第2回 「八重洲メディアリサーチ」より「神話的性転換の世界を総括してみる試み」

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八重洲さんのサイト「八重洲メディアリサーチ」、旧称「八重洲性転換の館」といえば、古参TSFマニアにとっては懐かしいサイト名かもしれない。


以下に引用した「フィクション系こだわり情報局」の記事(※1)でたにやまさんが述べているように、同サイトは日本におけるTSF関連サイトのパイオニア的存在であり、「ロマン(幻想)としてのトランスセクシュアリズム」をテーマとし、「各時代の各種のメディアに散見される性転換的モチーフを収集し、分析する」、つまり「性転換的なモチーフが登場する小説・コミック等の網羅的な解説(紹介)」を目的としていた(※2)。


このこだわり層のコミュニティは古くはパソコン通信時代からあったようだが、本格的に なったのはやはりインターネットからだ。97年に八重洲氏がサイト『八重洲  性転換の館』(現在は『八重洲メディア リサーチ』)を立ち上げてから多くのTSF情報がここに収束するようになる。 八重洲氏はこの分野の正にパイオニアと呼ぶにふさわしい活動を展開している。


このことは、このサイトが多様なコンテンツから構成されていたことにも表れている。該当作品をリストした「作品リスト」、エッセイなどからなる「語りの間」、ブログ「八重洲之譜」、新作についての情報を掲載した「萌え暦」、そして創作を扱った「少年少女文庫」…。最盛期は1990年代末から2000年代前半だったようだが、「八重洲之譜」や「萌え暦」は2009年3月ごろまで更新されていたようだ。


今では事実上の更新停止状態にある(同サイトのリンクでも「休火山への道」という項目に入れてある!)とはいえ、同時期のサイトの多くがサイトの閉鎖やサービスの廃止などによって姿を消してしまった中、今なおウェブ上に残っている。そればかりか、作品リストも2001年ごろで更新停止となっており、1990年代末〜2000年代初頭のTSF界の状況を今に伝えるタイムカプセル的存在となっている。そして、今このサイトを見返すと、その概念や定義自体がまだまだ確立していなかったということに気づかされる。


後述する「神話的性転換の世界を総括してみる試み」でも述べられているように、表現も現在一般化している「TSF」ではなく「性転換フィクション」とか「神話的性転換」という、どこか堅苦しい感じのする語句が使われており、今では考えられないことであるが、「作品リスト」では、メディア別の分類はなされている反面、パターン別の分類はなされていない。つまり、変身も「入れ替わり」も、憑依も、それ以外のパターンも一緒くたにリストされているというわけである。


もしかしたら、当時は性転換した当事者の心境や言動、ストーリーこそがその中心であり、原因・方法やそれによってもたらされる状態にはあまり関心がもたれていなかったのかもしれない。そして、該当作品自体が少なかったこともあってか、今のように嗜好も多様化しておらず、様々なパターンに関心を持っていたのかもしれない。ただ、これらについては他のサイトの事例も含めて考察する必要があると思うし、第一、「入れ替わり」観からはそれてしまうので、ここではそれ以上追及しないことにしたい。


その反面、概念や定義についての考察のほうは、今ほど概念や分類が確立していなかったこともあってか、やや詳細に書かれている。その傾向が特に顕著に表れているのが、エッセイを中心とした「語りの間」というページで、記事数は少ないものの、現在ではほとんど見られなくなった長文の記事が多く、評論や研究と言っても差し支えないくらいクオリティーが高い。中でも、今回紹介する「神話的性転換の世界を総括してみる試み」という記事は、2001年に書かれたもので、残念ながら未完に終わっているものの、ある意味で傑作だと思う。


この記事では、様々なことが述べられているが、メインは「神話的性転換」という語句とその概念についての説明である。「神話的性転換」とは、「ファンタジーとしての性転換の物語」、厳密には現実には不可能(とされる)な、人間の「生殖機能込みの完全な性転換」という、「観念の産物」を扱ったフィクションのことを指す。そして、その歴史はギリシャ神話などにもさかのぼれるくらい古く、当時の人たちの想像力の豊かさがそういった物語を作り上げていったとしつつも、半陰陽、去勢などから着想を得たのではないかと推測している。


しかし、同記事における「神話」とは、それら「古典テクストとしてのいわゆる『神話』」のことではなく、「現実(リアリティー)を否定した観念上の物語」という意味である。また、広義の意味ではSFやファンタジーにおける「現実のリアリティーと訣別した空想の産物としての性転換」、たとえば、脳移植や「人格交換」(入れ替わり)などがそれにあたる。そして同サイトは、それら「神話的性転換」を扱っており、「性転換フィクションのファン層を切り開くにあたって最初期から「神話的性転換」をその話題の中心に据えられたという事」を功績として挙げている。


