第16回 フィクションの死角 ~無視されてきた負の側面(3)~ 第2部 アクシデントと技術の違いと欠点(2) 1.方法・原因の明確さ 「入れ替わり」と「入れ替え」―この二つの違いは、カンタンに言えば、「現象」と「技術」といった、ごく小さなものにすぎない。二人、あるいはそれ以上の人間(場合によっては生物)の中身が入れ替わってしまうという点においては、どちらも同じだからだ。 だが、「現象」である「入れ替わり」が自然に発生することは考えられないし、基本的にコントロールできないものとして描かれている。それに対し、「技術」である「入れ替え」が今のところ、これからも実現しないと断言することはできない上、実現したと仮定するならば、基本的にコントロールが可能なものになっていると思われる。 これほど違う性質のものであるにもかかわらず、フィクションにおいて両者は「入れ替わり」という呼び名でひとくくりにされ、同じものとみなされている。もちろん、それ以外の呼び方がなされることも少なくないが、少なくとも「入れ替え」と「入れ替わり」は別物であるという認識はないようだ。 その背景には、フィクション、特に日本の作品の大部分は、「入れ替わり」、つまりアクシデントとして描かれていることが挙げられる。「入れ替え」だといえるものでも、意図しない副作用として発生したという、アクシデント的な要素を持つものが多く、本当の意味で「入れ替え」だといえる作品は少ない。当然、そのような状況が想定されることもまれである。 では、「入れ替え」が現実に可能となった場合、それはどういった特徴を持ち、フィクションの中の現象にすぎない「入れ替わり」とはどう違うのか、今回からは、そのことについて考えてみることにしよう。 パターンの踏襲とあいまいさ 最近の若者はやる気がないとか、社会のこと(特に政治)に無関心だということをよく耳にする。私もその一人だから他人のことなどいっていられないのだが、年長者やマスコミの若者に対するステレオタイプ(偏見?)は特に強い。 マニュアル化、自主的な活動ができないなどとよくいわれているが、世の中は決して明るくないのだから当然のことだ。今ではほとんど聞かれなくなったが、相変わらず残っている(それもひどくなった)「格差社会」、官僚の「利権」と「天下り」、相次ぐ自然災害や犯罪と、その対応の遅れなどからくる警察や行政などへの不信感…。 これからもどうせろくなことなんてない、世の中は絶対よくならない、がんばったって無駄だと、将来を見くびっている人も多いだろう。そういう状況で、「やる気を出せ」とか「社会に関心を持て」などといわれても持てるはずがない。 だからこそ、新たに会社を興したり、革新的なことをしている企業・学校などを目指したりすることよりも、有名大学や大企業、公務員などといった、安定している(といわれている)ものを目指す人が多いのだろう。 若者の意欲もそうだが、フィクションも案外、同じ傾向にあるのかもしれない。 ある影響力の大きな作品のストーリーがパターン化されるあまり、その路線に沿ったものばかりが作られ、今までにない実験的でユニークな設定の作品を作ろうとしなくなるからだ。 その傾向は「入れ替わり」や「入れ替え」の場合、特に強いのではないだろうか。 「入れ替わり」の金字塔的作品『転校生』は、コメディーを中心にアクシデント的な「入れ替わり」を、定着させた。 しかし、その影響を受けた作品が乱発された結果、「使い古されたテーマ」という印象を読者や視聴者にもたらすことになった。最近になってそれに縛られないユニークな作品も登場し始めたものの、従来のパターンに沿ったものも相変わらず作られ続けている。 その代表的なパターンは「三大原因」だが、「入れ替え」の場合もそれに相当する大きなパターンが存在している。それは、 ①マッドサイエンティストの作った怪しげな機械を用いたもの ②道具を用いたもの そして、 ③コントロール可能な特殊能力(たとえばキス)などによってなされるもの の3つである。 これらはアクシデントと違い、一見、その技術や原理をはっきりさせているかのようにみえる。しかし、厳密にいうとそうではなく、「入れ替える」ための行為が描かれているだけにすぎない。