特別企画

「入れ替わり」を定義する



第6回 事典は「入れ替わり」をどう説明したか(下-2)

5.ウィキペディア(日本語版)

おわび

当初の予定では、一回に分けて分析しようと思っていたが、書き直してみるとあまりにも長くなってしまった。そのため、二分割して掲載することにした。よって、これが第6回となることをお断りしておく。

二重構造の問題点③…欧米軽視

「入れ替わり」はフィクションで描かれている「物語の要素」であるとともに、アクシデント的要素の強い超常現象である。これが、このサイトにおける「「入れ替わりという現象」という物語の要素」という二重構造である。この二重構造は、日本における「入れ替わり」の認識の現状をよく表したものだといえるのだが、同時に、それに起因すると思われるいくつかの問題がある。今回は、その続きなのだが、その前に、前回述べた二つのポイントについておさらいしておくことにしたい。


① フィクションで描かれている「入れ替わり」は現象、それも事故的な要素の強い超常現象だということを前提としているため、技術的なものについては全くといっていいほどふれられていない。

② また、「入れ替わり」をアクシデント的な現象として扱うことの多い日本の作品における傾向に偏りがちで、欧米の作品との比較や作品がテーマにするものによるストーリーの違いやバリエーションなどについてふれられていない。

そして、今回述べるのは、以下のポイントである。

③ この記事では「入れ替わり」を扱った作品の変遷についてもふれられているが、海外の作品についての記述があまりに少なく、歴史の分析としては不十分である。

④ 挙げられている作品が日本の作品、それも小説やドラマ、映画などに偏っており、アニメのエピソードについてはほとんどふれられていない。

⑤インターネット上における特殊なものだと考えている上、「入れ替わり=TSF」という固定概念に陥っているばかりか、近年の商業作品における隆盛ぶりにふれられていない。

⑥ そればかりか、そういった作品が生まれ、定着した背景についての分析でさえも根拠が不確かである。


こういった問題について押さえつつ、このサイトにおける「入れ替わり」についての考えと問題点について述べていくこととしたい。


歴史不在の「入れ替わり」と欧米軽視の歴史記述

「入れ替わり」はいつごろ生まれたのか?

そして、フィクションではどう扱われてきたのか?

「入れ替わり」を扱った作品に関心のある人なら、こういったことは誰もが知りたいことだろう。ところが、その歴史についてまとめたものを私は知らない。あえて言うならば、クロエさんのサイト「入れ替わりマニアックス」のリストぐらいだろうが、それでさえも各時代の作品についての流れや傾向が説明されているわけではない。ましてや、多くのサイトではせいぜい『転校生』によって一般化したことにふれているのが関の山であろう。もしかしたら、特定の作品についての研究はあるのかもしれないが、過去、どういった作品が生まれ、時代ごとにどのような傾向がみられるのか、また、作品間の相互関係などは、いまだに不明な点が多いといっても差し支えない。

そのような、ほとんど研究の行なわれていない現状とは裏腹に、このサイトには入れ替わり物語の変遷」という一項目が設けられている。もちろん、参考になるようなものは何もないに等しいから、「人間の性格・記憶と肉体とが交換されてしまうという物語がどの時代に生まれたのかというのははっきりしていない。」という記述になるのは当然だろう。この記事で、「確認出来る中でもっとも古い類のもの」としているのは、江戸時代の民話やコナン・ドイル(Arthur Conan Doyleの「婦人の魂が交換されてしまうという話」(※)である。だが、それ以前からこういった作品はあったようで、私が確認した限りでも、1856年に発表されたテオフィル・ゴーティエ(Théophile Gautierの小説「アヴァタール(Avatar )」や、イギリスの作家、F・アンステイ(Thomas Anstey Guthrieの小説『バイス・バーサ(Vice Versa)』(1881)などが挙げられる。特に、『バイス・バーサ』は、欧米では『フリーキー・フライデー』と並んで有名な作品で、1988年には映画化もされている。ただ、古代ローマの詩人、オウィディウスPublius Ovidius Naso)の『変身物語』Metamorphoses )などの作品にすでにみられるTSFとは違い、そう古くからあるものではないのだろう。(魂は死ぬときだけに離れるといった前提があったのかもしれないが)。「入れ替わり」を扱った作品全体の研究はほとんど行われていないといってよい状態だから、この程度でもやむを得ないのかもしれない。

