特別企画

「入れ替わり」を定義する



第5回 事典は「入れ替わり」をどう説明したか(下)

5.ウィキペディア(日本語版)


特徴…「入れ替わり」の典型的ストーリーと歴史など、ほかの記事ではふれられていない内容の記事が多い。

欠点…取り上げられている作品に偏りがある。


ナポレオンは「私の辞書に不可能という言葉はない」と言った。しかし、ウィキペディアという百科事典にはない記事ばかりであり、その中には「入れ替わり」も含まれる。もちろん、最初からなかったのではない。前にも述べたように、以前はあったのだが、削除されてしまったのだ。その直接的な要因は「独自研究」とされたまま、長期間放置されていたことのようだが、出典らしき出典を示せていない以上、正確さと出典の明確さが要求される同サイトにおいては正確さに欠ける記事であったことは否定できない。

しかし、このような欠点は「入れ替わり」それ自体が非現実的で「使い古された」ものとみなされてきたという、それまで「入れ替わり」が置かれてきた状況に起因している部分が大きいのではないだろうか?今まで研究が行われてこなかったもの・ことについての記述が不正確になるのは当然だし、それらの不正確な記述は、多くの人によって、新しい発見がなされたり、批判や意見が行われたりすることによって、だんだん正確になっていくものでもあるからだ。

だから、この記事を核にして、批判や意見をどんどんぶつけて発展させていくという選択もできたはずだが、そうするだけの価値はないと判断したのだろう。「削除」という対応は、本当に適切だったのかというと疑問にならざるを得ないが、残念ながら「入れ替わり」は、研究の対象としてはいまだに認められていないということをこのことは明らかにしているようだ。

だが、幸か不幸か、このサイトの記事は別のサイトに引用されて残っているのだ。2009年1月1日の段階での記事であり、その後更新された可能性も否定できないものの、以下のサイトでかつての内容を見ることができる。

http://n.web-kaiteki.com/keyword/%93%FC%82%EA%91%D6%82%ED%82%E8


「「入れ替わりという現象」という物語の要素」という二重構造

前置きが長くなってしまったが、さっそく記事の内容に移ろう。同記事は、次の五項目と冒頭の説明からなっている。


・冒頭の説明(「入れ替わり」とは何かとその特徴についての説明)

・入れ替わりの典型的ストーリー(「入れ替わり」を扱った作品によくみられるストーリーについての説明)

・入れ替わり物語の変遷(「入れ替わり」を扱った作品の歴史についての解説)

・代表的な入れ替わり作品(「入れ替わり」を扱った作品の紹介)

・ネットコミュニティにおける扱い(インターネットでの「入れ替わり」の現状)

・関連項目


これらの項目だけ見れば、一見「入れ替わり」について説明した、まっとうな記事であるかのようにみえるかもしれない。しかし、本文を精読してみると、決してそうではなく、記述の偏りや不明確さがみられるのである。たとえば、同サイトの「入れ替わり」についての説明は、非常にややこしい。というのも、フィクションにおける位置づけの中に作品中で描かれているものの性質が含まれるという二重構造の形をとっている。具体的に言うと、前者は「入れ替わり物語」、つまり冒頭で述べられている「小説やコミックなどのフィクションに描かれる、複数の人間の性格・記憶と肉体とが交換されてしまった物語の類型」のことを指す。わかりやすく説明するならば、「入れ替わり」という設定を用いて、ストーリーを展開した作品そのもののことだといえるだろう。

定義から言うならば、第3回で述べた「物語要素事典」もしくはウィキペディアの「物語の類型」(かつては「物語要素事典」の記事が引用されていた)を参考にした可能性が高いが「“記憶と人格”と“肉体”が交換された状態」としているクロエさんと解釈的にほぼ同じことから、「入れ替わりマニアックス」などのサイトを参考にした可能性も否定できない。とはいえ、「入れ替わり」はあくまでもフィクションの中だけのことであり、ストーリーを展開するための単なる一設定にすぎないということを示している点ではどちらも同じである。

