「生きていた証」

作:しんご







僕は何か悪いことをしたのだろうか?

3週間ぶりに会うというのに、美紀が車に乗ってから10分、僕達は会話という会話をしていない。

ちらっと、横目で助手席に座っている美紀を確認してみた。

様子からは、怒っているようには見えない。

美紀が怒っているときは、必ずといって顔を窓の方に向けるからだ。

美紀は、膝の上でハンカチを両手でギュッと握り、それをただ見下ろしているだけだった。

最初は気分が悪いのかと思った。

けれど、そう訊く僕の問いにはただ首を振るだけだった。

僕は再び、美紀に話しかけた。

「そのワンピース、よく似合ってるよ」

会話のネタとして嘘をついたわけでもなく、本当に美紀が着ている水色のシャツワンピースは美紀が持つ清楚な魅力を引き立てていた。

「ありがとう」

美紀はそれだけ言うとまた黙りこくってしまった。

美紀の様子を見ていると、それはまるで初めてのデートのように緊張をしているような雰囲気にも思えた。

けれど、付き合ってから2年半、しかも彼女の親からも結婚を許され、先月には結婚式会場を見に行っているという僕らにとって、緊張などは無縁のはずだった。

それなのに一体なぜだろう?

そう思ったとき、僕の頭には嫌な考えが浮かんだ。

もしかしたら、マリッジブルーっていうやつだろうか。

もしそうなら納得できる。

ここ最近、電話での美紀の様子は、どこかおかしかった。

話がかみ合わなかったり、しかもすぐ会話を切ろうとする。

ほんの少し前まで、毎晩の習慣になっている電話について「明日仕事だから早めに電話を切り上げたい」と美紀に懇願していたのが嘘のようだ。

他に好きなやつでも出来たのだろうか。

それとも僕のことが嫌になったのだろうか。

居ても立っても居られず、僕は車をコンビニの駐車場へと入れた。

店から一番離れたスペースに停車させると、僕はすぐに顔を美紀の方に向けた。

「なぁ、美紀」

そう僕が呼ぶと、美紀は「えっ」と慌てた様子で顔をあげた。

緊張で顔がこわばっているようだった。

「もしかして、結婚したくないのか?」

美紀は驚いた様子で僕を見た。

そして少し黙った後、「そんなことない」と答えた。

「じゃあ、どうして余所余所しいんだよ」

「久しぶりに会うから、ちょっと緊張しているだけ。ただそれだけ」

「はぁ?嘘だろ。本当は他に好きな人でも出来たんじゃないのか?」

そう訊く僕の問いに、美紀はブルブルと首を横に振り、「そんなことない」と真っ直ぐ僕の方に顔を向けた。

その顔は嘘をついているような顔には全く見えなかった。

俺は何を焦ってるんだ。

美紀が浮気でもしてると思ってるのか。

美紀はそんな女じゃない。

信じてあげられない自分が何だが情けなくなった。

これから、何があっても二人で生きていこうと決めたじゃないか。

僕は馬鹿だ。

「ごめん」

