山口静江(やまぐちしずえ)さん
作:あさぎりさん |
静江(しずえ):「ねえ、大丈夫?奥さん、もうとっくに気づいているんじゃない?」
崇男(たかお):「大丈夫。バレない自信があるから」
静江:「でも……もしバレたら……」
崇男:「バレたら……その時は静江と結婚する。いや、もうそのつもりなんだから」
静江:「私がバツ一なのに?」
崇男:「そんな事、関係ないさ」
静江:「崇男さん……」
薄暗いラブホテルの一室。
ふかふかとした敷布団が敷いてあるダブルベッドの上で、山口静江(やまぐちしずえ)と沖村崇男(おきむらたかお)は
生まれたままの姿で、抱き合いながら横になっていた。
静江は若くして未亡人。
そんな彼女と、ひょんなことから知り合った崇男は、愛妻を持ちながらも浮気という形で
静江と付き合っていた。
妻の加寿子(かずこ)が嫌いなわけじゃない。
妻としてよく尽してくれるし、何より自分からプロポーズして結婚したのだから。
でも、加寿子は今年で42歳。
33歳の崇男とは9つも歳が離れているのだ。
40代に入ったくらいから女性としての魅力が急速に衰えてゆく加寿子。妻である前に、一人の女性として輝いていてほしい。
そんな崇男の心が、加寿子との距離を知らず知らずの内に離していった。
そんなとき、つい――
悪い事だとは思っていた。してはいけないと分かっていた。
だが、崇男は初めて会った瞬間、自分の理性とは無関係に心がときめいてしまったのだ。
――仕事で疲れていた崇男は肩を落として俯(うつむ)きながら、重い足取りで帰り道を歩いていた。
そんな崇男が、たまたま人気の少ない細い路地で女性とすれ違った時の事。
崇男:「??」
目の前に白いハンカチがふわりと落ちた。
女性とすれ違った事さえ気に止めていなかった崇男だったが、
足元に落ちてきたハンカチに気づくと、何も知らずに歩き去ろうとする女性の後姿を見て、
急いでハンカチを拾った。そして、軽く叩(はた)きながら遠ざかってゆく女性の後姿に向かって、
崇男:「あの、ハンカチ落ちましたよ」
と声をかけた。
その声に振り向いた女性。
飾り気のない黒いドレスに茶色いストレートの長い髪。
墓参りにでも行っていたのだろうか?
白い真珠のネックレスを胸元に光らせた彼女の整った顔立ち。
そして、ドレスの裾から見えるほっそりとした脹脛(ふくらはぎ)と足首に目を移した崇男は
思わずゴクンとツバを飲み込んだ。
「あ……すいません。私、いつの間にか落としてしまったんですね」
崇男:「は、はい……」
「ごめんなさい。ありがとうございます」
崇男:「い、いえ……」
寂しそうに笑顔を作った女性は、ゆっくりと崇男に近づいてきた。
そして、差し出された白いハンカチを受け取ると軽く会釈をし、また崇男が帰る道とは逆の方向に
歩き始めたのだ。
その後姿をじっと見つめる崇男。しかし――
崇男:「あ、あの……すいません」
その声にまた振り向いた女性。
「はい?」
崇男:「あの……そ、その……」
「…………」
崇男:「な、何か悩んでいるんですか?」
「……え?」
崇男:「そ、その……す、すごく寂しそうな顔をしているから……」
「…………」
崇男:「も、もしよかったら……何か悩んでいるのなら僕に話してもらえませんか?少しくらい気分が
楽になるかもしれない」
「……見ず知らずの方に話すような事じゃないです」
崇男:「……そ、そうですか。それなら……」
そういう返事が返ってくることは崇男にも分かっていた。
でも、声をかけずにはいられなかったのだ。彼女の存在は、それほど崇男の心を揺さぶっていた。
優しい目をして話し掛けてきた崇男を見ながら口元に片手を当て、少し戸惑った様子を見せた女性。
