第3回 「てっつ庵」より「入れ替り物図書館」 http://web.archive.org/web/20040926114556/http://saruman.hp.infoseek.co.jp/ 「入れ替り物図書館」http://web.archive.org/web/20041022025127/http://saruman.hp.infoseek.co.jp/t_books/booktop.htm 多様性と固定観念のはざまで 今ではパターン化されてしまっている部分も少なくないとはいえ、「入れ替わり」は多様性に富んでいる。その上、時には予想を裏切るような、そしてどう考えても理解不能な設定や展開に出くわすことだって、たまにはある。当事者の組み合わせ、性別、関係、原因・方法、そこで生まれる状況、当事者の感じ方、言動、ギャップ、結末、テーマ…。そのどれをとってもそうだ。 この分野に少しでものめり込んだことのある人なら、「入れ替わり」を扱った作品が、一般に言われているほど「入れ替わりモノ」とか「入れ替わりネタ」というくくりで一口に語れるものではないということには、多かれ少なかれ気づいているだろう。しかも、近年では個性的な作品が目立つようになってきているだけに、TSFや「入れ替わり」のマニア以外でも、このことに気づいている人はもしかしたら少なくないかもしれない。 上に挙げたような多様性は「入れ替わり」の持つ魅力の一つであると同時に、その世界の奥の深さとシチュエーションの汎用性の高さの証明でもある。ところが同時に、このことは多くの人にとって最も理解されにくく、受け入れがたいものなのかもしれない。「入れ替わり」は今やフィクションに定着し、広く認知されている。だがその中身は、「男女入れ替わり」と事実上ほぼ同意になってしまっている。 このことは、多かれ少なかれ誰もが感覚的には実感していると思われる反面、その背景となっているものを読み解くのは難しい。ただ、いくつか考えられる要因はあり、たとえば、映画『転校生』のインパクトの強さやフィクションにおいて多用されていることによるなじみ深さ、そして創作のうえでも現在知られている中で最も面白いパターンとなっていることなどが挙げられる。 確かに、映画『転校生』が、日本における「入れ替わりモノ・ネタ」の元祖及び代名詞的存在だといえるのは間違いない。その公開前にもSFを中心に海外の作品が翻訳され、一部の作家やマンガ家が用いてこそいたものの、古典も日本で知られている海外の名作も不在であったうえ、同映画はそこで描かれる「入れ替わり」に性や相互理解などのテーマ性を持たせた。また、男と女は生物的・社会的にも大きく異なっているだけに、心または体の交換による立場の交換は、多種多様なギャップと緊密な関係を生み出し、その上、異性のデリケートな側面を意外に抵抗感なく描き出すことができる。とりわけ、同映画で描かれているような思春期ともなるとなおさらで、ここで語る余裕はないながらも、微妙な時期ということもあって、その心理的描写に深みが出、いっそうリアルなものとして描くことができる。 それだけに、当時の人たちの同映画に対するインパクトは相当なものだったということは、同映画を直接見ていない世代である私にとっても、その知名度の高さや引き合いに出される度合いからも容易に想像がつく。また「入れ替わり」がラブコメにおける王道的展開とみなされていることや、TSFにおいて、変身や憑依に並ぶメジャーなパターンの一つとして扱われているように、作家や読者・視聴者の間にもどこか名作にあやかりたい心理を持っているのだろう。 イメージを打ち破った「てっつ庵」の斬新さ そのように「入れ替わり」=男女間というイメージと「入れ替わり」がフィクションに定着し、今やジャンルにまで発展していることは無縁ではないだろう。ところが、このような思い込みによって、男女間で入れ替わる作品以外は切り捨てられてしまい、そのせいもあってか、同性間というだけで否定的にとらえている感想もしばしば見かける。それは極端にしても、男女間でないものまでつい「男女入れ替わり」というモノサシで評価してしまいがちだし、男女間であったとしても、メインとなるのは若者同士、主として中高生同士なので、親子間や見知らぬ同士というパターンも案外意識されにくい。 この点で、「八重洲メディアリサーチ」の前身「八重洲性転換の館」がオープンした翌年の1998年12月にオープンした(サイト自体のオープンは同年1月)てっつさんのサイト「てっつ庵」の「入れ替り物図書館」というコーナーは画期的だったといえる。前回紹介した「八重洲メディアリサーチ」と違って、作品リストと創作、掲示板だけというシンプルな構成のサイトながら、男女間のものに限らず、「入れ替わり」全体を対象としてリストしていた。八重洲さんのサイトのリンク(※1)では、
