第17回 フィクションの死角 ~無視されてきた負の側面~ 第2部 アクシデントと技術の違いと欠点(3) 「朝起きたら入れ替わっていた」 「気がついたら入れ替わっていた」 説明はたったこれだけでもよい。 入れ替わる描写がなくても、その原因を明記しなくても、ストーリーは成り立つからだ。 フィクションにおいて中心となるのは当事者らの反応や心境であって、入れ替わった原因は、その背景を説明するきっかけにすぎない。言ってみれば、ほとんど飾り同然といってもよいだろう。だから、アクシデントを連想させるようなものであれば、何でもかまわないのだ。 むしろ「入れ替わり」の唐突さや不条理さを強調したいのであれば、原因を詳しく書かないほうが、それらの要素が引き立つのかもしれない。ギャグに理由や説明は不要だし、突然の出来事で原因がはっきりしないことほど、当事者らを不安におとしいれるものもないからだ。 当然、「入れ替わり」の場合、そのことは当事者らの孤独や疎外感をいっそう強めるものとしてはたらく。このことは後々、ストーリーの展開において重要なポイントとなってくるのだ。 2.「入れ替わり」の確認と認識 そのようにして「入れ替わり」というアクシデントに巻き込まれた当事者らが、次に直面するのは「入れ替わった」ことを認識し受け入れることだろう。 「入れ替わり」の描写や原因の説明がなくてもストーリーが成立するのとは違い、この描写と説明をなくして、「入れ替わり」は成立しない。たとえ「入れ替わり」が発生したとしても、当事者らがそのことを認識しなければ、発生していないも同じだし、読者や視聴者にそのことが示されていなければ、理解することはできない。当然、「入れ替わり」を題材としてストーリーを展開することもできない。 そのためには、当事者らに意識があることが前提となるが、強いショックによって発生するという特性からか、気を失っていることが多い。病院に運ばれてから気づくという設定のものもあるにはあるが、現場に倒れ込んだままということも少なくない。常識で考えても、けがをしていてもおかしくないはずの衝撃を受けているはずだが、それはそれで「入れ替わり」を奇跡として描きたいのだろう。気を失っただけだから、自然に意識が戻ることが多いようだ。 それはともかく、「入れ替わり」が発生すれば、意識するしないにかかわらず、そのことに気づかされることになるのは明らかだ。「見た目からはけがひとつないように思えたが…見えないところで大きな変化が起こっていた…」(有吉AKB共和国より)これがすべての始まりなのである。 相手がそばにいるか、一人で気づくか どういった原因で「入れ替わった」のかはさておき、ごく一部の例外的な作品を除いて、当事者らはいずれ意識を取り戻す。意識が戻ったところで、自分たちの身に起きたことに気づくわけだが、彼らはどういった場所で、どのようにしてそのことに気づくのだろうか。文章だけではわかりにくいと思うので、以下に、各パターンについて簡単な表を示すことにする。 参考資料:各パターンの経過
「入れ替わり」には大きく分けて二つのパターンがある。一つは、意識が戻った後、現場で双方が確認しあうことによって「入れ替わった」ことを認識するもので(パターン1)、アニメやギャグマンガなどのような一話完結の短編によくみられる。 このパターンの特徴は、確認する描写さえもとばして、認識するところからストーリーが始まるものもあるように、無駄な部分を省略して、気づくまでの経過も軽くすまされていることである。コメディーは作品自体が短い分、突然「入れ替わった」ことによる当事者らの戸惑いからくるドタバタ感やストーリーのテンポを引き立てることが求められる。そのためには、ストレートに表現することが重視されるのだろう。 もう一つは、「入れ替わった」ことに気づかないまま現場から立ち去り、鏡などで自分の顔や身体などを確認した後、再び相手に出会って「入れ替わった」ことを認識するもので(パターン2)、長編や連載物によくみられる。特に有名なのは、『転校生』とその派生作品だろう。 多くのページ数や時間を費やすことができる上、入れ替わったことに気づくまでの経過も一つのストーリーだと考えられているのだろう。全体の分量からすればごくわずかとはいえ、細かい描写まではっきりと描かれているのが特徴だ。 他人の身体で自分の家に忍び込んで怪しまれるという設定でも有名なパターンだが、それ以上にはっきり描かれているのは、自分の身体を確認する描写である。この描写は特に男女間の場合にはっきりしているといえる。 それが表わしているのはずばり、異性になったことによる性的な衝動を抑えられない気持ちや、その身体に対する興味関心であろう。鏡の前でおおっぴらに服をはだける、下着姿になる(たとえば、ブラジャーとパンティー)、緊張から解き放たれたかのように、おもいっきり胸をもむ…。 