僕は素直に謝った。

「私の方こそ、ごめんね」

美紀はしおらしい態度で軽く頭を下げた。

こんな彼女も新鮮味があっていいじゃないか。

美紀の態度は本当に付き合う前の雰囲気に良く似ていて、僕は無性に愛おしく思えた。

「映画に行こうかとも思ったんだけど、やっぱりホテルに行こうか」

僕はそう提案した。

美紀も恥ずかしそうに「うん」と頷いた。

恥ずかしがる姿も妙に可愛かった。






玄関の前で深呼吸をし右手をギュッと握ると、その拳を胸の上に置く。

そして目を閉じて「大丈夫。大丈夫」と、心の中で自分に言い聞かせる。

それが、ここ2週間の間に、私が自然に生み出した私の儀式だった。

それが済むと私はパッと目を開け、玄関を開けた。

「ただいま」

私の明るい声が響いた。

すると、リビングの方から「おかえり」という女性の声が返ってきた。

ヒールを脱ぐと、私は赤いスリッパに履き替えた。

リビングに入ると、母親はソファの上で寝そべったままテレビを見ていた。

母親は、私の方を見ることなく「早かったのね。夕飯は?」と訊ねてきた。

「食べてきたよ」

「いいものでも食べてきたんでしょ。和馬君ばっかり払わせちゃダメよ」

「そんなことしてないよ。食べたものも安いイタリアンだし」

「そうね。少しでも二人でお金を貯めとかなきゃね」

「うん」

私は素直に同意しながら、辺りを見回した。

あれ?

リビングにいるとばかり思っていた父親がいなかった。

「お父さんは?」

「お風呂に入ってるわ。美紀もお父さんの後に入っちゃいなさい」

「うん。そうする。着替えてくる」

私はリビングを出ると、フーと息を吐いた。

やっぱり、緊張するわ。

そう思うと同時に、会話をするのも大分慣れた気もしていた。

私は、軽い足取りで階段を登った。

階段を登って一番手前の部屋。

そこが今の私の部屋だった。

入るたびに綺麗に片付けられていることに感動をしてしまう。

私の部屋。

いつか、そう思える日は来るのかな。

窓際に置かれたベット、ノートパソコンが置かれた木のデスク、背の高い本棚、白いチェスト。

床には丸いローテーブルがあり、その上にはメイク道具が入ったプラスチックの籠と卓上型の三面鏡が置いてある。

そして、クローゼットを開ければ、品の良い洋服が横いっぱいにハンガーで吊るされている。

この部屋やこの部屋にあるもの、どれを取っても私には何一つ愛着心はない。

それもそのはず。

だって、この部屋にあるものは全部、私が買ったものではなかった。

けれど、今の私はこの部屋にあるものは自由に使えてしまう。

現に私が身に着けているものもこの部屋にあったものだ。

この水色のシャツワンピースも、首にかけたネックレスも、ブランド物の腕時計も、脚を包むパンストも、細かい刺繍が入った黒のブラジャーやショーツですら、みんなこの部屋にあったもの。

