*toshi9注
  今回の論文は、クロエさんに内容をお読みいただき、了解をいただいてから掲載しております。
  クロエさんからは、この論文に対する回答記事を書きたいとのお話をいただいております。(2012.9.30)








特別企画

「入れ替わり」を定義する



第4回 事典は「入れ替わり」をどう説明したか(中)


当初の予定では、1回で説明しようと思っていたが、長くなってしまったので2回に分けることにしていたが、それでも長くなってしまうので、3回に分けて説明することにしたい。


4.「入れ替わりマニアックス」

http://www5f.biglobe.ne.jp/~cloe/index.html


サイトの特徴…「入れ替わり」を専門に扱ったサイトだけあって、分析が細かい。

但し、考えには同意しづらい部分もある。


クロエさんの「入れ替わりマニアックス」は、現時点で唯一といってよい「入れ替わり」を扱った作品を専門としたサイトで、特に日本国内の作品の情報に詳しい。同サイトの「はじめに」(http://www5f.biglobe.ne.jp/~cloe/introduction.html)には、


このサイトは世の中の作品においてよく使われる「人と人の体と心が入れ替わってしまう」という話が扱われている作品の情報をまとめているサイトです。一般的にはよくあるネタの一つといった認識でしょう。では実際のところどの作品がこのネタを扱っているのか? それを調べるのに最適な場所にしたいと思っています。


とあり、「入れ替わり」についての情報サイトとしての役割を担おうとしていることが述べられている。私事で申し訳ないが、私が「入れ替わり」について強く興味を持つようになったのも、同サイトの影響が大きいし、断片的な情報が飛び交うこの分野の中にあって、どういった作品があるのかを調べるのにも欠かせない、いわば「入れ替わり」モノの案内所ともいえる存在となっているのは間違いないだろう。

その、同サイトの「入れ替わり用語集」では、「入れ替わり」を次のように定義している。(http://www5f.biglobe.ne.jp/~cloe/words.html


心や魂といった言葉が使われるが、より正確な概念で伝えようとするなら「記憶と人格肉体が交換された状態」と言った方が正しいだろう。


このように表現されていると難しく思うかもしれないが、その中身は意外に単純で、要するに「体と心が入れ替わる」という、一般的な表現とほぼ同じである。日本における「入れ替わり」を扱った作品のサイトの総本山といえる存在が、どうしてこのような矛盾した表現を使うのかというのが私の率直な感想であるが、クロエさんは一般的に浸透している表現として、このような表現を用いたのだろう。

記事の内容はさすがに「ありとあらゆる入れ替わり作品情報サイト!」と、「入れ替わり」専門のサイトを標榜しているだけあって、質・量においてほかの事典と一線を画している。

それは、ほかのサイトと違い、「目隠しイベント」や「クロス喧嘩」などといった同サイト独自の用語を用いていることや、挙げられている作品例が多いことからもわかるが、このことは、今回の分析においてその中心となってくる「入れ替わりの定義」の場合にもあてはまる。

たとえば、フィクションにおいてあるストーリーのパターンが成り立つには当然、何らかの法則や条件があるが、それらについて同サイトは、


これらを扱った物語は暗黙の了解的に、「魂」が記憶と人格を司るもので「肉体」はその容れ物であり魂が肉体に宿ることで自在に扱える、という今まで多くのフィクションで描かれてきたお約束に則っていることになる。


とし、「入れ替わり」というストーリーが成り立つ背景には、人間が「記憶と人格を司るもの」である魂(心的実体)と「その容れ物」である肉体(物質的実体)の二つから構成され、なおかつ、それらは入れ替えることができるものだという考えが前提にあるとしている。この約束事は「入れ替わり」だけに限らず、憑依や転生などのほかのフィクションのストーリーにもいえることだし、「入れ替わり」それ自体は非現実的なものなのだから、その背景にあるものを考えることなく、無条件に受け入れられているのだろう。これはサイトの方針にも貫かれており、


入れ替わりというものは暗黙の了解として「肉体」を入れ物、「記憶や人格」といったものを入れ物の中身とする考えを拠り所にしています。
当サイトでは入れ物に相当するものを「体」とします。「肉体」、「身体」という単語は使いません。入れ物の中身に相当するものを「心」とします。(以下略
)


と、「入れ物に相当するものを「体」」、「入れ物の中身に相当するものを「心」」だとしている。このように、人間が心的実体と物質的実体の二つのものから成り立っているとする思想は、ヒンドゥー教や仏教などの「輪廻転生」やプラトンの「霊―肉二元論」にまでその起源をさかのぼることができるほど古くから存在している。だが、中でも有名なのはデカルトの「実体二元論」だろう。彼の考えは、医学の発達した現在ではほとんど否定されているとはいえ、心はどこにあるのか、また、体とはどのような関係にあるのかといった問題は「心身問題」という形で、今なお哲学や医学におけるひとつの大きな領域を形成している。