しかし、その手をギュッと握り締めたあと、何かを決心したかのようにコクンと肯いた。
「……でも」
崇男:「はい?」
「でも……聞いてくれるのなら……私」
崇男:「……き、聞きますよ。いくらでも!」
「……ええ……」
崇男:「そ、それじゃあこんなところじゃなんですから、あそこの喫茶店にでも入りましょうか」
「……はい」
――そして、崇男は静江が若くして未亡人になってしまった事を知る。
その亭主との思い出をずっと引きずりながら生きていることも。
彼女の心の中は、深い悲しみと寂しさに蝕(むしば)まれていた。
瞳に涙を浮かべながら、見ず知らずの崇男にこんなに辛い事まで話すなんて……
崇男は彼女の辛い気持ちを目一杯感じていた。
そして、そんな彼女に対して湧き出てくる特別な感情。
不謹慎にも、心がグラグラと動いている事を感じる。
目の前にいる静江は崇男よりも1つ年下だという。
この気持ち、後戻りは出来ない――
心の中でそう呟いた崇男。
一通り静江の事を聞いた崇男は、今、自分が置かれている立場を話した。
もちろん妻帯者である事も。
でも――
静江はじっと崇男の話を聞いていた。
崇男の優しい気遣いや行動は、前の亭主と重なるところが多々あった。
年齢も前の亭主と同じ。そんな崇男に、前の亭主を重ねてしまう。
そして、いけないとは思いながらも崇男に惹かれていったのだ――
加寿子:「今日も休日出勤なの?」
少し白髪の生え始めた加寿子が、玄関で崇男を見送る。
休日出勤が不満なのか、その表情は少し曇っているようだった。
崇男:「ああ。最近忙しくてさ」
加寿子:「それにしては給料に反映されないわね」
崇男:「あ、ああ……そ、そうだな。サービス残業ってやつだよ。俺だって辛いんだ」
加寿子:「そうなの、大変ね。あまり無理しないでよ」
崇男:「わかってる。いつもどおり昼の二時か三時くらいには帰ってくる。じゃあ行って来るよ」
加寿子:「ええ。行ってらっしゃい」
グレーのスーツ姿。
加寿子に見送られながら、崇男は家を後にした。
加寿子:「……あなた……」
加寿子は玄関の鍵を閉めると、小さめのカバンを手に持って気づかれないように崇男を尾行し始めた――
――とある2階建てアパートの一室。
スーツを脱いだ崇男はテーブルに置かれたグラスを手に取ると、冷えたお茶をゴクゴクと美味しそうに
飲み干した。
崇男:「ふぅ〜。外は暑いから冷たいお茶が飲みたかったんだ」
静江:「ビールじゃなくて良かったの?」
崇男:「ビールを飲むとご機嫌になっちゃうだろ」
静江:「そうね。まだ朝だものね」
崇男:「ああ……加寿子には休日出勤だと言ってきた」
静江:「最近はずっとそうね。大丈夫なの?」
崇男:「大丈夫だろ。加寿子は俺の事、信じているから」
静江:「でも……なんだか悪い気がするわ」
崇男:「今更何言ってるんだよ」
静江:「それはそうなんだけど……」
静江もグラスを手に取り、冷たいお茶を一口飲んだ。
そんな仲むつまじき二人がいるアパートの扉の向こうには、息を殺しながらひっそりと影をひそめている
加寿子の姿があった――
バレたら後が怖いです(前編)…おわり
あとがき
バレたらと言いながら、すでにバレました(笑
崇男はもう加寿子と別れてもいいと思っているようです。
静江も加寿子に悪いと思いながらも、崇男に惹かれている様子。
そして、最近様子がおかしいと思った加寿子が崇男を尾行し、静江のアパートに
転がり込んでいる事を知る――
自分より年下の女性と浮気している。
そして、信じていた崇男に裏切られた加寿子の取った行動とは!?
短かったですが、最後まで読んで下さった皆様、ありがとうございました。
Tiraでした。