第1回 「入れ替わり」観とは何か


本連載のタイトルは「日本人の「入れ替わり」観」である。簡単に言えば、「入れ替わり」というフィクションの一シチュエーション及びジャンルを、日本人はどうとらえているのかについて、ネット上の様々な記事から探ってみるといったところだろうか。


『転校生』が公開されてから今年で32年、今や、本来「交代」を意味する「入れ替わり」が、複数の対象間での心あるいは体の交換という、フィクションの一シチュエーションやジャンルを指す語句として広く用いられていることからみてもわかるように、TSFの分野ばかりか、一般にもなじみ深いものとなっている。しかも、コメディーやファンタジーはもちろん、SFやミステリー、ホラーなどでも用いることができるくらい汎用性が高く、様々なジャンル・メディアにまたがっている。


このような状況からして、「入れ替わり」に対し、何らかのイメージを抱くことはごく自然なことだし、インターネットはもちろんのこと、ツイッターやブログ等の情報ツールが発達し、そういったテーマを扱った作品も目立つようになってきていることもあってか、作品の感想や評論などでイメージが述べられることも珍しくなくなってきている。

そういったことを考えれば、人生観、世界観、宗教観、歴史観、死生観…と、世の中には「○○観」という語句がたくさんあるように、「入れ替わり」観という語句があってもおかしくないものだし、実際、「TS研究所」では、「TS観」なる語句が用いられていたこともある(※)。


※)「TS観について」

http://web.archive.org/web/20021227021012/http://www004.upp.so-net.ne.jp/ts-kenkyuujo/zatudan/tskan.html

ところが、私の知る限りでは、なぜか皆無である。「TS観」にしても、この記事以外には確認できないことから、ほとんど定着せずに終わったようだ。その原因として考えられるのは、「入れ替わりモノ・ネタ」自体に娯楽的な要素が強く、その結果として、あまり深く追求されてこなかったということではないだろうか。

その背景を探る上では、「入れ替わり」の魅力についてふれる必要があると思うのだが、この点に関しては、すでに多くのサイトで語られていることなので、ここではそれなり簡潔に説明していると思う一例だけを挙げるにとどめたい。


【ドラマ評】テレビ史に残る円周率以下視聴率で全8回緊急打ち切り決定したTBSドラマ「夫のカノジョ」

http://birthofblues.livedoor.biz/archives/51471144.html

入れ替わり系ドラマの妙味ってのは「見た目と中身のギャップ」「視点の面白さ」「チームプレイでの困難克服」「エロ」な訳で、そういうポイントに着眼すると、ことごとく外している。わざとかもしれませんが。


もちろん、この魅力はドラマだけに限ったものではないし、一口にギャップといっても、「見た目と中身」、厳密には外見からのイメージや当事者(外見の)に対するイメージと実際、つまり言動とのギャップだけでなく、当事者のビフォーアフターやキャストのイメージとその演技など多様である。

けれども、いきなり相手の立場に置かれることを強いられるわけだから、当事者にとっては驚きと戸惑いの連続であり、そこから「視点の面白さ」、言い換えればユーモアや笑い、そして驚きなどが生まれてくる。そして、相手の干渉を受ける一方で、互いに助け合う「チームプレイでの困難克服」の中から相互理解が生まれるし、男女間での「入れ替わり」であれば「エロ」も魅力の一つであることはいうまでもない。

これらの要素は、「入れ替わりモノ・ネタ」において、作品を魅力的に、そして面白く(「エロ」が出てきたので、あえて付け足すとすれば成人向けに)している要素であることは間違いない。だからこそ、「入れ替わりアレルギー」といってもいいくらいに拒否反応を示す人がいる一方で、ベタでありながら楽しむ人もいるのだろう。


ところが、そこで描かれている「入れ替わり」や、そのイメージなどに着目した場合、これらの要素は裏目に出てしまう。コメディーというイメージが強いということは、深く考えることなく楽しめるということの裏返しでもあり、「視点の面白さ」や「エロ」もまた娯楽的要素が強い場合が多い。そればかりか、そこで描かれる「入れ替わり」自体は、現実にはありえないものとみなされている。もっとも、「入れ替わり」がどこからどこまでの範囲を指すのかは不明確なので、あくまでも「常識」でしかないのだが…。