と述べられており、当時としては「珍しいコーナー」だととらえ、自身の作品リストでもまだリストされていなかった作品がいくつかみられて勉強になったという。また「入れ替わりマニアックス」のクロエさんも、「この方面の先駆的存在」だと評している(※2)。その点で、TSFの中の「入れ替わり」ではなく、それ以外も含めた「入れ替わり」という範囲でリスト化することがいかに珍しく、先駆的であったかがよくわかる。 状態と過程を分ける、ということ だが、メインはあくまでも該当作品をリスト化することにあったようで、前回紹介した「八重洲メディアリサーチ」と違って、評論やエッセイの類は全く掲載されていない。そのため、「入れ替わり」に対するイメージについて明確に語っている箇所は見受けられず、その点では「入れ替わり」観について扱っている本連載の対象外である。しかし、私があえて本連載で取り上げることにしたのは、「入れ替わり」という視点で扱った初期のサイトであることに加え、てっつさんの「入れ替わり」に対する認識を推測することができる記述がいくらか見受けられるからである。 たとえば、「入れ替り物図書館」で述べられている説明では、「このコーナーでは『転校生』等の人格入れ替りをテーマに扱った作品リストを公開しています」と述べられているように、「入れ替わり」を『転校生』に象徴されるものとみなしており、なおかつ人格が入れ替わるものとして、また一つのテーマとしてみなしていることがわかる。そして、同サイトで取り扱うシチュエーションについて述べられた「このサイトについて」(※3)というページでは、「入れ替わり」が、複数の対象間での心あるいは体の交換というシチュエーションを言い表す語句としてすでに用いられている。
現在ではTSFのみならず、マンガやアニメ、ドラマなどにおいても広く用いられている用法がこの頃すでに用いられていたということは、その定着を考える上でも貴重な事例であろう。ところが、同じ「入れ替わり」でありながら、その概念や表現は、現在一般的なものとなっているそれとは大きく異なっていたようである。 現在「入れ替わり」というと、一般的な意味では、当事者間で心または体のいずれか一方が「入れ替わっている」という状態のほかに、ある原因によって入れ替わってしまう、あるいはある方法によって入れ替わるという、その経過やプロセスを含んだものとして認識されている。そしてそれらの過程を含む形で「入れ替わりモノ」とか「入れ替わりネタ」と呼ばれ、一つのストーリーとなっている。 確かに、そういったシーンをあえて描かない、唐突な始まり方をする作品もあるにはある。しかし、男女間で入れ替わるとか、アクシデント的な要因によって入れ替わるなどといった設定同様、当事者が入れ替わるシーンを含むことは、ある意味で一つのお約束となっている。また、入れ替わって元に戻るまでが一つのストーリーだという考えも根強い。「入れ替わり」が状態のみならず、プロセスや経過を含んだものとしてとらえられていることは、その表れだといっていい。 ところが、上に引用した部分を見てもわかるように、この記事では「入れ替わり」はあくまでも当事者間で入れ替わっているという状態のことを指すにとどまっており、その手段や方法は「精神交換」や「人格交換」、「脳移植交換」、「整形手術」といった、別の語句によって言い表されている。また、それらの手段・方法によって「入れ替わり」という状態が成り立つものと暗黙の内にみなされており、憑依や転生も「入れ替わり」の中に含められている。 「整形手術」まで含めているのは、どこかアメリカ映画の「フェイス・オフ」を思わせるが、その基本は「交換」であって、それも人為的に行うもの、というイメージが反映されているように感じられる。衝突や転落、落雷など、原因についての記載はないが、実質的には「精神交換」や「人格交換」に含まれているのだろう。それがどういった方法でなされるのかについては、分類上、さほど重要視していなかったのかもしれない。 また、憑依や転生は、今では「入れ替わり」とは別の分野とみなされているものの、まぎらわしいものでもある。「転移」とは単に移るという意味だし、心(及びそれに相当する心的実体)が本来の肉体とは別の肉体に乗り移るという、心身二元論に基づいている点では共通している。また、東野圭吾の『秘密』に代表されるように、憑依を扱った作品が「入れ替わり」と誤解されることも少なくない。 