会社で簡単な書類整理を終えた崇男。
加寿子に怪しまれないように静江のアパートへは寄らず、まっすぐ家に帰る。
いつもの休日出勤と同じ。少しだけ遅くなったが、大体昼の三時頃だ。
 

崇男:「どこもおかしな所は無いな」
 

玄関の前、グレーのスーツ姿におかしなところが無いかチェックした崇男。
念のためにスーツの中や自分の手を嗅いで、静江の匂いがついていない事を確かめると、
 

崇男:「よし」
 

と一人肯き、玄関のドアを開けて家の中へ入って行った。
 
 
 
 
 
 
 

バレたら後が怖いです(後編)
 
 
 
 
 
 
 

崇男:「ただいま」
 

玄関で靴を脱ぎながら、少し大きな声で言った崇男。
しかし、加寿子から「おかえりなさい」の返事が返ってこない。
靴はあるのに――「ん?」
 

崇男は玄関に置いてあった靴に目を止めた。
いつも加寿子が穿いているような「おばさん仕様」の靴ではなく、
茶色いお洒落なハイヒールが置いてある。
このハイヒール、見覚えがあるような無いような……
 

崇男:「誰か客でも来ているのか?」
 

そう呟いた崇男はスーツ姿のまま廊下を歩き、ダイニングキッチンへと歩いて行った。
 
 
 
 

崇男:「ただいま」
 

ダイニングキッチンにあるテレビから音が流れていたので、加寿子がいると思った崇男はもう一度そう言った。
廊下から覗き込むと、ソファーに座っている加寿子……いや、加寿子ではない女性がいた。
ソファーが後ろ向きなので頭しか見えないが、その後ろ髪は何処かで見たことがある。
茶色いストレートの髪。
それはつい数時間前にも見たはずだ。
 

崇男:「えっ!?ま、まさか……ど、どうしてここに……」
 

サッと青ざめた崇男。
思わず声を出してしまったが、女性は気づかないフリでもしているのか
後ろを振り向いて崇男を見ようとはしない。
そんな女性にゆっくりと近づき、ソファーを回り込んで見ると――
 

崇男:「し……静江っ!ど、どうして家にいるんだっ!?」
 

つい声を荒立ててしまった崇男は、ハッとして手で口を塞いだ。
そして、周りをキョロキョロと見回したあと、
 

崇男:「か、加寿子……加寿子はいないのか?」
 

と問い掛けた。
しかし、静江は何も言わずにテレビを見ているだけ。
 

崇男:「し、静江」

静江:「ふんっ……静江ねぇ、呼び捨てしてるの。そんな仲だったのね」

崇男:「えっ?」
 

静江がソファーの横に立っている崇男をゆっくりと見上げる。
その表情に笑みは無かった。
 

静江:「そんなにこの女がいいの?ねえ、教えて頂戴。美人だから?それとも若いから?」

崇男:「な、何言ってるんだよ」

静江:「それとも優しいの?ずっと連れ添ってきた私よりも」

崇男:「…………」
 

何を言っているのだろうか?

崇男には理解できなかった。
いきなり家に入り込んでいて……確か家の住所までは教えていなかったはずなのに。
 

静江:「休日出勤だなんていいながら、いつもこの女と会っていたのね」

崇男:「え……」

静江:「私が気づいていないとでも思っていたんでしょ。でも私には分かっていたわ。あなたの様子がおかしい事くらい」

崇男:「あ、あなたって……し、静江……」

静江:「今日ね、あなたが会社に行くところを尾行したのよ。そしたら会社とは全く関係ない方向に歩いて行くじゃないの。
    絶対に怪しいと思ったわ。そしたら案の定……」
 

そこで言葉を止めた静江はソファーからゆっくりと立ち上がった。
 

静江:「……そうよね。こんなに綺麗な身体なんですもの。きっとあなたじゃなくても浮気したくなるわね」
 

白い半袖のブラウスに淡い黄色の綿素材で出来たパンツ姿。
ブラウスのボタンを、わざと2つほど外して胸の谷間を覗かせている。
そしてピッチリとしたお尻には、うっすらとビキニタイプのパンティの形が浮き出ていた。
そんな静江が、すべすべした肌を持つ腕を撫でながら崇男に話し掛ける。
 
