第9回「入れ替わり」の活用法と相互理解 (人間関係と入れ替わり その2) ぶち抜かれる「個人」と「個人」間の枠 前回までは前置きとして、フィクションで、「入れ替わり」がどういったものをテーマとしているのか、取り上げられ方について述べた。「入れ替わり」がどのようなものか知らない方のためにもわかりやすく説明するために、前置きが長くなったことをおわびしたい。 話を変えて、いよいよここからは、私の考えていること、つまり「「入れ替わり」が実現したらこの世はどうなるのか」という本題に移ろう。まずは、相互理解型の作品において、中心的なテーマとなっている、「人間関係」について述べることにする。この章での本題は、 「もし、「入れ替わり」が実現したとならば、人々の人間関係はどうなってしまうのか?」 そして、 「それは私たちの今までの人間関係にどのような影響を及ぼすのか」 この2つである。 それまで「入れ替わり」が存在しなかった、正確に言うならば、フィクションの中だけのものでしかなかった状況から、実現可能なものとなったときの変化とは、いったいどのようなものなのだろうか? 私は、「個人と個人を隔てている仕切りの破壊」であると考える。 日常生活で自覚しているかどうかはさておき、私たちはある種の仕切られた世界で暮らしているといえる(「壁」という言い方もできるが、壁だとその上をよじのぼってしまうこともできるので、ここではあえて「仕切り」にした。)。地球という仕切り、国境という仕切り、個人という仕切り…。 だが、これらは障子の枠や部屋と違って、あくまでも概念上のものである。そのため、はっきりとした形で区切られてはいないし、目に見えるものでもない。けれども永久不変のものではなく、時代、国、住んでいる環境などによって、また、時と場合(たとえそれが違法なものやきわめて不平等なものであったとしても)に応じて自由に変化するものとして存在している。 たとえば、「国境」という仕切りを破るものの一つである、「海外へ旅行する自由」一つをとっても、昔と今では大きく違っている。江戸時代などのように海外はおろか、国内でさえも庶民が簡単に旅行できなかった時代もあるし、海外旅行が日本で一般的なものとなったのはたかがここ数十年のことである(だから、高度経済成長期の日本人たちは「一生に一度は」とハワイやアメリカなどへの旅行することにあこがれたのである!)。世界的にみると、庶民が海外旅行のできる経済状況にない国や自由な旅行が制限されている国もある(かつてのソ連や今の北朝鮮がその例だ)。けれども、無断で国境を越えようとするならば、逮捕されることはいうまでもない(それを知って密入国を図るものも少なくないが)。EUは困難こそあるものの、その境目をある意味でなくし・越えることを簡単にしたともいえるが、地球から国境がなくなることはおそらくないだろう。また、地球と宇宙の間にある仕切りも、宇宙開発によって破られようとしているが、一般人がそこを超えることはまだできないといえよう。 これだけ多くの仕切りが取り払われた、あるいは取り払われようとしているにもかかわらず、「個人」という仕切りに関しては、いまだにほとんど取り払われていないといってよい。「人体の小宇宙」ともいう表現があるように、人体、特に脳は研究が進んだにせよ、まだまだ未知の領域といってもいいくらいにわからないことがたくさんある。 「入れ替わり」が実現するということは、「個人」という仕切りのすべてとはいわなくとも大部分を打ち破ることになってしまうことになる。つまり、肉体と精神によって固定され結び付けられた、「個人」というものが、その個人が死ぬまで結び付けられたものではなくなってしまうことになる。(これについては非常に大きな問題となってくるが、また別の機会でふれることにしたい。) では、その“仕切り”が取り払われた世界とはどのようなものだろうか? あえていうならば、みんなが決まった家を持たず、常に引っ越しをしているようなものだと思われる。今、私たちは住所というものを持っているし、もしその住所にいなかったとしても、携帯電話などで電話をすれば、電池が切れたとか、失踪したということでもない限り、居場所が分かることだろう。 ところが、「入れ替わり」が可能となった場合、その原則そのものが崩れてしまう。