やっぱりスカート #13 バルーン 作:夏目彩香 by Saine ※この小説は夏目彩香風の小説が書けるように独自に調整したAIエンジン「Saine」(通称)を執筆に用いています。 モールの落ち着いた夜の空気の中で、それぞれが新しい服の重みと関係性の形を知った昨夜。あの圧倒的なドレープの重みとともに互いの距離を近づけた夜景のラウンジで、心優(みゆう)の姿をした航(わたる)と、航の姿をした心優が境界線を溶かしていた頃。同じモールの片隅で、盗撮犯であった男とアパレル店長の美咲(みさき)もまた、チュールの透け感と不器用な懺悔を通じて、嘘のない新しい関係を結んでいた。 二つの物語が、それぞれの場所で静かな着地を迎えた夜から一夜が明けた、日曜日の朝である。 雲ひとつない穏やかな休日の日差しが、カーテンの隙間からフローリングの床へと白く細い線を引いている。心優はベッドの上で身を起こすと、胸元を隠すように薄手のタオルケットを強く引き寄せた。女性としての衣服の重みを受け入れ、日常になりつつあるとはいえ、この女性の身体を動かしている中身はまだ男性のままだ。ましてや同じ部屋の中には、本来のこの身体の持ち主である心優の心が入った、航自身の大きな身体が寝癖を直している。どれだけ精神的な境界線が溶け合おうとも、いや、だからこそ、彼女の柔らかく大切な身体を、不用意に下着姿のまま晒すことなど彼には絶対にできなかった。 「……おはよう、航くん。そんなにくるまって、寒いの?」 航が、低い男性の声を少しだけ気遣うように響かせて尋ねてくる。二人だけのプライベートな空間であるため、航の身体に入っている心優の口調と一人称は彼女本来のものだ。 「おはよう。ううん、寒くはないんだけど……その、僕、これから着替えるから、ちょっとだけ後ろ向いててくれないかな」 心優はタオルケットをマントのようにすっぽりと羽織ったまま、ベッドからずるずると這い出すようにして立ち上がった。女性用の肌着が素肌に密着する特有の締め付け感。肩紐の細さや、胸元を覆うレースの心許ない感覚が、自分が今、決定的に「女性の身体」にいるという違和感をチクリと刺激する。クローゼットへ向かう歩幅は極端に小さく、どうにかしてタオルケットの隙間から肌が見えないようにと、不自然なカニ歩きになっていた。その必死でぎこちない後ろ姿を見て、航は無骨な顔のパーツを少しだけ緩ませて、小さく吹き出した。 「ふふっ、私の身体なのに、航くんの方がずっと大事に扱ってくれてるみたい」 航の言葉に、心優は少しだけ耳の先を赤くしながら、クローゼットの扉の陰へと身を隠した。昨夜の劇的な出来事を経ても、こうした「生活の中の物理的な違和感」はまだ完全に消え去ってはいない。お互いの身体に入っているという圧倒的な事実が、日曜日の何気ない朝の動作一つひとつに、新鮮な戸惑いと静かな愛情を重ねていく。 心優が扉の裏で衣服の布擦れの音を立てている間、航もまた、自分の今日着る服を選ぶためにハンガーラックへと視線を向けた。彼女が今入っているのは、肩幅が広く、背の高い無骨な男性の骨格である。この数日間で重心の取り方には随分と慣れてきたが、朝起きた時の「身体の質量が重い」という違和感や、太腿の筋肉の硬さは、やはり本来の身体とは決定的に違う。航はラックから、一本のボトムスを引き出した。厚手のコットンツイル生地で仕立てられた、黒に近いダークグレーのワイドパンツだった。 本来の心優であれば、重くて野暮ったく見えるようなメンズライクなアイテムは選ばない。しかし今の彼女には、この服が最も理にかなっているように思えた。細身のパンツスタイルでは、男性特有の無骨な脚のラインや筋肉の張りが強調されすぎて、どうにも心が落ち着かない。だが、このワイドパンツなら、たっぷりと取られた生地の幅が、下半身のシルエットをすっぽりと覆い隠してくれる。