そのように、日本では一般化してせいぜい数十年しかたっていないのに対し、欧米では百年以上の歴史がある。そのため、もし本格的にその歴史について語ろうとするならば、欧米の作品、それも日本では翻訳すら出ていない作品についてふれることは欠かせないと思われる。だが、このサイトで挙げられているのは、先に述べたコナン・ドイルの作品のほかには、アメリカのコメディー映画“Turnabout”(1940年)とディズニー(The Walt Disney Company)制作の映画『フリーキー・フライデー(Freaky Friday』、そのリメイク映画『フォーチュン・クッキー(Freaky Friday』、そして、映画『キスへのプレリュード(Prelude to a Kiss』(※)の五作品にすぎない。そのうえ、『フリーキー・フライデー』の公開された年を2か所とも「1977年」(実際は1976年公開)と誤っている。

もし、英語圏のサイトを参考にしたとするならば、先に述べた『バイス・バーサ』など、もっと多くの作品が挙げられているだろうし、日本の状況と海外の状況が分けられているはずである。それに、『フリーキー・フライデー』の公開された年を誤る可能性は低いばかりか、1972年に出版されたメアリー・ロジャース(Mary Rodgers作の原作小説と1995年のドラマ版についてもふれていることだろう。しかし、それらにはふれられていないことから、英語圏のサイトを参考にして書いたとは考えにくく、日本のサイトだけを参考にして書かれた可能性が高い。

ただ、さいわいにも、日米の代表的な「入れ替わり」を扱った二つの作品にはふれており、その共通点について述べている。もちろん、ある国において「入れ替わり」のイメージとして定着している作品ということならば、日本では『転校生』、アメリカでは『フリーキー・フライデー』といったところなのだろう。

その証拠に、日本の作品には『転校生』のパロディーが多くみられるし、『フリーキー・フライデー』の場合も、同作のパロディー動画がYouTubeに数多くアップされている。また、ここに挙げられている「コメディ的要素」「人情物語として大人の鑑賞にも堪えうる作品の作り方」「ビデオ普及の恩恵」のほか、どちらも児童向け小説が原作であることや、何度も映像化されていること、そして、「入れ替わり」の代名詞にもなっていることなど、共通することも多い。

ただし、「入れ替わり」という手法それ自体は両作品が生まれる前から存在していたので、その影響がいつごろから現れ始めたのかといったことや、その前史については、今後の検証を必要とすることだろう。とはいえ、これらの作品の登場によって「入れ替わり」という手法の知名度が高まったことは間違いないことであり、その影響力は無視できない。


アメリカ映画の『フリーキー・フライデー』(1977)と日本映画の『転校生』(1982)だ。もちろんこれらにもコメディ的な要素はあるのだが、人情物語として大人の鑑賞にも堪えうる作品の作り方がなされており、またビデオ普及の恩恵もあってどちらもこのジャンルの代名詞と言えるほどの知名度を確立するに至った。前述の典型的ストーリーもこの二作品の影響によるところが大きく、今でも入れ替わりという設定を使った作品が発表されるたび上記二作品が引き合いに出されることが多い。


しかし、いくら同じ「入れ替わり」でも、日本と欧米の作品では、傾向そのものが異なっているし、その解釈と分類においてもいくらかの違いがあることは間違いないだろう。それに、ある作品が日本で放映されているのかといったことや、ソフト化されているのかといったことを無視してその影響について語ることはできない。たとえば、『フリーキー・フライデー』の場合、日本では『フォーチュン・クッキー』のDVDは出ているが、1976年版のオリジナルはDVD化されていない。もちろん、その影響を受けた作品が入ってきていることは否定できない以上、日本における影響はゼロとはいえないだろう。だが、それはあくまでも間接的なものでしかないので、その影響の大きさなどについては「入れ替わり」を扱った作品の日米比較などといった形で、今後の検証を必要とするものと思われる。