ある人がいつもそこに住んでいるとは限らないばかりか、自分の知っている人に会ったからといって外見はその人でも、中身はその人であるとは限らない。だから、居場所を突き止めることは今以上に困難になる。それは、ある人が今日どんな服を着てくるのかを(見当はついても)完全に予測できないのと同様、どこに誰がいて、いつどこに引っ越し、あるいはどこへ引っ越す予定なのかは誰も把握していないも同じである。 しかも、相手はおろか、自分も入れ替わってしまっているかもしれない。だから、お互いが今、誰になっているのかさえも識別できず、ただすれ違うだけになるであろう。 その問題点は次回述べるとして、もしも「入れ替わり」が実現したならば、どのようなことに応用することができると考えられるか、そのことについて考えてみることにしよう。 「相互理解」と「入れ替わり」フィクション 「入れ替わり」がもたらす効果として、フィクションでもっともよく描かれ、もっとも一般に知られているのはおそらく「相互理解」であろう。ドラマなどでそういった作品が放映されると、マンガやアニメ以上に大きな話題となることにも表れているように、「お互いに相手を理解し合う」ということは多くの人が求めていることでもある。人間関係にまつわる問題は今も昔も多くの人が抱えていることであるが、前回述べたような人間関係の希薄化によって、いっそうその傾向が強くなったと思われる。 このようなタイプの作品の発展においても、「入れ替わり」フィクションを一般化し、定着させた『転校生』の果たした役割は大きい。それまでの「入れ替わり」フィクションは、単に不思議さやコメディーを追求したものでしかなかったのに対し、この作品には「相互理解」というテーマが盛り込まれており、性に関するテーマと共に高く評価された。また、「入れ替わり」フィクションにおけるストーリーのパターン(詳しくは「フィクションはどこまで参考になるか?」を参照)の形成も、この作品の影響を抜きにしては語れないだろう。 相互理解型の作品において「入れ替わり」は基本的にアクシデントであり、不可逆的なものとして描かれている。そのため、やめたくても、相手の人間関係がいかに苦しくても、お互いを演じざるを得なくなる。初めは入れ替わったことを当事者らの秘密として隠そうとするものの、人間関係を安定させるためにお互いに相談し、助け合っていく。 いわば、「運命共同体」となるわけである。その過程を通じて、誰にも話せずに一人で抱え込んでいた、個人的なことについても語り合うようになっていき、親しくなっていくばかりか、その結果としてお互いに相手を理解していき、関係の改善につながっていくのである。その点からして、これらの作品で描かれている「入れ替わり」は、その不思議な現象の被害者である当事者らに課せられた「試練」だとみることができよう。 相互理解が得られるのはなぜか、それは正しいのか? では、なぜそういった効果が得られるといえるのだろうか?このあたりは多くのフィクションにおいても詳しくは語られていないことではあるが、私なりに考えてみると、2つのことが挙げられる。 一つは、「入れ替わり」とは、その人を意味づけるものや取り巻く空間の交換だということである。 その前に、一般的にはどういったものだと認識されているのだろうか。 クロエさんのサイト「入れ替わりマニアックス」に掲載されている「入れ替わり用語集」(http://www5f.biglobe.ne.jp/~cloe/words.html)では次のように説明されている。 「心と体が入れ替わって~」という言い回しで使われることが多い。心や魂といった言葉が使われるが、より正確な概念で伝えようとするなら「“記憶と人格”と“肉体”が交換された状態」と言った方が正しいだろう。 「体と心が入れ替わる」「魂が入れ替わる」などという言い方がよくなされるように、「入れ替わり」とは、その人をつかさどる“何か”や身体の交換だととらえるのが一般的である。だが、それはあくまでもはたから見たものであって、実をいうと、身体あるいは“何か”と同時に、目には見えない多くのものも交換されているのである。 私たちそれぞれの「身体」には、名前や性別、所属、肩書、生活環境、人間関係などといった、この社会を生き・人々から承認を得るうえで必要となるあらゆるものが付随している。そして、これらのものが集まって、“個人”というものを形成している。 