何が行われたかがはっきり示されているとはいっても、科学的な理論は無視されているし(特に③)、現実の法則に忠実に従う必要は全くないからだ。 それでも、どういった方法で行われたのか、その技術や方法を作中で示す必要はある。しかし、どこまで詳しく示したとしても、作者の空想の産物の域を出ないことは明らかだ。当然、読者や視聴者には実感がわかないばかりか、イメージすることすら難しい。 その結果、どこか漠然とした意味不明なものになってしまい、アクシデントによって生じた「入れ替わり」以上にナンセンスに感じられる。こういった問題点があるからか、「入れ替え」は、フィクションでは扱いにくいものとなっているのだと思われる。 「入れ替わり」…原因はあいまいだが、合理的かどうかは不問 描写があいまいになってしまう割には、書くのが難しい。 それどころか、無理にでも原因を考えようならば、ストーリーは破たんしてしまうだろう。 このことは、フィクションにおいてアクシデント的「入れ替わり」がよく用いられ、そのように呼ばれているのと無関係ではないと思われる。 「入れ替え」と違い「入れ替わり」は、その背景に「三大原因」をはじめとする何らかのアクシデントが関係していることが暗黙の了解となっている。そのため、どういったメカニズムで「入れ替わった」のかとか、本当にそれが原因で「入れ替わった」のかはわからないばかりか、検証すらできないし、たとえ、原因を作中で示さなくても、ストーリーは成立する。 それは裏を返せば、どういった方法で「入れ替わった」のかを作中で説明する必要がないということでもある。二人、あるいはそれ以上の人物の“何か”が入れ替わったということだけを記せばストーリーが成立するのだから、書く側にとっても、これほど気楽な設定もないことだろう(登場人物の心理描写に関しては、そうはいかないのも事実だが…。) 同時に、この設定は、多くの読者や視聴者の関心や理解度にも即している。 彼ら・彼女らの関心は登場人物の心理描写であって、どういった原因で「入れ替わった」のかはどうでもいいし、原因を明示しているか否かが、ストーリーの進行に支障をきたすわけではないからだ。 つまり、これらの作品において「入れ替わり」は、ストーリーを展開する一つの設定、いわば小道具にすぎないのだ。そのことは、「入れ替え」では避けて通れない、ある大きなメリットをもたらしている。 地震のように(※)、前ぶれもなく発生し、今まであったものがうばわれた上で、違った環境におかれる。こういった設定だと、現実の法則にのっとっていなくても、ストーリーを成り立たせることができるばかりか、フィクションにおける「入れ替え」のような仕組みのあいまいさや非現実さ、技法の漠然さも「カモフラージュ」することができる。 なおかつ、そういったあいまいさを作ることによって、それがフィクションであることを読者や視聴者に明示する役割も果たすことができる。その点において、「入れ替え」のメカニズムの非現実性という問題をある意味でクリアーしているともいえよう。 ※地震に限らず、多くの自然災害には発生の前兆があるが、それは極めて小さなものであることが多く、多くの人はそれに気づかないので、ほとんど前ぶれもなく発生するものととらえて差し支えないだろう。 「入れ替え」…メカニズムははっきりしていなければならない。 一方、技術である「入れ替え」には、フィクションのような、あいまいさは許されない。 もちろん、フィクションで描かれている架空の技術と現実に考えられる技術には、全くといっていいほど関連性はないだろう。脳やこころの仕組みは複雑で、シロウトには理解しづらい上、解明されていないこともまだまだ多い。第一、そこに描かれているもので「入れ替え」が実現できるとは誰も思わないだろう。 おそらく、肉体をつかさどる“何か”、あるいは身体を交換すれば成り立つということまでは思いついても、人間の身体は、そう簡単にはできていないのだろう。確かに、過去、2匹のサルの首をすげ替える実験や犬の頭を別の犬の首の横に移植するなどの実験が行われたことはあるし、成功している。とはいうものの、ある大きな問題が発生したという。 その一つが、神経をめぐる問題だ。ご存知のように、神経細胞は(一部の例外を除いて)ある時期を境に分裂しなくなり、以降、死に続けるだけになる。