航はズボンに両脚を通し、ウエストの位置まで引き上げた。ずしり、と厚手の布の重みが腰から足首へと真っ直ぐに落ちていく感覚がある。大きなウエストであっても、ワイドパンツ特有のゆとりがあるため、革のベルトを通してしっかりと締め上げなければ腰骨で止まらない。硬い革ベルトのバックルをカチャリと鳴らして留めると、重厚な布の筒の中に、男性の太い脚がゆったりと守られているような独特の安心感が生まれた。 「……うん。これなら、歩きやすいし、身体の硬さも隠せる」 航は、姿見の前で少しだけ腰を捻ってみた。たっぷりとした布が揺れ、足の甲に重くかかる。トップスには、少しオーバーサイズの白いオックスフォードシャツを合わせた。男性の広い肩幅からストンと落ちる直線的なシルエットが、今の自分の状態を優しく肯定してくれているようだった。白とダークグレーという落ち着いた色合いが、男性の骨格の強さを和らげ、どこか優しげな雰囲気を醸し出している。 「お待たせ、心優。僕も着替え終わったよ」 クローゼットの陰から、心優が少しだけ照れくさそうに姿を現した。その全身のコーディネートを見て、航は思わず小さく息を呑んだ。心優が今日のために選んでいたのは、昨日買ってきたばかりの新しいスカートだった。カーキ色のバルーンスカート。これまでに着てきた、脚に張り付くタイトスカートの窮屈さや、バサリと大きく波打つロングフレアの重厚なドレープとは全く違う、非常に特異で不思議なシルエットを持った服だった。 腰からふんわりと膨らんだポリエステルタフタの生地は、膝下のあたりで内側へ向かって丸く折り込まれ、そのまま見えない裏地と縫い合わされている。まるで、柔らかな風船(バルーン)のように、布と布の間にたっぷりと空気を閉じ込めたような形。心優が歩み寄ってくるたびに、表地のタフタ生地がシャカ、シャカと乾いた軽い摩擦音を立てる。そして、内側に折り込まれた裾が、一歩ごとにポフリ、ポフリと柔らかく弾むのだ。トップスには、首元が少し広く開いた、細いピッチの白黒ボーダーの長袖カットソーを合わせている。気取らないリラックスしたトップスと相まって、その丸みを帯びたバルーンスカートのシルエットは、女性の休日特有の無防備で柔らかな空気を完璧に醸し出していた。 「これ、すごく不思議な感覚だね」 心優は自分の足元を見下ろしながら、少しだけ腰を捻った。 「普通のスカートみたいに、裾からスースーと風が抜けていかないんだ。脚の周りに、ずっと見えないクッションがあるみたい」 男性であった頃の彼なら、「可愛らしさ」を前面に押し出したようなこの丸いシルエットの服を、自分が着ることなど想像もできなかっただろう。タイトやペンシルのような大人びた服ならまだしも、この服はあまりにも無防備で、丸くて、柔らかすぎる。しかし今、心優の表情に、女性的な柔らかい服を着ることへの拒絶感はない。この服が持つ、特有の空気感。身体を優しく包み込んでくれるような庇護感。それを、まだ抜けきらない違和感と一緒に、休日のリラックスウェアとして受け入れようと懸命に身体を合わせている。 心優は姿見の前で、ポフリと弾む裾の動きを面白そうに確かめていたが、ふと思いついたように鏡越しの航を見た。そして、くるりとこちらへ向き直り、少しだけ姿勢を崩した。肩の力を抜いて、自分の身体に備わっている柔らかさを最大限に引き出すようにして、小さく首を傾げる。 「ねえ、航くん。私、このスカート似合ってるかな?」 少しだけ声のトーンを高くして甘え、上目遣いでこちらを見つめてくる。両手を体の横に下ろし、バルーンスカートの丸く折り込まれた裾のあたりを親指と人差し指でそっと摘まむ。そして、少しだけ内股気味になりながら、上半身を左右に小さく揺らしてみせた。その動作に合わせて、ポリエステルタフタの生地がポフリ、ポフリと空気を孕んで柔らかく弾む。 