「入れ替わり」とは何か 第1部 「入れ替わり」モノ大国のフロンティア―「入れ替わり」は学問になりうるか? 第6回 マスメディアは何を伝えたのか?(その2) ヒトランダム雑感 アニメ『ココロコネクト(ヒトランダム編)』の放映開始からもうすぐ1年。まだまだ記憶に新しいこととは思いますが、ホントに早いものですね…。それに比べれば、私の考えていることはかなりノロノロですし、その間、まともな成果も出せていませんが…。しかも、この今までにない斬新な作品としてかなり話題に上った同作も、このアニメの洪水の中では、今やすっかり忘れ去られてしまったような感じもします。あの熱狂が夢であったかのように…。 とはいえ、なぜ、あの作品がこれほどまでに話題となったのか、それはいうまでもなくストーリーや設定の特異さと斬新さでしょう。第1話のタイトル「気づいた時には始まっていたという話」が示しているように、冒頭から「入れ替わる」という唐突な始まり方、そして5人の男女が相手も時間もランダムで、場所も問わずある時突然「入れ替わり」、しばらくすると元に戻るという「人格入れ替わり現象」の特異さ、そして、当事者全員がトラウマを抱えており、それらがこの超常現象を通じて明らかになるというストーリー、そして登場人物のキャラの強さ…。 もちろん、当事者が強制的に密接な関係に置かれるのは「入れ替わり」をメインテーマに据えた作品の特性でもありますし、それを通じて誰にも言えないような悩みや秘密がさらけ出されていくプロセスもまた同じです。そればかりか、斬新なように思われている、同作品のようなパターンの「入れ替わり」にも、西澤保彦の『人格転移の殺人』(1996年)や岬兄悟の「玉突き家族」(1990年)といった前例があります。TSFマニアなら知っている人も多いとは思いますが…。 だから、いくら斬新だといっても、個々の要素としては前例があるのですが、一つの作品でそれら全てをやってしまったというところが今までになかった点であるとともに、この作品の特徴だといえるでしょう。真城さんが「これは「薄まる」というより「濃くなりすぎない」とでも表現するべきでしょうか」と評しているように(※1)、一般的な「入れ替わり」モノの方が密接になりすぎているのだという主張もありますし、先に挙げた二つの作品がミステリーとSF小説なのに対し、原作がシリーズ化されたライトノベルの上、アニメ化やマンガ化、さらにはラジオドラマ化までされただけに、作品の展開規模や知名度も桁違いなのはいうまでもありません。けれども、同作が斬新なものとしてとらえられた最大の要因として挙げられるのは、これまでのアニメにおける「入れ替わり」の扱いでしょう。 マンガやテレビドラマ、小説と並んで「入れ替わり」モノの主要メディアとなっているアニメでは、これまでも数多くの作品が発表されてきました。しかし、テレビドラマやマンガ、小説では「入れ替わり」がメインに据えられることも少なくないのに対し、アニメでは、そのほとんどは一話完結の作品の一エピソードとしての扱いに終始していました。これはほかの「変身」と比べてみればいっそうよくわかるでしょう。 かなり古い作品ではありますが、他者変身をメインテーマに据えたアニメとしては『姫ちゃんのリボン』が挙げられます。また、性転換をメインテーマに据えたアニメとしては『らんま1/2』や『かしまし~ガール・ミーツ・ガール~』などが挙げられます。ところが「入れ替わり」の場合、これらと同じく「変身」だといえるにもかかわらず、メインテーマに据えたアニメは全くといっていいほど見当たりません。 そのせいでしょうか。一般にイメージする「入れ替わり」モノのストーリーは、ドタバタコメディーやギャグという、ワンパターンなものとしてとらえられがちな上、おまけ的なものだとか、ネタ切れという否定的なイメージも付きまとっています。この点ではマンガも同じですが『僕と彼女の×××』や『山田君と七人の魔女』など、メインテーマに据えた連載も少なくないという点で大きく違っています。 