見方によっては過激にもとらえられるものも少なくないし、自分の身体をそうされるのはいやだという人も決して少なくないだろう。しかし、当事者、特に男の側にとっては、それらは今まで直接見たりしたりすることを禁じられてきたものなのだから、いくらアクシデントであったとしても、またとないチャンスであることは容易に想像がつく。 興奮するものとして描かれていることが圧倒的に多い一方、異性の身体に拒否感をおぼえるという作品もわずかだがある。こちらのほうが「入れ替え」によって発生する状況に近いと思うのだが、これについてはまた別の機会にふれることにしたい。 鏡の効果 「入れ替わり」には二つのパターンがある。もちろん、私はここで両者の良し悪しを論じるつもりは全くない。どちらも、作品がテーマとするものに応じて発展し、使い分けられているものだし、「入れ替わった」ことに気づく場所と手順が違うだけで、それほど大きな違いはないからだ。 しかし、どちらのパターンにせよ、「入れ替わった」ことを確認するには、身体の確認と出会いという二つの手順を踏む必要がある。自分の身体に何らかの変化が起きたということは認識できたとしても、それ以外の「変身」、つまり、自分が誰かに変身したとか、誰かに憑依したということも考えられるからだ。 しかも、シャツを前後反対や裏返しで着ているのとは違って、外見上の変化はないので、周囲の人が気づいてくれることもまずない。だから、当事者自身が自分で「入れ替わった」ことに気づかなければならないのだ。 そこで必要となってくるのが、鏡やショーウィンドウなどの反射するつるつるしたもので自分の顔を確認することである。鏡はあたりを見渡してみれば比較的どこにでもあるし、見えないほど高いところにあるものでもない。左右反対に映る点や、ゆがんで映ることがあることを除けば、ほぼ正確にものを映している。少なくとも、自分は笑っているのに鏡のほうが泣いているということはない。 だから、自分で自分の顔を確認するためには、手っ取り早いツールであることには変わりがない。もしそこに自分の姿がなく、どこかで見覚えのある、自分ではない誰かの姿が映っていたならば、自分に何らかの変化が起きたということになったとみて間違いないだろう。 出会いの効果 しかし、自分の身体に変化が起きたことを自分で確認できたとしても、それはあくまでも自分に起きた変化であって、相手にも同じような変化が起きたのかはわからない。 そこで欠かせないのが「入れ替わった」相手に出会うことである。変身には、基本的に相手はいないし、憑依には、相手はいてもコミュニケーションは存在しない。それに対し、「入れ替わり」には相手がいるうえ、相互のコミュニケーションも可能である。そのため、相手に会い、相手が自分になったことを確認して初めて、自分がその人と「入れ替わった」ということを認識できるのである。 意識して相手を探してみるのもその方法の一つだが、それほど意識しなくてもよいだろう。関係のある人の間で起こることが多い以上、何らかの理由で会うことができない場合を除けば、会わないでいようと心がけていても、どこかで相手に出会うことになるはずだろうからだ。 しかし、相手に会ったからめでたし、めでたし…というわけにはいかない。その時、克服しなければならないある現象が発生する。それが、自分が目の前にいるかのようにみえる「擬ドッペルゲンガー錯視」である。 擬ドッペルゲンガー錯視の克服 自分は本当に誰かと「入れ替わった」のか、 そして、自分の身にいったい何が起きたのか。 その謎を解く最大の方法は、相手に会ってみることだということは前にも述べた。確かに、自分にどういうことが起こったのか、つまり、自分が本当に「入れ替わった」のかどうかがわかるに越したことはない。しかし、そのためには、ある問題を克服しなければならない。それは、お互いが、自分が目の前にいるような錯覚におちいることである。登場人物がよく「私の前に私が…」とか、「おれがいる!」などと言って、びっくりしている描写は「入れ替わり」を扱った作品にふれたことのある人なら誰でも知っているであろう。 このような錯覚はフィクションでもたいてい描かれているのだが、当たり前のものとして描かれ、気づかれることが少なかったのだろう。ほとんど定着していないようで、それを指し示す言葉はまだないようだ(※)。 そこで、自分がもう一人の自分に出会う(※2)「ドッペルゲンガー」という超常現象に似てはいるが、現象そのものが発生したのではなく、自分と「入れ替わった」相手の体で自分と「入れ替わった」相手を見ることによって発生する錯覚でしかないという意味で「擬ドッペルゲンガー錯視」と呼ぶことにした。 錯覚とはいっても、単なる錯覚ではない。そのような錯覚と共に、見慣れていた自分の身体がそこにないという、感覚的・視覚的な変化の訪れも意味しているからだ。