「私ね、本当はずっと、こういう可愛い服も着てみたかったの。どうかな?」 それは、中身の航が意図的に作った「池田心優の真似」だった。本来の心を反映する「僕」という一人称からあえて「私」へと変え、あざといくらいの女の子らしい仕草を全力で演じている。本来の心優であれば、こんな仕草は恥ずかしがって絶対にしないだろう。しかし彼は知っていた。心優が時折、ショップのウィンドウ越しに可愛い服を見つめていた時のこと。部屋でこっそりと鏡の前の自分を見つめていた時の、ほんの数秒だけ見せる「自分を可愛く見せたい」という無意識の柔らかい表情。中身の航は、自分の記憶の中にある一番愛おしい本来の心優の要素を掬い上げ、少しだけデフォルメして、この女性の身体で表現してみせたのだ。 「ちょ、ちょっと!私、そんな顔しないよ!それに、そんな風に甘えたりしないし!」 その唐突な「なりきりごっこ」に、航の姿をした心優は顔から火が出るほど恥ずかしくなり、思わず男性の大きな声を出した。自分が客観的にあんな風に見えているのかと思うと、いたたまれなくなる。 しかし、心優(中身は航)のなりきりは止まらなかった。むしろ、慌てる航(中身は心優)の反応を見て楽しくなってしまったように、さらに声のトーンを甘くして、バルーンスカートの丸い裾を両手でぽふんと揺らしてみせた。 「それにね……航くんのために、もっともっと可愛くなりたいな、なんて思っちゃった。だめ……かな?」 顔の前で両手を少しだけ合わせ、極端な上目遣いを作り出す。それは、普段のサバサバとした心優なら絶対に口にしない、あまりにも乙女チックなセリフだった。 「だ、だめとかそういう問題じゃなくて!ちょっと、誰の真似してるのそれ!?」 「今日はお外を歩く時、ずっと手を繋いでてくれる? 私、航くんがいないと迷子になっちゃうかもしれないし……」 心優は、航の抗議を完全に無視して、さらに首を傾げた。歩み寄るたびに、カーキ色のタフタ生地がシャカシャカと軽い音を立て、内側に折り込まれた裾がポフリと弾む。 「それに、ぎゅってしてくれないと、私……寂しくて死んじゃうかもしれないし。ねえ、もっと私のこと、女の子として特別扱いしてほしいな。……だぁめ?」 「さ、寂しくて死んじゃう!?特別扱いぃ!?」 「ふふっ、顔真っ赤。でもね、本当はもっとあるんだよ? お散歩のあとは可愛いカフェに行って、甘いケーキを半分こしたいな。それでね、航くんに『あーん』ってしてほしいの。私、ずっとそういうベタなこともしてみたかったんだから」 心優は、さらに一歩近づき、上目遣いのままふんわりと丸いスカートの裾を揺らした。 「パンツスーツで格好よく歩くのもいいけど、本当はね……航くんの隣では、誰よりも甘えん坊で可愛いお姫様みたいになりたかったの。……受け止めてくれるよね?」 「お、お姫様……っ! あーんって……!」 航はついに顔を真っ赤にして、大きな両手で自分の顔(男性の顔)を覆い隠した。大柄な骨格が、ダークグレーのワイドパンツの中で羞恥に身悶えしている。自分がそんなぶりっ子なセリフを言う人間だと思われているわけではないと分かってはいても、自分の本来の身体がそんな極端な乙女のフリをして迫ってくる破壊力は、直視に耐えなかった。 悲鳴のような声を上げながら、手で顔を覆う。 けれど。 分厚い指の隙間から見え隠れする、バルーンスカートをふんわりと揺らす本来の自分の姿から、どうしても目を逸らすことができなかった。 パンツ派で通し、いつもサバサバと振る舞ってきた自分。 「私にはこんな可愛い服なんて似合わない」「甘えるような柄じゃない」。そうやって勝手に境界線を引き、傷つかないように、自立した「格好いい彼女」という鎧を着込んでいた。 でも本当は、心の奥底のずっと深い場所で、ショーウィンドウの向こうの丸くて可愛い服に憧れ、隣を歩く彼に思い切り甘えてみたいという、脆くて柔らかな願望が確かに存在していた。