絵:あさぎりさん
2003.9.22追加

静江:「私だって若い頃はこのくらいのプロポーションしていたのよ。あなたは忘れてしまったかもしれないけど」
 

そう言いながら、両手で茶色いストレートの髪を後ろに束ねる仕草をした。
 

崇男:「し、静江。どうしたんだ?お前……さっきから何言ってるんだよ?そんな事より早く帰らないと加寿子が戻って来るだろ。
    見つかったらどうするんだっ」
 

よく分かっていない崇男が額に汗を滲ませながら話すと、静江は「フッ」と軽く笑った。
 

静江:「そんなに奥さんにバレたらまずいの?」

崇男:「えっ?」
 

静江の口からそんな言葉が返ってくるとは思っても見なかった崇男は、一瞬たじろいでしまった。
程よい大きさの胸の前で腕組をしながら頭を少し斜めに倒して、じっと崇男を見つめている。
 

静江:「……奥さんと離婚するんじゃなかったの?」

崇男:「そ、それは……」

静江:「別れるつもりなんでしょ」

崇男:「……あ、ああ……」

静江:「……でも絶対に別れないから」

崇男:「え?」
 

静江が急に真剣な顔つきになる。
 

静江:「くやしいから……くやしいからこの身体をもらったわ」

崇男:「???」

静江:「分からないの?私の事」

崇男:「な、何が……」

静江:「あなたの妻なのに……」

崇男:「な、何言い出すんだよ。そんな事、加寿子が聞いたら……」

静江:「だから私が加寿子なのよっ」

崇男:「は、はあ?」

静江:「あなたの妻の……加寿子よ」

崇男:「し、静江?お、お前。一体、何……」

静江:「……分からないでしょうね、何を言っても。まあいいわ。あなた、私よりもこの女……静江さんを選ぼうと
    しているんでしょ。静江さんの身体が目的なのか、それとも全てが愛しいのか教えてもらうわ」

崇男:「な、何を言ってるんだ?俺には静江の言っている事がさっぱり……」

静江:「いいのよ。そのうち分かるから」

崇男:「静江……」
 

静江は少し寂しそうな表情をすると、
 

静江:「お布団干しているから仕舞ってくるわ」
 

と言ってダイニングキッチンを後にした。
階段をゆっくりと上がってゆく足音が聞こえる。
 

崇男:「ど、どうなってるんだ?静江が加寿子だって?そんなバカげた事を。それよりも加寿子が帰ってきたらどうするか
    考えなければ。このままじゃ最悪の結果になるぞ」
 

まだ理解できていない崇男は、いい案が全く思いつかず、ただおろおろしているだけだった。
とりあえず着替えるために二階の寝室へ行くと、木製の大きなクローゼットにスーツを仕舞い、
この前、加寿子が買ってきた真新しい白いスウェットに着替える。
 

崇男:「ふぅ……しかし加寿子は何処へ行ったんだろう?とにかく静江を帰さないと」
 

そう思った崇男は、隣の部屋でベランダに干してあった布団を畳んでいる静江に会いに行った。
 

崇男:「なあ、もう加寿子が帰ってくるかもしれないからそろそろアパートに帰ったほうがいい。
    今なら大丈夫。バレないさ」

静江:「……それ、私がこの前買ってきたスウェットね。普段はランニングシャツとトランクスでいるのに
    静江さんの前ではちゃんと服を着るのね」

崇男:「えっ……ど、どうして知っているんだ?このスウェットの事」

静江:「別に……」

崇男:「静江……お、お前……ま、まさか……そんな事……」

静江:「はい。ちゃんとシーツに入れておいたから後はベッドに運んでよ。それが休日のあなたの
    仕事なんだから」

崇男:「なっ……」
 

信じられなかった。
どうして静江がそんなことを知っているのか――
ま、まさか、さっき静江が言った事は本当なのか?
静江が加寿子だ?
加寿子が静江の身体をもらっただと??
 