その点からしてこの記事は、世間一般にどういったものを「入れ替わり」とみなしているか、というよりも、精神や人格が別の肉体に乗り移るという、その基づいている思想・プロセスという観点から、感覚的に分類されているように感じられる。もちろん、執筆者が何か意図をして、このように分けたのかは、今となってはわからない。「八重洲メディアリサーチ」同様、パイオニア的存在であったがゆえに、その概念や語句においても未熟であったのかもしれない。 しかしその作品が、又その作品で描かれているものが「入れ替わり」であるか否かの基準という観点からすれば、的確であるといっていい。「入れ替わり」とは、ある対象同士の心または体(及びそれに相当するもの)が入れ替わり、本来の組み合わせとは違った状態で両者が結びついているという状態が成立することであり、そのような状態が成立するだけで「入れ替わり」とみなされる。このことはそのような状態が何によって成立するかという基準ではふつう分類されないことや、朝起きたら入れ替わっていたという唐突な始まり方や入れ替わるシーンを描かなくても十分にストーリーが成立することに顕著に表れている。 この点において、原因・方法と状態とで違った語句を用いる、つまり両者を分けて考えるという、同記事における「入れ替わり」の解釈は「入れ替わり」が語句としてはもちろんのこと、概念的にも十分確立していなかった当時だからこそ生まれたものなのかもしれない。また、このような表現・解釈の仕方は、ある意味重要なポイントを突いている。 本来「交代」を意味する「入れ替わり」が、立場や服装、体の一部など、多様なパターンを無視して、基本的に心や体だけの交換を指す語句として用いられ、その上入れ替わる過程においてもこの語句を用いている。しかも、技術的なものや魔術的なものは傍流扱いされ、アクシデント的な要因によって入れ替わるというイメージがある。当然、それによって成立する状態よりも、どういった原因によって入れ替わるのかということに、読者や視聴者の関心は置かれる。 大体の場合、その予感は的確であるが、たまには外れることもある。当事者が衝突や転落、落雷などに遭うシーンがあれば「入れ替わり」ではないかという先入観を持ってしまったり、憑依や精神同居、転生などに属する作品を誤って「入れ替わり」に分類してしまったりしていることも少なくないのがその証拠だ。しかし、原因や方法と状態とを分けて考えると、その境界線は意外と明確になり、それによってもたらされる状態に着目することで、誤解も少なくなる(ゼロにはならないにせよ)。原点とは言わなくとも、初歩に立ち返ってみると、語句の独り歩きのあやうさがよくわかる。 そのように、このサイトも「入れ替わり」に特化した点では先駆的だったが、オープン2年後の2000年12月ごろには更新が停止され(※4)、その後情報掲示板も停止し、管理人とも連絡がとれなくなってしまったという(※5)。その後もサイト自体は近年までウェブ上に存在していたものの、残念ながら2010年10月に、無料ホームページサービス「iswebライト」が終了したことよって見られなくなってしまった。ただ幸いにも、インターネットアーカイブには残っており、「八重洲メディアリサーチ」とほぼ同時期の「入れ替わり」の認知状況を今に伝える、タイムカプセルのような存在となっている。 その反面、そこで述べられている「入れ替わり」の説明は、そのような状態に置かれるだけでも十分に成立するという重要なポイントを突いていると同時に、逆に「入れ替わり」が一般にも広く定着し、「入れ替わり」だけで言い表されることも多くなった今だからこそ、かえって重要度を増してきているように感じられる。それがどういった風に認知され、その中身がどう変化していったのかについては、残念ながらここで述べる余裕はないが、「入れ替わり」の意味の変遷やそこで用いられている表現は、「入れ替わり」観を読み解く上でも重要なポイントなので、この記事では「入れ替わり」が状態のことだけを指していた、ということはぜひとも頭の片隅にでも入れておいてほしいと思う。 参考 ※1)http://www14.big.or.jp/~yays/link.html ※2)http://www5f.biglobe.ne.jp/~cloe/introduction.html#welcome ※3) http://web.archive.org/web/20040823114023/http://saruman.hp.infoseek.co.jp/t_books/whatis.htm ※4)サイトでは2000年11月10日が最後の更新となっている。
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