自分でも認めるのが怖くて、ずっと重い蓋をしてきた秘密。 彼(中身の航)は、そんな自分の無意識のサインを、たった一瞬の視線の動きからすくい上げてくれていたのだ。 しかもそれを「似合わない」と笑うどころか、こうして彼自身が自分の身体を使い、全力で、そして愛おしそうに表現してくれている。 『君は本当は、こんなに可愛くなれるんだよ。俺はそういう君も大好きなんだよ』 言葉にされなくても、カーキ色のバルーンスカートがポフリと弾むたびに、そんな彼の声が聞こえてくる気がした。過去の強がりも、隠していたコンプレックスも、すべてが彼の手によって優しく解体され、絶対的な安心感の中で全肯定されていく。 その事実が、たまらなく気恥ずかしくて。 そして、この分厚い男性の胸の奥が痛くなるほど、泣きたいくらいに嬉しかった。 「お願いだからやめて!私、そんな言葉、一生かかっても絶対使わないから!……それに、私の頭の中、航くんに全部見透かされてるみたいでズルいよ!」 指の隙間から抗議の声を上げるその姿は、男性の大きな骨格でありながら、間違いなく本来の心優の柔らかさを放っていた。その必死な反応と、赤くなった耳の先を見て、心優の姿をした航は、バルーンスカートの丸い空間に手をつきながら、ついに堪えきれずにお腹を抱えた。 「あはははっ!ごめんごめん、ちょっとやりすぎたね!でも、心優の身体でこういう可愛いセリフを言うと、不思議と全部しっくりきちゃうから楽しくてさ」 「全然しっくりきてない!……もう、航くんがそんな風にからかうなら、今度は私の番ね」 航は顔を覆っていた手を下ろし、熱くなった頬を誤魔化すように、今度は自分の中にある「飯沼航」のイメージを引っ張り出した。肩幅の広い男性の骨格を活かすように、脚を少し大きめに開き、ドカッと腰を据えるようにして立ち直る。その動作に合わせて、ダークグレーのワイドパンツの厚手で重いコットン生地が、太腿の筋肉にズシリと張るのを感じた。 「ああ、すごく似合ってるよ。僕が選んだ服だからね。世界で一番可愛いよ、心優。……君のことは、僕が絶対に守るから」 腕を胸の前でしっかりと組み、表情から柔らかさを完全に消して、わざとらしく眉間に薄いシワを寄せる。視線を少し鋭くして、眼の前の心優を見下ろし、低く作った声で言い放った。わざとらしいくらいに堂々とした、キザなドラマの主人公のような立ち振る舞。本来の不器用な彼なら、口が裂けても言わないような歯の浮く台詞だった。航の身体にいる彼女は、彼が時折見せる「彼女を守らなければ」と気負いすぎた時の、少しだけ力んだ不器用で真っ直ぐな表情を、この大きな身体を使って全力でからかうように再現したのだ。 男性の太い骨格から発せられたその「僕」という一人称と、自信満々な仕草。それを見た心優は、一瞬ぽかんとした後、肩を揺らして笑い出した。 「あははっ、ちょっと待って!僕、そんなキザな立ち方しないし、そんなセリフ絶対言わないよ!」 「えー?私から見たら、いつもこんな感じで格好つけてるように見えるけどなー。特に私を守ろうとしてる時とか、すごく力が入りすぎてるっていうか。こうやって、眉間にシワ寄せてさ」 航は組んだ腕をそのままに、さらに眉間のシワを深くしてみせる。心優は笑い涙を指先で拭いながら、少しだけ首を傾げて尋ねた。 「あはははっ!やめて、自分を客観的に見るのってすごく恥ずかしいね! でもさ、僕って本当にそんなに眉間にシワ寄せてるかな?」 「寄せてる寄せてる! 特に私が仕事に行く時、玄関で見送ってくれる時の顔なんて、まさにこんな感じ!」 航は大きく頷くと、今度はわざとらしく顎を引き、さらに一段階低い声を作ってみせた。 「『気をつけてな、心優。何かあったらすぐに僕に連絡するんだぞ』って。もう、心配性のお父さんか!