当時は「性転換フィクション」と言われても何のことかピンとこなかったと思われるだけに、その特徴や性格などについて説明する必要しなければならなかったのだろうが、本題のみならず、神話における扱いや手術による性転換、海外の状況などといった、隣接するテーマや現実との関係性などについても扱っているところに、初期のTSFサイトを作ったマニアたちのこだわり(苦悩?)が感じられると同時に、パターンによって細分化され、嗜好も多様化している今だからこそ、その総合的・広範囲に及ぶ視点は、逆に見習うべきところかもしれない。


『転校生』と結びついたイメージ

サイトの紹介はここまでとして、同サイトは現在でいうところのTSFを扱っているものだけに、扱われている対象は当然、男女間で入れ替わるものに限定されている。だから、そこで述べられているのはあくまでもTSFという視点から見たものだということはいうまでもないし、第一、「入れ替わり」について言及している箇所自体少なく、それほど明確に書かれているわけでもない。


その点で、「入れ替わり」観が顕著に表れているわけではない。しかし『転校生』や『おれがあいつであいつがおれで』などと結び付けられてイメージされることが多く、TSFにおける主要パターンとしての地位を確立しているように、「入れ替わり」はTSFと切っても切れない関係にある。それだけに、この記事においても「入れ替わり」観が現れている箇所はいくつか見受けられる。その一つが「神話的性転換」について簡単に説明している記事の冒頭部分である。


神話的性転換とは、男性が女性に変じてしまうあらゆる種類のフィクションを包括する語だと了解しておいてほしい。口語的にはたびたび「性転換モノ」などと呼ばれる物語のことである。
 階段を転げ落ちた男女の人格が入れ替わる。
 呪われた泉で溺れた少年が女の子になってしまう。
 マッドサイエンティストによって違う性別の肉体に脳移植。

etc.


上に引用したように、この箇所では、「神話的性転換」と聞いて思い浮かべると思われる作品のストーリーが三つ列挙されている。作品名こそ記されていないものの、何の作品のことかは言わなくてもお分かりだろう。前の二つは『転校生』と『らんま1/2』であることは間違いない。最後の一つは、ハインラインの『悪徳なんて怖くない』が後で挙げられているものの、「マッドサイエンティストによって」とあるから、『ボクの初体験』のことを指している可能性も考えられる。


もちろん、八重洲さん自身が、そういったものとしてイメージしていたのか、それとも「性転換フィクション」を知らない人にとってもわかりやすい作品の例として、これらの作品のストーリーを引き合いに出したのかはわからない。しかし「神話的性転換」といえば、変身・「入れ替わり」・脳移植などといったものをイメージし、「入れ替わり」といえば、『転校生』と結び付けられたものとしてイメージされていたことがうかがえる。


余談だが、今、TSFと聞いてイメージするストーリーとして、どういったものを挙げたらいいだろうかと考えてみると、選ぶのが大変そうだ。「入れ替わり」に限っても、『ココロコネクト』はパターンが特異だし、『僕と彼女の×××』は知名度的には高いと言い難い。『パパとムスメの7日間』や『ドン★キホーテ』ともなると逆にTSFマニアは関心を持っていたかどうか…。


人々の認識としてはともかく、ストーリーや設定上は多様化し、一般にも広く認知されるようになった反面、メディアも多様化し、「共通認識」ともいえるような作品がなくなってしまっただけに、どう考えても『転校生』、もしくは『おれがあいつであいつがおれで』が一番合っていそうだが、このことは同作品のインパクトがあまりにも強かったということの表れなのかもしれない。これ自体は他のサイトにもいえることなので、どうか覚えておいてほしい。


「まさに」が示す非現実さ

そして八重洲さんは「入れ替わり」、ここでは『転校生』のような、階段から転げ落ちることによって、人格(心)が入れ替わることが、「完全な性転換」や脳移植などと同じく、非現実的なものであるばかりか、それら以上に「神話的」であると考えているようだ。


記事でも述べられているように、「神話的性転換」とは、「神話における男から女への変身譚」のことであり、それらの物語において重要なのは、人間の場合は不可能である「生殖機能込みでの完全な性転換だということ」である。そして、このサイトが扱っている対象は、人間の完全な性転換を扱ったフィクションである。


もちろん、サイトのテーマからすれば、「入れ替わり」はあくまでも「神話的性転換」を成立させるための一つのパターンにすぎない。しかし、そのことと同時に、脳移植や「入れ替わり」の非現実性についてもさりげなく語られている。それが「まして、脳移植や階段落ちによる人格交換においておや、である。」という記述であり「完全な性転換」でさえも現実には不可能なのだから、脳移植や「入れ替わり」ともなると「完全な性転換」以上に非現実的なものであるとみなしているように感じられる。そればかりか、男女間での「入れ替わり」は、「神話的性転換」の典型的なパターンだととらえているようだ。