しかし、この記事にはもう一つの要素がある。それが後者の「「入れ替わり」とは現象である」という要素である。前者の説明がフィクションにおける「入れ替わり」という物語のパターンであるのに対し、こちらはフィクションで描かれている「入れ替わり」そのもののことを指す。ただ、これは記事の内容や取り上げられている作品などの傾向から読み取ることができるだけで、本文中に「現象」や「この現象」という言葉自体は出てきても、「入れ替わりとは現象である」とは明記されても説明されてもいない。つまり、はっきりと説明されていない「隠された要素」だということができる。

要するに、執筆者は、「入れ替わり」について、


①「入れ替わり」とは、フィクションで描かれている、物語の要素である。

②ただし、そこで描かれている「入れ替わり」は現象である。

③つまり、ここで説明しているのは「「入れ替わりという現象」という物語の要素」である。


と考えているのである。この「「入れ替わりという現象」という物語の要素」という二重構造こそが、このサイトの記事の「入れ替わり」についての考えであり定義なのだが、この二重構造にはいくつかの欠点がある。その一つが、「入れ替わり」を「現象」として扱ったもの、それもアクシデント的な要素の強いものにしかふれられていないということである。


二重構造の問題点①…現象としてのものだけしか焦点を当てていない

「入れ替わりは現実にはありえない」。

なぜ、そんなわかりきったことをいまさら持ち出すのか?と思うかもしれない。

でも、それがどうしてありえないのか、あなたはその理由を説明できるだろうか?

おそらく、ほとんどの人は説明できないか、「現実に起きたという話を聞いたことがない」という経験や知識を根拠に「ありえない」と説明するのではないだろうか。

この傾向はネットでも変わらない。多くのサイトはその根拠についてほとんど説明していないし、あったとしても経験や知識を根拠にしている部分が大きい。それに対し、このサイトは冒頭で、現実にありえない根拠を、脳や記憶の性質に求めている点で大きく違っている。


記憶というものは脳という肉体の一部に刻まれるものであり、現実的には分かつことの出来ないものである。しかし、フィクションにおいては特に理論的な説明なしにこの現象は描かれ、スラップスティックコメディや当事者間の相互理解といった物語に多く用いられることが多い。


唯物論や物理主義といった一元論的な考えだと、「記憶というものは脳という肉体の一部に刻まれるもの」だということになる。そのため、記憶そのものを交換することはもちろん、それ単独で取り出すこともできない。よって、「入れ替わり」はありえないということになる。一見、科学的・理論的に「入れ替わりは現実にはありえない」としているかのようにみえる説明だが、一元論と一口に言ってもその中身は多種多様な上、そのどれもが何らかの矛盾をはらんでいるし、記憶や意識、人格などといった、私たちをつかさどるものについての性質は、医学的・哲学的にも様々な考え方があって、いまだに決着はついていないことを考えれば、一つの主張にすぎないといってよい。

そういった議論の中身については置いておくとしても、「フィクションにおいては特に理論的な説明なしにこの現象は描かれ、」という説明は、フィクションで描かれている「入れ替わり」には理論が存在しないという誤解を与えかねない。もちろん、フィクションでは説明されていないことも多いし、説明する必要もない。だが、「入れ替わり」にも人間は体という物質的実体と心などの心的実体からなっているとする「実体二元論」という前提があるため、けっして理論が存在しないわけではない。

その点を除いても、現実に行われている、あるいは過去に行われた実験にふれることなく、経験や知識を根拠にその非現実性を結論づけていることでは、この連載で取り上げたほかの記事と大して変わらないだろう。それも、「ウィキペディアだから」ですまされてしまいそうな気配も感じられるのだが…。


二重構造の問題点②…説明の日本偏重

このサイトでは、「入れ替わり」とは現象だと定義している以上、扱われているのは当然、「入れ替わり」を現象として描くことの多い日本の状況や作品に偏っている。そのことは入れ替わりの典型的ストーリー」という項目に強く表れている

