やっぱりスカート #15 ジャンパースカート 作:夏目彩香 by Saine ※この小説は夏目彩香風の小説が書けるように独自に調整したAIエンジン「Saine」(通称)を執筆に用いています。 マンションの主寝室にあるウォークインクローゼットの扉を開けると、そこには色とりどりの布の波が広がっていた。 休日の昼下がり。心優(みゆう)は、ハンガーラックに吊るされた衣服の群れを静かに見渡した。少し前まで、このクローゼットには明確な境界線があった。一番手前には本来の身体の持ち主である航(わたる)のメンズ服が並び、一番奥の敷居の向こうに、本来の心優が「決して着ないもの」として封印していた数着のスカートがひっそりと眠っているだけだった。普段の彼女の服は、機能的で無機質なパンツスーツばかりだったのだ。 しかし今、その勢力図は完全に塗り替えられている。 ミラベルによって身体と意識が入れ替わり、航が心優の身体で生活するようになって数ヶ月。彼(の意識を持つ彼女)が少しずつ服の重みと制限を受け入れ、女性としての日常を定着させていく過程で、手前を占領していた航のメンズ服はクローゼットの片隅へと少しずつ追いやられた。そして代わってハンガーラックのメインスペースへ一気に増殖したのが、無数のスカートたちだった。 ワンピース、タイト、ティアード、プリーツ、マーメイド、ロングフレア、そしてバルーン。 これまでに少しずつ袖を通してきた軌跡をなぞるように、多種多様なシルエットと生地の重みが、かつては無機質だった空間を華やかに、そして圧倒的な「女性の領域」として染め上げている。 さらに目を引くのは、奥のスペースを占拠しつつある制服のコレクションだ。心優にも、本来の航にも、コスプレの趣味など一切なかったはずだ。しかし、女性の身体になった航が衣服の持つ魅力と魔力にすっかり当てられてしまった結果、クローゼットの一角には、以前美咲たちと一緒に買ったあのモダンなブレザーのプリーツスカートだけでなく、某有名伝統校のセーラー服から、最新のパーカー制服までがずらりと並んでいる。航のクレジットカードの明細が恐ろしいことになっているという「思ったよりも買っちゃった感」が否めないが、それでもこの空間の華やかさは、クローゼットを開けるたびに彼(彼女)の心を躍らせた。 「今日は、これにしようかな」 心優は、ずらりと並んだスカートの群れの中から、一着の服を滑らせるように引き出した。今日彼女が選んだのは、ダークブラウンのジャンパースカートだった。肩紐から胸当て、そしてスカートの裾までが一体となった、ワンピース型の衣服。 両肩に、ズシリとした確かな質量を感じていた。 アイボリーの薄手のリブニットセーターの上に重ねた、少し硬くて丈夫な綿混紡のツイル生地。深いVネックの胸当てが、柔らかな胸の膨らみを外側からすっぽりと覆い隠している。タイトスカートのように脚のラインを拾うこともなく、ストンと落ちるIラインのシルエットが、下半身全体を広い布面積で守ってくれていた。 これまで平日に着てきた仕事用のスカートやパンツスタイルとは、身体にかかる重力のベクトルが全く違う。ウエストには、ベルトやゴムによる締め付けが一切ない。腰回りは完全に開放されており、深く息を吸い込んでも布が張ることはなかった。しかし、その圧倒的な解放感の代償として、面積の広い厚手の生地の総重量が、太い肩紐を通して両肩へと真っ直ぐにのしかかってくる。 ちょうど数日前から、月に一度やってくる『女の子の日』の特有の鈍い重さが、下腹部を支配していた。初めてその理不尽な痛みと気分の落ち込みを経験した時は、自分の身体が自分のものではないような恐怖に狼狽えたものだ。しかし数ヶ月が経った今、それすらもこの身体の大切なサイクルとして受け止め、こうして少しでも身体を労わるために締め付けのない服を自然に選べるようになっている。 「……うん、やっぱりこれ、すごく楽だ」 心優は、下腹部をそっと撫でながら独り言を呟いた。その声は、本来の心優の少し高めのトーンでありながら、中身である航の穏やかな響きを含んでいた。 