その結果として、荒唐無稽で現実離れしたものとみなされてしまい、その背後にある思想や作者の考え、時代背景などの要素はおろそかにされやすい。当然、読者や視聴者の関心は、登場人物の言動の方に行ってしまうし、いくら相互理解などのテーマを設けたところで、お題目か取って付けたようなものに終わってしまうのも無理はないのだが…。

しかも、参考文献は皆無に等しく、定説や通史とも呼べるようなものも存在していない。そのため、情報源の正確さも必ずしも保証されているわけではない。2000年代以降の状況ならまだしも、それ以前の状況ともなると、『転校生』や『放課後』など一部の名作を除けば、一般にはあまり知られていないといってよく、正確な情報を得ることすら困難である。ましてや、その歴史や変遷ともなると、ほとんど思い込みから成り立っていると言っても過言ではない。たとえば「古くからある」といった主張の根拠が、実は『転校生』であったりするように…(実を言うと、資料の乏しい中にあっても、少なくとも江戸時代中期まではさかのぼれるようなのだが…)。


もちろん、「入れ替わり」観という語句をわざわざ用いるのは、この連載で日本人が持っている「入れ替わり」に対するイメージについて考察してみようというねらいがあるからにすぎない。つまり、あくまでも仮の語句である。それに、フィクションが先ほど挙げたような「○○観」を反映していることも少なくないように、「入れ替わりモノ・ネタ」もまた、心身二元論や魂の存在という前提において、死生観や宗教観などと関係している部分がないわけでもないし、互いを理解し合うことが大切だという点で人生観を反映していたり、登場人物の描写において、その属性のステレオタイプやジェンダーを反映していたりと、そこから読み解くことのできるイメージも少なくない。

ただし、そういった「○○観」を反映しているといえるのは、「入れ替わり」のごく一部の要素にすぎない。結局のところ「入れ替わり」それ自体はフィクションにおける一シチュエーションでしかなく、それゆえに、イメージ自体を既存の「○○観」で説明することは困難である。そこで、本連載ではあえて「入れ替わり観」という語句を作って説明することにしたわけだが、そのことを反映している代表的な記述としては、以下の四つが挙げられよう。


@   「入れ替わり」の位置づけ。

A   「入れ替わり」と聞いて思い出す作品。

B   「入れ替わり」と聞いて思い出す設定・ストーリー・テーマ。

C   「入れ替わり」に対する印象。


@の「入れ替わり」の位置づけとは、簡単に言えば、「入れ替わり」をジャンルとみなすか、シチュエーションとみなすか、あるいは、その作品におけるメインテーマとみなすか、それとも単なるネタとみなすかといった、その位置づけに関する見方のことを指す。

小説やドラマではメインテーマとして扱われることも少なくないのに対し、マンガやアニメでは一話完結の作品におけるエピソード的なものとして扱われることが圧倒的に多いなど、発表されるメディアによってもいくらか傾向的に違っている。また、ある特定の作品の感想の場合、ドラマならドラマ、アニメならアニメといったように、同じメディアの範囲内で比較されることも少なくない。

つまり、その人にとってなじみ深い「入れ替わりモノ・ネタ」や、あるメディアにおける扱われ方や認知状況を知る上でも、一つの参考になるものだといえる。


Aの「入れ替わり」と聞いて思い出す作品とは、「入れ替わり」と聞いて思い出す特定の作品名、あるいは特定の作品のストーリーや設定などのことを指す。中でも代表的なのは「転校生」と「パパとムスメの7日間」だろう。時には「とりかへばや物語」や「秘密」「椿山課長の七日間」など、ここでいう意味での「入れ替わり」ではないものが挙げられることもある。

そのくらい、「入れ替わり」という概念はあいまいなのだろうが、このようなイメージがなされることは、日本人にとって「入れ替わり」というシチュエーションがなじみ深いものとなった証拠でもある。今までそういった作品を一つも見たり読んだりしたことがないという人はおそらく少数派だろうし、たとえそれが「入れ替わり」と呼ばれていることを知らなくても、具体的な作品名を挙げれば、少なくとも一つや二つはそれを扱った作品を思い出すという人だって決して少なくないだろう。

『転校生』という代名詞的作品が存在しているだけに、感想や評論でもけっこう述べられている。ただし、具体的な作品名が挙げられていなくても、その作品を知っている人であれば、何のことかピンとくるように語られていることも少なくないので、作品がある程度特定できる場合はこの部類に含めてもよいだろう。


