特別企画 「入れ替わり」を定義する 第2回 定義するための条件と課題 「入れ替わる」もの、「入れ替えられる」もの 最近、「入れ替わりマニアックス」の管理人のクロエさんが、自身のブログ「入れ替わり雑記ログ」で次のようにコメントしているのを発見した。
近年、ネット上で「入れ替わり」に関する作品の感想や記事などを多く見かけるようになった。その背景には、ブログやツイッターなどの発信ツールの普及や簡易化に加え、『ココロコネクト』や『パパとムスメの7日間』など、今までにない作品が数多く登場し、話題となっていることが考えられるが、これらの作品は、『転校生』を知らない世代にはもちろん、「使い古されたもの」だと思っている人にとっても、その先入観を打ち破るものとなっている。 しかし、一般的なイメージと、そういった作品に興味を持っている側の「入れ替わり」についてのイメージはまだまだかけ離れていると言わざるを得ない。あまりにも『転校生』が有名になりすぎたために、また、ネタ切れ時のピンチヒッター的なネタやおまけ的なネタとして用いられる傾向にあったために、今まで、数多くあるネタの中でも低いものとみられてきたのだろう。「入れ替わり」を扱った作品が登場すると、使い古されたナンセンスなネタだととらえる風潮が最近まであった(今も残っているが)。このようなイメージは徐々に変わりつつあるものの、「入れ替わり」を扱った作品の多くは読み切りや短期連載、長期連載のエピソード的なものであることは今も変わっていない。 また、どういった作品があるのかを調べようにも、専門に扱ったサイト自体が少ない。かつては「てっつ庵」や「craft」といった、商業作品を数多く紹介した優秀なサイトがあったのだが、現在は、クロエさん「入れ替わりマニアックス」があるだけだし、それ以外では、男女間の「入れ替わり」を扱った作品が、一部のTSF愛好家のサイトやブログで取り上げられているぐらいである。しかも、それらのサイトやブログも、日本の作品、特に比較的最近の作品や話題作などに偏る傾向にあり、古い作品や海外の作品についての記事は少ない。もちろん、パソコンの普及によって、情報を得ることが容易になったことは否定できないが…。 それに加え、ここ30年で「入れ替わり」が急速に発展し、それを扱った作品が数多く発表されているのとは裏腹に、フィクションにおける歴史や作品の詳細な分析などといった、「入れ替わり」を扱った作品についての本格的な研究はいまだにない。そのためか、人々は「入れ替わり」について正しく認識しているとはいえない状況にある。実際、ネットにあふれる様々な作品についてのコメントを見ても、「とりかえばや物語」をここでいう「入れ替わり」と勘違いしている人や、『転校生』が「入れ替わり」を扱った日本で最初の作品だと思い込んでいる人も少なくない。ましてや、戦前に横溝正史やサトウハチローがそういった作品を書いていたということなど、知るはずがない。 この状況はその定義や「入れ替わり」そのものにもあてはまり、「体(身体・肉体)と心(精神・魂など)が入れ替わる」といった、意味としては正しくない表現が一般に広く用いられていることや、誤解を招きかねない表現や表現の不統一などが数多くみられるなどといった、人々の「入れ替わり」に対する認識にも表れている。 そうなるのも当然のことで、人々の関心の中心は、当事者の置かれている状況や「入れ替わり」によって引き起こされる騒動、そこで描かれているテーマなどにはあっても、「入れ替わり」そのものにはない。そのため、それらを描き出す源である、肝心の「入れ替わり」については、「相互理解」やコメディーといったそれによって描き出されるものによって隠され、「体と心が入れ替わる」や「入れ替わり」などといった表現だけですまされてきたし、真剣に考えられることもなかった。いってみれば、「科学」や「生命」、「自由」などのように、感覚としてはわかっていても、その中身があいまいなまま広く使われているようなものだろう。 もちろん、「入れ替わり」について定義し、考えることは、幽霊のように存在するかどうかわからないものを定義するのと似ているし、「現実にはありえない」という一言で、超能力や異次元、異星人以上に非現実的なものとして切り捨てられてきたのは言うまでもないだろう。だが、世間の「入れ替わり」に対する誤解や思い込みがあまりにもひどい以上、「入れ替わり」が何なのかについて説明・分析し、定義する必要はあるのではないかと私は思う。 定義できるもの・できないもの 次回から「入れ替わり」についての定義を始める前に、定義できるものとできないもの、また、今回論じてみることと、その視点について説明しておくことにしたい。 フィクションにおける「入れ替わり」において、定義することができるのは、「入れ替わり」によって入れ替えられるものや当事者の置かれている状況、「入れ替わり」を扱った作品なのかどうかなどといったことである。