そして、その身体をつかさどる“何か”(いわば、魂や精神、人格などと呼ばれているもの)は、これらがどういったものであるかを確認し、統合し、一個人として構築する作業を行うことによって、「個人」を認識している。当たり前のことではあるが、皆さんも、自分が何という名前であり、誕生日はいつで、どこの中学を卒業し、今、どこの会社(学校)に勤めて(通って)いるか…、ということを知っているし、差し支えなければ誰かに言うこともできるであろう。 「入れ替わり」とはつまり、自分の身体あるいはその人をつかさどる“何か”あるいは身体とその人を取り巻き、構成するありとあらゆるものを相手の“それ”と交換することであり、それによって、相手の立場に置かれることを強制されてしまうことを意味する。これは、入れ替わるにあたって、双方の同意があるかないかという点においてのみ異なっているという点において、アクシデントに限らず、技術的に可能となった場合でも同じことであると思われる。 そしてもう一つは、「入れ替わり」そのものが、技術やそれを行う人だけでなく、相手が存在することで初めて可能となるものだということである。この点において同じく、TSFにおける大きなウェイトを占めている「変身」や「憑依」とは大きく異なっている。 「変身(整形手術や性転換もここに含む)」の場合、フィクションではアクシデント的なもの・不条理的要素の強いものも多いし、強制的に行われることも少なくない。だが、相手がいなくても、それを可能とする技術(とそれを行う人)、本人の同意や意思があれば成立する。「憑依」もまた、技術(といっても、オカルト的な要素が強いが)と意思(気持ちといったほうが適切であろう)が必要な点では同じであるし、自分の精神を相手の身体に入り込ませるので、相手がいなければ不可能なことであるという点では「入れ替わり」と同じである。ところが、相手の身体に入り込んで操るという特性のものである以上、相手との意思の疎通は基本的に存在しない(精神同居は別であるが)。 この点において「入れ替わり」は、その人をつかさどる“何か”あるいは“身体”の交換である以上、相互の意思の疎通も存在する。そういうこともあって、当事者らは「入れ替わり」によって「運命共同体」となり、二人で助け合っていく過程で相互理解が築かれていくということを示している。私は「入れ替わり」がアクシデントによって“発生する”ことはありえないと考えているが、人為的にそれが可能となった場合でも、「相互理解」という目的への応用が可能だという点においては、異論はない。 けれども、その意味付けや条件などについては大きく異なっていると思われる。その違いとはいったい何なのだろうか? 何が共通し、何が違うのか アクシデント的な「入れ替わり」によって、お互いの立場の理解など人間関係を修正することができるという効果は多くの人が認識している。けれども、フィクションで描かれているそれは、あくまでも当事者らに課せられた「試練」であって、技術的なものではない。そのため、人為的な技術として可能になった場合、それがフィクションにおける「試練」と同じだといえるのかというと決してそうではないと思われる。 アクシデントとして発生した「入れ替わり」と、技術として実現した場合に考えられる「入れ替わり」の相違点をまとめると以下のようなものになるだろう。
まず、技術として実現した場合の「入れ替わり」は、基本的に可逆であり、移された身体で都合が悪ければ元の身体に戻すことも可能であるし、当事者らが希望すれば、そのままにしておくことも可能である。そのため、できるだけ元に戻ろうと努力するフィクションとは違い、当事者らの選択として、入れ替わったまま一生を過ごすということも考えられる。 また、アクシデントとして、突如として当事者らに降りかかってくる大部分のフィクションの場合とは違って、それを使うかどうかは当事者らの判断と合意にゆだねられているといえる。それを成り立たせるための大前提として挙げられるのは、双方の同意がなければ「入れ替わり」は成立しないことである。実際には、これが必ずしも守られるとは限らないし、一方の押しつけの末、仕方なくもう一方も同意して入れ替わることも考えられなくはない。