第2回

「入れ替わり」とは何か?

(「入れ替わりとは?」改題 第2版)



「入れ替わり」は私たち(特にTSFファン)の変身願望、それも好奇心と自虐の入りまじった変身願望や相手を自分の思うように変えてみたいという願望からきていると思われる。


では、そもそも「入れ替わり」とはどういったものなのだろうか。

TSF好きの「TS解体新書」をご覧の皆さんはおそらく(漠然とかもしれないが)知っていることだろうから、今回の部分は聞き飽きることも多いかもしれない。

でも、TSFに関心があっても、「入れ替わり」には関心のない人や、「入れ替わり」と聞いても何のことかわからない人もいるかもしれない。そこで、「入れ替わり」とはいったいどういったものなのかについて説明してみることにしたい。

なお、「入れ替わり」を扱った作品はさまざまなメディアにわたっていることから、この連載では、これらをまとめて「入れ替わりフィクション」と呼ぶことにする。

「入れ替わり」〜この多様で難しいことば

「入れ替わり」ということを知らなくとも、長期にわたって連載・放映されているマンガやアニメ(特にコメディー)を見てみれば、一つくらいはそういった話を見つけられるだろう。今や「入れ替わり」は、小説、マンガ、アニメ、ドラマ、映画など、さまざまなフィクションにおいて多用されているシチュエーションとなっているのだ。

ただ、ひとつ気を付けてもらいたいことがある。それは、「入れ替わり」という言葉そのものにはさまざまな意味があり、フィクションにおいてもワンパターンではないことである。

参考までに、愛知学院大学の神山重彦氏が制作した「物語要素事典」というサイトの「入れ替わり」という項目を見てみることにしよう。このサイトには、これ以外にも多くの項目があり、言葉では言い表しにくい、フィクションでよく用いられているストーリーのパターンを、作品の事例を使ってうまくまとめている。

(URL:http://www.aichi-gakuin.ac.jp/~kamiyama/i2.htm#irekawari

記事を簡単にまとめ、それぞれのパターンにおいて何が交換されるのかを説明するならば、

1.2a・2b

…立場・衣服

マーク・トゥエインの『王子と乞食』やエーリッヒ・ケストナーの『ふたりのロッテ』など、外見のよく似た二人の人間(双子のことが多い)がお互いの立場を取り替えるものを指す。ただし、ここでいう「入れ替わり」には含まれない。入れ替わるにあたって、服装などの交換はあるかもしれないが、身体が交換されたわけではないからである。

3a…体と心(異性間での)

3b…行動

4a…体と心(同性間での)

この連載で取り上げる「入れ替わり」に相当する。「心と体(あるいは体と心)が入れ替わる」と表現されることが多い。しかし、「肉体交換」「精神交換」「スイッチ(スウィッチ)」「人格が入れ替わる」「体が入れ替わる」「心が入れ替わる」など、さまざまな言い回しがあり、統一されていない面もある。

このような設定の作品を探す際は、さまざまな表記があることを頭に入れておく必要があるだろう。

ちなみに英語では“switch”(スウィッチ)あるいは“body swap”(ボディースワップ)などといわれることが多い(ちなみに、前に述べたような立場の入れ替わりの場合は“switch place”などといい、単に“switch”とすることも多いようだ。)

私なりに説明するならば「何らかの原因によって、二人の人間それぞれをつかさどる何か(精神 記憶 心 人格など)あるいは身体が入れ替わってしまう」あるいは「意図的に入れ替える」となるだろう。

ただし、3bは、取り上げられている作品例が判断に困るもので、少々引っかかる。

4b…思想

5…住人

6…位置

この3つは特殊なパターンなので、ここでは言及しない。

ちなみに、「物語要素事典」では取り上げられていないが、身体の一部が入れ替わるものもある。

入れ替わるものは何か?

立場の「入れ替わり」ならば、現実にもできなくはない。しかし、この連載で述べようとしている「入れ替わり」は、現時点では不可能である。もちろん、遠い未来はわからないが、少なくとも私たちが生きている間には実現しないことだろう。

では、どうして現実には不可能なのに、フィクションではそれが成り立つのだろうか?