それだけ、心と体がどういった関係にあるのか、私たち一人ひとりをつかさどっているものは何なのかという問題は、古くから人々、特に学者たちの大きな関心事だったわけだが、「入れ替わり」の場合、体と心の関係やその働きなどといったその先の議論は不要であり、あくまでも「人間は魂と肉体という二つのものから成り立っている」ということを暗黙の了解的に示しているにとどまっている。

だから、入れ替わった際に記憶の一部分が混ざったり欠けたりすることもないし、運動障害などを起こしたりすることはない。もちろん、魔法や変身能力などが使えなくなるといったことが、一部の作品で描かれていることがあるが、それはあくまでも試練やスランプといったものにすぎず、その場合でも記憶や運動機能などは正常に働いているから、この原則から外れているわけではない。

とはいえ、「魂」という表現には、どこかオカルト的・宗教的な雰囲気がするため、超自然的な現象としての「入れ替わり」の場合はともかく、技術的に「入れ替える」ものの場合、このような定義にあてはめるにはどこか違和感がある。その点について同記事は、


入れ替わりを成り立たせる別のパターンとしては、より現実的に記憶と人格の全てである「脳」を移植してしまうという方法がある。またお互いに相手の姿に変身することで、この状態になってしまうというのもある。


と、「脳」を移植したり、相手に変身したりすることによって、「入れ替わり」と同じ状態にする、呪術的・技術的なものもあると説明している。ただし、瀕死の重傷を負った主人公の脳を相手の身体に移植するといったもの(たとえば、弓月光の「ボクの初体験」)や、自分だけが相手に変身するといった(たとえば、「姫ちゃんのリボン」や「おねがい!サミアどん」の「身がわりデートだドーン」)もののように、「入れ替わり」と結びついていないものもあるから、作中にそのような方法が出てきたからといって、「入れ替わり」だと判断するのは禁物だし、これらの方法は、あくまで一つの活用方法にすぎないということも、現象としての「入れ替わり」と大きく異なっている。


ここまでは、「入れ替わり」についての単なる説明である。しかし、その先の部分は、辞典的・客観的な用語集とは言い難いと感じざるを得ない。クロエさん自身の考えが強く反映されているとは言え、疑問を感じる箇所や、誤解されるのではないかと思える箇所があり、一概には同意できないからである。

クロエさんは「入れ替わり」を扱った作品のストーリーや当事者の心境等こそが一番追求されるものであって、何によって「入れ替わった」のかは重要ではないとしている。実際、この記事では、「入れ替わり」の表現方法や作中でよくみられる描写やストーリーについては詳しくふれていても、「どういった原因で入れ替わるのか(入れ替えられるのか)」といったパターンについては、ほとんど言及していない。その理由は書かれていないものの、以下の記述からそのことが推測できる。


とはいえ入れ替わりを扱った作品において一番追求されるのはそのシチュエーションになった人物たちの描写であり、変身の過程を厳密に分けることは正直意味がない。


ここでいう「変身の過程」とは、おそらく「入れ替わった原因」のことを指していると考えられるが、それならば、「入れ替わった原因」は適当に用いられているのか? また、作品で描かれている以外のパターンでも成り立つのか? といった疑問が生じる。

確かに、コメディーの中には、『転校生』などのよく知られた作品にあやかっただけのものも少なくないだろうし、アクシデント的な要因のものは、そこで描かれている原因を、ほかのアクシデント的な原因に置き換えたとしても成立するものが多い。また、単に作品を楽しむだけならば、そんなことはどうでもよいことであり、やはり「そのシチュエーションになった人物たちの描写」が中心となってくるのも無理はない。

だが、『ココロコネクト ヒトランダム』のように、「相互理解」をテーマとした作品ともなると、その原因やパターンに何らかの意図が込められていると思われるものも少なくないし、作品を研究対象としてみる場合、「なぜこういった組み合わせなのか」とか、「どうして周囲の人は理解を示さないのか」といったことと同じく、「入れ替わった」原因も、作品を読み解く上で重要なポイントとなってくる。

たとえば、ある作品で描かれている「入れ替わり」が、現象なのか技術なのかどうかといったことや、アクシデント的な要素があるかないかといったことは、作品がテーマとしているものやコメディー的要素などと深くかかわっているし、当事者がどのようなことを思っているかについての描写は、「入れ替わり」そのものについての作者の考えや知識、国民性などを読み解くカギとなってくる場合だってある。だから、「意味がない」というのはひとつの見方であり、それが全てではないのではないだろうか。


そして、このサイトにおける「入れ替わり」の考察で一番疑問に感じられたのは「入れ替わり」が現実にありえない理由だ。「実際にあったという話は聞かない」とは、執筆者の知識や見聞した情報だけを元に、現実にはありえないと書かれているように思えてしまう。


当然ながらこれらは現実に起きることはない。より近いシチュエーション(容姿が似たものどうしが立場を交換したりとか)はあっても実際にあったという話は聞かない。
入れ替わり
というのは完全にフィクションの中だけで生まれた物語なのである。


