第13回

フィクションの死角

~無視されてきたの側面(1)~

(人間関係と入れ替わり その3)

おことわり

この文章は先週(4月1日)に掲載する予定だったが、体調不良により掲載を延期した。本当ならば、1回でまとめたいところだが、もうすぐ学校が始まることと、理論の内容の充実を目指すために、何回かに分けてふれることにしたい。


そっぽを向くフィクション

フィクションでよく描かれている「入れ替わりによって相互の理解が深まる」という、メリットは技術として実現し、たとえ、その利用に際して規制がなされた場合でも、ある程度は得られることだろう。

しかし、そういったメリットばかりではない。それを使うかどうかは使う側の合意と意思にゆだねられている以上、トラブルの原因にもなりかねないし、悪用されることも考えられるからだ。「入れ替わり」が実現した状況を考えるうえで、こういった問題は避けて通れない。

それにもかかわらず、こういった問題に対し、フィクションは驚くほど無関心だ。

勘違いされるかもしれないので言っておくが、フィクションがこういったことを考えるうえで全く役に立たないのではない。「入れ替わり」を体験することのできない現状において、フィクションはもっとも手ごろで重要な参考資料となるからだ。

しかし、読者が求めているの、たとえば当事者らの「入れ替わり」に対する認識や戸惑い、周囲の人との人間関係など、ストーリーを展開するうえで興味を引くものはよく描かれている一方、「入れ替わり」が技術として実現した場合の問題点についてはほとんど描かれていない、むしろ、意図的に避けているともいえるからだ。

だから、フィクションで描かれているものは大きく偏っているうえ、想定されることのごく一部にすぎないということも忘れてはならない。

今回からは、フィクションで描かれている「入れ替わり」とそれが現実に可能となった場合に想定される「入れ替わり」の相違点について考えてみることにしよう。

問題点をカモフラージュする固定概念

では、なぜ、フィクションはそういった傾向にあるのか? それは、私たちは、「入れ替わり」に対し「現実には不可能である」という常識、言い換えるならば、固定概念を持っているからではないだろうか。私たちだけでなく、それを書く作家のほうも、である。

当然のことながら、その常識には根拠がないわけではない。「入れ替わり」という現象自体が、現実には存在しないものであり、仮想現実的なものを除いて(※)それを可能にする技術も今のところ確立していない。そのうえ、近いうちにそれが実現する気配もない。

そうである以上、今を生きる私たちが「「入れ替わり」は現実には不可能である」と考えるのは当然だし、逆に、この連載で考えていることなど意味がないと思う人だっているかもしれない。

確かにその通りかもしれない。この先人類が進む未来はけっして明るいものではない。現に、今年の暮れごろに地球が滅んでしまうという主張をしている人もいるし、たとえ2013年を迎えられたとしても、核や環境破壊など、人類が作りだし、自身の滅亡につながりかねない多くの時限爆弾を抱えていることは変わらないだろう。

また、科学技術や医学が進歩し、「入れ替わり」が実現可能になると仮定したとても、自分には関係ないという考えを持っている人も多いことだろう。日常の雑多なことに精いっぱいの生活を送っているならば、意味のないことを考えているヒマはないだろうし、自分はもういないであろう遠い未来のことを心配しても仕方ないからだ。

そう思う人は、一度考え直してほしい。そういった考えの背景には、私たちの忙しさや目先の利益があるのではないだろうか?政治や科学技術などに関する問題の多くは「自分には関係ない」では決してすまされないものである。現に原子力発電に関する問題は未来の世代に放射能という負担と禍根を残すものになりつつあることを考えるとそのことは明らかだ。

だから、「入れ替わり」もまた、私たちが予想もできないほど遠い未来においては現実のもの、それも、日常の中に入り込んだ当たり前のものとなり、大きな問題を引き起こしているかもしれないのだ。


※)2008年、スウェーデンのカロリンスカ研究所が錯覚を用いた仮想現実的な「入れ替わり」の実験に成功した。http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2545680/3582860


メディア、そして『転校生』の影響

そのように、「「入れ替わり」は現実には不可能である」という固定概念を持つことによって私たちは、技術として実現した場合の問題点を考えないようにしている。

けれども、こういった固定概念はどこで植えつけられたものなのだろうか?