崇男:「お前、ほ……ほんとに加寿子なのかっ?」

静江:「……だからさっき言ったじゃないの。私が静江さんの身体をもらったんだって」

崇男:「そ、そんな……そんな事が出来るわけ……」

静江:「別に信じなくても構わないのよ。あなたが信じようが信じまいがこれが真実なんですもの。
    もうあなたの前に加寿子は姿を現さないわ。だって私が加寿子なんだから。
    私が静江さんの身体に乗り移っているのよ」

崇男:「の、乗り移っている!?」

静江:「そうよ。だから静江さんの身体は私が自由に操る事が出来るの」

崇男:「そんなバカな!そ、そんな事絶対に、あ……ありえないっ」

静江:「だから別にあなたは信じなくてもいいのよ。良かったじゃない。あなたの愛している静江さんと
    一緒に暮らせるんだから。中身はあなたの妻の加寿子だけどね」

崇男:「う、うそだろ……なあ静江。俺をからかっているんだよな……」

静江:「……私、買い物に行ってくるから。その間に庭の木に水をやっておいてね、いつもどおり」

崇男:「…………」
 

そう言うと、静江はゆっくりと立ち上がり部屋を出て行った。
 

崇男:「な、何なんだっ。一体どうなっているんだっ!静江の姿をした加寿子?加寿子が静江に乗り移っている??」
 

もう一度真相を正そうと崇男が一階に降りると、ちょうど静江が玄関で靴を穿いているところだった。
脇に黒いセカンドバッグを抱えている。
 

静江:「ちょっと行って来るわ。何がいい?食べたいものはある?」

崇男:「そ、そのバッグ……」

静江:「うふっ。あなたが結婚前に買ってくれたセカンドバッグよ。せっかく若い身体になったんだからこのくらい
    お洒落していかないとね」

崇男:「か……加寿子……」

静江:「じゃあ行って来るわね。冷奴食べたいでしょ」
 

静江はクスッと笑うと、玄関の扉を開けて出て行ってしまった。
扉が閉まってもしばらくその場に立ち尽くしていた崇男。
 

崇男:「ほ、本当なんだ……静江は……加寿子なんだ……」
 

静江の姿をした加寿子。
なぜこんなが起きたのか。いや、出来るのか全く理解出来ない崇男は、その非現実的な状況に思考回路がおかしくなりそうになりながらも
無意識の内に庭の木に水をやると、二階に上がって先ほど静江が畳んだ、まだ生暖かい布団を寝室にあるベッドまで運んだ。
 

崇男:「静江が加寿子……」
 

小さく呟いた崇男。
まだ頭の整理が出来ないでいる。
グシャグシャと頭を掻き毟りながら一階に降りると、ダイニングキッチンにあるソファーに座って
「ふぅ〜」と深いため息をつき、天井を見上げた。
今までの話を頭の中で再現して理解しようとする。
 
 

俺の行動を怪しいと思った加寿子が俺を尾行した――
そして静江のアパートに入るところを見つけたのか――
しばらくして俺が会社に行った後、静江の部屋に入り込んで――
 
 

どうやったのかは分からないが、会社に行っている間に静江の身体を奪った……いや、正確には乗り移ったようだ。
 
 

そして家に帰って、俺が帰ってくるのを待っていた。静江の身体で――
 
 

ゆっくりを目を瞑る。
気づいていたのだ。崇男が静江と浮気している事を。
でも、気づかないフリをしていた。
 

崇男:「どうするつもりなんだ?まさか俺と静江に仕返しをするつもりだんだろうか?静江の身体で……」
 

これが現実なら、静江の事が心配だ。
一体静江はどうなってしまったのだろうか?