っていつも心の中で突っ込んでたんだからね」 男性の太い声帯をフル活用したその大袈裟な物真似に、心優はもう一度大きく吹き出した。 「あははっ! だ、だってそれは、心優がいつも無理して頑張りすぎちゃうから、心配で……っ」 心優が肩を揺らして笑うたびに、カーキ色のバルーンスカートが彼女の感情の高揚と完全にリンクするように小刻みに揺れた。シャカ、シャカと軽快な摩擦音を立てながら、内側に折り込まれた裾がポフリ、ポフリと何度も弾む。まるで、スカートそのものが彼女の楽しい感情の昂りを吸い込み、一緒に呼吸をして笑っているかのようだった。布の中に閉じ込められた空気が、笑い声の振動を受けてさらにふんわりと丸みを増していく。 「……知ってるよ」 不意に、航が組んでいた腕を解き、意図的に作っていた険しい表情をふっと和らげた。無骨な男性の顔つきの中に、心優本来の、驚くほど優しく柔らかな光が宿る。 「私のことを、世界で一番大切に想ってくれてるから、そうなるんだよね。……だから、もう少し肩の力抜いてもいいんだよ? って、いつも思ってた」 その言葉と眼差しに、心優は笑い声を静かに収め、ふわりと膨らんだスカートの裾を両手で優しく包み込んだ。相手の不器用な愛情をからかうだけでなく、その根底にある優しさを完全に理解し、受け止めている。その事実が、心地よい布の反発力と一緒に手のひらからじんわりと伝わってくる。 「……そっか。じゃあ、これからはこのスカートみたいに、もう少し柔らかくいくようにするよ」 心優は、ポフリと丸く弾む裾を撫でながら、照れ隠しのように微笑んだ。 互いの特徴をわざと大袈裟に真似ることで、相手の視点から自分がどう見えているのかを知る。身体は入れ替わっていても、こうして互いの姿を借りて冗談を言い合い、笑い合える。この穏やかでほのぼのとしたプライベートな時間が、二人の間にある境界線を完全に溶かしていた。心優の足元でぽてりと膨らむタフタ生地の柔らかさが、そのまま二人の幸福な空気の質量となって部屋を満たしていた。 「……行こっか。天気がいいし、近くの公園まで少し散歩でも」 航が、笑い転げて少しだけ涙目になっている心優へ、大きな男性の手を差し出す。心優はバルーンスカートの丸い裾をぽふんと弾ませながら歩み寄り、その分厚い手を自分の小さな手でそっと握り返した。 二人はそのまま玄関へと向かった。外出の前の最後の仕上げである、靴選びの時間がやってくる。航は、玄関のたたきに並べられていた本来の持ち主の靴の中から、履き慣れたキャンバス地の黒いローカットスニーカーを選び、大きな足を滑り込ませた。踵をトントンと鳴らしてフィット感を確認すると、ダークグレーのワイドパンツの重厚な裾がスニーカーの甲に重なり、気取らない休日のメンズスタイルの足元が完成した。 一方の心優は、靴箱の扉を開け、しばし視線を彷徨わせていた。そして、いくつかのスニーカーやフラットシューズを通り過ぎ、一足の靴を手に取ってたたきに置いた。それは、少しヒールの高さがある、マットな黒のパンプスだった。 「ねえ、航くん。これから近所を散歩するだけなのに、わざわざヒールのある靴を選ぶの? 普通はスニーカーを選ぶんじゃない?」 航は、心優がパンプスに足を入れようとするのを見て、思わず首を傾げて尋ねた。散歩という目的を考えれば、フラットなスニーカーの方が圧倒的に歩きやすいはずだ。ましてや、まだヒールに完全に慣れきっていない心優の姿をした彼にとっては、足が痛くなるリスクもある。 心優は、靴ベラを使って慎重にパンプスへ踵を収めると、玄関の鏡に向かって軽くポーズをとりながら振り返った。 「うーん……でも、この丸く膨らんだバルーンスカートのシルエットには、足元に少しだけヒールで高さを出した方が、絶対に一番合うと思うから」 その返答に、航は一瞬だけぽかんと口を開けた。