また、「入れ替わり」を「完全にフィクションの中だけで生まれた物語」と断言されているが、ここで言うフィクションとは何だろうか。ある作品で描かれていることが、たとえ現実にはありえないことだとしても、そこには作者の思想や経験、現実のできごとなどが反映されている。逆に、ある作品をたどれば、作者の考えや生い立ち、その時代の社会背景などがわかることだってある。

「入れ替わり」を扱った作品も例外ではなく、そういった作品にも、人間関係の希薄化やジェンダーについての問題など、現実の社会問題や作者の思想などが表れている。どんな作品も現実と無縁ではないし、「入れ替わり」もまた、現実と関わりながら生まれた物語ではないだろうか。

もちろん、「現実に起きることはない」という記述は、現象として発生するものを指して言っているととらえられる。しかし、「起きる」という表現は、現象に対しては使えても、技術的・呪術的なものには使えない。そして「起こす」について言及していないということは、暗黙の内に「入れ替わり=現象」だと認識していることの表れだと見ることができる。

しかし、「入れ替わり」の中には技術的なものも含まれるし、そちらのほうが実現の可能性があるということを考えれば、この考えは片手落ちのように思えてならない。


もちろん、現実に「入れ替える」ものについては、現時点では脳細胞の移植や、動物実験で、胎児の神経細胞を使った移植の実験が行われているにすぎない。また、脳は体の一部であって、少なくとも体中の神経すべてを入れ替えないと成り立たないとして、実現の可能性を否定している人もいれば、脳の移植ならばいずれ可能になるだろうと考えている人もいる。だから、可能か不可能かが証明されるには、まだまだ時間を要するにちがいない。

たとえ、仮に現実に「入れ替える」ことができなくとも、機械などを用いた仮想現実的なものはそれらの方法よりも、より現実的なのではないかと思われる。実際、これらの方法による「入れ替え」は現実にも行われており、実例としては、1993年にメディアアーティストの八谷和彦氏が作った「視聴覚交換マシン」や、2008年にはスウェーデンのカロリンスカ研究所が実験に成功した「入れ替わり」の錯覚といったものを挙げることができる。どちらも、あくまでも実験的な段階とはいえ、見方によっては、現時点で「入れ替わり」の感覚にいちばん近いものともいえるのかもしれない。

だが「入れ替わりマニアックス」では、そういったものは「入れ替わり」の定義に含められていない。同サイトにおける「入れ替わり」の定義では、「対象の「体」と「心」に相当するものが交換された状態で入れ替わりとする。」、要するに「入れ替わり」が作品内で実際に発生して初めて「入れ替わり」にあたるのでありフェイク(入れ替わったと偽って実際には入れ替わっていない状態)は該当としない。」、つまり疑似的な「入れ替わり」はここでいう「入れ替わり」ではないとしている。

そのことは「フェイク系」(同サイトでの造語)についての説明でふれられているので、参考までに引用することにしたい。


入れ替わったように見せかけて実は入れ替わっていなかったというものを指す。(中略)「入れ替わりという現象があってもおかしくない」という前提を基に応用を利かせたメタ入れ替わり作品とも言えるが、肝心の入れ替わりが行われていないんじゃウチのサイト的には意味がないため扱っていない。ぶっちゃけ応用利かせすぎである。


クロエさんは、「入れ替わり」はあくまでも物語を展開するための要素だととらえているようだが、ここでははっきりと「現象」だとしている。最後の部分はやや感情的に書かれているのが気にかかるものの、「入れ替わり」が作品中で行われるものが「入れ替わり」と定義して、そういったものは除外している。

つまり、疑似的に入れ替わったような感覚にさせるものは「入れ替わり」ではないので、八谷氏の機械やカロリンスカ研究所の実験は「入れ替わり」を現実に可能にしたものとは認められないことになる。言い換えれば、クロエさんの解釈では「入れ替わり」と呼べるのは、作品中で実際に発生したものだけなので、「入れ替わり」そのものは現実にはありえない、フィクションの中だけの現象だということになる。

とはいえ、「入れ替わりマニアックス」の作品リストには、後で「入れ替わった」ことが夢オチだとわかる設定の作品(たとえば、『あべこべ物語』や『ひみつのアッコちゃん』の一エピソード「三つのねがいのまき」)も含まれているので、その基準は意外に厳格ではないのだろう。

しかし、最初に述べたように、「入れ替わりマニアックス」は「入れ替わり」の総本山として認知され、期待されている。だからこそ、これらの分析・定義づけの整理を望むものである。

そしてこういう時こそ、私の通っている大学で声高に叫ばれ、後輩の必修科目となっている、今はやり(?)のメディアリテラシーの出番だといえるのだが…。


次回は、問題の「ウィキペディア」の記事と、ネット上の記事についての分析のまとめに入りたい。