また深いため息をついたところで、玄関の扉が開く音がした。
その音に気づいた崇男が玄関まで迎えに行く。
 

静江(加寿子):「ただいま」

崇男:「お、おかえり……」

静江(加寿子):「ねえあなた、ちょっと聞いてよ。商店街のお豆腐屋さんったら、私だって全然気づかないのよ。
          それに『お姉さん美人だからサービスしちゃうよ』なんて厚揚げまでもらったわ。普段の私なら
          そんな事絶対にしないのに」

崇男:「そ、そうか……」
 

そのことが嬉しかったのだろうか?
笑顔を作った静江はハイヒールを脱ぐと、買い物袋とセカンドバックを両手にキッチンへと向かった。
すれ違いざま、静江の香水の香りがほのかに漂ってくる。
 

崇男:「…………」
 

振り向くと、静江の後姿。
茶色いストレートの髪が半袖ブラウスの背中を左右に泳いでいる。
 

崇男:「な、なあ……」
 

その後姿に声をかけた崇男。
 

静江(加寿子):「何?」

崇男:「お前、俺と静江に仕返ししようとしているのか?信じられないが……静江の身体に乗り移るなんて」
 

静江は振り向いて崇男を見つめた。
そして、
 

静江(加寿子):「……そうよ。あなたが妻の私よりも別の女を選んだの。だから私がその身体をもらったのよ。
          私がこの身体を使ってあなたを苦しめてあげるわ」

崇男:「そ、そんな。し、静江はどうなったんだ?無事なんだろうな」

静江(加寿子):「心配しているの?私がいるのに静江さんのほうが心配なのね。包丁でこの身体の心臓を
          刺せばすぐに殺せるわ。それが出来るのよ、今の私なら」

崇男:「…………」

静江(加寿子):「舌を噛み切る事だって出来るわ。そんな風にされたい?」

崇男:「お、お前……何言ってるんだよ。そんな事したら……」

静江(加寿子):「されたくなかったら大人しく私の言う事を聞いた方がいいわよ。静江さんの命は
          私が握っているの。分かるでしょ」

崇男:「か、加寿子……お前、俺にどうしろっていうんだ」

静江(加寿子):「別に。私はただあなたがどういう行動をとるのかを見たいだけよ。ふふ」

崇男:「し……正気なのか?加寿子」

静江(加寿子):「ええ正気よ。正気じゃなかったら、とっくに静江さんを殺しているわ」

崇男:「な……」

静江(加寿子):「まあいいじゃないの。あなたの愛している静江さんと一緒に過ごせるのよ。
          このまだまだ若い身体といっしょに。嬉しいでしょ」

崇男:「お、俺は別にそういう事が目的で……」

静江(加寿子):「それも直に分かるわ。静江さんの外面を愛しているのか、それとも内面を愛しているのか」

崇男:「そんな事してどうなるんだ?俺は……俺は……」

静江(加寿子):「静江の事を愛しているんだ。だから俺と別れてくれ……とでも言うのかしら」

崇男:「うっ……」

静江(加寿子):「くやしいじゃない。ずっと長い間連れ添ってきたのに、こんなに簡単に崩れてしまうなんて。
         でもあなたが静江さんの身体だけを求めているのなら……私がこの身体を使って愛してあげるわ。
         それで満足なんでしょ」

崇男:「…………」

静江(加寿子):「歳が離れすぎていたのがいけなかったのね。私がもっと若ければこんな風にならなかったのに」

崇男:「お、お前……」

静江(加寿子):「これで解決したんでしょ。私の事が嫌いで別れてくれって言うわけじゃないわよね」

崇男:「そ、それは……そうだが……」

静江(加寿子):「うふ。やっぱり若い身体が目的だったのね」

崇男:「ち、違う。それだけじゃない。静江は、静江は……」

静江(加寿子):「何?静江さんの内面が好きだなんて言わないわよね」

崇男:「そ、その……」

静江(加寿子):「……もういいじゃない。あなたは私の事が嫌いになったわけじゃないし、あなたが好きな静江さんの
         身体がここにあるんだから。そうでしょ」