歩きやすさや機能性よりも、「このスカートを一番綺麗に見せるための全体のバランス」を優先する。それは間違いなく、ファッションを楽しむ女性特有の思考回路だった。男性であった彼が、自分が着る服のシルエットにこだわり、少しの痛みを伴ってでも美しいコーディネートを完成させようとしている。 「……ふふっ、そっか。そうだね。すごく似合ってるし、全体のバランスもばっちりだと思うよ」 航は呆れたような、それでいて心の底から嬉しいような、なんとも言えない温かい気持ちになって微笑んだ。彼が、女性としてのファッションをただの義務や苦痛としてではなく、純粋な「楽しさ」として受容し始めている。その事実が、たまらなく愛おしかった。 ガチャリ、と重い玄関の扉を開け、日曜日の昼下がりの空気の中へ足を踏み出す。マンションの敷地を抜け、近所の並木道へと歩き出した瞬間、二人の中で暗黙のスイッチが切り替わった。ここからは、外の世界だ。二人だけのプライベートな空間から、社会的な視線が存在する公的な空間への接続。 「私、こういう静かな道を歩くの、久しぶりかもしれない」 心優が、ふわりと自然な口調で言った。自分自身のことを、もう「僕」とは呼ばない。外の世界に対しては、この女性の身体こそが自分であり、池田心優として振る舞うことが、社会における彼女の尊厳を守るための絶対的なルールだからだ。 「僕も、こうしてゆっくり歩くのは久しぶりだよ。天気が良くて気持ちいいね」 航もまた、低い声で「僕」と自分を呼んだ。隣を歩く彼女(中身は彼)をエスコートする男性としての役割。その社会的なスイッチを切り替えることは、ただの演技ではなく、互いの人生の重みを引き受け合うという、誠実な愛情の証明だった。 特別なお出かけではない。ただ、近くの公園やカフェを目的もなく巡るだけの、究極の日常。並んで歩き始めると、頭の先から足元までの全く違う全身コーディネートの着用感覚が、明確なコントラストとなって二人の間に存在していた。 航の脚を包むワイドパンツは、一歩を踏み出すたびにズシッ、ズシッと厚手のコットンが重く揺れ、太腿の筋肉の動きに連動して力強い摩擦を生み出す。スニーカーの平らなソールが地面をしっかりと捉え、「男性の重心」を強制的に意識させる力強い歩みだ。対して、心優の履くバルーンスカートは、脚に直接触れる面積が極端に少ない。内側に閉じ込められた空気がクッションのように膝周りを覆い、歩くたびにポフリ、ポフリと軽い反発力を持って弾む。そして足元では、少し高さのあるパンプスのヒールが、カツ、カツとアスファルトの上で硬く涼やかな音を立てていた。 不意に、並木の間から少し強めの風が吹き抜けた。並木道の落ち葉が、カサカサと音を立ててアスファルトの上を転がっていく。心優は無意識に、スカートの裾が捲れ上がるのを防ごうと両手を伸ばしかけた。 タイトスカートなら足元が窮屈になり、フレアスカートやサーキュラースカートなら風に煽られて大きく捲れ上がりそうになる。これまでの経験から、外で風が吹くことは「女性の服を着ている時の警戒すべきリスク」だと身体が覚えていたのだ。 しかし、その警戒はすぐに杞憂に終わった。 風を孕んだカーキ色のタフタ生地は、内側で丸く縫い合わされているため、決して外へ向かってはだけることはない。風の力をスカート全体で受け止め、内側に閉じ込められた空気がさらに丸く、ふんわりと膨らむだけだった。 「あっ……」 心優の口から、小さく感嘆の息が漏れた。 風が吹いても、決して無防備にならない。むしろ、風を含むことで、脚の周りの「守られた空間」がさらに厚みを増したように感じられる。外の世界の冷たさや視線といった刺激を柔らかく受け流し、自分自身の内側のテリトリーを丸いクッションで包み込んでくれるような、絶対的な安心感。 女性の服は、ただ無防備で危険なだけではないのだ。こうして、見えないバリアのように自分を優しく守ってくれる形もある。 