机の上に載せられた小さなアナログ時計はもうすぐ就業時間の6時を過ぎていた。なぜか終業時間を迎えたのにさっきからため息ばかりついているのは田所愛(たどころあい)。クリスマスイブの夜に友達を誘おうとしたのだが、先客があってがっかりしているからだ。
そんなわけで、仕事をしていても乗り気にならない、そもそもクリスマスイブに仕事をしていること自体がなんだかうざったくなっている愛は、さっきから集中力を欠いているのに気づいていた。自分の席を外れると会社の中にある女子トイレへと向かった。
いつものように洋式の個室に入ると、蓋の上に直接腰をかけて、大きくため息をついた。事務室での緊張感から解き離れて、愛はこうやってリラックスをすることがよくあった。愛の頭の中には今の鬱な気分を打開するためにはどうしたらいいのか、そのことでいっぱいのようだ。
{せっかくのクリスマスイブだって言うのに、みんなずるいんだよね。私だけ一人取り残されたみたいじゃないの}
声には出さないが愛は頭の中で一人言を言っているかのようだ。
{そういえば美樹ったら。クリスマスイブは彼氏が仕事で忙しいみたいだから一緒に過ごそうって約束したのに……結局は二人で過ごすみたいよね。騙されたって感じ……}
頭の中で考えを巡らすだけでも今の鬱な状態を打破することはできそうに無かった。
{どうして今日この日を一人で過ごさないといけないのかしら……やっぱり美樹が許せない}
冷静に考えれば考えるほど、愛は美樹のせいで今の精神状態があるような結論に達していた。
{どうにかして仕返しできないかなぁ。友情よりも愛を選んだ美樹には悪いけど、私の気が済まないから}
愛がそんなことを考えていると、女子トイレに誰かが入って来た。足音から察するに化粧台の前に止まったようだった。どうやら化粧を直しているようだが、個室の中にいる愛はその姿を見ることはできなかった。ただ、気配を感じ取ることだけはできた。
「よし。完成っと」
コンパクトを閉じる音と同時に軽く独り言が聞こえた。愛にはその声の持ち主が美樹のものだということがすうにわかった。そして、個室の扉を挟んで向こう側には美樹がいるのだと思うと、何か燃えたぎるような気持ちが出て来たのだ。しかし、この気持ちがすぐに無くなってしまうことになる。それは、向こうから聞こえる独り言の続きにあった。
「これでどっから見ても美樹だよなぁ。美樹の身体ってやっぱいいよなぁ。スタイル抜群だし、こんなにきれいな目をしてるし、髪も長くてさらさらだし、それに指の細さと肌の白さはどっから見てもいいもんだ。それに、美樹の胸ってやっぱり大きいし、こうやって触るだけでも感度がいいんだから」
愛は耳を疑った。美樹の声なんだけど、いつもの美樹とは違う話し方。自分のことを美樹と呼ぶことはあっても、これほどいやらしい言葉遣いはしないはずだ。
「ようやく美樹に乗り移れたんだ。いよいよ楽しいクリスマスイブを過ごすことにしますか。あいつを驚かすためにもしばらくは美樹らしくしないとな。ちょっと練習してみるか。……美樹で~す。今日はあなたと最後までOKだからね。素敵な思い出をつくりたいの(ハート)……よし、大丈夫だろう。美樹としてのクリスマスイブが楽しみだ」
そういうと弾けるような足音と共に、美樹の気配が無くなった。個室の中にいる愛にとっては衝撃的なことだった。美樹の中に誰かいる。そのことを知ってしまったからだ。
{美樹は誰かに乗り移られているってこと?そんな馬鹿な話があるわけないじゃない、でも、さっきの声って、あぁ~ん、わかんなーい。私ったらどうしたらいいの?……}
すっかりと顔を伏せて考え込んでしまった。さっきまでの美樹を恨むような気持ちは無くなっていた。むしろ乗り移った誰かによって美樹が被害を受けているのは事実となるだろう。美樹を助けるためにも愛はある決断をした。
{とにかく、美樹の後をついてみないと……}
こうして、愛のクリスマスイブが始まった。
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