ところが、この記事の執筆者は欧米の作品にも日本の「入れ替わり」観が当てはめられるものだと錯覚してしまっているようだ。つまり、このサイトに書かれているのは「欧米軽視の歴史記述」であり、十分な資料を集めて書いたとはいえない「早とちり」なのかもしれない。


(※)文中ではふれられていないが、1885年に発表された“The Great Keinplatz Experiment”という短編小説だと推測される。

(※)もとは1988年に上演された劇で、1992年に映画化。ここでは、後者の方を指して言っていると考えられる。


大衆的メディアへの偏り

作品リスト―それはある特定のジャンルや作家、年代の作品、そしてアニメやマンガ、テレビ番組のエピソードについて知るためには欠かせないものである。しかし、完全なリストというのは、ある作家の作品や特定の作品のエピソードを除けばありえない。ましてや、「入れ替わりを扱った作品」のような、ろくに研究もされておらず、いつ頃から存在しているのかもわからないようなものともなると、いっそうその傾向が強まる。

裏返せばそれは、今まで知られていなかった、あるいは気づかれていなかった作品が発見される可能性が高いことを意味しているのだが、一方で、同人誌などといった、流通範囲の細いものがこういったリストから漏れることも少なくない(※)し、取り上げられている作品が、制作した人の住んでいる国、もしくはその言語圏の作品に偏る傾向は、多くのリストにみられるものである。

とはいえ、外国のサイト、たとえば、ウィキペディアの英語版やMetamorphose.orgなどでリストされている作品の量は、日本のサイトよりもはるかに上であることには変わりないし、カテゴリー別の分類も詳しい。特に、Metamorphose.orgは、「入れ替わり」に限らず、性転換、動物への変身、AP・ARなど、さまざまな“変身”を扱った作品についてリストされているし、日本では軽視されがちな技術的に「入れ替える」作品はもちろん、ミュージックビデオなどのような、日本では紹介されにくいものにもふれられているなど、欧米の作品について知るためにも役に立つサイトだといえる。実際、私はYouTubeで関連動画に何が該当なのかよくわからない作品(エピソード)が出てきたときに、同サイトに関係する記事がないかを調べることがよくある。

しかし、このリストは思いつきで並べたような感じがする上、アニメのエピソードについては全くといっていいほどふれられていない。特定の世代しか見ないようなものだということもあるだろうが、冒頭で「小説やコミックなどのフィクションに描かれる」と、アニメを含んでいないことからすれば、執筆者はおそらく、アニメなどのサブカルチャーにはあまり詳しくないのだろう。この傾向は結びのネットコミュニティにおける扱い」という、インターネット上における「入れ替わり」の状況についての記事にも表れている。アニメについてほとんどふれていないような人がそういった記事を書くのには疑問にならざるを得ないが、こういった記事は、ほかのサイトではみられないから、まあ、大目に見ておくこととしたい。


本来この入れ替わりというものはジャンルと呼ぶより単なるドラマツルギーにしかすぎない。だが、インターネット上にはこの入れ替わりという現象そのものに魅力を感じた人物たちによってコミュニティが形成された。そのコミュニティにおいては独自に創作した小説などを発表したり、データベースを作成される(ママ)文化が生まれたのだ。一般においてはジャンルとしては扱われてはいないが、TSFの一パターンとしてのジャンルを確立している。