そう、ここは私の部屋じゃない。

そしてここにあるものも私のものじゃない。

だけど、私がこの部屋にいても、この部屋にあるものを使っても、誰に咎められることはない。

ふふ。

私は、この部屋にあるものがみんな好き。

どれも、品が良くてお洒落ですごく心地がいい。

だって、綺麗な私にはピッタリなものばかりだからだ。

私は鞄をローテーブルに置くと、その中から白いスマートフォンを取り出した。

もちろん、これも私が買ったものではなかったが、私の指紋でロックは簡単に解除できた。

最新のセキュリティーもやはり限界があるらしい。

私は、アドレス帳の中から「ユキ」という名前を出すと、電話番号を押した。


プルルルル、プルルルル。

三度目のコールが鳴る前に親友は私からの電話を取った。

そして、ユキは挨拶もなしに「待ってたよ」と言った。

どうやら、本当に待ってくれていたようだ。

口調からテンションの高さが良く伝わってきた。

「今、帰ってきたとこ」

「で、彼氏はどうだった?」

「それが聞いてよ。もうめっちゃカッコよくて」

私もユキのテンションがうつったように自然と早口になってしまった。

「よかったじゃん。で、やったわけ?」とユキは嬉しそうに訊いてきた。

主語はなかったが、それが何を表しているのかはすぐにわかった。

「はい。やっちゃいました」

私はおどけた口調でこたえた。

「きゃー!!マジで!!どこでどこで?」

「普通に、ラブホだけど」

私はほんの数時間前のことを思い出すと、急に恥ずかしくなった。

「ぜんぜんばれてないわけ?」

「うん。最初は緊張して全く話せなかったんだけど、最後の方は普通に会話できたし、まず疑ってないと思う」

私が正直にそう話すと、ユキは「親も仕事も上手く騙せてるんだし、彼氏も騙せたとなると、もう怖いもの無しじゃん」と感心するように言った。

確かに私が抱えていた不安の大部分はなくなった。

2週間前、仕事場所が高校だと分かったときには、私は呆然とした。

教えることなんか出来るわけない。

けれども、よく調べてみると教師の仕事ではなかった。

学校事務。

それが仕事だった。

学校事務という仕事は、教師のような特化した知識は必要としなかった。

私が今まででしてきた仕事の経験も多少なりに役に立ったし、社会人としての振舞えさえ出来れば大抵のことは対処できた。

それに分からないことがあったら、丁寧に教えてくれる優しい同僚もいた。

おかげで私は職場に上手く馴染むことが出来た。

家族もそして最大の不安材料だった彼氏も、私は上手く対処できていると思えた。

もし、私が分からないことを訊かれても、「覚えてない」といえばそれ以上追求はされなかった。

母親も父親も彼氏も不思議そうな顔はするけど、だけど誰にも真実に気がつくはずがなかった。

私は明るく振舞えばいい。

それが私の考えた方法だった。

もし暗い雰囲気で落ち込んでいるのなら、周りの人間は気にかけてしまうだろう。

そして助けたいと思ってしまうだろう。

でも明るい雰囲気なら、さほど気にもかけないし、助けたいなんて思うことはない。

それに実際、私は楽しくして仕方なかった。

落ち込むことなんて何一つなかった。

自然と私はよく笑うことが出来た。

誰もその笑顔が違うなんて想像すらしていないことだろう。

私がユキに言葉を返そうとすると、下のほうから母親の声が聞こえた。

「美紀、お父さん出てきたよ」

私は「ちょっと待ってて」とユキに言うと、スマートフォンを床に置いて、部屋のドアを開けた。

「分かった。すぐ行く」

母親に返事をすると、再びスマートフォンを耳元に当てた。

「ごめん。ちょっと呼ばれて」

「おばさんの声、こっちにも聞こえたよ。それにしてもメグってアカデミー賞級の女優よね。じゃあ、また後でね」

私は笑って「また9時ごろにかけるね」と言い、電話を切った。

メグか――。

ユキにそう呼ばれるたびに、心のどこでザワザワと何かがざわめいた。

こんな気分になると、決まって私は顔を見ることにしていた。

私は、ローテーブルに置かれた三面鏡の蓋を開いて、その中を覗き込んだ。

大きな目。

すっと通った鼻筋。

メイクはかなりの薄化粧だったが、それでも十分すぎるほどの美人が鏡に映る。

ショートカットの黒髪がよく似合う美しい女性。

私はこの顔が好き。

知的そうで、いかにも上品なお嬢さんといった雰囲気に包まれている。

私は鏡に映るこの顔を見るたびに笑みがこぼれた。

ふふ、本当に綺麗。

この顔の名前は恵じゃない。

あんなブスでデブな女じゃない。

この顔の名前は美紀。

私は鏡に向かって名前を呟いた。

「私は田中美紀」

けれど、私がこの名前なったのはほんの2週間前のことだった。

           

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もうちょっといい写真はなかったの?

私は飾られた自分の遺影写真が気に食わなかった。

もっと痩せているような見える写真もあったでしょうよ。

私は眼下に座っている親族を睨んだ。

母も父も、そして姉やその旦那、姪達もずっと俯いたままだった。

私の死を悲しんでくれているのはありがたいけれど、でもやっぱりこんな写真を選んだセンスには苛立ちを抑えることは出来そうになかった。

ええ、確かに私はずいぶん太ってましたよ。

ピーク時なんか、155センチの背丈で85キロもあったのだから、それはデブだと認めましょう。

でも、死んだ時なんか、60キロもなかったんだからね。

入院している時に写真を撮ってくれれば良かったのに・・・

もちろん、配慮はして欲しいわよ。

半年という余命を告げられ、そこからの闘病生活で精神的にも肉体的にもボロボロになった私に、いきなり写真を撮らせてなんか言われたら、それは不謹慎だし、私も怒りくるっていたと思うし。

でも、例えば病院の中庭に出たときにでも、さり気ない形で写真を撮ってくれても良くない?