だが、一方が拒めば基本的に「入れ替わり」は成立しないというのが大原則だし、自分の人生を大事にするなどの理由で、誰とも「入れ替わらない」という選択もできるということはいえる。 また、アクシデント型のフィクションでおなじみの、「入れ替わったことを言ったところで信じてもらえないから、お互いのふりをして過ごす」ということを必ずしもする必要もない。状況によってはそういったこともあるだろうが、自由にできる以上、相手の置かれている立場にあこがれて入れ替わることも考えられよう。 そして、忘れてはならないのは、「入れ替わり」が現実に可能なものとなった場合の人々の認識である。人為的な技術として可能となった場合、すべての人とはいわなくとも、その時代の多くの人はそういったことが可能であることを、メディアなどを通じて知っていると思われる。なので、誰かの言動がいつもと違っていたとなれば、 「ああ、あいつ、誰かと入れ替わったのか!」 と納得して、それ以上深く追求しないのが普通だろう。だから、その技術が登場して間もないころを除いて、そういった勘違いはほとんど起こらないものと思われる。 そのため、互いのふりをすることなく、いつも通りに日常生活を送る人も少なくないだろうし、ある願望を実現するためや自分のイメージをよくするためなど、違う自分を演出するために何らかの意図を持って、誰かと「入れ替わる」場合、いつも以上に大げさに振る舞うことも考えられよう。 では、もし「入れ替わり」が現実に可能となった場合、「相互理解」という目的に使うことはあるのだろうか。もしあるならば、それはどういったものになるのだろうか。 相互理解としての活用 何かかっこいいものがあると、それを自分に当てはめてマネしたくなる、これは人間の本性でもある。かっこいいヒーローの映像を見ると、子供たちは、現実世界でもそのヒーローのマネをしようとするし(時に大けがや死亡事故に発展することもあるが)、ある奇妙な犯罪が起こると、読んでいた本やそれに書かれている手口などから、「○○を参考にしたのではないか」という推定がなされることがよくある(もしその作品が影響を与えたのならば、似たような事件が多く発生しているはずなので、その多くは的外れであろうが)。 そういったことから考えて、「入れ替わり」が技術的に可能となった場合、数多くの「入れ替わり」フィクションに触発され、それまでに発表された作品を参考、相互理解に用いようとする者が現れることは容易に想像がつく。もちろん、そういった試みが成功するかどうかはわからないが、フィクションの影響力は大きい分、実際に効果があるのかどうかを試したくなるのは当然のことだといえよう。 フィクションにおいても、現実のものとなったとしてもおそらく変わらないこととしては、「入れ替わり」を相互理解のツールとして用いる場合、そのほとんどは、見知らぬ人同士ではなく、身近な人の間で行われるだろうということである。なぜなら、お互いに知っている人や・頻繁に付き合っている人ならば、すべてではないにせよ、相手のことをある程度は知っている(もちろん、プライバシーにまで踏み込んだ話ができるかどうかは別だが)からである。深い付き合いがあり、お互いのことをよく理解している間柄ならば、無理に「入れ替わる」必要もないのだが、お互いのことをよく理解しようとしても、なかなか理解できない人も多いことだろうし、そこまで至らない人もいることだろう。また、自分がどう振る舞えばいいのかを、指示しやすいということも挙げられる。 だから、人為的な「入れ替わり」の対象としては、人間関係などがうまくいっていないカップルや離婚しようと考えている夫婦など、人間関係において何らかの問題を抱えている人が考えられる。そういった彼ら・彼女らに対し、人間関係を修復する手段として「入れ替わり」を用いれば、ある程度の効力を発揮することは間違いないだろう。 フィクションと同じように、移された身体での慣れない生活に最初は戸惑うかもしれない。だが、人間は環境への適応能力を備えている。実際、それまで通っていた学校を卒業し、新しい学校や会社に入れば、最初は戸惑いや不安があっても、多くの場合はだんだんと慣れてくるではないか(不適応を示す人もいるが)!同じように、相手の置かれている環境に慣れてくれば、相手の立場になって生活することもそれほど苦痛ではなくなることだろう。 