氷井町グロブスタ「____降る」
九重 七志



雨の日、バス停。少女が一人。

しとしとと降る雨はどことなく優しげで、静けささえも感じさせる。

今ひとつ頼りがいのない、薄い日除けの屋根の下。
少女は一人。小さな文庫本を開き、バスを待っていた。

時折ずり下がる眼鏡をクィと上げ、淡々とページをめくる少女。

その身に果たして何が"降りかかる"のか――
少なくとも彼女は、そんなことを知る由もなかった。


「……んだよ、誰だ、あんた……?
 いつ入った、どこから入った、なんで入った……?」

薄暗い部屋の中、不健康そうな男がくぼんだ目を向ける。

視線の先には、白衣の女。

扉の鍵は締めたまま、窓も開いた様子もない。
もちろん招き入れたわけでもないし、そもそも相手に見覚えなどない。

「そんなことはどうでもいいさ。
 私は"味方"さ、"君のような連中"の」


「……うるせえ、頼んでねえよ。
 俺の部屋から、出て行け」

白衣の女は意に介さない。
口元に手を当て、何事かを口にする。

「――『こんなはずじゃなかった』」

「!」

「そう思っているはずだ、今も、昔も、きっとこれからも」

「……てめえ……!」

それが彼の逆鱗であったのか。
男が立ち上がり、女を殴りつけようとする。

「おっと」

女に拳は当たらない。
男がつんのめり、床に崩れ落ちたからだ。

「君にいいものをあげよう」

女は、胸元から小瓶を取り出し、男が見える位置に置く。

中身は、得体の知れない赤い液体。
どこか粘り気を帯び、心なしか少し蠢いているようにも見える。

「これを飲むといい。それか、塗るといい。
 まあ、体に触れさえすればなんでもいいだろう」


女はざっくばらんに中身の説明をする。
男は、わけが分からなかった。

「君はやるべきことがあるのだろう?
 なら、こいつはうってつけのアイテムさ」


何だ、何なんだ。"こいつ"は、"これ"は。
男は混乱の極みにあった。

離れる足音。そして、視界から女が消える。

「……ああ、最後に一つ。ちょうどいいヒントがあるんだ」

止まる足音、振り返るような空気の動き。
一拍置いた後、放たれる言葉。

「『あいつの娘は、すぐそこ』さ」

その言葉を最後に、女はここから居なくなった。
まるで初めから居なかったかのように。


しかし。

「……」

男は"小瓶"を手に取った。

「……畜生」

そして。

蓋を開け、"中身"を思い切り飲み下した。




散乱した部屋。開いた窓。差し込む光は曇り模様。

部屋に男の姿はなく、薄汚れたモニターが虚しく光る。


何事かと駆けつけた家族が、鍵付き扉を破るのは、その日の深夜のこと。

彼は誰にも顧みられることなく、その存在を失うこととなり。

窓のふちに、僅かにこびり付いた"あかいもの"が、
彼の存在を示す一つきりの残り香だった。




曇天、バス停。少女が一人。

先程まで降っていた雨は既に止み、天気は小康状態にある。

薄っぺらな日除け屋根は雨除けから本来の仕事に戻り、
溜まった雨垂れをぽつぽつとアスファルトに落とす。


ぽちょり、ぽちょり、ぽちょり。

少女の肩に、雫が落ちる。

ぐちゃり。

少女は、不意に上を向く。
何か、妙な違和感を感じたからだ。

そして、それは。

――まさしく、決定的なものだった。


「――!?」

日除け屋根は、"なにか"に染まっていた。

あかい、あかい、そのなにかは。
薄ぺらな日除け屋根に染み込み、垂れ、浸透していた。


ぐちゃり、ぐちゃり、ぐちゃり。

"あかいもの"は降り注ぐ。雨のように、少女の方へ。

「――ッ!??」

                
 これはなに?         
                
       ――いやだ    
                
 ――気持ちが悪い!      
                
       ぬるぬるする―― 
                
 熱い!            
                
          不潔――  
                
     汚らしい――     
                

少女の顔に、幾多の嫌悪の表情が並ぶ。

だが、それは。
ほんの始まりに過ぎなかった。

「!!!」


"あかいもの"が、うごめく。

それは、膨張し、伸縮し、彼女の体を這い回る。

そして、じわりじわりと。

少女の体へ、浸透する。


「っ!! ……っ! ――っっ!!」

少女の口元は既に粘液に覆われ、悲鳴を上げることすら許されない。

それでも懸命に声を上げようとする少女の喉元からは、
ただゴポゴポとした濁音のみが吐き出される。


ジュルリ、ジュルリと柔肌を撫で回す赤く熱い液体は。
すこしずつ、すこしずつ。その柔らかな体の内側へと染み込んでいった。


「!!!?」

無論、それだけではない。

耳、鼻、臍、爪の隙間。眼窩の奥や恥部、秘部。
あらゆる穴に血管集結部位、薄肌の層。その全てが"侵入経路"となる。

遂には。

「――ぁ」

ぐるんと眼球が回り、大きな泡を吐いて崩れ落ちる。

斯くして少女は意識を手放し、溺れるように闇へと沈む。

対して、蠢き続ける"あかいもの"は、次第に体積を減らしてゆく。

即ち、少女の中へ。その内側へ。
じゅくり、じゅくりと、浸透を続けていく。

やがて、全ての粘液が少女の中へ消え去ると。

骸のような少女の躰は。
一度だけ、ビクンと跳ねた。


雲に隠れた太陽が。
今際の抵抗虚しく、海へと――沈む。



小雨、バス停。俯く少女。

乱れた着衣を直すこともせず、その少女は笑っていた。

泣き腫らしたような赤い目、犬歯を剥き出した微笑。

その指先は自らを抱くように、自分の体へと向かっていた。

「……ぁっ……はァ……んぅ……」

その右腕は豊かな乳房へ、その左腕は整えられた薄毛の秘部へ。

びしょ濡れの身体は、ただ雨に打たれたという風ではなく。
淫靡で、姦濫な、厭らしい雌の臭いを漂わせていた。

「んぁっ……はぁ……ああっ……」

おおよそその瞳に理性はなく。
獣のように情欲を貪っている。


あっ、と小さく声が鳴る。
一拍を置いて、咽ぶような嬌声。

寄せ波のように、引き波のように。
繰り返す快楽は、飽くことなく反復する。

「…………っはぁ〜…………」

ようやく、手が止まる。

両手をぐでっと垂らし、上を見上げて長く一息をつく。

上気した頬はうっすらとほの赤く、掛けていた眼鏡を白く曇らせている。

少女は、荒れた呼吸を整えながら。
ぬめったものに塗れた指を口元へ持っていく。

粘ついた指先にそっと口をつけ、ちろりと下を這わせると。
真面目そうな顔立ちに似合わぬ凶暴な顔で、ぽつりと呟いた。

「……ハッ……淫乱女め……
 『親の顔が見てみたい』ぜ……!」


少女はすっくと立ち上がると、傘も差さずふらふらとバス停を離れてゆく。

ぴちょり、ぴちょりと体液を滴らせながら。
段々と勢いを強める、雨水に打たれながら。

少女は今にも歌いだしそうな勢いで、大口を開けて笑う。

そんな少女の口の端には、得体の知れない"あかいもの"が垂れていた。

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怪雨あやしのあめが、降る】 おわり。