やっぱりスカート #14 レース 作:夏目彩香 by Saine ※この小説は夏目彩香風の小説が書けるように独自に調整したAIエンジン「Saine」(通称)を執筆に用いています。 平日の午後。モールの通路は、休日のような家族連れの喧騒はすっかりと影を潜め、どこか落ち着いた静かな空気が流れていた。 影山隼人(かげやまはやと)は、少しだけぎこちない足取りで、ダークブラウンの木目調の床を踏みしめていた。足元は、履き慣れたはずの黒いサンダルだ。平らで薄いソールから、タイルの硬い感触が直接、太く無骨な足の骨格へと伝わってくる。ほんの数日前まで他人の姿、白鳥舞衣(しらとりまい)を借りてパンプスを履いていた時の、あの爪先から足の甲へと滑らかに体重を逃がすような、強制的な歩幅の制限はもうない。足を前に出そうとすれば、太腿の太い筋肉が力強く反発し、大股でどこへでも歩いていける強烈な推進力が生まれる。ズボンの両脚の間には、風を遮るものも、歩くたびに膝裏へまとわりつく滑らかな生地の摩擦もない。それが、本来の自分の身体だった。日常的に重い三脚や大判レンズを担ぎ、建築現場を歩き回ることで作られた、一切の嘘がつけない無骨で硬い筋肉の質量。 影山の視線は、無意識のうちにモールの吹き抜けが描くアーチの曲線や、規則正しく並ぶ柱の陰影、そして天窓から差し込む秋の光の角度を追っていた。空間の余白と光の入り方を瞬時に測る、空間専門カメラマンとしての職業病。そして何より、『個人の顔が特定できる距離で人物にレンズは向けない』という過去の罪に対する彼なりの静かな戒めが、その視線を常に動かない無機質な構造物や、匿名性の高い遠景へと向けさせていた。 上半身には、薄手のカーディガンを羽織っている。つい先日、過去の罪を告白した直後に、若本美咲(わかもとみさき)から「新しいスタートの記念」としてプレゼントされたものだ。安っぽいTシャツの上にふわりと乗ったその柔らかな編み目は、少しだけ肌寒くなってきた秋口の空気を適度に通し、風通しの良い軽やかさを影山の広い背中に与えていた。 分厚く、関節の太い右手には、小さな紙製のショッピングバッグが握られている。中に入っているのは、デパ地下で買った焼き菓子の詰め合わせだ。アパレルショップの店長である彼女へ、不器用な自分が何を差し入れればいいのか分からず、ただ見栄えが良くて日持ちのするものを選んだ。紙袋の持ち手が、汗ばんだ手のひらに食い込む。緊張しているのだと、自分でもはっきりと分かった。 かつての自分なら、若い女性のいるショップに自分から近づくことなど、獲物を物色する時以外にはあり得なかった。柱の陰からカメラのレンズ越しに一方的な視線を投げつけるだけだった。しかし今の影山の首に、あの黒く重いカメラのストラップはない。代わりに、自分の肉眼で、真っ直ぐに彼女の店へと向かおうとしている。過去の罪の重圧と、カーディガンの柔らかな温もりが、大きな背中の上で複雑に混ざり合っていた。 モールの角を曲がると、アンバー(琥珀色)の間接照明に照らされた美咲のショップが見えてきた。店頭には数人の客がおり、スタッフたちが忙しそうに動いている。影山は通路の端でピタリと足を止め、邪魔にならないようにその様子を静かに見守った。 そこには、マネキンの横で商品の整理をしている美咲の姿があった。くすみブルーの、とろみのあるシンプルなブラウス。そして、下半身を包み込む、オフホワイトのロングスカート。 影山の視線が、自然とその足元へと落ちる。美咲が履いているのは、繊細な透かし模様が入った総レースのAラインスカートだった。腰から膝上までは、しっかりとしたオフホワイトの裏地が肌を完全に隠している。しかし、裏地が途切れたその下のふくらはぎ部分にかけては、立体的な花柄の刺繍が施されたチュールレースのみが脚を覆っていた。ショップのアンバーの照明が、レースの複雑な編み目を通り抜ける。透かし模様の向こう側に、美咲の脚のシルエットが微かに覗いていた。 それは、影山が普段ファインダー越しに見つめている堅牢な建築物とは対極にある、少しでもどこかに引っ掛ければすぐに破れてしまいそうな、圧倒的な「脆さ」を持った生地だった。しかし、幾重にも重なるチュールレースが光を透過することで、はっきりとは見せない「確かな奥行き」を作り出している。