まえがき

 これはフィクションだけでは済まされない
“かもしれない”

(退屈なお説教ばかりでごめんなさい)

(第2版)



私たちの宿命
今の世の中、どのくらいの人たちが

「今の自分の人生が退屈だなあ・・・」
「他人がうらやましいなあ・・・」
「他人になれたらなあ・・・」

と思いながら、日々の生活を送っているのだろうか。
実際のところはわからないが、おそらく、かなり裕福な生活を送っている人も、経済的に苦しく切り詰めた生活を送っている人も、人間なら誰もが(もしかしたら生物すべてが)こういうことを考えているのではないだろうか。
もちろん私も大声でこそ言わないが、内心はそうだ。
「人間の欲望には際限がない」とよくいわれるように、人間ならば誰しも、今の自分がおかれている状況に完全に満足することはできない。
皆さんも当たり前に感じていることだと思うが、自分自身のことを選ぶことができる範囲はとても限られている。たとえば、生まれる時代や性別、容姿、家族などを選んで生まれてくることはできない。
ここまでは、よく言われることだし、誰もが実感していることだろう。
そういった風に、私たちの人生には数多くの制限や不自由の中で成り立っているわけだが、全く自由がないわけではない。整形手術はある意味で“容姿”に対する宿命からの脱出を実現したともいえるし、性転換手術もまだまだ不完全ながら、“性”に対する宿命からの脱出の一手段になろうとしているとみることができる。
よく、「人生の可能性は無限大だ」などと言われる。確かに、「選択」は存在する。限られた範囲とはいえ、ある一人の人間がたどる可能性のある人生のルートは無数にあるといえる。
けれどもよく考えてみれば、世の中、そういったものばかりではないことに気づくだろう。歩んでいく中で、そこには自分の望んでいる選択を許さない多くの障害や制限が待ちかまえている。たとえ、それが基本的には選べるものだったとしても、時代の要求や自分の能力、適性などが自分の才能を規定し、振り分けてしまうからだ。
そして、自分が何かを選んだとしても、現実にはこの人生の中で自分がたどれるのはたった1つしかない。
その大きな原因は、時間はただ過ぎ去るだけで後戻りすることができないことにある。時間をさかのぼって別の選択肢を試すことができない以上、自分の選んだ結果がいいものであったか、悪いものだったのかは誰にもわからない。
とはいえ、時間がたてば、(たとえ当の本人が死んだ後だったとしても)いずれそれが分かることも少なくない。ある悪いことがあっても、結果としていいことにつながったということもあれば、初めのほうはよかったが、後で悪くなったという経験は誰にでもあることだろう。
だから、そのほとんどはどちらでもあり、グレーの濃さが違うだけというべきものだと思うのだが…。

代わってもらえない人生
それに、自分が今やらなければならないことも同じだと思われる。もちろん、自分のやることの一部を相手に手伝ってもらうように頼むことはできるし、気が利く人ならば、困っている人がいれば助けてあげるかもしれない。
人に頼らなくても、塾などに行ったり、参考書を買ったりするのもその手段である。もしあなたがフリーターや派遣社員などであれば、「代替可能」に言い表されているように、代わりに仕事をする人はいくらでもいることだろう。

けれども、自分の人生だけはそうはいかない。なぜなら

人生そのものを誰かに代わってもらうことはできないからだ。

その代表的なものは受験や就職活動だろう。親や教師は受験生や就活生の手助けはできても、誰かに代わってもらうことはできない。たとえコネがあったとしても、結局はその人の実力にかかってくる。
人は基本的に自分が嫌いであると私は考える。自分に納得のいかない部分があるからこそ、いいところを伸ばし、悪いところを隠そうとする。それに、今の自分がうまくいっていないときに、自分よりもいい状況にある他人をうらやんだり、今とは違った道を歩んでいたならば、ということを考えたりする。
逆に、ああいう人にはなりたくないな、と思って自分をいましめることも十分考えられる。ありふれている人の情報にはだれも興味を示さない一方、とてもいい立場にある人やとても悪い立場にある人の情報はメディアを通じてバンバン入ってくるからでもあろう。よく「隣の芝は青く見える」と言われることだが、メディアが浸透し、多くの人の好みが似てきた今となっては、メディアを通して入ってくる歌手や芸人、スポーツ選手などのほうが身近なのかもしれない。

