「お~い。彩香、早く出て来いよ!」
階段の下の方、玄関から貴則の声が聞こえる。
「聞こえてるわよ。そんなに大きな声を出さなくたっていいじゃないの」
すると今度は、彩香の声が廊下に響いて聞こえる。
「さっきから待ってるんだからな。それぐらい感じ取れって」
彩香の家にやって来た貴則は、彩香の母が出迎えて、玄関から先に入ることは許してくれなかった。大事な一人娘だけに外部から来る人間はそれなりに警戒している証拠だろう。
「お待たせ」
彩香は貴則の待つ玄関にようやく姿を現した。
白いノースリーブのワンピース。今日の快晴の天気にとっても似合うに違いない。
「今日、陽射し強いんだからな。ちゃんと日焼け止め塗ったのか?」
「そんなの当然よ。今日みたいな日はお肌が焼けるから、気を使わないといけないのよ」
その言葉を最後まで聞き残さずに、貴則は玄関の扉を開けて先に外へ出て行ってしまった。
「なんなのよ、あれ。せっかく貴則のためにいつもの気を遣ってるって言うのに」
玄関の下駄箱の中からちょっとヒールの高い白のミュールを取り出すと、彩香の足にフィットさせて行く。バッグの中をちょっと開けて見て、忘れ物が無いかどうか確認していた。
「あら、もう出かけるの?そうか。貴則くん。ずっと待たせて悪いと思ったのね。いってらっしゃい、なるべく早く帰ってくるのよ。母さんに心配かけさせないでね」
「わかってるって。」
そう言うと、彩香は半回転して玄関の扉を開けた。
「じゃ、行って来ま~す」
これが変なデートの始まりとなったのだ。
砂浜
作:夏目彩香(2003年8月9日初公開)
「いつまで待たせるんだ?太陽が沈むまで待たなきゃいけないのかよ」
そう言う貴則は彩香の家の前に車を止めて、いつでも出発できるようにエンジン音が高まっていた。
「いいじゃないの。普通の男はそれくらい待つのが当たり前よ」
彩香は助手席に座り込みながら、貴則に不満をぶつけた。
「今日のデートも最初からけんかかよ。少しは気持ちよく始められないのかな?」
貴則が助手席に座った彩香がシートベルトを締めたのを見て、車を動かし出した。
「わかったわ。貴則に嫌われたくないもの」
そう言うと彩香はバッグの中からMDディスクを取り出し、貴則の車に装備されたMDデッキの中に挿入した。スピーカーからは彩香の好きな音楽が流れて来たのだ。
結局、今日のデートはドライブをすることになった。高速道路を駆け抜けると、次第に横手に海が見えるようになって来た。二人で海のそばをドライブするには最高だった。
「彩香。疲れたか?」
車にずっと乗り続けているのか、どこかで一息つきたいと思った貴則は、休憩を取るために、車を海岸沿いに止めた。車から降りると、潮の匂いが漂って来る。二人は思いっきり深呼吸をしてみた。天気のいい日だと言うのに、海にはあまり人がいない。いつもだと人で賑わうビーチだって、今年の冷夏には勝てないようだった。
しかし、二人にとっては人のいない海は最高に気持ちがよかった。二人だけの時間を大きな空間で楽しめるのだから、とてもすがすがしい気持ちであった。彩香は履いていたミュールを砂場に入る前に脱いで、少しずつ海へと近づいて行った。貴則も同様に裸足になって、砂の上を直に感じていたのだ。
「この砂ってきもちいい」
「そうか?そんなに気持ちがいいとは思えないけどな」
すると、彩香は少し怒ったような口調で貴則に言ってきた。
「私が気持ちいいって言ったら気持ちがいいの。貴則がそんな風に言うんじゃ嫌よ」
「本当のこと言ったら駄目なのか?まるで砂場のようだって」
貴則の鈍感な感覚に彩香はそっぽを向いて行ってしまった。彩香は貴則のもとから離れて、砂の上をゆっくりと歩いていた。
(この砂の感じをどうしてわかってもらえないのかな?)