極めて繊細でありながら、他者を土足で踏み込ませないための『尊厳の壁』という、気高く美しい構造体だった。 影山の胸の奥が、鋭く、チクリと痛んだ。もし自分がミラベルによって服の痛みを細胞で知る前の「過去の影山隼人」であったなら、あの膝下の透け感を、間違いなくズームレンズで無理やりに暴こうとしていただろう。彼女が身に纏っている気高い構造など一切無視して、欲望の対象としてただ消費していたはずだ。 その時だった。影山の脳の奥底で、薄い膜が弾けるような微かなノイズが鳴った。 美咲の脚を覆うレースが微かに揺れた途端、影山の太く硬い太腿の表面に、サテン生地がまとわりつくような幻覚が走ったのだ。足の甲が強制的に締め付けられ、重心が不安定になるパンプスの痛み。そして何より、どこから飛んでくるか分からない「他者からの消費する視線」に肌を直接撫で回されるような、息が詰まるほどの圧倒的な恐怖。自分が白鳥舞衣の姿で感じていたあの女性としての重みと息苦しさが、まるで今、自分自身の無骨な細胞の上で起きているかのように生々しくフラッシュバックした。 「っ……」 影山は思わず短く息を呑み、自分の分厚く大きな手のひらを見下ろした。間違いなく、今の自分は分厚い筋肉と骨格を持った、大人の男性の身体だ。しかし、この身体の奥底には、ミラベルが残していった『他者の衣服の痛みと重さに共鳴する回路』が確実に脈打っている。彼女の脆いレーススカートを見ただけで、女性の痛みが強制的に自分の肌へとプレイバックされたのだ。 客が店を出ていくと、美咲がふと通路の方へ顔を向けた。影山と、真っ直ぐに視線が交差する。美咲の表情に僅かな驚きが浮かんだ後、すぐに、それはふわりとした柔らかい微笑みへと変わった。彼女は、ゆっくりと影山の方へ歩み寄ってきた。カツ、カツと、キャメル色のパンプスが硬い床を叩く、涼やかな音。そして、その足音に重なるようにして、極めて静かな摩擦音が影山の耳に届いた。 シャリッ、シャリッ。 美咲が一歩を踏み出すたびに、膝上の裏地と、外側の繊細なチュールレースが擦れ合う音だった。歩行による微かな風を捕まえて滑らかに舞い上がり、一番外側のレースが内側の生地と触れ合うことで生まれる、衣擦れの音。その脆くも美しい揺れと音を聞いた瞬間、影山の太い太腿や分厚い背中の筋肉が、ピクリと反射的に収縮し、硬く緊張した。 たった一枚の薄い布で外の世界に晒される心細さを知ってしまった影山の細胞が、目の前の繊細な揺れに強く共鳴しているのだ。自分が少しでも大股で雑に動けば、あるいは無神経な振る舞いをすれば、彼女が纏っているあの脆い境界線を簡単に傷つけてしまうかもしれない。そう本能が警鐘を鳴らし、彼の大きな筋肉を、まるで動かない堅牢な柱のように静かで強固なものへと変えていく。 「こんにちは、影山さん」 美咲の声が、アンバーの照明の空気に溶け込む。 「あの……こんにちは」 影山は、硬直した筋肉を必死に抑え込みながら、分厚い手で紙袋の持ち手を握り直してぎこちなく頭を下げた。ミラベルの残滓がもたらした生々しい痛みの余韻が、彼の低い声をより一層慎重にさせていた。 「お仕事の、お休みですか?」 「はい。その、少し近くの現場の確認が終わったので……これ、もしよろしければ、休憩の時にでも」 影山は、不器用な動作で両手を使って紙袋を差し出した。 「ありがとうございます」 美咲は微笑んでそれを受け取った。その瞬間、美咲の視線が、影山の顔、そして目元へと静かに注がれた。 美咲は、気づいていた。影山の目は、美咲の膝下で揺れるレースの透け感を、ただ真っ直ぐに、けれど決して踏み込まない「極めて控えめな距離感」で見つめていた。それはまるで、彼が普段カメラを向ける動かない建築物の繊細な装飾を確かめるような、あるいは、大切に育てられた花を風から守ろうとするような、確かな「敬意」を伴った視線だった。彼自身が女性の服を着て、見られる側になる恐怖を知ったからこその、思いやりに満ちた眼差し。 美咲は、自分の足元でシャリッと小さく鳴ったレースのスカートを、少しだけ愛おしく感じた。この服は、大人の女性としての余裕を見せる服であると同時に、少しでも油断すれば消費しようとする視線に晒されるかもしれない「隙(脆さ)」を持っている。けれど今、目の前に立つ少し年上のこの無骨な男性は、その脆さを絶対に壊そうとはしない。彼自身の分厚い筋肉が、自分のレースの揺れに合わせて微かに緊張し、絶対に傷つけまいと硬直しているのが伝わってくる。 