崇男:「いや、だ、だから……」

静江(加寿子):「夕食の支度をするから少し待ってて。この身体であなたの好きな料理を作ってあげるわ」

崇男:「か、加寿子……」
 

一方的に話を打ち切った静江は、何も言わずにそのままキッチンへと歩いて行ってしまった。
 

崇男:「…………」
 
 

『静江の全てを愛してしまったんだ』
 
 

崇男は言えなかった言葉を心の中で呟いた――
 
 
 
 
 
 
 
 

静江(加寿子):「あなた。準備が出来たわよ」
 

一階から静江の声がする。
声は静江だが、しゃべったのは加寿子。
 

崇男:「今行く」
 

二階の寝室。
昼の間に干してあった布団が敷いてあるベッドの上で寝転がり、色々と考え事をしていた崇男が
小さく短い返事をした。

加寿子が怒るのは当然の事。
浮気をして怒らない妻はまずいないだろう。
愛し合っているからこそ結婚したのだから。

しかし、まさかこんな行動を取るなんて――
 

複雑な気持ちのまま階段を降り、ダイニングキッチンにあるテーブルへと向かう。
 

静江(加寿子):「ビール出しているわよ」

崇男:「あ、ああ……」
 

そのテーブルには、いつもと変わらぬ雰囲気の夕食メニューが並んでいた。
静江が作る夕食ならもう少し違った雰囲気があるだろう。
なんと言うか、もう少しボリュームのある……新婚当時の加寿子も作っていたようなものが。
それだけでも、目の前にいる静江が加寿子だと言うことを思い知らされた。

いつの間にやら、静江はラフな格好に着替えている。
黄色い半袖Tシャツに、5分丈のやわらかい生地で出来た白いスパッツのようなショートパンツ。

崇男がその姿に視線を注いでいると、
 

静江(加寿子):「ああ、さっき着替えたのよ。この服も静江さんのアパートから持って来ていたのよ。
         数着だけど拝借してきたわ。だって私の服じゃ全然サイズが合わないでしょ。
         特に下着はね」
 

そう言って、静江は椅子に座った。
崇男も黙ってテーブルを挟んだ反対側の椅子に座る。
とても不思議な感じだ。
目の前にいる静江は、崇男がアパートに行った時によく着ている服装をしている。
加寿子だと思わなければ、単に静江を家に招いて食事をとっているようにしか思えない。
 

静江(加寿子):「いただきます」

崇男:「……いただきます」
 

だが、いつも加寿子と食べている時と同じように夕食の時間が始まった。
自分でビールをグラスに注いで一口のみ、ねぎと生姜(しょうが)が軽く乗っている冷奴に醤油をかけたあと箸をつける。
 

静江(加寿子):「よく冷えていて美味しいでしょ」

崇男:「ああ……」
 

これも加寿子がいつも口癖のように言う言葉だ。
静江の姿で、普段と変わらぬ会話をしてくる。
静江ではない、加寿子としての会話を。
そのギャップがとても嫌だった。

こうやって冷静に食事をとっている自分が不思議でならない。
静江が麦茶の入ったプラスチック容器を取りに冷蔵庫へ向かう。
その後姿。
ショートパンツのお尻に、パンティの形がくっきりと浮き上がっていた。