このことは、多くの作品において、比較的共通しており、特に、日本の作品では、この傾向が顕著に表れている。 一方、定義することができないのは、「入れ替わり」の原因や特性のうち、書く側・作る側によっていくらでも変更することができるものである。わかりやすい例では、入れ替わった原因や、映像作品によくみられる、声が入れ替わるかどうかなどといったものが挙げられる。これらは、無限の設定が可能というのは大げさにしても、さまざまな設定が可能なので、フィクションが扱っている題材や作品の傾向を分析する上での参考にはなっても、「入れ替わり」を定義するための条件としてはもはや成り立たない。 つまり、入れ替えられるものや当事者の置かれている状況のように、作品間において変化が少なく、ストーリーを成り立たせる条件として不可欠なものは定義することができるが、原因や特性のような、いくらでも変更可能なものは定義することができないのだ。 定義のための前置き その「入れ替わり」という状態や、それを扱った作品の条件などについて定義するためには、次の、四つの視点からの検討が必要だと思われる。 ①「入れ替わり」は何を入れ替えるのか。 ②「入れ替わり」によって入れ替えられてしまうものは何なのか。 ③「入れ替わり」を成立させるためにはどういった条件が必要になるのか ④何が「入れ替わり」を扱った作品で、何がそうではないのか
①は、
といったことを意味する。そういった作品に少しでも関心のある人は気づいていると思うが、一口に「入れ替わり」といっても、その表現にはさまざまなものがある。しかし、「入れ替わる」ものから分類してみると、「体(身体、肉体)」か「魂(心、人格、精神など)」の二つに分けることができる。 前者は、人が“自分”だと認識するための情報(年齢、性別、国籍、所属など)が与えられているとともに、相手を認識し、相手に認識されるための “身体(肉体)”を指し、もう一つは、私たち一人ひとりをつかさどる“何か”(それこそがこの連載のテーマなのであえてこの表現を用いた)、つまり、一般には心や精神、魂、人格などといわれているものを指す。どちらも、お互いの「体」か“何か”のいずれか一方を入れ替えれば成立するものであって、どちらを「入れ替える」ものとするかといった、認識に違いはあっても、置かれる状態に違いがあるわけではない。 ただし、このパターンはすべての「入れ替わり」に当てはまるわけではない。たとえば、脳という身体の一部を交換(移植)するものに「肉体」という表現は正確とはいえないし、技術的なものに「魂」という表現を用いるのも適切ではない。また 、“何か”についてはきわめてあいまいなものが多く、その中には的確に表しているものもあれば、表現そのものが間違っていたり、誤解されかねないものであっても、慣習的に用いられていたりするものもある。「正しいと思われる表現」くらいは定義できるだろうが、表現を統一することは不可能に近いだろう。 そのため、その適切さの分析にあたっては、次に挙げるような、表現についての定義が必要になると思われる。ただし、「入れ替わる」ものが何なのかをわかりやすくするために、ここでは、比較的はっきりしている「体」のほうが入れ替わるものと仮定して考えてみることにしたい。 ① 一般になじみの深い(普及している)表現であること 「入れ替わり」に対して特に関心のあるわけでもない大多数の人は、映画やドラマ、マンガ、それも『転校生』や『パパとムスメの7日間』のような「入れ替わり」を中心的テーマとした作品で、そういったものを知っている程度だと思われる。実際「入れ替わり」を扱った作品の多くがエピソード的なものなので、一部のマニアや特定の世代しか見ないものが多いアニメや読むのに時間がかかる小説よりも、幅広い世代か特定の世代の大多数が見ている映画やドラマのほうが、話題性が高い。 そのため、たとえ正確だとしても、一般になじみの薄い表現やマニアの間でしか使用しないような表現ではなく、誰もが知っているような分かりやすい単語や表現を用い、一言で説明できるものが望ましい。特に、「入れ替わり」に関する表現には定義があいまいで、多くの意味を持っているものが多いので、この条件がより重要となってくる。 ② 医学的な感じがしないこと 現時点で「入れ替わり」は、非科学的なものだと認識されている以上、医学的な用語を用いて説明することは不可能に近いし、一般に「多重人格」といわれるものが、医学的には「解離性同一性障害」というように、医学的な用語の中には、私たちにとっては一般的でないものや聞きなれないものもある。 だから、ここで考えようとしているフィクションにおける「入れ替わり」の場合、たとえ正確であったとしても、医学的な用語や医学的な要素のある表現は用いないほうがよい。