Bの「入れ替わり」と聞いて思い出す設定・ストーリー・テーマとは、「石段から転げ落ちて男女が入れ替わってしまう」とか、「ぶつかって入れ替わる」とか「コメディー」「相互理解」などといった、「入れ替わり」というジャンルやシチュエーションに対して向けられているイメージのことを指す。

「衝突」や「石段落ち」「男女間」など、現在主流となっている設定やストーリーの多くは、ある特定の作品に由来するものだと考えられる。しかし「石段落ち」が「階段落ち」になったり、同じ「衝突」でも『おれがあいつであいつがおれで』では「身代わり地蔵」という魔術的要素が見られるのに対し、一般的なパターンでは「入れ替わり」の直接的要因となっていたりと、派生形や形骸化などが生じている場合も少なくない。

その点で、Aの「入れ替わり」と聞いて思い出す作品とかぶる部分もあるのだが、作品名を挙げることなく、特定の作品の一設定・ストーリーの範囲を超えて「入れ替わり」のイメージとして語られており、多くの作品にみられるような設定やストーリーが挙げられているのが特徴である。その意味で、このようなイメージは「入れ替わり」がフィクションに定着すると同時に、一般にも広く認知されることによって生まれたものだといえる。


Cの「入れ替わり」に対する印象とは、「入れ替わり」というジャンルやシチュエーションなどに対する印象やイメージについて述べたもののことで、「使い古されている」や「王道的展開」「古典的」などといったものを指す。

このパターンは、特定の作品に対するものであることもあれば、「入れ替わり」自体に対するものであることもある。だから、実質的には『転校生』が公開される前から存在していることになるし、実際、『ファンタジーの世界』(佐藤さとる 講談社現代新書 1978年)の「あべこべ玉」についての解説など、いくつかの事例が確認できる。ただし、いくら『転校生』や『おれがあいつであいつがおれで』などの影響力が強いと言ったところで、それが「ココロコネクト ヒトランダム」「山田くんと7人の魔女」などにも必ずしも適用できるわけではないように、特定の作品の設定やストーリーの域を出るものではない。それが特定の作品を超えて、「入れ替わり」や「入れ替わりモノ・ネタ」のイメージとして語られるようになったのは、少なくとも『転校生』の公開以降のことだと思われる。

とはいえ、感想や評論などで、語られることの多い部分であると同時に、その人の「入れ替わり」に対する認識が特に顕著に表れる部分でもあり、ある意味で「入れ替わり」観の核心をなすものだといっていい。ただし、一部のジャンルやメディアにスポットを当てたり、例外的なもの(調べてみると、これが意外と多かったりする)を排除していることも少なくなかったりと、思い込みや偏見も同時に反映されている部分でもあったりする。


そのように「入れ替わり」観とは、「入れ替わり」と聞いて思い出す作品名やパターン、原因、位置づけ、印象など、特定の作品に対するイメージやそれに由来するイメージ、そして「入れ替わり」というシチュエーションやジャンルなどに対するイメージとが混じりあったものだといえる。「入れ替わり」という語句自体もその一つだし、感想や評論などに限らず、「入れ替わり」を扱った作品もまた「入れ替わり」観の表れである。当然、この連載自体も「入れ替わり」観の一つであるということは言うまでもない。


言われてみれば意外と身近なものなのだが、そのことを意識することはなかなか難しい。それを知ったところで何か役に立つわけでもないばかりか、作品を楽しむ上ではかえって邪魔になるだけだろう。また、作品以上にマンネリ化しているといってよく、超常現象の本や昭和30年代前後の貸本マンガ、統計の集計などと同じく、同じような主張が何度も出てきてあまりにも単調な上、深く考えなくても楽しめる作品と違って、単調さに耐える持久力が要求される。


けれども、中には「なるほど」と思うものもあるし、日本人の「入れ替わり」観の一端をうかがい知ることのできるものもある。そして、フィクションにおいてすっかり定着した一方で、参考文献も有力な研究も皆無に近い中、それをどういったものとしてとらえているのかについて分析してみることは、ある意味で研究といえるのかもしれない。こんな連載を思いついたのも、記事について考察しながら、日本人の「入れ替わり」観について探ってみようという考えからである。


(以下次回)