第15回

フィクションの死角

~無視されてきたの側面(2)~

(人間関係と入れ替わり その4)

第2部

アクシデントと技術の違いと欠点

どこからも聞かないのが不思議でならないが、先日(17日)、尾道版『転校生』が公開30周年を迎えた。

予定では、それにちなんだ特別企画をお送りしようと考えていたが、「入れ替わり」が可能になった状況とその問題点を想定するという、この連載の方向とどこか違った方向を向いていそうに感じたので、いつも通りの連載をお送りすることに決めた。


定番化した「現象」、無視された「技術」

前回は、「入れ替わり」が不可能であることを支えている「固定概念」とその形成について述べた。今回は、もう一つ、定番化したあるものをについて考えてみることにしたい。

このジャンルや当事者らに起きた現象を指すとき、「入れ替わり」という言い方があたりまえのようになされ、一般に定着している。当然、この連載でも、内容をわかりやすくするために、一般的なこの言い方を採用してきた。

しかし、何らかの「技術」を用いたものに「入れ替わり」という言い方を用いるのはふさわしくないと思われる。なぜなら、フィクションで扱われているものとはその性質が大きく異なっているからである。

では、その違いとは何か?

それは「現象」「技術」かという違いである。前者は何らかの超常現象によって発生したもの、後者は何らかの科学技術や医学を用い、人為的に行ったものを指す。

このことは、フィクションにおいて「入れ替わり」が、アクシデントとして扱われていることが多いのと無関係ではない。

『転校生』以降、主流となった、「衝突・転落・落雷」という「三大原因」は、双方の同意のもとで成り立つ性質のものではなく、ある日突然、当事者らの身に降りかかってくる「災難」として描かれている。いわば、受け身的なものである。

しかも、多くは不可逆であり、人智(?)を超えた、当事者らの力ではどうしようもできないものとして描かれている。人為的なものではないから、道具や技術がかかわっているわけではないし、原因はわかっていても、どういったメカニズムで「入れ替わった」のかはっきりしない。中には「入れ替わった」と認識してはいても、原因を認識していないこともある。

だから、フィクションの中の当事者らはもちろんのこと、私たち読者も「現象」だと認識している。これが、「入れ替え」ではなく「入れ替わり」と言われている原因だと思われる。

しかし、技術を用いたものは「現象」ではないし、アクシデント的な要素はほとんどないか、きわめて弱い。だから、「技術」を用いたものに、「現象」としてのものを指す「入れ替わり」という言い方をあてはめるのはふさわしくないし、「入れ替え」といったほうがその性格を反映しているようにも思われる。


そのため、本連載では、アクシデントによるものと技術によるものを区別するため、前者を「入れ替わり」、後者を「入れ替え」と呼ぶことにする。


 

入れ替わり

入れ替え

性質

現象

技術

方法・原因

衝突・転落・落雷など

道具・手術・呪術など

アクシデント的要素

強い

弱いかなし

可逆性

基本的に不可逆

基本的に可逆

予見性

なし

基本的にあり

現実性

オカルト的なモノを除き、ありえない



架空のものだからこそ、自由に書ける。でも、その裏側は…?

私たちは「入れ替わり」を、フィクションの中だけのことだと認識している。

もちろん、それは現時点での「仮説」であって、フィクションなどによって作られたイメージでしかないのだが、大きなメリットもある。

それは、現実を気にすることなく、気楽に書くことができることである。

現実の問題を扱った作品を書く場合、差別やプライバシーなど、多くの問題がかかわってくるので、大きく制限されてくる。書くにしても、差別的なものにならないよう注意を払わなければならない。

しかも、人権意識の高まりとともにその傾向は強まっているといえる。実際、人権に対する意識が乏しかった時代の作品で、絶版や再版・再放映不能となっているものは多いし、近年復刊された、藤子・F・不二雄の『ジャングル黒べえ』やヘレン・バンナーマンの『ちびくろさんぼ』などは、黒人差別により長い間絶版となっていた。

たとえ、作者に茶化してやろうという意思がなく、差別的ではないという反論意見があったとしても、過激な主張をする人はほんの一部にすぎないが、絶大な力を持っている。もし、少しでも非難されれば、多くの作家は、従わざるを得ないだろう。