そこで無視できないのが、マンガやアニメなどのフィクションの影響である。

私たちは、この世に生まれ“させられる”と、親や周囲の人々を通じてさまざまな事を知り、知識を習得しながら、自分の価値観を形成していく。

当然、メディアからも強い影響を受けており、人間関係の希薄化した現代では、親や周囲の人よりもはるかに強い影響力を持っているともいえる。テレビで紹介された商品・ファッションなどが大流行し、子供の言ったことに親が反発しても「テレビで言っているから」などといって聞き入れようとしないことを考えれば、よくわかることだろう。

その傾向は「入れ替わり」の場合、さらに強まる。魔法などのほかのファンタジー的なものもそうだが、現実には起こりえないことである以上、私たちは、そのほとんどすべてをメディア、つまりフィクションから得ている。

あるとき、何らかのきっかけで見た作品の登場人物の言動を見聞きしたり、(ほとんどありえないだろうが)そんなことが本当にあるのか親に聞いたりして、「「入れ替わり」は現実には起こりえない」ことだと認識する。そして、そのような実験に成功したということを聞いたことがないということから、「「入れ替わり」は現実には不可能である」という常識ともいえる固定概念を形成していくのだ。

では、そのような価値観は、どういった作品によって作られたのだろうか?

それを考えるために、あなたに、一つ質問をしたい。

あなたが「入れ替わり」について初めて知ったのはいつか?

そして、それは何という作品か?

そうきかれたら、あなたは何と答えるだろうか。

これについては人それぞれだろうし、わからないという人も少なくないだろう。ただ、マンガやアニメなどの映像作品だという人が多いのではないだろうか。小説やマンガは能動的なメディアなので、手に取らないと読んでもらえないが、テレビは子どもを落ち着かせるために流しっぱなしにすることがあるし、映画が流されることも少なくないから、見ているだけで頭に入ってくるからである。

ちなみに、私の場合は小学生の頃放送されていた「どっちがどっち」(ドラマ愛の詩シリーズ 2002年)というドラマがきっかけだった。以降、そういった作品に、にわかに関心を持ち、高校時代、クロエさんの「入れ替わりマニアックス」というサイトの存在を知って、この連載の原型の文章の執筆を始めた。

けれども、知った時期やメディアに関しては、世代間の差がかなりあると思われる。「入れ替わり」の場合、その境目は30代後半から50代あたり(1950年代後半~70年代初頭生まれ)だと思われる。なぜなら、「入れ替わり」フィクションを語る上で欠かすことのできない、ある有名な作品が発表された時期にあたるからである。

それが、今の40代以上の方なら誰もが、名前くらいは知っているだろう、あの『転校生』である。この作品によって「入れ替わり」を知った人も少なくないだろうし、「入れ替わり」をごく特殊なジャンルから、様々なメディアにおける一大テーマへと発展させたということにおいても、同作の影響は計り知れないものがある。

もちろん、『転校生』以前にも「入れ替わり」フィクションはあったので、サトウハチローの『あべこべ物語』が最初だという人もいるだろうし、特撮ドラマ『へんしん!ポンポコ玉』が最初だという人もいることだろう。けれども、その当時「入れ替わり」は一般的なテーマではなかった。また、前者は小説だし、後者は視聴率自体が低かったので、その影響は微々たるものだろう。

その点において『転校生』は大きく違っている。映画という受動的なメディアであるうえ、作品としての完成度もさることながら、コメディーとしても十分楽しめる。また、「入れ替わり」をこれほど面白く、テンポがよく、そしてさまざまなジャンルに応用できる、汎用性の高いシチュエーションとして示したことも大きい。

