第7回 コミュニケーションの危機を映す鏡

(人間関係と入れ替わり その1)



今までは、フィクションにおける取り上げられ方について述べた。いよいよここからは「入れ替わり」が実現した場合、この世の中にどんな影響を与えるのかについて、テーマごとに考えてみることにする。最初は、「人間関係と入れ替わり」である。

お互いの立場の理解―これは特に相互理解型作品において中心となるテーマであるが、人は突然誰かと「入れ替わる」ことによって、互いの立場のつらさや重みを理解することができるという考えが深く根付いているように思われる。もちろん「入れ替わり」が不可能である今を考えてみても、そういった他者の理解はまったくできないわけではないと思われる。しかしそれは間接的なものであって、その人の立場を直接体験することはできないから、理解できるものは非常に限られてくる。また、誰にも理解してもらえないような高度なもの・特殊なものであれば、見落とされていることも多いだろう。

それなのに、親や先生は


「相手の立場に立って考えてみなさい!」


などと子供によくしかる。多くの人は何度も言われているので、今言われたとしても当たり前だと思って聞き流してしまうことだろう。だが、この言葉ほど「人間はけっして自分一人で生きているのではない。周りには多くの他人がいる」(当たり前のことだが)ということをストレートに痛感させるものはないといえよう。

当然のことだが、この社会は人間同士、場合によっては動植物や地球環境など、この世に存在するありとあらゆるものとのつながりによって成り立っている。また、生産する人や加工する人、運ぶ人、売る人などなど…生活を支える人(そういう意味で、あなた自身も見知らぬ誰かの生活を支えているのかもしれない)がいてこそ、今ここに自分たちがいるのである。(今は少なくなったが、交通機関のストライキがその一例である。賃上げの要求によるものとはいえ、それに伴う交通機関のストップなどの影響も大きいので、けっして「相手(=ここでは乗客)の立場」に立てているとはいえない)。このつながりは、ここ数十年のグローバル化の波の中でさらに大規模になっているといえよう。ただ、ここで述べる人間関係はそういったもの意味しているのではない。会社や学校、家庭などの身近なものをさす。これらでさえも、人間関係があってこそ成り立つものである。

こういったことは、「入れ替わり」フィクションにおいてもストーリーを成り立たせる重要な要素の一つであるといえる。諸外国におけるフィクションの状況はよく知らないのだが、「入れ替わり」をテーマとした作品が多いことは、個人主義でよく知られる欧米とは違って、日本が相手のことに特段に気を使っている社会であり、それまで当たり前に存在してきた(とされている)その基盤が崩れているということを意味しているともいえる。

けれども、もともとはそうだったとも限らないようだ。「入れ替わり」フィクションは、もともと、性差をはっきりさせるための手段として登場したと考えられている。日本の作品でいえば、前にも述べたサトウハチローの『あべこべ物語』や山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』、それをもとにした大林宣彦監督の映画『転校生』などがそれにあたるといえる。ただし、コメディー的な要素も強いし、ストーリーからして、相互理解の要素が全くないわけではない。

当然のことながら、コメディー型の作品にも相互理解の要素はあるし、相互理解型の作品にもコメディーの要素はある。だが、以前に比べれば、「入れ替わり」フィクション全体の数は増加し(古い作品の調査が行われていないこともあるが)、特にコメディー型と相互理解型の作品が数多く発表されているといえる。その背景には、現代社会の問題が深くかかわっているとみて差し支えないだろう。

では、相互理解型の「入れ替わりフィクション」は、どのような時代的・社会的背景の中で登場したのだろうか?このことを語らないで「入れ替わり」フィクションが何を問題としているのかを探ることはできないし、この理論でテーマとしている、「入れ替わり」が社会に及ぼす影響を考えることはできない。まずは、そういった作品が出現した時代的・社会的背景から考えてみることにしよう。



社会問題から見た「入れ替わり」フィクション

ある社会問題や事件などが発生すれば、それらをテーマとした作品(小説に限らず、映像作品、絵画、彫刻なども)が登場するのは古くからの傾向である。たとえば、労働問題が起これば、小林多喜二の『蟹工船』や徳永直の『太陽のない街』などのプロレタリア文学が発表されたし、水俣病が発生すれば、石牟礼道子の『苦海浄土 わが水俣病』などの作品が発表された。広島・長崎の原爆でも、数多くの小説や詩、絵画などが発表されているし、ある出来事が起これば、過去の作品が再び脚光を浴びることもある。たとえば、『蟹工船』は、何年か前に非正規雇用が問題となったときにも再び人気が出たし、昨年(2011年)の東日本大震災の後には、吉村昭の『三陸海岸大津波』が爆発的に売れた。