彩香は貴則に対しての不満を心の中で処理した。それでも、潮風を浴びていると気持ちはすぐに吹っ切れる。更に、さらさらとした砂浜を歩いていると足下に何かが当たった。
「たかのり~!こっち来て~」
彩香が大きな声で叫ぶと、遠くにいた貴則が駆け寄ってきた。
「今度は何だよ。何か見つけたのか?」
すると彩香は大きく頷いて、足下にあるものを指さす。
「あれって、MDじゃないのか?」
「そうみたいなんだよね。誰かがここに忘れたものかなぁ」
そう言うと、彩香はMDを手に取ってみた。
「このMDって聞けそうだね。濡れたような形跡が無いから」
どう見てもただのMDにしか見えないが、拾ったものとは気になる。
「聞けたってどうしようもないだろ。ここに置いておけよ」
貴則がこのままにしておこうと言ったのにも関わらず、彩香はそのMDを大事に持っていくことにした。
「とりあえず、車の中で聞いてみようよ。何かいい曲が入ってるかも知れないから」
音楽の好きな彩香はどんな曲が入っていても一度は聞いてみないと気が済まないようだった。
とりあえず、二人で車へ戻ると、貴則は車のエンジンはかけずに、MDだけ聞けるようにキーを回した。助手席に座ってる彩香は、さっき砂浜で拾ったMDをカーオーディオに差し込んだ。しかし、中からは何の音楽も流れて来ない。
「あれっ?このMDっておかしいわね。トラックがたくさんあるのに、音が全然聞こえて来ないよ」
彩香が貴則に聞いてみる。
「そうか、それなら次に飛ばして見たら?聞けるかも知れないだろ」
次のトラックへ飛んでみたが、それでも音は出てこなかった。むなしく時間の表示だけが進んでいる。
「これって何も録音されてないのかな」
彩香がそう言っている間に、貴則はMDケースをいじっていた。すると、その中から1枚のかみ切れが出て来て、何か文字が書かれていたのだ。見慣れない文字、でもどこかで見たことのある文字だった。貴則はその紙を彩香に渡す。
彩香はその紙きれを見ると、すぐに読み始めた。
「おい、彩香。その文字読めるのか?一体何が書いてあるんだ?」
気になりながらも、貴則は車のエンジンをかけた。再び車を走らせて気晴らしをするつもりだった。彩香は書かれていた文章を読み終わると、貴則の方に目を向けて話して来た。
「このMDってすっごいものみたい。ねぇ、貴則。これから私の家に戻らない」
そう言うと貴則は彩香の家に向かうため来た道をUターンした。
「ただいまぁ~」
彩香が玄関でそう言うと、中から母さんが出てきた。
「あら。早かったのね。こんなに早く帰って来なくてもいいのに」
すると、彩香は隣にいる貴則を自分の部屋に入れてもいいか耳元で聞いてみた。
「そうねぇ。少しくらいならいいわよ。早く帰ってもらいなさいね」
彩香が頷くと、2階の自分の部屋へと向かって行った。
「貴則。入っていいよ」
彩香について来た、貴則は彩香の部屋の前からなかなか入ろうとしない。
「何、恥ずかしがってんの。私がいいって言うんだから、早く来なさいよ」
貴則が中へ入ると、そこには空色で統一された部屋があった。彩香の部屋に入るのはもちろんこれが初めてのこと。甘い匂いが漂ってくる。彩香は机の前にある椅子に座り、貴則にはフローリングの上に座布団を渡して、その上に座るようにしてもらった。
「彩香の部屋って、こんな感じかよ。もっと大人っぽい雰囲気かと思ったのに」
「いいじゃないの。可愛らしい部屋にいると心がウキウキするんだから」
そう言う貴則を尻目に、彩香は机の上で何かをし始めた。そして、貴則の方を振り返ると、彩香の手の中から出てきたのはポータブルMDだった。
「ねぇ、貴則。これで聞いてみて。さっきのMDが中に入ってるんだけど、これってポータブルでしか聞けないんだって」
そう言われると、貴則はヘッドホンを耳に付けて、さっき拾ってきたMDを聞き始めた。
「やっぱり、こうやっても何も聞こえないぞ。本当に、これでいいのか?」
どうやらポータブルでも音が聞こえて来ることはなかったようだ。
「聞こえる音を聞くんじゃないのよ。どうやら聞こえない音。超音波が聞こえてくるんだって」
貴則は聞こえない音を聞いていると言うことを馬鹿馬鹿しく思い始めていた。
「とりあえず、1トラックが終わるまではそのまま聞こえなくても聞いていてよ」
貴則はとりあえず彩香の言う通り、1トラックが終わるまでは聞いてみることにした。よ~く聞いてみると、遠くの方から音が聞こえて来るようだ。そして、頭の中に入り込んでくるような波長が出されていて、心が浮き出て来るようだった。
彩香がポータブルMDの液晶パネルを眺めてみると、1トラック目が終わり、2トラック目が始まっていた。
「1トラック終わったわね。じゃ、効果が出てるんじゃないかなぁ。たかゆき~聞こえる?」
そう言われると、貴之は彩香の声がさっきとは別の角度から聞こえてくるのがわかった。すると斜め下の方に彩香がいるのがわかる。
「聞こえるぞ」
しかし、その声は彩香に届くことは無かった。彩香は貴之の体を揺すりながら目を覚まさせようとした。しかし、貴之が気がつくことは無い。
「うまく言ったみたいね。じゃあ、その辺りに浮いているのかな?」