この点において「入れ替わり」には、そのような非難をされる心配がない。乱発される作品に「また、「入れ替わり」か…。」とあきれる読者はいるかもしれないが、架空の現象である「入れ替わり」には、現実の”被害者“はいない。当然、それが書かれることによって何か迷惑をこうむる人もいない。

また、ドラマのように「この作品はフィクションです」と書かなくとも、フィクションだと理解してもらうことができる。この点は、フィクションにおいて急速に発展をとげた要因とみることもできよう。

ところが、それは裏を返せば、各個人が言いたい放題・書きたい放題ということでもある。つまり、あるテーマを強調するために、問われることのない死角を作ってしまうこともできるのだ。

もちろん、こういった「表現の自由」は保障されなければならないのだが、非常にやっかいな問題も引き起こしている。その中には、「入れ替わり」が実現したときに大きな問題点を引き起こしかねないものも多く含まれているのだ!

存在しない=不可能なのか?

そして、忘れてはならないのが、「存在」と「可能」の違いだ。

フィクションにおける「入れ替わり」には、大きく分けて2つのパターンがあることは前に述べたが、フィクションにおいて圧倒的に「現象」として扱われている作品が多いのは、私たちが「入れ替わり」に対し、次のような考えを持っているからだと思われる。

「入れ替わり」は現実には存在しない

このことは、世の中のほとんどすべての人が、当たり前のように感じていることだろう。

超常現象を除けば、そういったことは報告されていないし、そういったことを知らなくとも、理屈抜きにそう思い込んでいるからだ。

では、この文を

「入れ替わり」は現実には不可能だ

と書き直したらどうだろうか?

多くの人は、この2つの文は同じ意味だと思うことだろう。

現象であれ、技術であれ、今のところ「入れ替わり」は存在しないからである。

けれども、後者の文は二つのとらえ方が可能であることを忘れてはならない。

一つは、「現時点では不可能である」という、「現在」の状況を指して言う場合である。前に述べた、「「入れ替わり」は現実には存在しない」という文と同じ意味にとらえられるだろう。これには、異論は特にない。

もう一つは、「これからも実現することはない」という、「未来」の予想を指して言う場合である。何らかの理由で、技術そのものが実現しないということを意味する。

しかし、未来のことなどわからないのに、「これからも実現することはない」と今の私たちが決めつけることなどできるだろうか?

このことについては、前回の話とかぶるところが多いので繰り返さないが、現象として存在しないからといって、技術として可能かどうかはわからない、そのことを心配しても早とちりでしかないだろうし、場合によってはそれ以外の問題を克服することにつながるかもしれない技術開発そのものを萎縮させかねない。これが重要なポイントである。

つまり、前者の文はこれからも変わらないことだろうが、後者の文は、遠い未来には変わっているかもしれないのだ。


ただ、その道のりはきめて遠く・けわしいことだろう。

まず、科学や医学、技術のまな板の上にのせられなければならない。議論だけでもいいから、取り上げなければ、実現の可能性はゼロに等しい。

ところが、現実はそうはなっていない。今のところ、小説家やマンガ家、映像作家などによる「フィクション」という、お遊びにとどまっているからだ。

もちろん、フィクションが現実を予言(予見)していたということもないわけではないが、それには(少なくとも)作品に注目・触発されて「わからないけど、やってみよう」と思う医師や科学者・技術者などがいなければならない。

当然、「入れ替わり」の場合はそこまで至っていないばかりか、学者の中にも「不可能である」と決めつけている人も少なくない(もちろん全てではないことはいうまでもない)。だから、フィクションが現実に影響を与えることは、今のところ考えにくい。

そのような状況だから、私も、どのような技術・方式などで実現するかは、全く見当がつかない。おそらく、私たちの想像をはるかに超えた、未知の技術であることだけは間違いないだろうが。


意外にも、それが「実現」した場合に考えられる問題は、フィクションでもあまり扱われておらず、まだまだ未開拓の分野なのだ。次回はフィクションと技術として実現した場合の違いについて考えることにしてみたい。