「入れ替わり」とは何か

第1部 

「入れ替わり」モノ大国のフロンティア―「入れ替わり」は学問になりうるか?



第7回 ヒトランダム雑感(その2)

私の失敗

昨年の今頃、つまり、『ココロコネクト』がアニメ化された頃のことでした。私はふと、あることに気づきました。それは、同作品の感想では、それまであまりふれられることのなかった「入れ替わり」のイメージが語られているということです。

もうご存知のことでしょうが、同作品はそれまでの「入れ替わりモノ」や「入れ替わりネタ」にとどまらない、斬新かつ特異な内容で話題になりました。また、コメディーやギャグという軽薄なイメージでバカにされることの多いテーマにしては、「入れ替わり」の引き起こす問題や効果などについてもある意味で真剣に扱われていました。だから、ほかの作品よりも踏み込んだ内容の感想があったとしても不思議ではなく、「入れ替わり」について学問的に考えるためのヒントも隠されているのではないか…?


今から考えてみればハッキリ言って、ピントの外れた、そして同作品をあまりにも過大に評価しすぎた、浅はかな考えだったように思います。しかしその頃は、そんなことなど知る由もありません。だって、「入れ替わり」に対するイメージについてまとめたものなど、全くなかったのですから!(いまもそうですが)だから、何か新しい発見があるかもしれない、また、なかなかまとめられない「入れ替わり」に対する考えを整理するいい機会になるのではないかとかなり期待していました。

そして、そういった期待と推測のもと、ネット上にあふれる、さまざまな作品の感想を調べ始め、必要な記事はコピーを取って重要な部分に線を引いたり、考えや注釈などを書き込んだりしました。登場人物に焦点を当てた感想、ストーリーに焦点を当てた感想、そこで描かれる「人格入れ替わり」に焦点を当てた感想…。本当に多種多様な感想があり、多種多様なイメージや視点がありました。その面白さと興味深さはハッキリ言って、作品(原作小説、マンガ、アニメ)そのもの以上だったように感じます。

ところが、ネット上に存在している存在している記事はあまりにも膨大で、調べようにもどこから始めていいのか、何を見たらいいのか見当がつきません。しかも、アニメは流行も同然で、放映が終了してしまうとすぐに忘れ去られてしまうだけに、結局、世間の流行に流されてしまい、研究を続けようという持続力が持ちませんでした。だから、この研究(?)の失敗は、自分の責任だといえるところもないわけではありません。


その上、期待していた「入れ替わり」に対するイメージについても、それほど顕著ではありませんでした。それについてはのちほどふれますが、同作品はパターンこそ特異で斬新な一方、「入れ替わり」に対するイメージについて言及したものが多くみられ、斬新さや特異さを評価する声が圧倒的に多かった一方、「入れ替わり」というだけで否定的にみた、従来「入れ替わり」に付きまとっていたマイナスのイメージがこの作品でも見られたように、そこで描かれているものは「入れ替わり」として認識されています。

それに加え、近年の「入れ替わりモノ」は、たとえ一話完結のエピソードであったとしても、声優・ストーリー共に完成度の高いものも多く(たとえば、『スマイルプリキュア』の「みゆきとキャンディがイレカワ~ル!?」や『夏のあらし!』の「勝手にしやがれ」)、画像付きで事細かくあらすじをのせ、作品を評価している感想も少なくありません。そのせいもあってか、記事によってばらつきが大きく、傾向を把握しにくいのが現状で、単に同作にとどまらない、近年の「入れ替わりモノ」全体の傾向である可能性もあります。

つまり、同作品はやはり「入れ替わりモノ」の域を出ておらず、傾向自体が『ココロコネクト』にとどまらない可能性もあるわけで、私の目論見はものの見事に挫折してしまいました。ですが、同作も捨てたもんじゃありません!というのも、そこには一般的な「入れ替わり」のイメージ、つまり「入れ替わり」と聞いて『転校生』を思い出すなどといった、人々が無意識のうちに抱いている「入れ替わりモノ」のストーリーや設定、印象などといったイメージが顕著に表れているとともに、それまでの作品にはない、哲学的・倫理学的な深さも合わせ持っているからです。


(以下書き足しの予定)