部屋着のままでは外に出られないが、わざわざ気合いを入れて着飾るほどの用事もない。そんな「ちょっとそこまで」の日常的な休日の外出において、このジャンパースカートは完璧だった。頭からすっぽりと被るだけでコーディネートが完成し、ウエストの窮屈さもない。それでいて、布の重みと面積が、外の世界の視線から自分をしっかりと守ってくれる。 リビングへ出ると、ダイニングテーブルでノートパソコンを開いている大きな背中があった。 大柄な男性の骨格。それは本来、自分自身である飯沼(いいぬま)航の身体だ。今はその中に本物の心優の意識が入り、彼が本来こなすはずだったフルリモートのSE業務の学習をしたり、休日のネットサーフィンをのんびりと楽しんだりしている。 その背中を見るたび、心優(中身は航)は、平日と休日の圧倒的な「重さのギャップ」を実感する。 心優本来の職業であるコンサルタントの仕事は、非常にハードだ。とはいえ、近年は働き方改革が進んだおかげで週二日の休みはしっかりと確保され、過労を防ぐための労務管理も徹底されている。地方への出張も極力日帰りで済ませるようになり、遠方のクライアントとはリモート会議で対応することも増えていた。それでも、在宅、事務所、顧客先への外出と、日々異なる環境でクライアントと対峙する高度な業務をこなすのは、中身が航である以上、毎日が綱渡りのような必死の連続だった。 その激務を乗り切るため、航は今、週に二回はスカートを、週に三回はパンツを穿くというスタイルで平日のローテーションを組んでいた。 かつてはパンツルックばかりだった本来の心優のワードローブに、仕事用のスカートなど一着もなかった。だからこそ航は、女性の身体でコンサルタントの重圧に立ち向かうため、思い切って新しいスーツを新調したのだ。 それは、美咲が紹介してくれた系列のテーラーで細かく採寸してもらい仕立てた、フルオーダーメイドの三点セットだった。休日になると、航と心優は時折、美咲のショップへ顔を出すようになっていたのだ(そのテンションのまま、クローゼットの制服コレクションを次々と追加購入してしまったわけだが)。 つい先日も、三人で美咲の店で談笑する機会があった。その際、かつて白鳥舞衣の姿に変えられていたあの盗撮犯の男についての話題が出た。美咲が静かに教えてくれた彼の名前は『影山隼人(かげやまはやと)』。建築や空間を専門とするフリーカメラマンだという。彼が自分の過去の罪と真っ直ぐに向き合い、不器用ながらも誠実な大人の男性として美咲の店に差し入れを持ってきていることを聞き、航たちも肩の荷が下りたような不思議な安堵を覚えたものだ。 そんな美咲の紹介で仕立てたスーツ。極細の糸で高密度に織り上げられた深いネイビーの上質ウールは、指先で触れると微かなとろみとしっとりとした重みがあり、光の加減で上品な光沢を放つ。肩のラインに吸い付くように沿うノーカラージャケットと、同素材のストレートパンツ、そしてタイトスカートの組み合わせ。さらに万が一に備えて、もう一セット、同じ仕立てのスカートスーツの替えまで用意してある。 購入した当初はパンツルックも活用するつもりだったが、実際に日常が始まってみると、セットのパンツの着用機会はほとんどなく、顧客先へ外出してプレゼンをするような重要な日には、必ずこのタイトスカートを勝負服として選ぶのが必須となっていた。 深いネイビーのウール生地が腰からヒップ、そして膝上まで、まるで第二の皮膚のように隙間なく密着する。立ち座りのたびに、裏地に使われた滑らかなキュプラがストッキング越しにひんやりと肌を滑り、タイトな表地が歩幅を厳しく制限する特有の摩擦と強いホールド感を生み出す。ストッキングはその日の気分で明るさの違うベージュを使い分けているが、ここぞという大事なプレゼンの日には、気を引き締めるように黒のパンティストッキングを選ぶと決めていた。肌の透け感を抑えたマットな黒のナイロン生地が脚全体を均等な圧力で包み込み、ウールのスカートとの間に「シャリッ」という静かで気高い衣擦れの音を響かせる。 