服装が問題になるのなら、病室から出る前に「今日は気分を変えてちょっとお洒落をしてみない?」とか言ってくれたら、メイクだってするし、可愛い感じの服を着たはずだよ。

本当に最悪。

中学校の同級生の誰かが、ご親切なことに私の葬式のことを広めたようで、中学卒業後一度も会っていなかった同級生も来ていた。

ありがたいやら、お節介やら。

どうせ、彼女らは「あんなに太っていたからだよ」とか絶対に思っているに違いない。

「私の死は太っていたからではありません。乳癌です!!」と大きな声で謳えてやりたい。

あーあ、こんなことなら真剣にダイエットをすればよかった。


半年という余命を告げられ死を覚悟していた私には、悲しいなんていう感情はもう既に持ち合わせていなかった。

お坊さんがお経を唱えているのを聞きながら、この後はどうなるのかなとまるで他人事のように思っていた。

天使やら、ご先祖様やら、何かしらの存在が迎えに来るんじゃないの?

それとも体が焼かれたら、そのままどこかに消えていくものなのだろうか?

まあ、今はじっと待つしかないよね。

何にもやることがなく、私はキョロキョロと眼下に座る人々の顔を覗き込んだ。

中でも一番目立っていたのは、短大で知り合った親友の姿だった。

ユキったら泣きすぎだよ。

私の母親より泣いているようだった。

女の涙という言葉は、まるで美しいイメージがあるが、私と同じでデブな彼女が泣いている姿は、思わず笑ってしまいそうになるくらい美しいとは程遠いものがあった。

でも、やっぱり嬉しかった。

自分のために涙を流してくれていることが心の底から、ありがとうと言いたかった。

ユキは来てくれてありがたいんだけど・・・

私は中学校の卒業式以来、約10年ぶりに顔を見る数人の同級生達に目を向けて、ため息をついた。

来てくれて嬉しいやら、嬉しくないやら・・・

あれ?

あっ、美紀ちゃん!!

私は見覚えのある一人の女性の顔を見つけると、思わず驚いてしまった。


中学3年のとき、私は美紀ちゃんと一緒のクラスだった。

頭が良くて、綺麗で、明るい彼女は女子からも男子からも好かれていた。

私にとっては憧れの存在だった。

そんな美紀ちゃんと同じグループになれるはずもなく、彼女にとって私は単なるクラスメートでしかなかった。

だから、会話も事務的なようなものしか交わさなかった。

そして中学卒業後、彼女は地元で一番の進学校に入学し、私はそれ以来一度も会ったことがなかった。

10年ぶりだったが、彼女の美しさは何一つ変わっていなかった。

いや、むしろ大人の色気が加わり、一段と綺麗になっていた。

目が大きくクリッとして、鼻筋もスッとして、どの角度から見ても美人だというのがよく分かる。

ショートカットの黒い髪も、よく似合っていて彼女の知的さを醸し出していた。

てっきり同級生の誰かと一緒に来たのかと思ったが、葬儀が終わると誰とも会話を交わさず、スタスタと一人でエレベーターに乗って降りてしまった。

私は、彼女がこんなところにいる理由がさっぱり分からなかった。

私の葬儀に来てくれたことももちろんのこと、何よりこんな田舎にいることも驚いていた。

地元には残っていないとばかり思っていた。

東京とかそういった大都市でキャリアウーマンとしてバリバリと働いているイメージがあった。

もしかして、結婚でもしたのかな?