そんな静江の身体を加寿子が操っている。
静江本人の意識を無視して――
 

崇男:「なあ加寿子」

静江(加寿子):「何?」

崇男:「静江の意識は一体何処に行ったんだ?」

静江(加寿子):「さあ。私には分からないわ」
 

立ったままグラスに麦茶を入れ、また冷蔵庫に容器を仕舞う静江。
 

崇男:「わ、分からないって……」

静江(加寿子):「分からないから分からないのよ。別にそんな事、気にする必要ないでしょ。あなたの目の前には
          静江さんがいるんだから」

崇男:「そんな事言ったって、お前は加寿子じゃないか。静江は静江、加寿子は加寿子だ」

静江(加寿子):「ねえあなた。ちょっと質問していい?」
 

静江は席に着いて茶碗とお箸を持ちながら崇男に問い掛けた。
 

静江(加寿子):「もし私があなたの知らない男性と不倫したら……どう思う?」

崇男:「お前が不倫?」
 

逆の立場に立って考えてくれと言う事か――
 

崇男:「そりゃ……いい気はしないな」

静江(加寿子):「本当にそうかしら?それなら浮気なんてしないわ」

崇男:「分かってるよ、お前の言いたい事は。悪いと思ってる。でも……」

静江(加寿子):「そこから先の話は後にしましょ。せっかくの夕食が冷めてしまうわ」
 

多分聞きたくないのだろう。

崇男はあえて話を進めずに、別の話題に切り替えた――
 
 
 
 
 
 
 
 

静江(加寿子):「あなた、お風呂沸いているわよ。先に入って」

崇男:「ああ」
 

食器を洗い終えた静江がそう言った。
 

静江(加寿子):「着替えはもう置いてきたから」

崇男:「それじゃあ先に入ってくるよ」

静江(加寿子):「ええ」
 

崇男はダイニングキッチンのソファーから立ち上がると、静江の姿をチラッとみてバスルームへと向かった。
 
 
 
 

崇男:「加寿子はずっとあのまま静江の身体に乗り移っているのだろうか……」
 

湯船に浸かりながら、今にも天井から落ちてきそうな滴(しずく)を見つめる崇男。
もしこのままの状態がずっと続いたら、加寿子が静江に思えてくるのかもしれない。
静江と加寿子の違いが分からなくなって――
いやっ!そうなってはいけないのだ。
静江は静江なんだ。加寿子じゃない。
 
 

『俺は静江を愛してしまったんだ』
 
 

何とかして静江の身体から加寿子を出さないと……
 

そう思った時、カチャッとパスルームの扉が開く音が聞こえた。
そしてその音に反応し、無意識に扉へ視線を移した崇男は唖然とした。
 

崇男:「し……静江……あ、いや、加寿子か!?」

静江(加寿子):「久しぶりに一緒に入りましょうよ」

崇男:「お前……」

静江(加寿子):「静江さんと会っている時はいつもこんな事してるんでしょ。まさかしていないとは言わせないわよ」
 

少し大きめの白いタオルを身体に巻いた静江が入ってくる。
崇男は慌てて股間を両手で隠した。
 

静江(加寿子):「わざとらしいわね」
 

と言って、静江は大きなタオルをハラリと床に落とした。
静江の女性としてバランスの取れた裸体が崇男の目の前にさらけ出される。
程よい大きさで形の整った胸。
鮮やかな曲線を描いているウエストに、ほっそりとした足。
 

静江(加寿子):「本当に綺麗な身体ね。私、この身体が気に入ったわ」
 

洗面器で片からお湯をかけ、崇男の入っている湯船に足をつける。
 

崇男:「お、おいっ」

静江(加寿子):「興奮しているんでしょ。この静江さんの身体に」

崇男:「お前、静江の身体を勝手に……」

静江(加寿子):「何言ってるの?もう静江さんの身体は私のものよ。私がどう使おうと私の勝手なんだから」
 

ザザーッという音と共に、湯船のお湯が溢れ出す。
 

静江(加寿子):「ねえ、昔のようにギュッと抱きしめて」
 

静江は湯船に座っている崇男の足の間に身体を割り込ませ、崇男に対して後ろ向きに座った。
崇男の目の前には静江の茶色いストレートの髪があり、ムスコが静江の腰の後ろ側に当たっている。
 

崇男:「か、加寿子……」

静江(加寿子):「こうやって二人で入るの、何年ぶりかしら。もう忘れたわね」
 

静江が身体の横にあった崇男の両手を握り締める。
お湯の中で手を握り合う二人。
崇男が腕の力を抜いていると、静江はその手を自分の身体の前に持って来てじっと見つめた。
絡み合っている指。
こうやって改めて崇男の指を間近に見るのは久しぶりだ。
しんと静まり返ったバスルーム。
指を絡めたままの静江が、か細い声でポツリと呟く。
 