具体的に言うならば、自分の体を見下ろしてみると、いつもなら着ないような服を着ていたり、指が細くなっていたり、髪が伸びていたり、胸がふくらんでいたりするといったものが、フィクションでおなじみのパターンではないだろうか。 これは、「入れ替わり」全体においてみられる描写であるが、確認の描写と同じく、男女間の場合を思い出してもらうと、いっそうわかりやすいのではないだろうか。このパターンが世間一般に定着しているということもあるが、変化を感じやすいということも無視しては通れないからである。手のひらや髪などのように、男女でその質感・形状が大きく異なっているものや、胸や股間のように一方にしかないものなど、わかりやすいものが多いからだ。胸や股間に手を当てて「ある!」「ない!」と叫ぶのは、その最たるものである。 「入れ替わる」とわかっていても、戸惑うのは確か 今まで、「入れ替わり」における確認と認識の描写について述べたが、「入れ替え」の場合はどうなのだろうか。 ハッキリとは予想できないが、おそらく「入れ替わり」と大して変わらないと思われる。身体あるいは中身の交換による立場の交換という点においては同じ以上、程度の差こそあれ、当事者らが身体の変化に驚いたり、戸惑ったりすることは避けられないからだ。 いくら双方が同意したうえでの「入れ替え」であったとしても、その身体や立場に100パーセント満足することなどありえない。人間は程度の差こそあれ、なんらかの欠点を持っている。いくら相手が自分にない身体的特徴や能力、立場などを持っていたとしても、それと引き換えに、相手の悪い部分も引き受けてしまうことになる。当然、いくらか不都合な点があったとしても目をつぶれる人でなければ、まず利用しないだろう。 しかし、いくつかの点において、「入れ替わり」と決定的に違っていることがある。その中でも特に大きな点は、それを使うかどうかが当事者ら双方の意思と同意にゆだねられていることではないだろうか。 もちろん、これはあくまでも技術的な「入れ替え」を考えた場合の理想像であって、フィクションではそうはなっていない場合が多い。また、その方式や普及の度合、使う側のモラルなどによっては、かけ離れたものになってしまうことも十分に考えられる。 たとえば、ドラえもんに出てくるひみつ道具「トッカエバー」や「入れかえロープ」のような、誰にでも簡単に行えるものが発明されたならば、犯罪やいたずらなどに悪用することも簡単になってしまう(それをよく表しているといえるのは『ウメ星デンカ』の一エピソード「トッカエバー事けん」である)。 そこまで発展するかどうかはともかく、悪用する目的で「入れ替わる」ことは許されないし、相手が嫌がっているのに一方が無理やり「入れ替わる」ことを強制したり、自分の立場などを偽って誰かと「入れ替わろう」としたりすることなどもってのほかである。 そういったことからも、「入れ替え」が実用化されるためには、この大原則はけっして避けて通れないものとなってくることは明らかだろう。 ただ、「入れ替わり」と違って、「入れ替わる」側も、何らかの目的を持っているだろうし、「入れ替わった」ときも、自分たちの身に何が起きたのかということは十分認識しているだろう。入れ替わる日時や相手などの情報を事前に伝えるなど、人為的にその不安を和らげることのできる可能性があることは、「入れ替え」の強みなのかもしれない。 そして、フィクションもまた、私たちの「入れ替わり」に対するイメージを形成する一つの材料になるということを忘れてはならない。ロボットが『鉄腕アトム』や『鉄人28号』などといったフィクションと一緒にイメージとして語られることが多いように、「入れ替え」もまた、たとえ実現したものとはかけ離れているにせよ、何らかの作品によって人々にイメージとして定着していることは容易に想像できるからだ(※3)。 それによっては、「入れ替え」が思ったほど普及しなかったり、逆に敬遠されたりする可能性もあるということは押さえておきたい。 このようにして、当事者らは「入れ替わった」ことを認識する。しかし、それは長い苦難の始まりのほんの序章にすぎない。本当の苦難はこれからなのだ。 あなたは、強制的に自分の住み慣れた場所から追い出され、知らない人と共に暮らすことができるだろうか。 これが次回の話のヒントである。 注釈 ※)「入れ替わりマニアックス」のクロエさんに聞いてみたところ、「自分視」という言葉がよいのではないかという返事が返ってきたが、イメージしにくいのが難点である。 ※2)ドッペルゲンガーには、「自分の姿を第三者が違うところで目撃する」といったパターンのものも含まれているが、ここでは省いた。 ※3)ただし、ロボットや宇宙開発などといった技術的なものとは違い、アクシデント的な「入れ替わり」と一緒に語られた場合、誤ったイメージが形成される危険性もある。
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