歩幅が極端に制限されるそのタイトなスカートに合わせるのは、同じく新調した黒の艶やかなカーフレザーで仕立てられた七センチのピンヒールだ。仕事柄、スカートだろうがパンツだろうがヒールは必須である。その強制的な緊張感と身体への縛りが、彼に「プロフェッショナルな働く女性」としての気高いスイッチを入れさせてくれるのだ。 実際にそのフルオーダーのスカートスーツとヒールでプレゼンに臨んだ際、その凛とした姿勢と所作が評価され、ことのほか仕事がうまく進んだこともあった。以来、縁起を担ぐ意味でも、それは完全な勝負服となっている。ヒールの重心を自分のものにするために、わざわざ女性向けのウォーキングスクールにまで通ってみっちりと歩き方を勉強した。今では、自分の足の甲と土踏まずに完全にフィットした七センチヒールを履いたまま駅のコンコースを小走りで急いでも、足が痛くならないほど、完璧に女性の身体の使い方を身に染めていた。 服装だけではない。毎朝鏡の前で派手になりすぎない清潔感のあるオフィスメイクを施し、指先には職業柄カラーネイルは避けつつも、透明なトップコートを塗って抜かりなくツヤを保つ。 そうして一週間、タイトな服とヒール、完璧なメイクで全身を武装し、社会で戦い抜いた後の、日曜日。 ウエストの締め付けから解放され、両肩にふわりと重みを預けるだけのジャンパースカートが、女の子の日を迎えた重い下腹部にどれほど心地よく、呼吸を深くさせてくれることか。 「航(こう)くん、お昼ご飯、適当にスーパーで買ってくるけど、何か食べたいものある?」 心優は、パソコンに向かう大きな背中へ何気なく声をかけた。 口からその音がこぼれ落ちた直後、心優(中身の航)はハッとして、自分の唇を右手で微かに押さえた。耳の裏のあたりが、じんわりと熱くなるのを感じる。 自分自身の本来の名前を、「航くん」と甘い愛称で呼ぶこと。数日前、バルーンスカートを履いた時に同じように彼を呼んだ時は、頭で考えて、わざと声のトーンを高くして演じた「なりきりごっこ」だった。 しかし、今は違った。平日のハードなコンサルタント業務を女性としてこなし、休日にジャンパースカートの安心感に包まれていると、思考を通さず、肺から押し出された空気が女性の細い声帯を震わせて勝手に「航くん」という音を紡ぎ出したのだ。それはもう演技ではなく、この身体の細胞に完全に定着した「池田心優としての記憶と役割」が引き起こした、極めて自然な発声だった。自分の名前を自分で呼ぶという強烈な気恥ずかしさと同時に、自分がどれほど深く、この女性の身体と同化しているのかを思い知らされる。 パソコンに向かっていた大きな背中が、ゆっくりとこちらへ振り返った。 「んー……じゃあ、お弁当と、甘いものも少し食べたいかな。プリンとかお願いしていい?……心優」 振り返った男性の顔が、ふわりと柔らかく笑ってそう答えた。 『心優』。 その低い声の響きに、心優(中身は航)の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。彼(中身は心優)は今、自分に向かって、ごく自然に、愛おしむようなトーンで彼女本来の名前を呼んだのだ。 以前なら、他人の名前で呼ばれることに「自分が消えてしまうような葛藤」があった。しかし今、ジャンパースカートの重みに包まれてその名前を耳にすると、不思議なほどスッと、自分自身の輪郭として受け入れられていることに気づく。 互いにその役割を演じ合う今の関係性が、不思議なほど心地よく、安心できるものになっていた。 「わ、わかった。プリンね。じゃあ、行ってくる」 心優は、少しだけ赤くなった頬を隠すように軽く頷くと、ソファに置いてあったキャンバス地の小さなトートバッグを手に取り、玄関へと向かった。 たたきに降りる直前、靴箱から一足の靴を取り出す。黒のフラットなスリッポンだった。平日の勝負靴である七センチのヒールのような緊張感もなく、スニーカーのように靴紐を結ぶ手間もない。足を滑り込ませるだけで履ける、極めて実用的で気取らない靴。 