「この服、本当にすごいね。風が吹いても、全然不安じゃない」 心優は、丸く膨らんだままのスカートの裾を撫でながら、航を見上げて笑った。少しだけ首を傾げて微笑むその姿は、日曜日の穏やかな空気に完全に溶け込んでいた。高い視線から見下ろす、自分の本来の身体。男性の大きな骨格に入っているからこそ、隣を歩くその身体の華奢さや、纏っている空気の柔らかさが、より一層際立って感じられる。自分自身がずっと避けてきた、女性らしい可愛らしさとその無防備さを。彼は今、心優の身体で一切否定することなく、自分のバリアとして真っ直ぐに受け止めてくれている。 「……うん。すごく似合ってるよ、心優。でも、足元は大丈夫? 少しペース、早いかな」 航は、社会的な「彼氏」としての役割に心を込めながら、パンプスのカツカツという音の刻むリズムを気遣った。 歩きやすさよりも全体のシルエットを優先してヒールを選んだ彼女(中身は彼)。その心意気は嬉しいが、やはりまだ完全にヒールに慣れているわけではない。しばらく歩き続けたことで、少しだけ足取りが重くなっているのを、航は鋭く察知していた。 「あはは、バレちゃった。やっぱりスニーカーみたいにはいかないね。ふくらはぎが少し張ってきたかも」 「無理しないで。あそこの公園のベンチで、少し休もうか」 航は分厚い男性の手を伸ばし、歩きながらそっと引き寄せた。骨の太い関節が、女性の柔らかな手を優しく、けれどしっかりと包み込む。心優は歩幅を合わせながら、繋がれた手を微かに握り返してきた。触れ合った手のひらから、お互いの体温が静かに交じり合う。まだ消えきらない身体の違和感も、下着姿を見せられない恥じらいも、すべてがこの柔らかな休日の空気の中に溶けていく。 少し開けた公園の入り口が見えてきた。木陰に設置された木製のベンチには、まだ誰も座っていない。 心優は航に手を引かれ、ベンチへと向かった。 心優がベンチに腰を下ろす瞬間、バルーンスカート特有の、また新しい感覚が生まれた。膝を曲げて腰を落とす。その動作に合わせて、内側に折り込まれていた裾がベンチの座面と太腿の間に挟み込まれる。中に閉じ込められていた空気が逃げ場を失い、座るという圧力によって、膝の周りでさらに丸く、ぽふっと小さく膨らんだのだ。 心優は、その不思議な感覚に小さく目を丸くした。両膝をぴったりと揃えて座ると、カーキ色の生地が膝の上で綺麗なドーム型を形成する。まるで、自分の膝の上に小さな風船を抱え込んでいるような、丸くて可愛らしいシルエット。脚を崩そうという気には全くなれなかった。この柔らかな空間を壊したくなくて、心優は自然と膝を寄せ、両手をその丸いドームの上にそっと重ねた。パンプスのつま先が、ベンチの下でちょこんと揃えられている。 その隣に、航がドスンと、ワイドパンツの重さをベンチに預けるように腰を下ろす。男性の大きな骨格は、脚をぴったりと閉じて座るよりも、少しだけ膝を開いて重心を落とす方が安定する。ダークグレーの分厚い生地が太腿の筋肉に張る感触。航は、自分の大きな両手を膝の上に置き、隣でちょこんと座る心優の姿を横目で見つめた。揃えられた膝。その上にふんわりと丸く膨らむカーキ色の布。そして、その布の上に重ねられた、小さな両手。 「ここで少し待ってて。温かいものでも買ってくるから」 航はそう言うと再び立ち上がり、公園の端にある自動販売機へと小走りで向かっていった。 その後ろ姿を見つめながら、心優はベンチの下で少しだけ窮屈になった足先をモゾモゾと動かした。パンプスの甲の縁が肌に微かに食い込んでいる。確かに足は疲れたが、嫌な疲労感ではない。自分が選んだ服と靴のシルエットを、彼が「似合っている」と褒めてくれ、気遣ってくれている。その事実が、足の痛みよりもずっと誇らしく、心地よかった。 すぐに、航が小走りで戻ってきた。