「入れ替わり」とは何か 第1部 「入れ替わり」モノ大国のフロンティア―「入れ替わり」は学問になりうるか? 第1回『転校生』から30年 タイトルと設定はあれほど有名なのに、作品自体は人々の間からも忘れ去られつつあるのかもしれません。実際、昨年はある作品の公開から30周年の節目にあたる年で、6月にNHK-BSで放映されたものの、ほとんど話題にも上りませんでした。それだけに気づいていなかった人も多いかもしれませんが、タイトルを聞けばもうお分かりでしょう。 それが、中学生の男女が、石段から転げ落ちて「入れ替わる」という設定で有名な、大林宣彦監督の代表作でもあり、日本映画の名作の一つでもある、また「時をかける少女」や「さびしんぼう」と並ぶ「尾道三部作」としても有名な『転校生』です。 しかし、そういった作品の評価うんぬん以上にこの作品が有名なのは、日本における「入れ替わり」モノや「入れ替わり」ネタの代名詞かつ「元祖」として認識され「入れ替わり」モノを語る上では欠かせない作品となっていることによるものではないでしょうか? 誤解されている方も少なくないようなので念のために言っておきますが、同作よりも前に「入れ替わり」モノが存在しなかったのかというと、もちろんそうではありませんし、その歴史は少なくとも江戸時代にまでさかのぼれるようです。また、同映画が日本の「入れ替わり」モノに与えた影響や、世間一般に認識されていった過程については、具体的な検証が行われているわけではないので、それ以外の作品の影響も完全には否定できません。 とはいっても、公開から30年以上がたった今なお「入れ替わり」モノが発表されるたびに同映画が引き合いに出されるのがもはや定番になっているに等しく、ネットなどでの感想でも「入れ替わり」と聞いて、真っ先に同映画のタイトルを思い出す人が少なくないように、同映画は人々のイメージとしての元祖として、圧倒的な存在感を誇っているといえるでしょう。それと同時に「入れ替わり」自体もまた、フィクションの定番ネタへの大出世を遂げました。 それは今の状況をみてもわかるでしょう。「入れ替わりモノ」や「入れ替わりネタ」と呼ばれるほど、マンガやアニメを中心にさまざまなジャンルで年に何十もの作品が発表されると同時に、毎年のように「入れ替わり」を中心に据えたテーマ性の高い作品が生まれてネットなどで大きく取り上げられ、なおかつ「使い古されたもの」とまでいわれるほどメジャーな、コメディーやギャグの定番かつ王道のネタの一つへと急成長しています。 つまり、日本はマンガ・アニメ大国となるとともに、世界有数の「入れ替わり」モノ大国となり、今までにない「黄金時代」を迎えているといっても大げさではないでしょう。そして、日本で「入れ替わり」が世間一般に意識され、フィクションにおける一つのネタとして定着した背後には、同映画の登場とヒットがあったとみて間違いありません。 しかし、そのような状況の中、私たちが本当に「入れ替わり」について理解しているといえるのかというと、残念ながらそうとはいえないでしょう。 実際「入れ替わり」モノが話題になっている割には、その核心的なところが話題になることはめったにありませんし、作品や表現手法などの研究もほとんど行われていません。また、人々の関心はそれ以外のところにあり、肝心の「入れ替わり」は、非現実的なものというイメージのもと軽くみられているようにも感じます。 けれども「入れ替わり」それ自体に、研究対象としての価値は全くないのかというと、そうでもないでしょう。たとえば、少し考えてみただけでも、人々がどういったところに注目しているのか、また、どういった形で描かれているのか、そしてどういった歴史をたどってきたのか…?などといったことが思い浮かびます。こういったことは、研究してみる価値がないばかりか、大いに価値があるようにも思います。 そこで、この連載で私は、タイトルにも示してあるように「入れ替わり」とは何か、つまり「入れ替わり」はどういったものか、具体的にはフィクションでどのように用いられ、どのような効果をもたらしているのか、そして人々はどういったものとしてイメージし、その何に魅力を感じているのかなどといった「入れ替わり」に関するさまざまな事柄について、さまざまな角度から分析し、検証してみようと、私は思っているわけです。 なお、本連載では「入れ替わる」モノが何なのかといったことの検証やそれ以外の入れ替わりなどとの比較などを考えていることから、表現上明確にするために、ここでいう身体もしくは精神及びそれに相当するものの入れ替わりのことは、カギカッコを付けて「入れ替わり」と表記し、それ以外の立場などの入れ替わりや辞書的な意味の入れ替わりのことは、カッコを付けず単に入れ替わりと表記することにします。 (以下次回)
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