これは同作の場合も例外ではなく、いくら5話もあるといっても、結局はシリーズの一つでしかありませんし、今までの「入れ替わり」モノに対する否定的なイメージもあってか(※2)、ネット上の感想を見る限り、その評判は必ずしも良くなかったのが現状です。ただ、その一方で「入れ替わり」と聞いただけで拒否感を示す人でも、見てみると案外面白かったというコメントも少なくなかったように、一般にイメージするステレオタイプ的な「入れ替わり」モノのイメージがあったからこそ、同作品のストーリーが斬新に映ったともいえます。 本当に特異で斬新か? その点からして、同作品は「入れ替わり」モノの異端児かつ「入れ替わり」モノ史上に残る一つの功績を打ち立てた記念碑的作品だといえます。しかし、これほどまでに特異で斬新なものとしてとらえられている同作品もまた、それまでの「入れ替わり」モノの流れと全く無縁のところに位置づけられるものなのかというと、決してそうとは言い切れないばかりか、その流れの延長上に位置づけられるものだといえます。 確かに、作品を見ている側は、せいぜいそういうネタをよく見かけるという程度のものでしょう。だから、ありとあらゆるジャンルの「入れ替わり」モノについて詳しく知っているのかというと、決してそうではありません。そればかりか、逆に、前述したようなコメディー・ギャグ的なイメージや「使い古されたもの」などといった、ワンパターンのものとしてとらえている人や否定的なイメージを持った人も少なくないはずです。つまり、そういった思い込みを抱いている人からすれば、意外と斬新なものに映ったのでしょう。 しかし、パッと見の印象では、一見斬新に思えるそれらの設定やストーリーも、細かく分析してみると案外、それまでの「入れ替わり」モノのパターンにのっとって作られている部分も目立つものです。ひょっとしたらもうお気づきの人もいるかもしれませんが、いくつか挙げてみることにしましょう。 l 男女間で「入れ替わる」ものであること。 l そこで描かれる「入れ替わり」がアクシデント的な要素を持った超常現象であること。 l その現象の存在が、当事者のいる世界では認められていないこと。 l 「入れ替わり」に願望が伴っていないこと。 l 当事者にとってもコントロール不可能であること。 l 人格ではなく、身体に立場を合わせるということ。 もちろん、こういった特徴が無意識のうちにこういった特徴が作品に現れたのか、それともそのことを意識して、あえて従来の「入れ替わり」モノのパターンをとり入れたのかはわかりません。とはいえ、この特異な「入れ替わり」は、それまでの「入れ替わり」の変種ないし、その延長上にあるものとしてとらえられていることからしても、従来のパターンをある程度は意識していたのではないかと思われます。これは、私たちの「入れ替わり」に対するイメージを考える上でも重要なカギとなってきますが、それについてはまた次回の話としましょう。 「入れ替わり」の延長上にある「人格入れ替わり」 そして、従来の「入れ替わり」モノの流れに位置づけられるもう一つの根拠は、そのとらえられ方です。 いうまでもないことですが、この作品で描かれる「人格入れ替わり」は、一般的な「入れ替わり」とはその性質を大きく異にしています。「入れ替わり」が固定ではないということ、三人以上で「入れ替わる」こともあること、そしてしばらくすると元に戻るということ…。もはや複数の人間の間で人格(肉体)が「入れ替わる」ということ以外は、ほとんど共通点が見いだせないくらいです。 にもかかわらず、この「人格入れ替わり」は、一般的な「入れ替わり」に含まれるとみなされています。その証拠に、同作品の感想では「入れ替わり」モノに対するイメージを引き合いに出したコメントが多くみられました。また「心と体が~」とか「体が~」などといった、一般的な「入れ替わり」によく見かける表現を用いたものや「人格入れ替わりモノは~」という表現を用いたものも散見されました。その背景にあるのは「入れ替わり」そのものが一つのネタとしてとらえられていることです。 