薄手のカーディガンを羽織ったその広い肩幅は、自分の繊細な服の揺れを、冷たい視線や風から守ってくれる強固な壁のようにそこにあった。 「影山さん」 美咲は、差し入れの入った紙袋を両手で大切に抱えるように持ちながら、少しだけ首を傾げた。 「そのカーディガン、とてもよく馴染んでいますね」 「あっ……ありがとうございます。美咲さんが選んでくれたおかげで……少し、風通しが良くて、歩きやすくなった気がします」 影山が照れくさそうに頭を掻く。その動作に合わせて、柔らかなカーディガンの生地が、太い腕の筋肉の動きを優しく包み込んだ。 「ちょうどあと十分ほどで休憩に入れますから、少し待っていていただけますか? せっかくですから、一緒にいただきましょう」 美咲の提案に、影山はこくりと無言で頷いた。 それから少しして、二人はモールの屋外に設けられたウッドデッキのテラススペースへと移動した。西日が落ちかけ、空が深いオレンジ色から藍色へと沈んでいく時間帯。吹き抜ける風には、夏の名残はすっかりと消え去り、代わりに秋口特有のひんやりとした冷たさがはっきりと混ざり始めていた。 美咲は、ウッドデッキのベンチへゆっくりと腰を下ろした。木材のささくれに繊細な生地を引っ掛けないよう、両手で膝裏のレースをふわりと持ち上げ、脚の前方へ流すようにして座る。シャリッ、とチュールレースと裏地が擦れ合う微かな音が、夕暮れの空気に吸い込まれた。 影山は、彼女の隣に座った。決して近すぎず、かといって他人行儀すぎない、絶妙に控えめな距離感。無骨な大人の男性としてのどっしりとした質量がベンチに沈み込む。 「本当に、風が涼しくなりましたね」 美咲が焼き菓子の箱を開けながら、小さく息を吐いた。 その言葉の通り、テラスを吹き抜ける風が、美咲の膝下を撫でていく。オフホワイトの裏地が途切れたふくらはぎの部分。立体的な花柄の刺繍が施されたレース越しに、秋の冷たい空気が直接肌へ触れる。美咲は無意識のうちに、少しだけ肩をすくめた。 その微かな仕草を、影山は見逃さなかった。美咲の足元で、薄いチュールレースが冷たい風に煽られて頼りなく揺れている。その透かし模様越しに素肌に直接風が触れているのを見た瞬間、影山の身体の奥底で、再びミラベルの残滓が鋭く共鳴した。 自分が白鳥舞衣の姿に変えられて過ごした短い時間の中で、薄いサテン生地のスカート一枚で外の世界の空気に晒されることの「心細さ」と「冷え」は、恐怖とともに影山の細胞に深く刻み込まれていたのだ。ズボンのように両脚の間に布がなく、裾の下から容赦なく入り込んでくる冷たい風。女性がどれほど寒さに敏感で、どれほど脆く頼りない境界線を纏ってこの世界を歩いているのか。美咲のレーススカートが風に震えるのを見ただけで、影山自身の太く無骨なふくらはぎにも、あの時のスースーとした寒さと心細さが、生々しい幻覚となってフラッシュバックした。 頭で考えるよりも先に、ミラベルの残した変身能力の残滓が、彼の筋肉を強制的に動かしていた。 影山は、手に持っていた紙コップのコーヒーをベンチの端に置くと、少しだけ腰を浮かせ、美咲の「風上」になる位置へずれて座り直した。自分の大きく分厚い身体で、テラスを吹き抜ける秋の風の通り道を完全に塞ぐ。ジーンズに包まれた太い脚を少しだけ開き、どっしりと重心を落とすことで、美咲の繊細なレーススカートへ向かう冷気を物理的にシャットアウトしたのだ。 「影山さん……?」 突然不自然に位置を変えた影山に、美咲が不思議そうに見上げると、影山は照れくさそうに太い首の後ろを撫でた。 「あ、いや……。そのスカート、風が通って寒そうだったので。俺の身体が、少しは風除けの壁になるかと思いまして」 無骨で低い声だった。美咲は、自分の足元へ視線を落とした。先ほどまで冷たい秋の風に煽られて頼りなく揺れていたチュールレースが、今はピタリと静かに落ち着いている。隣に座る少し年上の彼の大きな身体が、文字通り「物理的な壁」となって、冷たい風から彼女の無防備な足元を完全に守ってくれていた。 美咲からプレゼントされた薄手のカーディガンを羽織った、その広く分厚い背中。かつては、安全圏からカメラのレンズ越しに女性の無防備さを暴こうとしていた男。しかし今の彼は、自身が女性の服の薄さと、そこから入り込む寒さや恐怖を細胞レベルで知ったからこそ、他者の衣服の揺れに誰よりも敏感に筋肉を反応させてしまう。