じた柔らかな温もりと、一瞬だけ共有した痛みの重さが、微かに、けれど確かな質量として残っていた。

自分のような不器用な男が、彼女の隣を真っ当に歩ける日は来るのだろうか。

秋の冷たい夜風の中で、影山は自分のマウンテンパーカーの襟を立て、自分の中に潜む力への疑念を抱えながら、彼女が消えていった道をいつまでも見つめていた。

一方、路地を抜けて駅へと向かう美咲の胸の奥では、先ほどの信じられない現象に対する多少のショックと同時に、大人の女性らしい密かな思考が巡っていた。

目の前で、彼が自分の姿に変わった。

もしあの不思議な能力をうまく使うことができるなら、どうしても自分が店を抜けられない時に、私の代わりをしてもらえるかもしれない。あるいは、娘たちのどちらかの姿に変身してもらって、いつもとは違う視点で親子デートを楽しむことだってできるのではないか。

けれど、彼はすぐに元の姿に戻ってしまった。自由に長く変身できなかったということは、きっと発動と解除の明確な『トリガー』となるものが存在するはずだ。

美咲は、夜風にトレンチコートの裾を揺らしながら、少しだけ面白そうに唇の端を上げた。

同じ頃。若本家の自宅マンションでは、夕食の片付けを終えた静かな時間が流れていた。

美咲から頼まれて夕食を作った長女の若本美波(みなみ)は、妹の咲(さき)と二人で食卓を囲んだ後、自室のベッドにうつ伏せになって寝転がっていた。

休日の夜のリラックスウェアとして美波が選んだのは、少し厚手の杢グレーのオーバーサイズ・スウェットパーカーと、足首まですっぽりと覆うチャコールグレーのコットンマキシスカートだった。美波は根っからのスカート派であり、隣の部屋で年中スウェットパンツやショートパンツを穿いて過ごしている妹の咲とは対照的だ。

ダボッとしたパーカーの重みが背中を包む安心感と、脚全体にゆったりと絡みつく柔らかいコットンのドレープ。ウエストに締め付けのないスカートの解放感が、シーツの上の素足に心地よい摩擦を与えてくれる。外の世界の緊張感を完全に脱ぎ捨てた、女子高生の最も無防備で心地よい装いだ。

隣の部屋からは、咲が聴いているであろう微かな音楽のベース音と、時折椅子がきしむ音が薄い壁越しに伝わってくる。妹がすぐ隣の空間で別の時間を過ごしているという、日常特有の適度な生活音。それが、美波が一人で思考に没頭するための心地よいノイズになっていた。

美波は、ベッドの上に広げた一冊の古びたノートを、細い指先でそっと撫でた。

数日前、母のショップへ手伝いに行った際、バックヤードの隅に落ちているのを見つけたものだ。表紙には何も書かれておらず、中を開くと、見たこともない幾何学模様のような、奇妙な文字の羅列がびっしりと書き込まれていた。ざらりとした古い紙の摩擦が、指先から伝わってくる。

自称「文字オタク」である美波の脳内で、ページを見つめるうちに様々な言語のパターンが高速で照合されていった。

最初は丸と直線の組み合わせからハングルっぽく考えて読み解こうとしたが、母音の規則性が合わない。次に、丸と線が繋がる独特の曲線からタイ文字を疑ったが、それも全く当てはまらなかった。普通なら、ここで諦めてただの落書きかデタラメな暗号だと思うはずだった。しかし、諦め半分で右から左へと視線を滑らせた瞬間、美波の頭の中で、ある言語の法則とカチリと音を立てて重なったのだ。

「これ……ただのデタラメじゃない。ちょっと癖があるけど、ベースはヘブライ文字と同じ形になってる……?」

美波は、ミッション系の中高一貫の私学に通っている。もともと語学に対して特異な天才的感覚を持っており、日本語や英語はもちろんのこと、韓国語、中国語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語を軽々とマスターし、最近ではベトナム語、タイ語に加え、聖書の原典を読むための授業からギリシア語や古代ヘブライ語にまで手を広げ、それらすべてを自由に操れるようになっていた。