例えば、SF(空想科学)やファンタジィを、現代において神話を語るための装置であると考えることができる。その意味で、『悪徳なんて怖くない』で老いた富豪が若い女性秘書の肉体に脳移植される物語もやはり神話である。また、階段を転がり落ちたことで少年と少女の心が入れ違ってしまう『転校生』の物語などはまさに神話的だ。現代の医学・科学のリアリティーを否定して成立している点で神話的である。


「神話的性転換」には、実際の神話だけでなく、「現代において神話を語るための装置」となっているSFやファンタジーも含まれ、それらは「現代の医学・科学のリアリティーを否定して成立している点で神話的」である。その点で、脳移植も当然「神話」であり、ましてや「入れ替わり」ともなると「神話」というにふさわしいものだといっていいくらいだ。この「まさに神話的だ」という部分に、この記事における「入れ替わり観」が顕著に表れていると言っても過言ではない。


「性転換」も手術による疑似的なものはともかく「完全な性転換」ともなると現時点では不可能だし、脳移植にしても、現実には脳の神経細胞の移植の実験が行われている程度で、それにイメージが近い、頭部の移植でさえもうまくいっていない。だから、それらもSFやファンタジーであることは間違いないのだが、たとえ方法としてはデタラメで現実には作品中で描かれているほど簡単にできるものではなかったとしても、科学的な説明は可能である。


それに対し、「入れ替わり」の場合、具体的には『転校生』のような、階段(神社の石段)から転落することによって、男女の人格(別の見方では体など)が入れ替わるものの場合、現在知られている法則に基づく限り、科学的な説明は不可能である。転落したことによるショックで魂が体から抜けだしてしまい、元に戻ろうとした際、戻る体を間違えてしまったというオカルト的な説明は可能にしても、魂の存在を前提とするという点で、現在の科学では説明できない。第一、実際にあったという報告自体、存在しないのだ。


その点で、脳移植と「入れ替わり」のどちらが非現実的・非科学的かと聞かれたら、間違いなく「入れ替わり」のほうだろうし、現実にも存在することが確実な「脳」を他人の身体に移植することのほうが、より現実味があると思われるのも無理はない。まさに神話的だ」という主張は、それが「完全な性転換」を成立させるための方法であるという点で共通しているものの、科学的か否かという点で、変身(性転換)や脳移植以上に非現実的なものだとみなしていることの表れだと言える。


ただし、それはあくまでも同サイトが扱っている「神話的性転換」、つまり「現実のリアリティーと訣別した空想の産物としての性転換」という、作品中において「完全な性転換」を成立させるための、一つのシチュエーション(展開・設定)という枠内での見方にすぎない。そのため、手術による性転換がその対象から外されているのと同様、錯覚的な「交換」や技術的に将来実現する可能性も対象外となっている。しかも、後者に関しては、記事中では一切ふれられておらず、この点で現在一般に広く定着している「入れ替わり」に対するイメージと似通っているといえる。


この記事から見える「入れ替わり」観

そして、この記事では『転校生』という、特定の作品の設定を例に挙げて論じている。また、同サイトが今でいうところのTSFを扱ったサイトであり、「入れ替わり」のほうは、あくまでもおまけ的な扱いにとどまっていることから、他のパターンの作品、特に男女間以外のパターンの作品にも、この見方が適用できるのかどうかはわからない。


しかし、前述したように、「入れ替わり」といえば、『転校生』に象徴されるような、階段を転げ落ちることによって男女の人格(心)が入れ替わるというイメージを持っており、脳移植同様、現実には不可能な「完全な性転換」を成立させるための一つの方法ととらえている。そして、完全な性転換や脳移植と同じく、SFやファンタジーに属する現実にはありえないものとみなしている。そういった暗黙のイメージといえるものが見受けられる点で、一種の「入れ替わり」観だといえるかもしれない。


それを一種の「神話」とみなしているところに八重洲さんらしさが表れているものの、実質的にはSFやファンタジーの一つという認識にとどまっているといってよいだろう。対象がフィクションに限定されており、疑似的なものや将来の実現の可能性などを考慮することなく、非現実的なものとみなしている。奇しくもそれはブログなどでよく見受けられる「入れ替わり」のイメージと似通っており、一般的なイメージの域を出るものではなかったといえる。あえて言うならば、テーマがTSFである分、「入れ替わり」は専門外だったのかもしれないが…。


参考


※1)「TSF史概要 その1」http://www.geocities.jp/kodawari_biboroku/old/tsfarchive001-010.html

※2)

http://www14.big.or.jp/~yays/intro.html