こういった過程を経ることによって、人間関係がうまく修復されれば、人間関係の悪化に起因する事件を未然に防ぐことも可能になるかもしれない。ワイドショーなどでは、相手を殺したりけがを負わせたりといった悲劇的な事件が番組の題材としてしばし取り上げられるが、そういった結果になるよりもずっとましであることはいうまでもない。それに加えて、今までになかったような親密な人間関係が築かれ、結婚率が上がったり、離婚率などが下がったりすればそれ以上のものはないだろう(あまりにも楽観的すぎる予測だが)。 そして、人間関係の不和という要素以上に見逃せないのが、単身世帯の増加である。大学時代、親元を離れて下宿していた人ならわかることだろうが(ちなみに、私は今ある大学に通っているが、自宅通いである)一人暮らしは何から何まで全部自分でしなければならない一方で、自分の好きなことができるというメリットがある。親の目線も気にする必要もないし、お隣に迷惑をかけたり、違法なことに手を染めたりしなければ、すべて自己責任で片づけられる。だから、相手が嫌がることをしなければ、入れ替わっても、生活するうえでは迷惑をかけることはないだろう(異性の身体や立場に戸惑うことなどが考えられるが、前述のように、時間がたてば、ある程度は適応できるようになると思われる)。単身世帯や核家族世帯の増加は、多くの人が生身の人間とのコミュニケーションの希薄化という問題をもたらすだけに、「入れ替わり」ほど、親密な関係を築けるものはないであろう。 前にも述べたように、「入れ替わり」は生身の人間が存在しなければ成立しない性質のものであり、その点において相互の人間関係を親密にすることができる可能性に満ちているといえよう。 けれども、前に述べたように、「入れ替わり」の用途はそれだけではない。相互理解を目的としない用途も十分に考えられる。そして、これらは多くの場合、自己からの逃避や「変身願望」と大きくかかわってくるものである。 それ以外の活用法 「相互理解」という大きなテーマの陰に隠れて見えなくなっていることではあるが、その時代の社会の状況によってはもっと受け入れられる背景が存在しているかもしれない。その一つに、自分とは違った立場にある「他人」になってみたいという願望の延長上にある“娯楽”としての要素が挙げられる。この場合もまた、双方の同意が必要となることは言うまでもないが、こういった願望を持っている人は決して少なくないだろう。 「まえがき」で述べたことでもあるが、人間は自分で選んだわけでもないのに、どんな時でも与えられた人生を生きなければならない。それは、あるときには幸福であり、あるときには苦痛にもなりうる。人間はもちろん、一人で生きているのではないし、他人がうらやましくなることも、自分が嫌いになることもある。もし、病気や災害などの不幸なことに巻き込まれれば、「どうして自分だけが生き残ったのか」とか「なぜ自分にその不幸が降りかかってきたのか」と、自分の運命を嘆くこともあるだろう。 こういう時こそ、自分に絶えずつきまとっている、様々なものから解放されて、違う自分(他人)になってみたいと思う。そういうことは、人間ならば誰しも、一度は思うことであろう。バーや居酒屋がはやるのも、会社や日常生活での肩書や立場を気にせずに楽しいひと時を過ごし、リラックスすることができるからであるし、悲しいことではあるが、薬物乱用がいくら啓発運動をやってもなくならないのも、今の自分に漠然とした不満と絶望を抱いている人がいるからだと想像がつく。 人間がこういった悩みを抱えているということは、相互理解のみならず、それを目的としない、娯楽としての「入れ替わり」の普及にもおそらくプラスの要素としてはたらくことだろう。ほんの少しの時間、自分の置かれている状況から離れて、身体や感覚から相手(=他人)になって、その人の立場などを味わってみるといった感じだろうか。 これは、相互理解と同じく、ビジネスとしての開拓も可能かもしれない。最近は、モノではなく“権利”(一日貸し切りなど)を売り出すことも多いというが、芸能人やスポーツ選手、イケメン、美女などが、その身体や立場を誰かに(もちろん、時間限定で)貸す「権利」を売り出したならば、予想以上にファンが殺到するのではないだろうか(もちろんそれは、ファンへのサービスであるとともに、芸能活動で多忙な生活を送っている、彼ら・彼女らを解放するということでもあるのだが…)。 