ペタン、と平らなソールが玄関のタイルを捉える。ジャンパースカートの重みが両肩に掛かり、フラットな靴の底から足の裏全体へと真っ直ぐに体重が落ちていく。 ガチャリと重い扉を開け、休日の空気が漂うマンションの廊下へと足を踏み出した。 歩いて五分ほどの距離にある近所のスーパーへと向かう。秋の深まりを感じさせる少し冷たい風が吹いていたが、厚手のツイル生地がしっかりと下半身を保温してくれているため、寒さは感じなかった。 スリッポンの平らな靴底が、アスファルトの上でキュッ、キュッと軽快な音を立てる。歩くたびに、ジャンパースカートの裾が膝下でゆったりと揺れ、厚手の布がふくらはぎに微かに触れる。 ふと、通り沿いの建物的ガラス窓に自分の姿が映った。 アイボリーのニットに、ダークブラウンのジャンパースカート。小さなトートバッグを腕に掛け、フラットなスリッポンで歩く若い女性の姿。そのガラス越しの自分を見た瞬間、心優は自分の所作にハッとした。 風で乱れた髪を、右手の指先でそっと耳に掛ける仕草。バッグの持ち手を腕にかける時の、手首の僅かな角度。それらはすべて、かつて彼が隣を歩きながらずっと見てきた、本物の心優の無防備な癖そのものだった。頭で考えて真似ているのではない。平日の厳しい武装と、休日の柔らかい服のギャップを繰り返すうちに、骨格と筋肉の動きが自然と「池田心優らしさ」を完全に会得してしまっているのだ。 スーパーの自動ドアを潜り、野菜売り場の冷気を感じながらカートを引き出す。 休日のスーパーは、近所に住む家族連れや単身者で適度に賑わっていた。アイボリーのニットにジャンパースカートを着てカートを押す彼女に、特別な視線を向ける者は誰もいない。彼女はその無数の「生活する女性たち」の風景の中に、完全に、何の違和感もなく溶け込んでいた。 「お弁当と……あ、ほうれん草が安い。夜はグラタンにでもしようかな」 心優は、特売のポップを見つめながら、ごく自然な動作でほうれん草の束を手に取り、カートのカゴへと入れた。 肩に掛かるジャンパースカートの重みが、たまらなく心地よかった。この服は、自分を美しく飾るためだけの背伸びした鎧ではない。日々の生活を営み、カートを押し、食材を選ぶための「生活の服」だ。 ウエストの締め付けがないから、しゃがんで一番下の棚にある商品を取る動作も全く苦にならない。深く屈み込んでも、胸当ての生地がしっかりと身体の前面を覆ってくれているから、胸元の露出を気にして片手で襟口を押さえる必要もない。背後からの視線に対しても、たっぷりとしたツイル生地が太腿の裏側をすっぽりと隠してくれる。 大人の女性が日常生活を送る上で、これほど理にかなった、安心できる衣服の形があるのだ。その事実を、航はこの身体になって、この服を着てスーパーの床を歩くことで初めて知った。女性としての生活は、もはや「体験」という非日常のフェーズを完全に終え、「当たり前の日常」として彼女の細胞に定着していた。 買い物を終え、数人が並んでいるレジの行列の最後尾にカートをつけ、前の客の会計を静かに待っていた時だった。 トートバッグの中で、スマートフォンが短く震えた。画面を見ると、留守番をしている航からメッセージが届いている。 『プリン、忘れてないよね?(笑)』 「あっ……!」 完全に夕飯の献立に気を取られ、一番大事な彼からのリクエストが頭から抜け落ちていた。レジの列は少しずつ進んでいる。自分の番が来る前に急いで取ってこなければ。気が動転した心優は、反射的にスマホのキーボードを激しい勢いで叩き始めた。 『やっば!マジで忘れてた!今すぐダッシュで取ってくる!列抜けとく!』 男性としての「飯沼航」の素の思考回路が完全に表に出た、豪快で男っぽいテキスト。送信ボタンを力強くタップした直後、心優はカートを列から乱暴に引き抜き、大股でスイーツコーナーへ走ろうと右足を踏み出した。 バサリッ。 急な大股の動きに、ジャンパースカートの厚手のツイル生地が太腿に強く当たり、スリッポンの平らなソールがキュッと不器用な音を立ててスーパーの床で滑った。