ある作品で描かれているものが「入れ替わり」であるか否かを判断するのは、その性質や方法ではなく、二人以上の人間の肉体もしくは人格及びそれに相当する心的実体が「入れ替わる」、つまり一方の人格がもう一方の肉体に、もう一方の人格が一方の肉体に入る、あるいはそれに相当する状態がつくりだされるかどうかだけです。だから、一般的な「入れ替わり」の概念でいうならば、この作品も「入れ替わり」だといえるわけですが、この「人格入れ替わり」という表現はなかなかのクセモノなのです。 作中で「入れ替わり」が成立すれば「入れ替わり」モノ・ネタとみなされるだけに、何が「入れ替わる」のかにはあまり関心がないのでしょう。感想でもほとんど指摘されてはいませんが、最初、桐山と青木が「入れ替わった」際は「入れ替わる」ものを「魂」においています。ところが「人格入れ替わり」という表現が示しているように、なぜか、途中からそれが「人格」におかれているのです。このことは、お気づきの人も多いでしょう。 作者もあまり気にしていないのか、その理由についての説明はありませんが、おそらく「魂」は、存在こそ否定こそできないにせよ宗教的な意味合いが強く、非科学的なものとしてとらえられているからでしょう。作品中では説明されてはいませんが、第2話に出てきた永瀬の主張(※3)では、暗黙の了解ながら、二元論的なものとしてとらえているとはいえ、科学的(とはいっても現象としての「入れ替わり」という時点で非科学であることはわかっていますが)に考えてみるならば「人格」に行きつくのは、ある意味理にかなっています。 とはいっても、このような解釈が妥当かというと、決してそうではありません。当事者がどんなに離れていても「入れ替わる」という設定や従来の「入れ替わり」と同じく、心身相関が考慮されていないという点からして「魂」の存在が念頭に置かれているのではないかという疑問もありますし、体が「入れ替わった」という錯覚も生じます。また、よくよく考えてみるとこの表現は、一個人の中で発生する以上「体」の方が「入れ替わった」という解釈はありえない、つまり「入れ替わる」(厳密に言えば「交代する」)のは間違いなく「人格」だといえる、多重人格の方が似合っているようにも感じなくもありません。 とはいえ、この超常現象は相手のいる場所に瞬間移動するという性質のものであることからしても「入れ替わる」モノを精神的のほうに置くのは当然ですし、ふうせんかずらが当事者を「入れ替える」描写もなければ「魂」を視覚的なものとして描いてもいません。ですから「入れ替わる」のは「人格」だとみるのは妥当な判断でしょうし「入れ替わり」が一般に、一個人の中ではなく二人以上の間で発生するものと(暗黙の了解の内に)みなされている以上、多重人格は「入れ替わり」とみなされていません。その点からしてもこの「人格入れ替わり」は従来の「入れ替わり」の範疇に含まれるものだといえます。 つまり、同作品で描かれている「人格入れ替わり」はそれまでの「入れ替わり」とは大きく異なったものでありながら、それまでの「入れ替わり」モノの延長にあるといえます。そして、その特異さや斬新さだけでなく「入れ替わり」そのもののなじみ深さやそれまでのパターンとの共通点があったからこそ、人々に受け入れられたのではないでしょうか。 けれども、私が注目しているのはそこではありません。それは同作品の感想で述べられていた「入れ替わり」のイメージです。 (以下次回) ※1)http://kayochan.nobu-naga.net/bookguide/bookguide12/bookguide12-07/00-01-05Bookguide01-12-07.htm ※2)それだけではなく、原作に対するイメージやアニメ放映時に起きたドッキリ事件などの影響も影響していると考えられる。 ※3)「しかしもし…その身体が人格の入れ替わりで曖昧なものになってしまったら?我々は我々として存在し続けることが出来るのでしょうか?」という主張のこと。
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