このように、現実社会で起こっている問題は、社会問題を扱ったドキュメンタリーなどのノンフィクションはもちろんのこと、古くから多くのフィクションにも反映されてきた。

一方、「入れ替わり」フィクションの場合、現実の特定の社会問題を直接扱っているわけではない。これが、先ほどあげた作品と大きく違う点であり、変身願望や単なる娯楽としての要素も持っている。かといって、完全な娯楽でもなく、何らかの社会の問題を間接的に表していることは間違いないだろう。

では、相互理解型「入れ替わり」フィクションは、現代社会のどのような問題を反映しているのだろうか。おそらく私は、人間関係の希薄化という問題や、自分とは違った立場にある人への理解ではないかと私は考えている。

相手(ここでは自分以外の人)の気持ちを理解する―このテーマもまた、古くから描かれてきたものだといえる。小説となればいくらでもあるし、ノンフィクションにも多い。これは小説に限らず、現実の世界においても然りである。それが自分にとって良い結果をもたらすか、悪い結果をもたらすかはさておき、この世界は「出会い」でみちあふれている。何らかの縁(?)によって結ばれた(家族や友人などとの)偶然の出会い、手紙やメールでの出会い、自分から進んで行った出会い、誰かが困った時に助けてあげたことによる出会い…。それだけに限らない。ビンに入れて海に流した手紙も、風船に付けて飛ばした手紙も、それを誰かが拾って返信する確率はきわめて低いにせよ、何らかの深い結びつきを得る可能性がある。

そう考えれば、この社会で人間生活を営んでいる限り、極端にいえば、生きている限り、そのような機会はどこにでも転がっていることになる。それなのに「自分は誰からも大切にされていない」とか「自分は孤独だ」と落ち込んでしまい、リストカットや犯罪、さらには自殺など、自分や周りの人たちを傷つける(あるいはこの世から抹殺する)行為に走ってしまうのだろうか?

そのような問いに対して人々は「生きる希望を失ってしまったからだ」と答えることだろう。人間は、生物的には一人で生きてはいけても、社会的には一人では生きていけないのである。その意味で、相互理解型の「入れ替わり」フィクションが描くテーマの重みは、現実の社会問題を扱った作品と勝るとも劣らないといえよう。


入れ替わりフィクションに反映された社会問題とは

しかし、「人間関係の希薄化」と一口にいっても、「入れ替わり」はまだ空想上の産物である。そのため、今の社会問題とどう関係しているのかをイメージしにくい人も多いかもしれない。

けれども、「入れ替わり」がテーマとしている社会問題とはいったい何なのだろうか?と考えた時、私は主に、相互理解の手段である、生身の人間とのコミュニケーションの不足と変質だと考えている。それがテーマとする現代社会の問題をいくつか取り上げれば、次のようなものになるであろう。


日常生活の多忙化

「忙しい」という口癖に代表されるように、サラリーマンやOLはもちろんのこと、子供たちもけっして例外ではない。小学生を例に挙げても、塾通いが不通となったうえに、週休二日制はそのままで、「脱ゆとり教育」の方針を打ち出したために、勉強する範囲が増えてさらに忙しくなっている。サラリーマンやOLもまた、少ない正社員の中で仕事量が増加している(これについては雇用情勢の悪化とも深くかかわってくる)。

日本では「過労死」という言葉が一般にも浸透し、年間の自殺者数が3万人を超すようになって15年がたとうとしている。そうはならなくとも、ゆとりのない生活によって日常的なストレスを感じている人は多いことだろう。

日常生活の多忙化は、趣味やスポーツなどの遊びに興じる時間や睡眠や休憩を取る時間が無くなるということを意味し、3つ目に述べる「コミュニケーションの減少」にもつながってくる。


雇用情勢の悪化

中卒や高卒はおろか、4年制大卒でも正社員として就職することが困難な時代である。それどころか、幸運にも就職できた正社員でさえもリストラに遭ったり、自分に合わなくてやめたりしているし、たとえ残されたとしても、少ない社員数・少ない若手社員・成果主義などの中、過労などの健康被害に追い込まれている人も少なくない。また、「派遣切り」と称される解雇でホームレスとなった人も多く出ている。極端に言うならば、働く人はすべてといっていいくらいに厳しい状態であろう。