平日に七センチのヒールで完璧に歩きこなしているプロフェッショナルな女性の姿とは似ても似つかない、男の骨格に任せた無骨なガニ股ダッシュの未遂。 その物理的な摩擦と重みを感じた瞬間、心優の頭に冷や水がぶっかけられたように我に返った。自分が今、大柄な男性ではなく、アイボリーのニットにジャンパースカートを着た「池田心優」であることを思い出したのだ。 周囲を見渡す。幸い、誰も彼女のガニ股未遂など気にしていない。だが心優は、自分が発してしまった男っぽいテキストと、今しがた見せかけた無様な姿勢に、顔から火が出るほどの羞恥心を覚えた。完全に女性になりきっていたはずなのに、ふとした瞬間に表へ飛び出してくる無骨な男性としての自分。そのアンバランスさが、たまらなく恥ずかしかった。 「あ、いけな……私ったら」 誰に言い訳するでもなく小さく咳払いを一つすると、心優はサッと内股気味に両膝を寄せた。カートの持ち手を両手で控えめに握り直し、ジャンパースカートの裾が美しく揺れる程度の、お淑やかな小走りに切り替える。恥じらいとともに女性としての重心を急いで取り戻し、プリンを二つ、そっとカゴの中へ滑り込ませた。 再びレジの行列の最後尾へと並び直し、パートの女性店員に商品のバーコードを読み取ってもらう。 「ポイントカードはお持ちですか?」 「はい、お願いします」 心優はトートバッグからスマートフォンを取り出し、ポイントアプリの画面を開いて提示した。 画面に整然と表示された「池田心優」という文字列が、ふと視界に入った。 心優。それは、愛する彼女の名前であり、今は自分が社会に対して背負っている人生のラベルだ。以前の自分なら、自分がこの名前で呼ばれ、この名前を名乗るたびに、飯沼航という本来の自分が世界から少しずつ削り取られ、消えていくような葛藤と恐怖があった。 しかし今、ジャンパースカートの重みを肩に感じ、先ほど自分が「私ったら」と自然に女性としての恥じらいを見せたことを思い返しながらその文字列を見つめていると、不思議なほど心が凪いでいた。完全に上書きされて消えてしまうのではない。飯沼航というベースの骨格の上に、衣服の重みと日常の営みを通じて、池田心優という女性の感覚が静かに、そして美しく重なり合っているのだ。 画面に表示されたその名前が、今の自分に最もふさわしい輪郭なのだと、深く静かな感慨が胸の奥に満ちていくのを感じた。 会計を済ませ、購入したものを詰めたエコバッグを腕に提げてスーパーを出る。 「っ……」 袋を持ち上げた瞬間、細い腕の筋肉が微かに悲鳴を上げた。お弁当二つに、牛乳パック、ほうれん草、そしてプリン。かつての男性の腕力なら、指先だけで軽く振り回せた程度の重さだ。しかし、女性の華奢な骨格と筋肉では、それがズシリと手首に深く食い込み、腕全体を下に引っ張る確かな質量となってのしかかってくる。 頼りない腕力。か弱い筋肉。けれど、その「重い」と感じる非力さすらも、今の自分の日常なのだと実感できる。ジャンパースカートの肩にかかる安心感のある重みと、腕に食い込む買い物袋の確かな重み。二つの異なる重力が、今の自分がこの世界に存在し、生活を営んでいるという事実を教えてくれる。 帰り道。西に傾きかけた太陽が並木道の落ち葉をオレンジ色に染めているのを見つめながら、心優はスリッポンの足取りを速め、マンションへと急いだ。 もし、いつかミラベルが再び私たちの前に現れて、この魔法が解ける日が来たら。一度、お互いが本来の身体に戻る日がやって来るとしたら。 これまでは、元の自分に戻りたいと願う反面、この心地よい日常を失うことへの漠然とした不安が心の奥底にあった。けれど今、ジャンパースカートの重みと一緒に秋の冷たい風を受けていると、その不安は不思議なほど形を変えていた。 極細ウールのタイトスカートの厳しいホールド感も、平日のヒールの痛みも、毎月やってくるあの下腹部の重い痛みも、そして非力な腕の筋肉も。こうして日常の買い出しをする生活も、そして「心優」という名前への葛藤と受容も。すべてはこの身体に染み込み、私の一部になっている。