静江(加寿子):「……ねえ、静江さんとはいつ出会ったの?」
 

その呟きから少し間を置いた後、崇男はゆっくりと口を開いた。
 

崇男:「……三か月ほど前だ」

静江(加寿子):「何処で?」

崇男:「会社から帰ってくる途中の路地で」

静江(加寿子):「あなたから声をかけたの?」

崇男:「……そうだな。静江がハンカチを落としたんだ。それを拾った時に……」

静江(加寿子):「そう……」
 

静江の寂しそうな声。
絡めた崇男の指を、自分の指で優しく撫でながらじっと見つめている。
 

崇男:「……すまん、加寿子。でも俺は静江の事を……」

静江(加寿子):「私じゃもうダメなの?」

崇男:「ダ、ダメとかいう話じゃなくて……」

静江(加寿子):「飽きてしまったの?それとも私が歳をとって女性としての魅力がなくなってしまったから?」

崇男:「…………」

静江(加寿子):「静江さんに聞いたわ。私と離婚してもいいと言ったって」

崇男:「…………」

静江(加寿子):「静江さんも崇男の事を愛しているんだって、面と向かって言われたわ。その時は私、とても
         腹が立ったのよ。まさか妻である私に向かってそんな事言うなんて思ってもみなかったから」

崇男:「そうだったのか……」

静江(加寿子):「だから……」

崇男:「だから?」

静江(加寿子):「くやしいから……静江さんの身体に乗り移ったのよ。あなたが愛している静江さんの身体ならば
          私の事をまだ愛してくれるって……」

崇男:「そんな……で、でも……それじゃあ静江は……静江の気持ちはどうなるんだ?」

静江(加寿子):「ねえあなた。私と静江さん。もし外見が同じくらい魅力的だとしたら、どちらを選ぶ?」

崇男:「えっ……」

静江(加寿子):「内面だけを比べると、どっちを取る?私?それとも静江さん?」

崇男:「そ、それは……」
 

軽々しく答えられない質問を投げかけられた崇男は、そのまま黙り込んでしまった。
 

静江(加寿子):「……答えられないの?」

崇男:「……すぐには……」

静江(加寿子):「……そう。やっぱり私達、もうダメなのね」

崇男:「……加寿子……」

静江(加寿子):「感じていたわ。いつかこんな日が来るかもしれないって。特に最近のあなたの行動をみていると、
          もうダメかもしれないと思ってた」

崇男:「…………」

静江(加寿子):「真面目で優しいあなたが嘘をついてまでして女性と付き合っていた。とても辛かったわ……」
 

静江が身体を反転させて、崇男と正面で向き合う。
その頬には、すでに涙が流れた痕があった。
 

静江(加寿子):「望んでいたわ。あなたと死ぬまで一緒に過ごせる事を。あなたが私にプロポーズしてくれた瞬間から」

崇男:「か、加寿子……」

静江(加寿子):「子供には恵まれなかったけど、楽しかった。一緒にいるだけで私は幸せだったのよ」
 

軽く微笑んだ静江。その向こうに加寿子の微笑が見えたような気がした。
初めて聞いた言葉だ。
何気なく過ごしていた日々の中に、これだけの想いが詰まっていたなんて。
 

静江(加寿子):「だから……今度は静江さんを幸せにしてあげてね……」

崇男:「か……加寿子……」

静江(加寿子):「ね、あなた……」
 

俺は一体何をしていたんだ?
加寿子を愛しているから……歳の差なんて関係なかったはずじゃないか!
加寿子を愛したから結婚したんだ!
それにこんなに愛されていたのに、俺は……俺は……
 

崇男は静江の身体を力いっぱいギュッと抱きしめていた。
湯船のお湯が激しく波打っている。
その腕の中で、悲しそうな表情をした静江が大きな声を上げて泣いていた――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