昨今の「入れ替わり」の隆盛を語る上で、ネットの影響は無視できない。同記事でも述べられているように、個人で手軽に作品を作ることができるようになったことや「入れ替わりマニアックス」や、今はなき「てっつ庵」や「craft」といった作品リストが生まれたことは、それらを抜きにしては実現しなかったことだろう。また、海外の作品について容易に知ることができるようになったり、作品について感想を述べたり評論したりすることが盛んになったりしたことも見逃してはならないポイントだと思われる。

そのうえ、それらの発展は、それまで話題となることのなかった「入れ替わり」、たとえば女性同士の「入れ替わり」(OD)という分野をも開拓した(※)。しかも、その影響はネット上だけにとどまらず、サブカルチャーや新しいメディアの発展ともマッチして、商業作品にまで及んでいる。皆さんも、以前に比べて「入れ替わり」を扱った作品が増えたと何となく感じているのではないだろうか。そのことはつまり、メディア全体で「入れ替わり」というジャンルが徐々に発展しつつある裏付けともいえるのである。

にもかかわらず、この記事では、その多様な側面についてふれることなく、インターネット上のコミュニティだけの特殊な嗜好であるかのように考えている。その上、「入れ替わり=TSF」という、ある意味で古い考えにとらわれており、ほかのファンやマニアのためにそれらの情報を拡散するための手段であるデータベースの作成を文化だと誤解している。それだけのことが書けるのならば、その能力を「入れ替わり物語の変遷」や「代表的な入れ替わり作品」に生かしてほしかったようにも思うのは、私だけではないだろうか?


(※)実際、「入れ替わりマニアックス」では同人誌はリストの対象から外されている。

(※)http://www.metamorphose.org/

(※)日本ではほとんど動きはないようだが、海外では、男性同士の「入れ替わり」(male body swap)も一ジャンルとなりつつあるようだ。


根拠不明の記述と分析

そして最後に、二重構造とは関係がないが、「入れ替わり」が多用されるようになった背景についての考察について述べることとしたい。


20世紀の中頃からより人間の性格・記憶と肉体といったものをより記号的な扱いをする作品が多くなる。コメディなどの物語にこれらの設定が扱われることが多くなってきたのだ。これは科学の進歩や娯楽の多様化などに伴う社会的な状況も関係しているのだろう。


このような作品が本当に20世紀中ごろから増えたのかどうか自体、検証を必要とする。だが、それ以上に「より人間の性格・記憶と肉体といったものをより記号的な扱いをする」という記述には疑問にならざるを得ない。確かに「実体二元論」的な記号化は「入れ替わり」を成り立たせるためには不可欠な要素なのだが、それ自体は古代宗教にもみられる考えで、けっしてこの時期に始まったものではない(そうでなければ、輪廻転生や霊魂という考え自体存在できない!)。また、唯物論や物理主義のような一元論的な考えでは、「入れ替わり」そのものがありえないということになるので、「超常現象としての入れ替わり≠科学」であることは間違いないだろう。(脳を移植するといったものに限って言えば、それに近いことを行った実験はあるのだが…)。そのため、「科学の進歩」というよりは、そういったものをテーマにした作品、たとえばSFやホラーの隆盛とともに、こういった話題がもてはやされるようになったと考えた方がより妥当なのかもしれない。

確かに、この記事は欠点が多い。しかし、ほかの記事にもない内容についてふれられていることは評価できると思われる。特に「入れ替わり」がフィクションで扱われてきた歴史についてまとめたサイトは、日本ではこれが初めてではないだろうか。過去の作品について調べようにも、大海の中から沈没船の財宝を探し当てるくらいの労力を必要とする割に、そういった作品についての人々の関心は高いとはいえないから、今まで誰もしなかったのだろう。それゆえにこの記事は「独自研究」ということにされてしまったのだろうが、それは始まりにすぎない。だから、その挑戦心はもっと評価してもよいだろうし、ほかのサイトには見られない記事も多いだけに、これだけの記事を削除してしまったウィキペディアには、怒りの気持ちもなくはない。


次回は、ここで取り上げるかどうか、迷いに迷った「アンサイクロペディア」を取り上げることにしてみたい。