そのため、自ら結びつくことはなく、無数にある神経をいちいちつないでいくという、無謀ともいえる作業をくり返さなければならなくなるのだ。 その克服のためには、もっと長い年月を必要とするだろうし、そこでつまずいてしまって、実現不可能に終わる可能性も十分考えられる。それでも、研究が進むにしたがい、ある程度の方向性は決まってくるだろうし、技術上の制約も生じてくることだろう。 たとえ、その点を克服したとしても、避けて通ることのできない大原則が発生してくる。それは、「入れ替え」を行うにあたって、そのメカニズムや行う手順がはっきりしていなければならないということである。「入れ替わり」とは違って「入れ替え」は、人間が行うわけだから、行う側がその手順を全く知らないということは考えられないからだ。 ただ、どこまではっきりさせるかは、医学的なものにとどまるか、一般化するかでかなり異なってくると思われる。 もし、その技術が医学的なものにとどまるならば、フィクションで描かれているように、その技術が私たちには理解できなくとも、たとえ、高度な技術を持った医師のような、一部の人にしか理解できない高度なものであっても、全くかまわないだろう。医師たちは、医学部での勉強や実習などを経て、現場にたずさわるわけだから、全くのド素人が行うことなどあり得ない。 一方、(そのような状況はちょっと想像しにくいのだが)一般に普及するにはもっと簡単に(少なくともマニュアルで理解できる程度に)なっていなければならない。そうでなければ、実現にこぎつけることはできても、普及させることはできないことだろう。 それに加え、できる限りの安全性が保障されていなければならないという、避けて通ることのできない大きな問題が発生してくる。 ところが、フィクションは、そのことを問題とはしていない。よく描かれているのは、機械が壊れたとか、そのやり方が理解できないために、元に戻すことができないなどといった初歩的としかいえないミスである。 当然、これらは、現実に可能になった状況においては、不測の事態を除いて心配する必要はないだろう。それを言うなら「一個人をつかさどる記憶を扱うことへの不安」のほうがより大きな問題となってくるはずだ。 現状を無視した脅威への感覚的な不安と「安全」に対する関心が年々高まっている今、医療もその非難の対象となっている。出産時のトラブルによる訴訟を恐れて産科が減っているという話もあるし、(理不尽ともいえる)医療関係の訴訟も絶えない。 そのことを考えれば、「入れ替え」も決してその例外ではないことだろう。もちろん、それが実現したころに医療関係の訴訟が増えているか、減っているかを予測することは困難だ。とはいえ、もし今と同じか今以上に訴訟が増えているとするならば、相当厳しい立場に置かれるのは明らかだ。 どのような方法であれ、「入れ替え」は、その人をつかさどるものを扱う責任の重い技術であることには変わりがない。そのような特性を持ったものである以上、もし、手術に失敗したならば、その個人を「抹殺」することにもつながりかねない。 もちろん、記憶のバックアップを取ることが可能になれば、このような問題はかなり改善されることだろう。だが、それですべての問題が解決するわけではない。ある問題点の克服は「一難去ってまた一難」にすぎない。それらが流出・悪用された場合のことを懸念しなければならなくなるだろうし、予想もつかないような、別の問題を懸念しなければならなくなるかもしれない。 コメディーならばともかく、技術的なものを考えた場合、信頼がなければ誰も利用しないだろうし、何らかのトラブルが起きれば、その技術の信用自体が急に失墜してしまうことにもつながりかねない。入れ替えるときはもちろん、元に戻すときや記憶などを管理するときにも、その技術などに対する信頼が(それ以外の医学や技術以上に)必要となってくるのだ。 しかし、「入れ替える」技術だけが生まれても、それだけでは不十分である。「入れ替え」の当事者らの人間関係も重要となってくるのだ。 次回は、「入れ替え」の当事者らがどういった状況に置かれるのか、そして、それが可能となった場合、どのような認識をすると考えられるのかを比べてみることにしたい。 |