加寿子:「ごめんなさいね、こんな事しちゃって」

静江:「いえ……私がいけなかったんです。妻が……加寿子さんがいると聞いていたのに崇男の……崇男さんの優しさに
    甘えてしまって。私の夫は崇男さんと同じ歳で死んでしまったんです。すごく寂しかった。誰かに心の隙間を
    埋めてほしいと思っていました」

崇男:「全ては俺が悪かったんだ。加寿子がいるのに……」

加寿子:「…………」

崇男:「妻として申し分のない事をしてきてくれた。それが分かっていながら……つい静江に……俺が悪かったんだ」
 
 

加寿子は静江の身体から出てきていた。
加寿子が飲んだゼリージュースの事を話し、現在に至った経緯を静江に話す。
ダイニングキッチンにあるソファーで、心の内に秘めていたものを全て吐き出した三人。
加寿子にとって、崇男と静江の関係はショッキングな内容ばかりだったが、それでも全てを聞いた後は
心を落ち着かせる事が出来ていた。
静江にとっても、崇男の妻である加寿子に全てを話せたことで、本当の自分を
分かってもらえたような気がする。そして、愛してしまった崇男と別れる決心がついたのだ。
 
 
 
 

崇男:「すまん、静江」

静江:「……ううん。崇男さんが私と一緒になってくれるって言ってくれた時はとても嬉しかった。でも心のどこかで
    後ろめたい気持ちがずっとあったの。だからこれでいいのよ。もう二度と会わないと約束するわ」

加寿子:「……本当にそれでいいの?そんなに簡単に諦められるはずが無いわ」

静江:「いいんです。これが私がしてしまった事に対しての罰ですから」
 

俯き加減で話す静江。
改めて自分が犯した罪の深さを知った崇男は、それ以上何も言えなかった。
 

そして――
 
 
 
 
 
 
 

一年半後。

静江が済んでいたアパートの部屋に人気は無く、冷たい風が窓を軋(きし)ませていた。
 

加寿子:「静江さん、どうしているかしら?」

崇男:「さあな。俺には分からないよ。全然連絡が取れないんだから」

加寿子:「そうね。元気で過ごしていればいいんだけど」

崇男:「そうだな……」
 

そんな二人に、一通の葉書きが届く。
それを見て、にっこりと微笑んだ二人。
 

加寿子:「あなたっ。良かったわね、静江さん」

崇男:「ああ。何だか心のつっかえが取れたような気がするよ」

加寿子:「本当ね。静江さん、お幸せに……」
 

二人が手にした葉書きの裏には、崇男と同じ歳くらいの男性と、嬉しそうに微笑んだ
静江のウェディング姿が映っていた。

『色々ありがとうございました。私、この人と幸せになります』

という言葉が添えられて――
 
 
 
 
 
 
 

バレたら後が怖いです(後編)…おわり
 
 
 
 
 

あとがき
 

書き始め当初はダークな話に持っていこうと思っていたのですが、
何故かこのような終わり方に……
不思議です(^^;

静江に乗り移った加寿子が、静江の身体で崇男を誘惑して……
というストーリーを悶々と描(えが)いていただけに、惜しい事をしました(笑
これもまた一つの結末。
書き終えてホッとしています。

ちなみに、加寿子はゼリージュースを知り合いの知り合いの、そのまた知り合いから
手に入れたようです(^^
それは、崇男が浮気をしているかも知れないと、何気なく知り合いに相談したことがきっかけだったようですね。
もちろん、初めは浮気とゼリージュースが結びつく事など、加寿子自身にも分かっていませんでした。
でも、ずっと浮気を隠しつづける崇男に対して不安と嫌な思いが積もってきた加寿子は、
そのゼリージュースの効果で何かをすることが出来ると気づき始めたようです。
そして今回の話に至ると。

ゼリージュースを使う背景には、色々な思惑があるんですねぇ(笑

それでは最後まで読んで下さった皆様、ありがとうございました。
Tiraでした。