ただし、それは「現象」として扱われているものの場合であって、技術的なものの場合、必ずしもそうとは限らないことをお断りしておく。 ③ 表現が正確であること ただし、わかりやすいからといって、また、医学的な用語でないからといって、不正確な表現になってしまうのはよくない。現実にはありえないことである以上、100パーセント正確に表現することは不可能だが、わかりやすい表現にすることはできる。 たとえば、長い一文は主語と述語がねじれやすいように、長い表現や二つ以上のものを並べた表現は、その中身があいまいになったり、矛盾が生じたりしやすい。中でも、ここでいう「入れ替わり」について説明するうえでよく用いられる「体と心が入れ替わる」という表現は、矛盾する二つのものを並べてしまったために、よく考えてみると矛盾だらけでトンチンカンになってしまった、代表的なものである。 この表現の分析については、第7回「入れ替わるものは何か」でふれるとして、今回は「入れ替わり」によって入れ替えられてしまうさまざまな要素に対し、「入れ替わり」を成立させるために「入れ替える」必要のあるものがあること、そして、それらについての表現は、一般になじみがあり、わかりやすい表現が望ましいことだけを押さえておきたい。 2 「入れ替わり」によって一緒に入れ替えられるもの ①とは反対に②は、
を指す。こういった作品に関心のある人はもちろんのこと、少しでも見たことのある人なら理解できることだろうが、「入れ替わり」と一口にいっても、「入れ替えられる」ものだけが入れ替えられるわけではない。「入れ替えられる」ものが入れ替えられると同時に、社会的立場や性別、年齢、環境など、その人を構成しているさまざまなものも入れ替わり、それによって、当事者は苦しみ、さまざまな騒動が引き起こされる。 これらの要素の中には、当事者の間において共通しているものもあれば、違っているものもあるので、両者のすべてのものが入れ替えられてしまうわけではない。しかし、その作品の中でテーマとしていることは、異なったものとして描かれ、強調される傾向にある。これについては、第6回「入れ替えられるものは何か」で分析してみることにしたいので、今回はこの程度の説明にしておきたい。 3 「入れ替わり」を成立させるための条件 ③は文字通り、
ということだが、ここでは「入れ替わり」の原因ではなく、それを成り立たせるための条件や設定などのことを指す。それらの条件や設定の中には、それだけを入れ替えることはできても、単にそれが入れ替わるだけでは、ここでいう「入れ替わり」は成立しないものもあるし(たとえば、性格や立場など)、当事者の「入れ替わり」に対する周囲の無関心のように、そのようなことは考えにくいものの、現象としてストーリーを展開するためには欠かせない設定(たとえば、周囲の反応など)もある。これらの条件もまた、「入れ替わり」の相互理解やコメディー的な要素を深めていく役割を果たしているといえる。 4 何が「入れ替わり」を扱った作品で、何がそうではないのか それに加え、何がここでいう「入れ替わり」で、何がそうではないのか?つまり、何を「入れ替わり」を扱った作品に分類することができるのかといったことも「入れ替わり」を扱った作品を調べるうえで、極めて重要なポイントとなってくる。しかし、無意識のうちに分類できてはいても、分類するための定義は定められていないのだろう。「とりかえばや物語」や東野圭吾の小説『秘密』などのように、ここでいう「入れ替わり」を扱ったものだと誤解されることの多い作品もある(ちなみに、前者は立場の入れ替わり、後者は憑依)。ただし、そのような定義が全くないというわけではないので、参考までに、「入れ替わりマニアックス」における「入れ替わり」について紹介しておくことにしたい。 (参考:http://www5f.biglobe.ne.jp/~cloe/introduction.html)
これらの分析については、別の機会にふれることとして、今回はそういったものがあることだけをふれておくことにしたい。実際はそう単純なわけではなく、中には、ここでいう「入れ替わり」を扱った作品に含むべきか、判断に苦しむ作品もある。とはいえ、「立場の入れ替わり」や「体の一部の交換」などが、ここでいう「入れ替わり」に含まれないのは明らかだし、この条件が適切かどうかはともかく、「入れ替わり」を扱った作品だと認識されるためには、何らかの条件が必要なのはいうまでもないだろう。 次回は、ネットの百科事典などの「入れ替わり」の記事から、「入れ替わり」は、今までどのように扱われ、説明されてきたのか?そして、「入れ替わり」とはどういったものだと世間では認識されているのか?といった問題を考えてみることにしたい。 |