相互理解、そして変身願望の実現へ
一方、身近な人とのかかわりはどうだろうか?地方でさえも「近所づきあい」が少なくなったとよく言われるように、一人でいることの快適さゆえに人間関係が固定化している人も少なくないのではないだろうか。
誰にでも、嫌いな人やなかなか気持ちの通じ合わない人、面と向かって話す機会の得られない人ははいるものだが、家族とはいえ、もはや別々に行動し、別々なものを食べ、別々なものを楽しむということも珍しくない。
夫(もしくは妻)、友人、恋人、きょうだい、親…。今や核家族や単身世帯が進み、ヒトの目線を気にしなくても、会話をしなくとも生活を送れるような面もあるにはある。しかし、人とのかかわりなくして、生活は送れない。特に、異性や違う世代の人との間にこのギャップは大きいといえる。

だが、いかに関係が悪くても、現状では間接的にしか接することはできない「相手の立場になって考えて」と言われても、現実にそんなことは不可能である。
そういった状況の中、

もし、誰かと「入れ替わる」ことができたらどうだろうか?

多くのフィクションが、「入れ替わり」というシチュエーションを取り入れてきたのには、人間と人間の関係が希薄になっていることへの危機的意識と「もっと親しく接し、お互いを理解しよう」という読者や視聴者へのアドバイスがあるからだと考えられる。

そういったテーマを打ち出した作品としては、「入れ替わり」フィクションを一般的な題材にした大林宣彦監督の映画『転校生』をはじめ、最近では、テレビドラマ『パパとムスメの7日間』『ドン★キホーテ』などが挙げられる。今では、マンガでもそういった作品は多い。
これらの多くはアクシデントによるものだが、今からふれてみるように、「入れ替わり」が現実のものとなったならば、完全にとまではいかなくとも、今以上に「相手の立場に立った理解=相互理解」ができるようになるだろう。そういった状況がふさわしいかどうかは別としても、相手の反応などから間接的に推測するほかない、今の状況から脱出できるということは否定しない。

けれども、「相互理解」だけが「入れ替わり」の目的ではない。「入れ替わり」は「自分以外の他人」に“変身”することによって、個々人の世界をいっそう広げることができる可能性も秘めているからだ。それは、「入れ替わり」が「変身願望」や「生まれ変わりの願望」の延長線上にあるからではないだろうか。
「変身」―誰もが少しは心の片隅でひそかに抱いていることだといえる。実際、このテーマは神話の時代から広くフィクションで描かれてきたことから見てもそれはわかる。
ただ、この「変身」は少し性質が違う。それは、自分が別のものに「変身」するというのではなく、すでに「存在」している人になるという性質の「変身」だということである。
だから、「そうだったらいいなあ」「面白いだろうなあ」と思う人もいるだろうし「そうなるのは嫌だ」という人もいることだろう。そういった考えを持つことを私は否定しない。

実際、異性との「入れ替わり」がTSF(性転換フィクション)に分類されているように、もし現実のものとなれば、手術による不完全な性転換などの選択肢しかない、今の状況から発展し、本当の(生身の)異性として生活することが可能になる。見知らぬ他人になってそのまま失踪してしまうとか、その体が気に入ってずっと元に戻りたがらない、ということも考えられなくはないだろうけど…。
だから、いつもの「自分」から離れて、誰か別の人になってリフレッシュしたいとか、いつもと違った生活を楽しみたいというある種の「変身願望」としても広く受け入れられることだろう。
また、それは科学技術や医学の進歩でもあることも間違いないだろう。その実現の過程において多くの技術が生まれることは間違いないだろうし、特に脳科学の分野においては記憶の消去や書き込み、脳以外へのコピーなど、今では夢のようなものでしかない、多くのことが可能になることだろう。
もちろん、倫理的批判は避けられないものの、ある話題について肯定的に考える人、否定的に考える人、さまざまな人がいるのがこの世の中であり、

それこそが「入れ替わり」というものなのだ。

では、ここでふれようしている「入れ替わり」とは、どういったものなのだろうか
この「TS解体新書」をご覧になっている、TSモノ好きの皆さんは多分、ご存知のことばかりかもしれないが、万が一、知らない人のためにも、フィクションにおける作品の分析もかねて次回は、このことについて詳しく説明しようと思う。


 2012年1月09日  初版掲載
2012年3月25日 第2版掲載