参考までに、「入れ替わりマニアックス」の管理人、クロエさんによると、このような話は「「魂」が記憶と人格を総括するもので「肉体」はその容れ物であり魂が肉体に宿ることで自在に扱える」というそれまでのフィクションで扱われてきた約束事に則っているのだという。

つまり、魂と肉体は全く別物で分かれているというのだ。こういった約束事があるからこそ、憑依や転生はもちろんのこと、「入れ替わり」も存在できるといえよう。

(参考資料:http://www5f.biglobe.ne.jp/~cloe/words.html

けれども、「魂」という表現にはどこかオカルト的・宗教的な雰囲気がしなくもない。皆さんもご存知のように、その“何か”は「心」や「人格」、「魂」などといわれているが、さまざまな表現があり、一つに統一することは今のところ難しい。だから、ここでは”何か“とだけ記すことにする。

矛盾する「体」と「心」

「体と心が入れ替わる」という表現はここでいう「入れ替わり」について説明する際に欠かせないものとなっている。しかし、私はこの表現をあえて用いなかった。

それは、この表現自体がある矛盾を含んでおり、こういった表現に私は必ずしも賛成できるわけではないからである。

では、どういったことが矛盾しているのか?

それは、「体」と「心」を同時に入れ替えることはできないという矛盾である。

たとえば、最初にAとBの肉体をつかさどる”何か”を交換し、その後に、お互いの肉体を交換したとする。こうすると、確かに、「何か=心」と「肉体=体」を入れ替えたことにはなっている。

しかし、1回目の“何か”の交換は「入れ替わり」の状態をもたらしているが、2回目の肉体の交換は、二人を元の状態に戻しているので、結局は元に戻ったのと変わらない。

また、ここで行われた「入れ替わり」は、1回目は「肉体」で、2回目は「“何か”」だから、この2回の「入れ替わり」は別々のものを入れ替えており、けっして1回で「体」と「心」の両方を「入れ替えた」のではない。だから、この表現が指しているものとは明らかに矛盾している。

つまり、「体と心が入れ替わる」というややこしい言葉を用いなくても、そのどちらかを入れ替えただけで「入れ替わり」は成立するのだ。

そういった矛盾があるにもかかわらず、なぜ、「体と心が入れ替わる」という表現が用いられるのか?あくまでも推測でしかないが、この表現は慣習的なものとして用いられているのではないかと私は考えている。

当然のことだが、「入れ替わっている」場合も、肉体と“何か”は結びついて一個人を形成している。「入れ替わり」とは、その結びつきがいったんほどかれ、二人、あるいはそれ以上の人間の間で「入れ替わった」うえで再度結びつくことであって、その結びつきが本来のもの(=生まれ持った時のもの)とは違っていることだけが違っている。だからこそ、相手と「体と心が入れ替わっている」のである。


ところが、問題はそれだけでは終わらない。そのどちらかを入れ替えただけで「入れ替わり」は成立するのならば、「入れ替えられた」のは、「体」のほうなのか、それとも「心」のほうなのか?

私はこの問題について、実際のところは解釈上の問題であって、どちらの表現を使っても同じ意味を指すから特に問題ないのではないと考えている。けれども、技術的なものとして「入れ替わり」を考えた場合、肉体よりも、それをつかさどる“何か”を交換するというものになりがちなので、それが現実に可能になった場合、「肉体をつかさどる“何か”の交換」と受け止められる可能性が高いのではないだろうか。

当事者の間柄―男女間が多い

次に、特に見逃すことのできない点である、入れ替わる二人(あるいはそれ以上)の関係について考えてみたい。

「入れ替わり」フィクションでは、圧倒的に人間同士、特に男女間のものが多い。「変身」や「憑依」と並んで、今ではTSFの分野の一つとなっているが、同性間のものも少なくないのが大きな特徴だ。