26歳だから、早すぎるような気もするけど結婚していても不思議ではない。

そういえば、左手を見てなかったよ。

私は自分の体の方に目を向けると、係りの人が数人集まって何か作業をしているようだった。

まだまだ出棺には時間がかかりそうだわね。

私は、葬儀場の男性社員と供にエレベーターに乗った。

霊といっても壁を通り抜けることも、瞬間移動とかそういったことは全く出来なかった。

もちろん、人が私に触れることも見ることも出来はしないけど、私が出来ることは空中の浮くことだけだった。

一階のロビーには、美紀ちゃんらしき人影はなかった。

もう帰ったのかな。

一階は壁がガラス張りになっていて、駐車場を見回すことが出来た。

けれど、外にも人影はなかった。

もしかしたら、トイレかも。

私は、ロビーに端に設けられた女子トイレに向かった。


3台ある洗面台のスペースは一つ一つが独立する形で広く作られており、床の白いタイルや木目調の個室は、まるでデパートやホテルのような落ち着きと重厚さがあった。

一番奥の個室だけが閉まっていた。

さすがに上から覗こうなんていうつもりはなく、待とうと思っていると、すぐに扉は開いた。

コツコツコツ。

小気味よいヒールの音を鳴らして、彼女は出てきた。

本当に綺麗。

黒いワンピースの喪服は、彼女のスタイルのよさを十分に演出していた。

背も160センチ後半はあるようで、体型はスラッとしていて、スカートから見える脚も細く綺麗だった。

彼女は、洗面台の前に立ち止まると、蛇口に手を差し出た。

私はスッと彼女の横に真横に立つと、彼女の手を見下ろした。

左手のどの指にも指輪はなかった。

思わず、私は嬉しくなった。

その気持ちを言葉で表すなら安心感だった。

なんだ、彼女も結婚してないんじゃない。

でも、次の瞬間、私はハッとした。

そうだった――。

私はもう死んでるんだ。


余命宣告を受けてからの半年、闘病生活の中でずっと自分の人生を見つめなおした。

そして、私は何一つこの世に残せてないんだと思い知らされた。

もし、私が結婚をしていて子供がいたらどうだろう?

私は胸を張って子供だと答えることが出来ただろう。

なにも別に子供じゃなくてもいい。

私が建築家なら建物と言えただろし、作曲家なら楽曲、発明家なら発明品、作家なら創作物を挙げることが出来ただろう。

それに人や物を直接作り出すことが全てじゃない。

医者や弁護士、それにボランティアの人などは、人を助け、人を守っている。

人を助けることや人を守るということは、その人を生きさせるということだ。

そしてその人がその後、何かを生み出すのならば、やはり医者や弁護士やボランティアといった人たちは、間接的に何かを生み出しているということになるだろう。

そういう人たちもまた、この世に何かを作り出し残していることと同じことだ。

でも、私には何もなかった。

何もしていなかった。

短大学で論文を書いたといっても、発行してある書籍や論文を引用しただけで、自分の意見など何もなく論文と言えるようなレベルではなかった。

仕事だって、小さな会社の経理業務だけで、何か商品やサービスを生み出すようなものではなかった。

付き合った男性も、3年前に1ヶ月だけの交際した男だけだった。

ボランティアもしてなければ、人のために募金ですらしたことがなかった。

何一つ、私が作り出したものはない。

無いというのはどういうものなのか――。

それは私がこの世に生まれたという証拠が、何一つないということではないのだろうか?

それは生きていたといえるのだろうか――。

こんな私だから、死が訪れたのだろうさえ思えた。

でも、そんなことを家族に相談できるはずもなかった。

これ以上、苦しめさせたくない。

その一心で、私は必死に生き、そして死んだ。

それなのに――最後の最後に――。


なんでよ!!

なんで私が死なないといけないわけ!!

あんたなんか、ちやほやされてずっと私よりいい人生を送れたんでしょ!!

ふざけんじゃないわよ!!

あんたが死になさいよ!!

私は目の前の彼女に飛び掛った。

その瞬間だった。

私の視界は真っ白になった。

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       :

       :

       :

       :

「痛い。もうなんなのよ」

私は、膝に痛みを感じた。

あれ?

何でだろう?

何だか違和感があった。

なんで私、痛いって感じるの?

なんで私、地面に座ってるの?