右から左へと読まれる独特の文字の配列。点と線が交差するような子音の形。美波がその文字列をヘブライ語の文法と単語に当てはめて目でなぞっていくと、不思議なほど自由自在に、その文章が直接、映像と感覚の波となって彼女の脳内へ流れ込んできたのだ。

『対象ノ外見(素肌ヤ衣服)ニ触レ、盾トナラントスル強烈ナ庇護ノ渇望ヲ抱ク時、姿ハ変容スル』

『呪縛ヲ解クニハ、対象マタハ其ノ血ヲ分ケタ者(一族)ノ耳朶(みみたぶ)ニ触レ、絶対的ナ安堵ノ息ヲ吐クコトヲ要ス』

それは、誰が書いたものか分からない、変身能力の根幹に関する観測記録だった。そこには、対象の服に触れ、相手を深く理解しようとする強い感情(庇護欲など)を抱くことで、その服を着るはずだった者の姿に変わることができるという、能力の発動と解除の明確なメカニズムが記されていた。

そして何より美波の目を引いたのは、その不可思議な能力の残滓が、この街に住む『ある特定の男性』に宿っている可能性について書かれた一文だった。

「服に触れて、強い感情を抱くだけで、その服を着るはずだった人の姿に変われる……? 何それ、理屈が全然わかんないんだけど」

美波はノートから顔を上げ、呆れたようにベッドの上でゴロリと仰向けに寝返りを打った。オーバーサイズのスウェット生地とコットンマキシスカートが、シーツと擦れて柔らかな音を立てる。

壁際のハンガーラックには、明日着ていく予定の、私立高校の指定であるチェック柄のプリーツスカートが綺麗に掛けられている。箱ひだ(ボックスプリーツ)特有の、広がりすぎないカチッとした立体感。美波の少し大人びた歩幅と視線を支えてくれる、お気に入りの制服だ。ハンガーに吊るされたそのスカートは、部屋の照明を受けて、くっきりとした折り目の陰影を作っていた。

ブブッ。

傍らに置いたスマートフォンが、短く震えた。画面を見ると、クラスメイトで仲の良い男子から、週末のデートの誘いが来ている。悪い気はしない。でも、今の美波にはそこまでの熱量もなく、正直なところ少し気乗りがしなかった。かといって、無下にも断りにくい。

美波はスマホの画面と、ハンガーに掛かったチェックのプリーツスカート、そして手元の不思議なノートを交互に見比べた。

もし、このノートに書かれている理屈の分からない魔法みたいな話が本当だとしたら。この能力を持った誰かに、私のこのプリーツスカートを着せて、私の身代わりになってデートへ行ってもらうことだってできるのではないだろうか。

「でも……そんな魔法みたいな力を持った人、一体どこにいるっていうのよ」

美波はノートをパタンと閉じ、小さく息を吐いて天井を見上げた。

ノートには、その男性の具体的な名前までは書かれていなかった。それが誰なのか、どうすれば会えるのか、今の美波には知る由もない。

隣の部屋から、咲が小さくくしゃみをする声が聞こえた。美波はクスリと笑い、スマホの画面を伏せてベッドの横へ置いた。不思議な力への好奇心と、実行方法がわからないもどかしさ。自分が思いついた突拍子もないイタズラのアイデアが、いつか現実になる日が来るのだろうか。

大人たちの静かな夜の裏側で、娘の密かな好奇心が、まだ見ぬ誰かとの交錯を待って静かに息を潜めていた。

(つづく)

あとがき

読んでいただきありがとうございます。夏目彩香です。
Saineによる作品はいかがでしたか。身体のラインにそのまま寄り添うリブニットワンピースは、温かいけれど、とても無防備で心細い服です。一枚の薄い布越しに感じる外の空気や、どこから向けられるか分からない視線の冷たさ。けれど、その痛みを細胞で知ってくれている人が、隣で大きな風除けの壁になってくれるのなら、その密着感はたちまち絶対的な安心へと変わります。秋の夜風を遮る不器用で無骨な背中と、その内側でホッと息をつくボルドーのニット。少しずつ深まる季節の中で、大人の二人が静かに育んでいく嘘のない温もりを、皆様にもご一緒に感じていただけたなら幸いです。

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