変身や憑依も、人間から人間とは限らないように、「入れ替わり」にも人間が動物(おもに犬や猫)や人形、ロボットなどと入れ替わるという設定のものがある。

同じ人間であっても、身近な他人の立場や気持ちでさえ相手を理解するのは困難で、特に、異性や違う世代の場合、いっそうはっきりしてくる。ましてや、人間以外のものとなると、いっそう困難である。

そういったものを描こうというマンガ家や作家がいることだけでも私は脱帽してしまうが、その置かれている立場を表現しようとしているのだから、これはある意味「挑戦」なのかもしれない。

ストーリー上での効果も大きく、対照的な立場に置かれている人の場合、強制的に相手の立場に立たされることによる戸惑いがはっきりするという効果をもたらす。

動物の場合はいっそう顕著で、言葉を話せない、道具を使えないというハンディが加わり、人間同士場合以上にインパクトが大きい。その心情とドタバタ感を表現するという意味で、作家たちの習作的なものとなっているのだと思われる。

原因―アクシデント的なものが多い

フィクションにおいて「入れ替わり」は、アクシデントによって起こるもの―特に「衝突・転落・落雷」の「三大原因」によるものが大半を占めている(これについては次回、詳しく考えることにしたい)。その多くは当事者らが自力で元に戻ることはできないし、入れ替わった原因を認識していない場合も少なくないのが特徴である。

強いショックによって入れ替わるという特性からだろうか、中には一方が意識不明という設定のものも存在する。ただ、ブラックなオチの作品でない限り、一方が死んでしまうということはあまりないようだ。

なぜなら、一話完結モノのアニメやギャグマンガ(特に4コマ)はともかく、「相互理解」をメインテーマとするならば、「元に戻れない」という事態は、危機として描かれることはあるにせよ、ストーリーを展開するうえでは致命的だからだ。

「三大原因」以外には、藤子・F・不二雄の作品群で用いられている道具によるもの(以下「道具もの」と呼ぶ)や弓月光の『ボクの初体験』や『笑って許して』などで用いられる手術(脳の移植・交換など)なども挙げられる。

ただ、こういったパターンの作品はけっして多いとはいえない。「入れ替わり」を可能にする技術が確立していないということもあるが、なによりも、ストーリーを展開しにくいことが大きな要因ではないだろうか。

たとえば、強制的に相手の立場に立たされることによる戸惑いや違和感、ドタバタ感や当事者らの性格が変わったことによる周囲の反応などは、何らかの技術をもってして「入れ替わった」場合には存在しないか、きわめて薄い要素だといえる。

その点で、アクシデントはそれらの要素をいっそう強める効果をもたらす。

何の関係もないか、対立した関係にある当事者ら(入れ替わりは、一方が意識不明の場合を除き、2人以上で起こるので必然的に「当事者ら」になる)が、何らかのアクシデントによってある日突然入れ替わるほうが、彼ら・彼女らの心情や戸惑いなどもはっきりとしてくる。また、読者も「元に戻れるのだろうか?」と読者とその不安を共有できるからだ。

フィクションにおける典型的なストーリーと、筆者の考える科学技術として実現した場合の「入れ替わり」の違いと分析は別の機会にふれるので、今回は詳しくはふれない。ここでは、「入れ替わり」と一口にいっても、さまざまなパターンがあるということだけを述べておきたい。

「入れ替わりフィクション」はアクシデントがお好き?

「入れ替わり」は実現するのか、そしてどういった方向に向かうのかはともかく、フィクションにおいては道具や科学技術によるものよりも、非科学的なアクシデントによる「入れ替わり」がよく用いられている。

そのような矛盾を解消するために、入れ替わるものを「魂」や「心」など、現実に存在するか不確実なものに置き換える手法がよく用いられる。「体と心が入れ替わる」という表現と共に「魂が入れ替わる」という表現も多く用いられていることからもそれはわかる。私はこの手法を「置き換え」と呼んでいるが、これは読者や視聴者に示すうえで重要なことだといえる。

「入れ替わり」そのものが現実にはありえない以上、多くのフィクションはこの手法を用いることによって、読者にその話が科学や現実からかけ離れたことであるということを暗示しているからだ。

実は、本当にあった?