大きな手には、温かい缶コーヒーが二つ握られている。 「はい、どうぞ」 「ありがとう」 心優は、バルーンスカートの丸い空間の上に重ねていた手を伸ばし、缶コーヒーを受け取った。少しだけ冷えた指先に、アルミ缶越しに伝わってくるじんわりとした温もりが染み込んでいく。 隣に座り直した航が、プシュッと小気味良い音を立てて自分の缶を開けた。男性の力強い手と、女性の柔らかい手。スニーカーとワイドパンツの無骨な足元と、パンプスとバルーンスカートの丸く柔らかな足元。それぞれの身体が求める重心と動作。それらが、互いの存在を否定することなく、並木道の木陰で静かに調和している。 「これ、すごく温かいね」 心優が、缶コーヒーから立ち上る微かな湯気を見つめながら呟いた。 「足、痛くない?」 航が、隣でコーヒーを啜りながら静かに尋ねる。 「少しね。でも、このスカートのシルエットが崩れるよりずっといいよ。それに……こうして航くんが休ませてくれるから、大丈夫」 その時、航のポケットの中でスマートフォンが短く震えた。画面には、若本美咲からのメッセージが届いていた。 『昨日はお疲れ様でした。あの後、彼と少しだけお話ししました。とっても不器用な人ですが、ご自身の過去としっかり向き合って、新しい一歩を踏み出そうとしているみたいです。私も、もう少しだけ店長として彼の行く末を見守ってみようかなと思っています。私は明日から、繊細なレースのスカートで、少しだけ背筋を伸ばして一週間を始めようと思います。お二人も、素敵な休日を』 「彼って、あの盗撮してた人のことだよね? 一体何があったんだろう」 画面を覗き込んだ心優が、バルーンスカートの丸い空間に両手を置いたまま、不思議そうに首を傾げた。 「さあ。でも店長さんの文章、昨日よりずっと柔らかくて、なんだかすごく安心してるみたいだ」 航は、スマホをポケットに仕舞いながら、ダークグレーのワイドパンツの重みをベンチに預けて優しく微笑んだ。 「きっと、店長さんの服の重みや気高さが、あの不器用な男の人を変えたんだよ。……服が、僕たちを変えてくれたみたいに」 外の世界には、視線や、寒さや、色々な刺激がある。でも、今の自分には、それを柔らかく受け止め、内側の空気を守ってくれる服がある。そして何より、隣には、自分の奥底にある脆い願望を真っ直ぐに肯定し、社会的な役割をも守り抜いてくれる大きな存在がいる。この身体で生きていくこと。それはもう、特別な魔法や罰ではなく、ただの愛おしい「日常」になっていた。 「……明日、店長さんのお店に、彼が不器用な差し入れでも持って現れたりしてね」 航がふと思いついたように冗談めかして言うと、心優も「ふふっ、本当にそうかもね」と楽しそうに笑った。 公園の木々を揺らして、もう一度風が通り抜けていく。心優の膝の上で、カーキ色のバルーンスカートの裾が、柔らかな空気を内側に閉じ込めたまま、ポフリと、小さく、弾むように揺れた。 明日から始まる、繊細なレースが紡ぐ誰かの新しい日常を、静かに祝福するように。 (つづく) あとがき 読んでいただきありがとうございます。夏目彩香です。 Saineによる作品はいかがでしたか。ふわりと空気をはらむバルーンスカートのように、日常の中には目に見えない柔らかなくぼみが隠されています。本当は甘えたかった気持ちや、素直になれなかった過去の強がりも。重力を忘れたように弾む布地が、そんな不器用な心ごと、ぽふりと優しく包み込んでくれる。風を避けるのではなく、風を味方にして丸くなる形には、きっと二人だけが知る特別な安心感があるのだと思います。少しずつ解けていく境界線の先にある、彼らの柔らかな日曜日を、皆様もご一緒に感じていただけたなら幸いです。 読後のご感想などありましたら、X(旧Twitter)の @skyseafar までそっとお寄せいただけると嬉しいです。 |