この作品について語る場合、石段から転げ落ちて入れ替わるという設定ばかりが強調されがちでが、当時の人たち、特に作家たちからすれば、「衝撃」や「発見」だったのかもしれない。そういうこともあって、今では「入れ替わり」、特に男女間の「入れ替わり」の代名詞ともなっている。この作品の公開以降、特に90年代後半に入ってからは、アニメでもこういったテーマを多く見かけるようになり、「物心ついた時にはそのような作品が多くある」状態となった。ここが『転校生』を境とした大きな違いである。

だが、「入れ替わり」の普遍化と発展の過程において、負の側面もあったことは否定できない。それは、同作のパターンの踏襲という形で多くの作品に用いられるようになってしまい、「入れ替わり」そのものが「使い古された手法」といわれるようになったからだ。そのパターンにとらわれないユニークな設定の作品の登場した現在でも、いまだにそういった先入観を持っている人は多いようだ。

その一方で、「使い古されたテーマ」という先入観は、少しずつ溶解し始めている。公開から四半世紀が過ぎた今では『転校生』自体を知らない人も多くなっているし、『パパムス』や『ドンキ★ホーテ』など、俳優・女優の演技力の強い作品が数多く登場しているからだ。

ただ、「入れ替わり=『転校生』」というステレオタイプは色濃く残っているし、その影響は弱まるどころか、見えない形でさらに強まったとみることができる。『パパムス』『ドンキ★ホーテ』とも、アクシデントによる「入れ替わり」であり、「相互理解」や「コメディー」をメインテーマとしているからだ。実際、放映当時も『転校生』に似ているというコメントが所々で見られた。

こういったパターン化もまた、「入れ替わり」がフィクションの中でしか起こりえないモノであり、現実に可能になったらどうなるのかといったものを考えなくしている要因ではないかと思われる。テレビは「思考停止」とよく結び付けられるように、その大部分はアクシデントによるものであり、アクシデントにとどまるならば、それが「技術」として実現した場合の問題点などを考えなくてすむからだ。

おまけ的な扱いという内容の軽さ

そして、『転校生』の影響を受けた「入れ替わり」フィクションのパターン化によって築かれたものは、「二次創作」や「コメディー」の隆盛により普遍化し、現在まで受け継がれている。

ところが、その中身はというと、目立ったところで大きく扱われるようになったわけではない。『山田君と七人の魔女』や『ココロコネクト』シリーズのように、中心的なテーマとして用いられることよりも、一話完結もので、しかも長期の連載作品のおまけ的なエピソードで用いられる傾向にあるからだ。

これは、ここ十数年の間に「入れ替わり」フィクションの数が増え、一般化した要因の一つとも考えられる。クロエさんのサイト「入れ替わりマニアックス」の作品リストを見ればわかるように、一話完結モノの作品の多くで「入れ替わり」を扱ったエピソードが多くみられる。

もちろん、短いから駄作ばかりというわけでもなく、その中には短編の特性を生かし、テンポ良く仕上げた秀作や傑作もある。一方で『転校生』などのパターンにキャラクターを当てはめただけの「パロディー」や亜流になっているものも少なくない。

こういった傾向も、アクシデントによって発生するという設定が多いことと、けっして無関係ではない。なぜなら、前々回で述べたように、予期せぬものとして「入れ替わり」が発生したという設定にしたほうが、当事者らの人間関係や心情などがはっきりしてくるし、予期せぬ事態に対するパニックやドタバタ感もいっそう引き立つからである。また、『転校生』という作品の影響が大きすぎて、それ以上のものを思いつかないということも考えられる。

そのため、道具などを用いる場合でも、意図しない副作用として発生したという設定がなされることが多いし、ストーリーも本家の『転校生』と同じく、登場人物の反応や周囲との人間関係に重点が置かれることになる。

つまり、コメディーとして作品を成り立たせるためには、アクシデントは欠かせない要素となっているのだ。


ところが、こういった作品もまた、「「入れ替わり」は現実には不可能である」という大前提のもとに作られているため、現実に可能となった場合の想定がなされていない。

しかも、実現していなくても、理論的には実現可能かもしれないとわかっているのならともかく、実現の糸口すら見いだせない状況では、実現した場合のことを真剣に考える人はまずいない。いたとしても、フィクションの中だけのことだとばかにされることだろう。結果として、「現実に可能な場合、どういったことが考えられるか」といった問題は無視されてしまうのだ。