常識で考えれば、こういったことがアクシデントによって起こることはないと考えられている。ところが、最近興味深い話を入手した。

「現実にはありえない」と認識されている「入れ替わり」が、超科学やオカルト、ナンセンスの世界として取り扱われているというのだ。

真偽のほどは定かではないものの、イタリアなどではそのようなことがあったという報告があるという。

参考資料: http://ryoshida.web.infoseek.co.jp/kaiki/15zinkaku.htm

ジェノバとナポリの女性の間で起きたこのケースは、医学的な見地から見ても説明がつかないという。実際、脳科学者も、脳細胞の移植はできても、脳そのものの移植はできないと考える人も多いようだ。

その真偽はともあれ、落雷によるものであるという点においてまさにアクシデントである。もしもきちんと証明できるものであるならば、今頃、科学雑誌のトップを飾っていてもおかしくないだろう。

だが、現時点では、「アクシデントもの」については科学的な理論が成り立たない。その理由の一つに、記憶は脳に刻まれているものであって、それ単独を取り出すことは不可能だからだ。

人間の脳は身近なものでいえばメディア、記憶はそのメディアに刻まれているデータにたとえられよう。メディアといっても、何度でも書きこみや消去のできるものではない。一度書きこんだら二度と消すことのできないもののことを指す(人間の脳とメディアでは構造や容量があまりにも違いすぎるが、その点については考慮しないものとする。)。

「最高級のコンピューター」というたとえもうなずける(『世界不思議物語』リーダーズダイジェスト 1979 より)ように、人間は生まれてから今までのことを記憶し続けているという。だから、それだけ人間の脳はとてつもなく多くのさまざまなものを記憶していることになるから、メディアの量も莫大なものとなることは明らかだ。

ここからは余談だが、もしも脳がハードディスクのように、書き込みや消去、外部のメディアなどへのコピーが簡単にできるようになったら、「入れ替わり」を可能にする方法として多くの人が安易に想像するような「脳の移植」をしなくとも「入れ替わり」が可能になるかもしれないし(それには『攻殻機動隊』のような「電脳化」をしないといけないのかもしれない)、万が一の事態に備えて、記憶や人格などのバックアップを取ることもでき、安全性も高まるかもしれない。

また、「入れ替わり」に直結しなくとも、トラウマなどを消したり、精神病を治療したりと、医学の進歩に寄与する可能性もないわけではない。一方で、悪用されれば、非常に恐ろしい技術になることも明らかだ。

もし、これが犯罪の経歴を消すなどの不正に使われたらどういうことになるだろうか…?


第2版執筆時に、またもや驚くべき情報が入った。ロシアでは、ロボットの身体に人間の脳を移植する計画が進んでいるというのだ。

参考

http://sankei.jp.msn.com/wired/news/120305/wir12030515000003-n1.htm

http://sankei.jp.msn.com/wired/news/120305/wir12030515000003-n2.htm

http://sankei.jp.msn.com/wired/news/120305/wir12030515000003-n3.htm


「永遠の命」を確保するというのが大きな目標らしいが、生身の人間と機械との互換性ができれば、脳以外のものに記憶をコピーすることも可能になり、その結果として「入れ替わり」だって(脳を移植する以外の方法でも)可能になってしまうのではないか…?

そんな気もしなくはない。


それはともかく、ここからはたとえ話にしよう。

大量のさまざまなデータが入ったメディアを誤って(あるいは故意に)高層ビルの屋上からアスファルトの地面に向かって落としたとする。

わずかな確率かもしれないが、運が良ければ中のデータは無事かもしれない。だが、中のデータが損傷する可能性のほうがずっと高いだろうし、下手をすればメディア自体が粉々になってしまうかもしれない。

では、高層ビルの下に、大量のなにも記録されていないディスクがあり、そこに向かってデータが満杯のディスクをぶつけたからといって、記録されている膨大なデータがまるごともう一枚のディスクに移ることなどあるだろうか。