貴之が気づいてみると、彩香が貴之の体を揺すっていると言う行動を自分自身が見ていた。何か変な光景だが、本当にそうなのだから、不思議なものだった。
「まだこのあたりにいるよね。さっきのMDの1トラック目をポータブルMDで聞いたら、体と魂が分離されるんだって、魂だけになったら、どんな人の体にも入り込めるんだって、すごいでしょ。試しに、母さんに入ってくれないかなぁ。お願いだから」
貴之は少し考えてみた。自分の状況がこうなったのは彩香が知っている。と言うことは元に戻るためには彩香の言うことを聞かないといけないのだろう。
貴之は彩香の母さんがいるはずの下の階へと降りて行った。壁や天井、地面をすり抜けることができるので、そのまま垂直に移動しただけだ。案の定、彩香の母さんは居間のソファに座りながらテレビを見ていた。彩香を10代で生んだって言うから、まだ年は40歳を行っていない。端から見ても、大学1年生の娘がいるとは思えないほどの美人だった。
貴則はソファーに座っている彩香の母さんの中に、ゆっくりと入っていった。足元から徐々に体の感覚が戻って行く。そして、それは貴則が初めて感じる女性の感触でもあった。完全に自分の魂を彩香の母さんの中に入れてしまうと、腰からしたにはソファーの感触を感じるようになった。
洗面室に駆け込むと、鏡には彩香の母さんが映っていた。軽い化粧をしただけの、自然なメイク、それでいて大人っぽい雰囲気のショートヘアー、ブラウン系の花柄のフレアスカートが足にまとわりつき、光沢のあるシルクのブラウスの中には揺れるものが納められている。目の前にいるのは彩香の母さん、そのものなんだと貴則は思った。
その姿のまま、階段を上がって行き、彩香の部屋の前まで来ると、ノックをして彩香の部屋に入った。中に入ると彩香とヘッドホンをつけたままの貴則の姿があった。
「彩香。どう、お前の母さんに入ってみたんだけど」
「やった~成功ね」
どうやら、彩香は大喜びしている。
「さっきのMDはね。人生を変えたい人のために作られたもので、そのために開発されたって書いてあったよ。ちなみにハングルで書かれていたから、貴則が読めないのも無理が無いよね。ねぇ、私の母さんになった感想はどう?」
「どうって。お前の母さんって、きれいだよなって」
「そうでしょ。そうでしょ。でも、それだけ?やっぱり鈍感なのかな?」
彩香はそう言うと、母さんの胸元にある膨らみに手を載せた。
「あっ」
母さんはすぐにその手を払いのけた。
「やめろって。くすぐったいだろ」
すると、目の前には彩香の笑っている姿があった。
「貴則って可愛いところがあるのね。母さんも敏感なのかな」
「何だよ。人を馬鹿にする気か?お前が試しにって言うから、とりあえずお前の母さんに入ってみたんじゃないか」
「怒らないでよ。まるで、母さんに叱られているみたいじゃないの」
すると、母さんの中に入った貴則は素直に謝る。
「わりぃ。ごめんな、彩香」
「そんな風に謝らないでよ。あなたは私の母さんなんだから。女らしくしたらどうなの?」
すっかり彩香にからかわれている貴則、彩香の強引な注文が続く。
「わかりました。これからは、彩香の母さんに成りきってあげます」
「わ~い」
彩香はどうやら上機嫌だった。自分の母親に自分の彼氏が入ってる。自分の好きなものがまるで一つになったのを楽しんでいるようだった。
「母さん。大好き」
そう言いながら、彩香は母さんに抱きついて来た。
「母さんも、彩香のこと大好きよ」
貴則もまんざら演技が下手では無かった。
「貴則って本当の母さんそっくりね」
「何馬鹿言ってるのよ。私があなたを育てたんですから」
そう言って、ほほえましく笑う姿は彩香がいつも見ている彩香の母さんそのものだった。
彩香が貴則に聞かせていたポータブルMDの再生を停止すると、貴則の魂は彩香の体から元の体に戻っていった。すると、彩香の母さんの意識が戻ってきて、急に彩香の部屋にいるものだから辺りをキョロキョロし始めた。
「あれっ?母さんったらいつの間に、貴則くんゆっくりして行ってね」
彩香の母さんはそう言うと彩香の部屋から降りて行った。彩香の母さんがいなくなったところで、今度は貴則が正気を取り戻す。目の前にいる彩香の姿がだんだんとはっきりしてくると、自分の体に戻っていることに気づいた。
「いつの間に、戻ったんだ?」
貴則は彩香の方に顔を向けて聞いてくる。
「元に戻すときはね。このMDの再生を止めるだけでいいの。バッテリーが切れたら終わりだけど、曲はエンドレスで聞いていればいいから、アダプターを付けて聞けば、ずっと他人の体を支配することだってできるわよ」
そう言う彩香の顔は妙に明るい、こんな不思議なMDに対して恐怖感すら感じないらしいからだ。
「なぁ、彩香。今度、これ使ってお前に入ってもいいか?」
すると彩香は貴則の目を真剣に見てきた。
「今度、砂浜に行く時に使いましょうね。貴則の鈍感さがわかるだろうから」
こうして、二人は次の週も海へ向かってドライブにでかける約束をしていた。
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