「不可能」も仮の常識の一つにすぎない

このように、多くのフィクションは、「入れ替わり」が実現した場合の問題点を想定していない。しかも、私たちは「入れ替わり」は実現不可能だと思っている。これは現時点において疑いようのない常識である。

だが、ここが大きな落とし穴なのである。

未来を予想する考え、たとえば「これから景気はよくなる」「これから景気は悪くなる」といったごく単純な考えでさえも、多様な価値観から導き出された一つの考えにすぎない。未来を予測することはできない以上、さまざまな見方が可能になるからだ。

これは、(現時点で)存在しないものが実現するかどうか、それは許されるかどうかといった考えにもあてはまる。

たとえば、「タイムマシンは実現すると思いますか」という質問をすれば、実現するという人もいれば、実現しないと考える人、そして、実現すべきではないと考える人など、さまざまな考えを持った人がいることだろう。そして、その意見のバックグラウンドとなっているのは、SF小説やアニメ、マンガ、そして、それらを実現させる原理や問題点などについて書かれた本やサイトなどである。

もちろん、「入れ替わり」も遠い未来においては、同じような方向に向かうことだろう。しかし、判断材料であるバックグラウンドはまだ形成されるに至っていない。フィクションの多くは『転校生』などの影響を受けている以上、アクシデントによって発生したものであって、技術として「入れ替わり」が実現することを想定していないからだ。そのため、多くの人たちは「不可能」とあっさり切り捨ててしまうことだろう。

けれども、その固定概念は決して不変のものではない。実現の糸口が見えないからこそ、私たちは不可能だと思うのであって、実現への糸口が見えだしたころには、そういった固定概念もいずれなくなり、理論的に可能とみなされるようになってそう遠くないころ、臓器移植やES細胞などと同じく、「入れ替わり」は(倫理的に)許されるか、許されないかといった問題へと移行していくと思われる。

何度も言っていることだが、「入れ替わり」が将来実現するかどうかはわからない。しかし、人々が不変のものだと信じ、疑おうとしなかった常識でさえもくつがえされる。このことは歴史上何度も繰り返されてきた。

たとえば、かつて、インフルエンザは天体の働きや寒気によるものだと考えられていたし、ウナギは泥の中に潜ったミミズから生まれると考えられていた。また、ガリレオは、裁判にかけられてまで地動説を主張しようとしたし、ウェゲナーの大陸移動説は彼の死後になって認められた。

そこまでスケールの大きなものでなくとも、「スポーツ中は水を飲んではいけない」とか、「傷口は乾かせたほうがよい」といった、かつては常識だったことでさえも今ではよくないこととみなされるようになってきている。

そこからわかることは、私たちの常識とは仮のものにすぎないということである。かつて、「99.9パーセントは仮説」(竹内薫著 光文社新書)という本が出たように、その固定概念は不変のものではない。遠い未来には、「技術としては実現している」とか「理論的に不可能だと証明された(永久機関のように)」、「その仮説は正しくない」などと変化している可能性もある。

だから、「「入れ替わり」は現実には不可能である」という固定概念もまた、メディア(=フィクション)からもたらされた一つの考え、それもたかが数年、数十年先、しいて言うならば自分たちの生きている間を考えた場合の話にすぎず、もっと先にはその固定概念自体が変化している可能性もある.

そして、それが正しいかどうかは、それが(理論的にでも)実現するか、あるいは原理的に「不可能」だと証明されるまでわからないのだ。



次回は「入れ替わり」が実現した場合の問題点について考える前に、フィクションにおいて、何が描かれ、何が描かれていないかという問題点について考えてみることにしたい。

みなさんも、フィクションというメインストリートではなく、ちょっと入った、地図にも載っていないし、安全かどうかもわからない路地裏をのぞいてみてはいかがだろうか?