ハッキリ言って、当たり前のことを文章にしたにすぎないこの項目は、おそらく、暗黙の了解や常識として片づけられて一般化することが困難なことや、コメディー的要素の強い作品と相互理解をテーマとした作品の両方を説明することが難しいからだろう。意外にもほかのサイトではみられない。それをやってのけたという点でもこの記事は評価できるだろうが、問題もある。それは、入れ替わりの典型的ストーリー」というものは一つしかないのか、そして、このような分け方は正しいのかということである。


生活環境が近い人物二人はなんらかの事故的要素(衝突する、階段から共に落ちる、落雷を受けるなど)をきっかけに性格・記憶と肉体とが交換されてしまう。その際二人はすぐには元に戻ることが出来ず、肉体に合わせてお互い相手として生活されることを余儀なくされる。ここでよく描かれるのは、相手になることに大きくとまどいを感じたり、周囲の人間がその変化に対応出来ない入れ替わった人物たちに驚く様や、その人物でしか体験し得ない苦労を文字通り相手の立場になって体験する様などである(中略)。それらの体験を経た二人は入れ替わったのと同じ様な体験をし元に戻る。


もし入れ替わりの典型的ストーリー」というものが存在するならば、日本の作品はもちろん、海外の作品にも共通するものでなければならないはずである。しかし、ここで挙げられている「入れ替わりの典型的ストーリー」はあくまでもアクシデント的な要素の強い作品、それも「なんらかの事故的要素(衝突する、階段から共に落ちる、落雷を受けるなど)をきっかけに」発生する「現象」として扱った作品によくみられるストーリーの説明であって、ほとんど日本の作品、それも「入れ替わり」を相互理解というテーマを引き出すために用いた作品に限定されるといってよい。

もちろん、「入れ替わり」にアクシデント的な要素が含まれることが多いのは海外の作品にもいえる傾向である。だが、呪術的なアイテムやマッドサイエンティストの実験によるものが多い点で日本の作品と大きく違っているし、「入れ替わる」描写が明確でないこともある。だから、「日本の作品における典型的ストーリー」という題にすれば誤解されにくかったと思われるが、そういった断り書きはなく、それどころか「前述の典型的ストーリーもこの二作品(注 『転校生』と『フリーキー・フライデー』)の影響によるところが大きく、」と、海外の作品にも適応できるかのように述べているのにはどこか納得がいかない。

また、「入れ替わり=アクシデント的な現象」というのはあくまでも一つの傾向であって、すべての作品がそのような性質を持っているわけではない。技術的なものの場合、当事者にとってはアクシデントだが、行う側にとってはアクシデントでも何でもないものや、「入れ替わったこと」そのものにはアクシデント的な要素はなく、その使い方がアクシデントを招くものもあるし、「周囲の人間がその変化に対応出来ない入れ替わった人物たちに驚く」どころか「いつもと様子が違うことを怪しむ」作品も少なくない。また、「元に戻る」どころか「元に戻らずにさらに拡大する」作品も少なくない。こういったことは、「入れ替わり」を扱った作品に関心のある人ならば、言わなくてもわかることだろう。だがこの記事は、そのようなバリエーションにふれることなく、「入れ替わりの典型的ストーリー」という言葉でひとまとめにしている。

そして三つ目に、日本の作品においてもこのパターンは一昔前のものになりつつあることである。『転校生』のイメージが強かったころは、ある意味で典型的だったのだろうし、今でもオーソドックスなパターンであることには変わりはない。しかし、「入れ替わり」も多様化した以上、今ではその中の一パターンにすぎなくなっている。にもかかわらず、執筆者は「入れ替わり=転校生」という思い込みがあるのだろう。「入れ替わり」を扱った作品がどういった傾向にあるかを分析することは必要だろうが、その場合でも、技術的・呪術的・能力的に「入れ替える」という設定の作品への言及を抜きにすることはできない。少なくとも、あるグループの中でも特徴的な作品をいくつか挙げて、さまざまなパターンについてふれる必要があるといえる。だから、「入れ替わりの典型的ストーリー」というのは一つにまとめられるものではないと私は考えている。


(以下次回)



     次回の連載は、この後の部分です。