その圧倒的な男性としての質量を、他者の「脆い尊厳」を守るための堅牢な構造体として、不器用に使おうとしているのだ。 その事実が、美咲の胸の奥をじんわりと熱くさせた。 「……ありがとうございます。とても、温かいです」 美咲は、レースのスカートの上で両手を揃え、柔らかく微笑んだ。 「このカーディガン、プレゼントして正解でした。これからの季節、影山さんの大きな背中にちょうどよく馴染んでくれそうですから」 「はい。大切に、着させてもらいます」 影山は、焼き菓子を一つ手に取り、不器用な手つきで口へ運んだ。夕暮れの空が完全に夜の色へと染まり、モールの間接照明がテラスを淡く照らし始める。少しずつ気温が下がり始めていく中で、二人の間には、影山の分厚い身体が作り出した静かな無風の空間だけが保たれていた。 「……これから、少し忙しくなりそうなんですか?」 美咲が、コーヒーの紙コップを両手で包み込みながら、ぽつりと尋ねた。 「ええ。郊外で新しく始まる建築現場の記録撮影が立て込んでいまして。スケジュールが不規則になるので……こうしてゆっくりお店へお邪魔できるのは、しばらく先になってしまいそうです」 影山は、紙コップを見つめながら低い声で答えた。過去の罪への戒めとして、人の顔が特定できる距離では決してレンズを向けず、無機質な構造物ばかりを撮り続ける日々。その孤独で硬い仕事の時間へと、また明日から戻っていくのだ。 「そうですか……」 美咲は小さく呟き、膝の上で揺れを止めているレースの透かし模様へ視線を落とした。秋が深まっていけば、風はさらに冷たくなり、夜の時間は長くなる。自分の繊細な服を冷たい風から守ってくれる、この大きくて不器用な壁が、明日からしばらく隣にいない。その事実が、美咲の胸の奥に、ほんの微かな、けれど確かな寂しさを生み出していた。 「じゃあ……今日、このカーディガンをプレゼントできて良かったです」 美咲は、顔を上げて柔らかく微笑んだ。 「お忙しい間も、少しは風通し良く、心地よく過ごしていただけるでしょうから。……それに、影山さんがそれを大切に着てくださっていると思えば、私も安心できますし」 「……はい。必ず、毎日着ます」 影山の真面目すぎる即答に、美咲は思わず小さく吹き出した。 「毎日だなんて、お洗濯が追いつきませんよ。……でも、ありがとうございます」 空は完全に藍色へ沈み、モールの間接照明がテラスのウッドデッキをオレンジ色に染め上げていた。影山の大きな身体が遮ってくれる風の静寂と、美咲が少し姿勢を変えるたびに鳴るレースの微かな衣擦れの音。秋の気配が色濃くなっていく冷たい空気の中で、不器用な大人の二人の距離が、また一歩だけ、確かな温もりを伴って近づいていた。 「また、落ち着いたら……顔を見せに来てくださいますか?」 別れ際、立ち上がった美咲の足元で、オフホワイトのレースがシャラリと涼やかな音を立てて揺れた。 「はい。必ず」 影山の声は、低く、そしてどこまでも誠実だった。 次に二人が会う頃には、季節はさらに進み、夜の冷気はさらに深まっているだろう。しかし、これからしばらくの間会えなくなったとしても、彼女の脆いレースを風から守ろうとした彼と、彼の背中を温かく包もうとした彼女の間に結ばれた「嘘のない距離感」は、決して冷えることはない。秋の風が通り抜けるテラスに、微かな焼き菓子の甘い香りと、チュールレースの静かな衣擦れの音の余韻だけが、いつまでも優しく残っていた。 (つづく) あとがき 読んでいただきありがとうございます。夏目彩香です。 Saineによる作品はいかがでしたか。ほんの少しの風で揺れ、何かに触れればすぐに傷ついてしまうレースの繊細さは、私たちが心の中に隠している柔らかい部分によく似ている気がします。あえてその脆さを纏うのは、決して無防備だからではなく、自分を大切に扱ってくれる相手を静かに見極めるための、気高い境界線なのかもしれません。冷たい風を遮る無骨な背中と、その陰で安心したようにシャラリと衣擦れの音を立てる裾。不器用な大人たちが少しずつ歩み寄る、その温かな距離感の余韻を、皆様にも感じていただけたなら幸いです。 読後のご感想などありましたら、X(旧Twitter)の @skyseafar までそっとお寄せいただけると嬉しいです。 |