ありえない。それ以前に粉々になってしまう。

人間でも同じで、事故などのショックや病気で脳が損傷し、それによって記憶喪失になったり、身体が麻ひしたりすることもあるし、下手をすればショック死も免れないだろう。

けれど、その人の記憶のほんの少しでも別人に移ることなどありえない。磁石にくっつけたクリップが磁力を持つのではないのだから当然のことである。

それにもかかわらず、フィクションではぶつかっただけで簡単に入れ替わるものとしてよく描かれている。その衝突や転落の衝撃はどのくらいのものかはわからないものの、軽いものからショック死しないのが奇跡といったらいいくらいのものまで幅広いことだろう。ただし、描写からは決してそう見えないものがほとんどだし、運悪く、飛び降り自殺の巻き添えならばともかく、人と軽くぶつかったくらいで生死にかかわるというのはまれだろう。これは、アクシデントものにおいて「入れ替わり」という現象そのものが、不可逆な存在として描かれていることに表れている

一方で、前述した『ドラえもん』をはじめとする藤子・F・不二雄の作品は、おおむね(『親子とりかえばや』などを別とすれば)道具を用いた「入れ替わり」であり(※)、基本的に自由に使える設定となっている。また、道具そのものにはアクシデント的な要素もほとんどない。アクシデントとなりうるのは、それを悪用した場合や元に戻さないまま、道具を借りていった場合など、ほとんど「人災」だということができる。

ただし、これは例外的なケースであって、不可逆的な要素を持つ傾向が強い日本の作品では、発明者以外にはとうてい理解できないような複雑なメカニズムだったり、予期せぬ副作用として発生したりすることが多い。

つまり、「入れ替わり」は登場人物たちの常識を超えた、一種の「超常現象」として存在し、ふつう、当事者らではその能力を自由にコントロールすることはできないのだ。


私は今、「入れ替わり」がもし現実に可能だと仮定した場合、この世の中はどのようになり、それが実現した場合にどういった問題が発生するかについて考えようとしている。

「百聞は一見にしかず」―そのようなことを実際に体験してみることに勝ることはないだろうが、今のところ、そんなことは不可能だし、もしできたとしても、私は友だちにも相手にしてもらえないほど孤独であり、お世辞にもハンサムではない以上、相手に嫌がられることは間違いない。

そのため、多くのフィクションを頼りに「入れ替わり」が可能になった世界のことを考察せざるを得ない状況にある。次回は、この理論を考えるうえでフィクションがどう役に立ったかを自分の知る範囲で書き、その次の回から本題に入ろうと思う。


※)第1版発表後、よしおかさんから藤子・F・不二雄作品は、「容姿の入れ替わり」ではないかと指摘されたが、クロエさんのサイト「入れ替わりマニアックス」の商業作品リストには藤子作品も掲載されており、肉体の「入れ替わり」は容姿の「入れ替わり」を含んでいることから、この連載では「入れ替わり」フィクションに分類した。


おまけの注釈(?)


文章を書くために「入れ替わり」と検索していると、オンライン百科事典「アンサイクロペディア」にこんな項目が見つかった。現実的な問題を考えるとあまりにもあてにならないのだが、フィクションにおける分析としては面白いといえる。

http://ansaikuropedia.org/wiki/%E5%85%A5%E3%82%8C%E6%9B%BF%E3%82%8F%E3%82%8A


※第3版追記※

かつてはこのサイトのもとになった本家「ウィキペディア」にもそういった項目はあったのだが、2011年11月14日に削除されてしまった(カテゴリーは残っているが)。出典なしの独自研究だと判断されたことや、フィクション用語でないことが原因のようだ。

だが、某サイトに記事が残っていたので参考までに掲載しておく。ただし、2009年1月1日時点のものであり、その後の更新分は含まれていない。

http://n.web-kaiteki.com/keyword/%93%FC%82%EA%91%D6%82%ED%82%E8




初版  2012年1月14日

第2版  2012年4月9日

第3版 2012年5月21日