彼もまた、私の本来の身体で、男性としての大きな重みを完全に受け入れてくれている。 もしかすると、私たちはもう、魔法を解くことすら望まないかもしれない。 この入れ替わった状態のまま、お互いの人生の重みを完全に引き受けたまま、二人で結婚式を挙げる。そして一生を共に生きていく。 毎月経験するあの鈍い痛みが、新しい命を育むための大切な準備なのだと、細胞レベルで実感している今の私なら。やがて新しい命を授かり、私がこの女性の身体で彼との子どもを産み、育て、幸せな家庭を築いていくという未来。 かつての自分なら倒錯的だと笑い飛ばしたであろうそんな究極の選択が、今はごく当たり前の、空気のような感覚として、確かな輪郭を持って信じられるのだ。自分が、池田心優としての人生をすべて引き継いで、あの部屋で待つ大きな身体の彼を支えて生きていく。それこそが、私たちの見つけた新しい正解なのだ。 「ただいまー」 玄関の重い扉を開けた瞬間、奥のリビングからドスドスという力強い足音が近づいてきた。 「おかえり、心優! プリン買ってきてくれた?」 そこに現れたのは、大柄な男性の骨格。本来の自分自身である、飯沼航の身体だ。彼は玄関のたたきに立つ心優を見つけるやいなや、大きな腕を広げ、そのまま小柄な心優の身体をすっぽりと包み込むようにぎゅっと抱きついてきた。 「ちょ、ちょっと、重いってば……」 心優は腕に食い込んでいたエコバッグを床に下ろしながら、ジャンパースカートの厚い胸当て越しに、彼の大きな身体の質量を受け止めた。 大柄な男性が、小柄な女性にのしかかって甘えてくるというアンバランスな構図。しかし、その耳元で響く低い声のトーンや、背中に回された太い腕の力強さは、間違いなく「飯沼航」特有の包容力を持っていた。 心優の身体に入った航が平日の武装と休日の柔らかさを完全に会得したように、航の身体に入った心優の心もまた、この大きな身体の「航らしさ」にすっかり侵食されていた。かつての彼女なら絶対に見せなかった「ストレートに甘える」という柔らかさを解放しつつも、それを男性の骨格特有の低い声と無骨な腕の動かし方で、ごく自然に使いこなしている。男性の骨格でパートナーを愛し、時に無邪気に甘えるという新しい役割に、彼女も完璧に馴染んでいた。 「ごめんごめん。でも、心優がちゃんと買ってきてくれて嬉しかったからさ」 航(中身は心優)が、屈めた大きな頭をすり寄せてふわりと笑う。 その無防備な笑顔を見上げて、心優(中身は航)は彼のごつごつとした広い背中を、優しい手つきでポンポンと撫でてあげた。 彼が「池田心優」としての人生を肩代わりし、この女性の身体で生きることを愛おしく思ってくれているように。彼女もまた、「飯沼航」としてこの大きな身体を使い、私を守り、そして存分に甘えられるこの究極の愛の形を、手放したくないと思い始めているのだ。重なり合った二つの体温から、その空気のように自然で確固たる未来への覚悟が確かに伝わってくる。 その時、心優(中身は航)の胸の奥に、ふと柔らかなイタズラ心が湧き上がった。 彼のごつい背中を撫でていた手を滑らせ、太い首元へそっと添える。そして、自分の肩にかかるジャンパースカートの重みを感じながら、少しだけ背伸びをした。 「じゃあ、これは……勢いよく抱きついてきた甘えん坊さんへ、私からのお返しね」 言葉と同時だった。心優は彼の首元を軽く引き寄せ、無防備に笑っていた男性の唇を、自分の柔らかい唇でふわりと奪った。 チュッ、という小さなリップ音が、静かな玄関に響く。 「……っ!?」 不意打ちのキスに、航(中身は心優)の大柄な身体がビクッと大きく跳ねた。彼は目を見開き、信じられないものを見るような顔で完全にフリーズしている。分厚い胸板の奥で、彼の心臓がドクン、ドクンと激しく跳ね上がり始めたのが、密着したジャンパースカートの胸当て越しに伝わってきた。 「ちょっ……み、心優……!? いきなり、なに……っ」 航の顔が、耳の先まで一瞬にして真っ赤に染まる。