不況がなかなか改善されない中、2006年ごろ「格差社会」という言葉が流行ったように格差が進行し、「階級社会」になりつつあるという人もいる。いや、そういった言葉を表だって聞かなくなったのだから、「格差は進行している」ということは当たり前のことになったともいえるのだろう。こういった階級化が進むと金持ちはセキュリティーの完備した家に住み、貧乏人はスラムのような場所に住むといった、今のアメリカのように住む場所さえもすみ分けるようになり、その結果として、人間関係が固定化してしまうと考える人もいる。

つまり、階層の固定化は人間関係の固定化でもあり、似通った立場にある人はともかく、違う環境に住んでいる人のことを理解できにくくなることを意味する。このような生活環境が異なる人の間での「入れ替わり」を扱った作品は時折見られる。

ただし、民族問題をテーマとした作品にはこの手法が見られないようである。例外的なものを挙げれば、インテルのCMぐらいである(日本人の子供と黒人の入れ替わり。この後さらにエスカレートし、続編ではバレリーナや武将を巻き込む)。しかし、これも人種こそ違うものの、民族問題を扱っているわけではない(キャッチフレーズにもあるように、思った以上に変化しているということを示したいのかもしれないが…)。

民族問題をテーマにした「入れ替わり」ものがないのは、日本は(アイヌや琉球の人などはいるが、)単一民族であるとよくいわれるからだろうか。それに島国であるため、異民族から侵略されるということも少なかったということも考えられる。また、作品として書くときにも、言語や生活習慣などの違いをどう扱うかに苦心するので、敬遠されやすいのかもしれない(民族問題を扱わないコメディーであれば、そういったものはあるのだが)。

・異性間・世代間の溝の深さ

その反対に、これが異性間や世代間の考え・習慣などの違いを強調する手法として用いられることは多い。後述する『パパとムスメの7日間』もそのパターンであるし、世界的にも多くみられる(アメリカの『フリーキー・フライデー』など)が、日本の作品でこの傾向が強いといえる。世代間の意識や考えの違いは、世代を超えて多くの人の共感を得やすいうえ、生身の人間関係の希薄化についてはマスコミも注目しているため、話題に上りやすいのだろう。

「最近の若者は…」というフレーズは、古代エジプトの時代にまでさかのぼれるという。若者のすることは、いつ、どの時代でも年長者からすれば理解できないものであったのだろう。けれども、日本ではその傾向がいっそう強くなっているように思われる。かつての東京の下町や私たちの思い出の中にある地方都市のような、さまざまな人たちから成り立つコミュニティーは、今では期待しづらくなっている。

学生運動もほとんどなくなった今では、若者と年長者との衝突もほとんどみられなくなったし、若者は同年代同士で群がり、親や教師以外の大人とはほとんど口をきかないことも珍しくない。関心のあることも世代によって違っていて、接点も少ない。メディアが多様化した今では世代間で共有できる話題はきわめて少なく、もはや別世界で暮らしているともいえる状態であろう。

その結果だろうか、「最近の若者は理解できない」とか、「少年犯罪が増えている」とする見方が年長者(おもに年のかなり離れた大人)からなされることも多い。青少年による犯罪や自殺が多発すれば、最近の子供の問題点を大きく取り上げては社会問題化し、しばらくすると沈静化してしまう。逆に、高齢者による犯罪や中年男性の自殺などが多発したとしても、大きく社会問題化することはめったにない(隠れたところで進行しているとはいえるが)。

はたしてそれらは何が原因なのか、それらが最近になってそうなったのかについては多くの参考書があり、賛否両論があるからここでは深入りすることはしない。だが、これまでになかった種類の奇妙な犯罪や非行が多発するようになったことは事実だろう。