こういう場合、その人をテレビや液晶の画面で知ってはいても、身近ではないということで、多くのフィクションが題材とする「相互理解」とはまた違ったものであることは明らかだろう(とはいっても、アイドルとファンの入れ替わりを扱った作品もあるにはあるのだが)。 また、自分の願望をかなえる手段や「自分」の立場から逃れるツールとして、「入れ替わり」を使うことも考えられる。この場合、「お互いに相手のふりをして過ごす」という、フィクションにありがちな設定は必ずしも守られなくともかまわない。むしろ、相手の印象をよくするため(あるいは悪くみせるため)にわざといつものようにふるまうことも考えられる。 「入れ替わり」フィクションではないが、参考になる作品の例として「おねがい!サミアどん」の一エピソード「身がわりデートだドーン!」がその一例に挙げられよう。TSF好きの方なら知っている人も多いことだろうし、アラビア語版や韓国語版の動画が動画サイトにも出ている。(あえて言うならば、アラビア語版はYouTube、韓国語版はパンドラである)。 あらすじを軽く言うと、アンが二枚目のマイクに恋するのを見たジルが、デートを阻止するためにサミアどんにお願いすると、朝起きると彼はアンになっていた。二人のデートで、そのことを知らないマイクをアンになったジルが嫌われるようにふるまうという話である。(面白いことに、当のアン本人には何の変化もなく、アンが二人いるという状態になっている。) この場合は、アンと恋愛をするというジルの願望を実現させようとするという目的があったが、誰かに頼まれて自分・あるいは相手の願望を実現させようとするということも考えられよう。そこに「入れ替わり」が介入することも考えられよう。 願望の実現とは逆に、今の「自分」が置かれている立場から逃れるため、今の「自分」に絶望したはけ口として、同じく、「自分」に絶望している誰かと入れ替わる可能性も考えられる。そこで運よく相互理解が生まれ、双方とも自殺を思いとどまる可能性もあるが、そうはならないことも多いだろう。 どういった形で「入れ替わり」が実現するかはともかく、その効用と安全性が証明されれば、医学的なものだけでなく、商業的に利用する人だって出てくることだろう。「お互いの気持ちや立場を理解する」という効果があることが認められれば、「人間関係の改善」と銘打って、ビジネスに応用すれば(私の想像を超える以上に)大きな市場を開拓することができるかもしれない。会社を立て直すことができれば、巨万の富を得、感謝される者も出てくることだろうし、相手の立場を理解することに応用できれば、ほかの科学技術への応用も期待できるに違いない。また、他人になることの厳しさゆえに、修行として取り入れる団体が出てきても不思議ではないし、人間関係に問題はなくとも、情報機器の発達で自分の殻に閉じこもりがちな若者たちに、世界を広げる機会にもなりうるかもしれない…。 今まで述べたようなことは、数多くある活用法のうちの、おそらくごく一部だと思われる。もちろん、こういったものが実現するためには、技術の確立と実験の段階を避けて通ることはできない。人間で実験する前に、動物などを使った実験を行う必要もあるだろうが、人間のようにはっきりと個性が出るわけでもないのにどう検証するのかとか、そういった地道な実験によって安全が証明され、いよいよ人間を使って行われるようになったとしても、そのようなことを自ら進んでやる人がいるかどうかなど、疑問の残る点も少なくない。少なくとも莫大な報酬でも出さない限り、実験に協力する人はまず現れないだろうし、その報酬をかけてでも、実験が失敗することをお互いに覚悟している人となったらなおさら見つからないであろう。また、現時点で多くの人が思い浮かべる、脳を交換するという実現の低そうな技術に代わる、もっと効率のよい技術が開発される可能性もあるだろう。 そう考えてみれば、実現するまでの道のりは、前途多難であると容易に想像がつく。けれども、もしも「入れ替わり」が実現した場合、それは人間関係の改善などにおいても、無限の可能性を持っているということもできよう。 けれども、これはあまりにも楽観的な見方である。「相互理解」などのさまざまな恩恵の裏には、ある重大な代償と時限爆弾が隠されているのだ…。 これが次回の話である。 |