男性の低い声が情けなく裏返り、抱きついていた太い腕の行き場を失って宙を泳いでいた。 その狼狽えきった姿を見て、心優はジャンパースカートの裾を少しだけ揺らし、小首を傾げた。そして、少しだけ大人びた、お姉さんのような余裕のある微笑みを浮かべる。 「ふふっ、顔真っ赤。航くんってば、自分から勢いよく抱きついてきたくせに、こういうのには弱いのね?」 「だ、だって……そりゃ、心の準備とか……っ」 「甘えん坊で可愛い彼氏さん。これも今の私の特権、でしょ?」 心優は彼の鼻先を指でツンと軽く突き、クスリと笑った。 かつての航(男性)なら、こんな風に余裕を持って相手をリードし、からかうように唇を奪うなんて絶対にできなかった。しかし今、ジャンパースカートに包まれた彼女の細胞には、平日を戦い抜く気高さと、休日を柔らかく手玉に取るような「心優らしさ」が完全に侵食し、定着していた。それは思考して演じているのではなく、女性の身体と服の重心が引き出した、ごく自然で心地よい振る舞いだった。 「も、もう……っ。心優には、すっかり敵わないな……」 航は顔を両手で覆い、太い筋肉を縮こまらせてタジタジになっている。大きな男性の身体が、自分よりずっと小柄な彼女に完全に翻弄され、照れ悶えている姿。それがたまらなく愛おしかった。ここから先へ発展させるつもりは今のところないけれど、こうして少しだけ優位に立ってじゃれ合う時間が、二人の関係をさらに温かく溶かしていく。 「ふふっ。よしよし。じゃあ、コーヒー淹れて、一緒にプリン食べよっか」 心優は、抱きついていた彼の太い腕からするりと抜け出した。買ってきたプリンの入ったエコバッグを彼に手渡すと、少しだけ勝ち誇ったような足取りでリビングのソファへと向かった。 キッチンからは、航の大きな身体(中身は心優)がコーヒーの豆を挽き、お湯を細く注ぐ静かな音が聞こえてくる。 本来の心優は学生時代にバリスタのアルバイトをしており、コーヒー一杯を淹れるのに二十から三十分もの時間をかけるほどのこだわりを持っている。男性の太い指先になった今でも、その繊細な手つきは変わらない。互いの身体が持つ味覚の微細な変化にも気を配り、今の二人が共通して最も心地よいと感じる深煎りの豆を慎重に選んでくれていた。 その豊かな香りが部屋に満ちていくのを感じながら、心優はリビングの窓辺に歩み寄り、換気のためにガラス戸を少しだけ開けた。 スッと、秋の冷たい風が室内に流れ込んでくる。 いつか訪れるであろう、結婚の日。そして、お互いの意思で再び肉体を交換することなく、このままの姿で家族となり、新しい命を育んでいく究極の未来。今はまだどうなるか分からないけれど、どんな形になろうとも、空気のように自然なこの愛おしい関係と覚悟が変わることはない。 冷気はジャンパースカートの厚いツイル生地に遮られ、内側の肌までは届かない。しっかりと織り込まれたダークブラウンの布地が、外の冷たさから身体を守り、部屋の中の温かい空気と二人の甘やかな時間をそっと内側に閉じ込めてくれる。 秋の風が吹き抜ける窓辺で。夕暮れのオレンジ色に染まる街を背景にして、心優の足元でダークブラウンの真っ直ぐな裾が、互いの人生を引き受け合った穏やかな日常を肯定するように、ゆったりと柔らかく揺れていた。 (つづく) あとがき 読んでいただきありがとうございます。夏目彩香です。 Saineによる作品はいかがでしたか。特別な場所へ出かけるための服ではなく、ただ近所へ歩いていくための服。ウエストを締め付けないジャンパースカートがもたらすのは、ふわりとした解放感と、両肩にそっと落ちる布の確かな重みです。それはまるで、少しずつ当たり前になっていく新しい日常の重力そのもののようにも感じられます。大きく息を吸い込める安心感の中で、何気ない夕飯の献立を考え、互いの存在を空気のように自然に感じ合う。そんな究極に穏やかで愛おしい休日の風景の余韻を、皆様にもご一緒に感じていただけたなら幸いです。 読後のご感想などありましたら、X(旧Twitter)の @skyseafar までそっとお寄せいただけると嬉しいです。 |