世代間・異性間の断裂については「男女関係と入れ替わり」、「世代間の溝と入れ替わり」(仮)でも詳しく考察する予定なので、ここでは深入りしないことにしておく。


家族の崩壊とコミュニケーションの減少

今日「入れ替わり」を扱った作品が増えてきている背景としてはきわめて重要なものであろう。

高度経済成長期以降、急速に進んだ都市化によって、近所づきあいが少なくなったといわれて久しい。個人情報保護法によってプライバシーの取り扱いが敏感になったこともあって、隣の部屋に住んでいる人が誰なのかを知らないのはもはや普通のことだ。これは、一緒に暮らしている家族でさえも例外ではない。自分の家族の構成や名前を知らないということは(離婚したということでもない限り)ないにしても、夕食を食べる時間も食べるものもばらばら、見るテレビ番組もすることもみんなばらばらでお互いにコミュニケーションをとる時間すらない、という家庭も少なくないことだろう(そういった場において、特に抜けやすいのは父親であるが)。

そういったこともあって、生身の人間同士のコミュニケーションは減少しているといえる。けれどもその一方で、コンピューターや、ケータイなどの電子機器が目ざましく発達し、人々はそういったものを通じてコミュニケーションを行っている。子どもたちは校則を破ってまでそれを持ち込もうとするし、仕事でも遊びでも、今やなくてはならないものとなっている。

けれども、電子機器によるコミュニケーションは、生身の人間とのコミュニケーションには及ばないようだ。都合が悪くなると簡単に約束を取り消すことができるし、都合のいい時に好きな相手とコミュニケーションすることができ、いやになれば簡単に断ち切ることができるからだ。

だから、これほどまでに電子機器によるコミュニケーションが増えた今でも、人々は他人との「つながり」を求めたがっている。そうでなければ、今のようなケータイやネットといった情報機器の発展はありえないし、危険を冒してまで出会い系サイトに登録する人や、新興宗教などに入信する人もいないだろう。

それがいいことか悪いことかはさておき、他者との関係が断たれたならば、おそらく、私たちは生きていくことができないだろう。前述したように、自殺者が3万人を超えて15年がたとうとしているし、助けを求めることができずに老人が一人孤独死するといった事態も全国で起きている。特に、2010年に多く発生した120歳以上の戸籍上の生存者の大量発生や、親が死亡したことを隠して年金を不正に受け取っていたという事実の発覚はその代表的な例である。こういった現象をあるマスコミは「無縁社会」と呼んでいる。


以上に挙げた、近所づきあいの減少、格差社会、世代間の断裂などの人間の相互理解を妨げる要因が、「入れ替わり」フィクションに何らかの形で結びついていたとしても、何ら不思議はない。そのような社会状況にあって、現在「入れ替わり」は『転校生』が発表されたころ以上に、多くのメディアで多用されるようになってきているといえる。マンガやアニメが市民権を獲得し、輸出産業にまで成長したということもあるが、この四半世紀の社会の変化もけっして見逃すことはできないだろう。

この傾向が特に強いのはドラマである。テレビ離れが進んだと言われる今でも、多くの人の共通の話題となっているということもあるが、取り上げられるテーマも強く、作品の完成度も高いので印象に残りやすいのだろう。「入れ替わり」フィクションの場合に限っても、「入れ替わり」そのものを扱った作品は1980年代から散見されてはいるものの、「相互理解」というテーマに関しては、ここ最近の作品のほうが強く打ち出しているように思われる。近年発表された作品を例に挙げれば、五十嵐貴久の小説で2007年にドラマ化された『パパとムスメの7日間』や、2011年に放映された『ドンキ★ホーテ』がそれにあたるが、こういった作品が登場し、視聴者からの高い評価を得た(ただし、「入れ替わり=『転校生』」という今の40代以上の人の固定概念を払しょくするには至らなかったと思われるが)ということは、人間関係の希薄化が進んだ現代を反映しているのだといえる。

意外にも、「入れ替わり」フィクションの現状は、「使い古されたテーマ」とみなされている世間の風潮とは、明らかに逆行しているのである。


だが、それは決してフィクションの中の世界では終わらない可能性がある。何度も言っているが、「「入れ替わり」は実現不可能である」という言説が、科学的に正しいか間違っているかは別として、それが絶対に不可能であるということを現時点で証明することはできないからである。第一、人間は(本当かウソか怪しげな予言者はさておき)未来を確実に予測することができないし、特に、数百年先の未来など全く見当がつかないではないか!

では、もしもそれが現実の物となった場合、フィクションが描いているものと同じような結果がこの世界にももたらされるのだろうか。


結論から先に言うと、半分は正解であり、半分は間違いだと私は考えている。その根拠と「入れ替わり」がもたらす諸問題については、いよいよ次回から深く考えることにしよう!