なんで私、喪服なんか着てるの?

・・・あれ?

なんで、彼女がいないの?

私は急いで立ち上がると、洗面台の鏡に顔を映した。

・・・なんで彼女が鏡に映るの?


私が、右手を上げると、鏡に映る彼女も右手を上げた。

私が、右手で顔を抓ると、鏡に映る彼女も同じように自分の顔を抓り、同時に私は痛みを感じた。

ごくりと生唾を飲み込むと、私は悟った。

私は彼女になっているのだと。


「大丈夫ですか?」

声の方に振り向くと、中年の女性従業員がぎょっとしたような顔で立っていた。

「えっ」

急に声をかけられたことで、一瞬硬直してしまったが、それでも私は自分でも驚くほど冷静だった。

ああ、そうだよね。

床にはバックとヒールが転げ落ちているのに、それなのに平然と鏡を見つめているなんていうのは不自然に見えて当たり前よね。

「すみません。転んでしまって。顔に痕がないか見てたんです」

私は慌ててヒールを履いた。

「そうでしたか。お顔の方は大丈夫ですか?」

女性はバックを拾ってくれると、さっきまでのしかめっ面とは打って変わって、心配そうに私の顔を覗き込んだ。

私はバックを受け取ると、「ええ、大丈夫です。すみません」と微笑んだ。

「頭は打っていませんか?」

「大丈夫です」

私は逃げるようにトイレを出た。


ロビーに出ると、真っ先に目に入ったのはユキだった。

ユキなら、相談できる。

いや、そうじゃない。

きっと、これはユキにしか相談出来っこない。

私はユキを見た瞬間、直感でそう思った。

「ユキ!!」

私がそう呼ぶとユキは私の方に振り向いた。

するとユキは私の顔を見て首をかしげた。

「・・・すみません。どこかでお会いしましたか?」

ロビーには私の遠縁の親族ら数人いて、彼らは輪になって談笑をしていた。

ここでは不味い。

そう思った私は強引に彼女の手を取った。

「ちょっと来て」

握った彼女の手は、汗なのか涙のせいなのかグチョグチョと濡れていて気持ち悪かったが、今は文句を言っているような状況ではなかった。

自動扉までは簡単に誘導できたが、さすがに自動扉を一歩外に出ると、ユキも足を止めた。

「一体、何ですか!」

怒ったユキの顔は2年前に喧嘩をしたとき以来だった。

私は小さな声で「私、恵なの」と言った。

するとユキは「何を馬鹿なこと言ってるの!!」と唾が私にかかるほどの大きな声で怒鳴った。

その声は建物の中まで聞こえたらしく、私が目を向けると従兄弟や叔父らがガラス越しにこちらのほうに顔を向けていた。

「落ち着いて」

私は、ユキの手を取った。

ユキはその手を払いのけると、「ふざけないで」と再び怒鳴った。

私は咄嗟に「佐々木さんだよね。ユキの好きな人」と言った。

「えっ」

ユキは、呆然と私の方に目を向けた。

「なんで知ってるの?」

「だってユキが話してくれたから。去年、二人で温泉に行った帰りに」

そう私が言うと、ユキは急に頭を抱えた。

その間、ずっとガラスの向こうからは何人もの視線が私達に向けられていた。

私はそっとユキの腕を取ると、「あの白い軽自動車がユキの車でしょ。あそこまで行こう」と提案した。

ユキはコクリと頷いた。


車に乗り込むと、ユキは八つ早に質問し始めた。

「短大で一緒に入っていたサークルは?」

「文芸部」

「私の嫌いな食べ物は?」

「なす」

「好きな色は?」

「ピンク」

「私の妹の名前は?」

「あかりちゃん」

「私の誕生日は?」

「11月7日」

ユキは、眉間に皺を寄せて、ジッと私の顔を見つめた。

「本当にあなた、メグなの?」

「うん」

私がそういうと、ユキは大声で泣き始めた。


「泣き止んだ?」

そう私が聞くと、ユキはコクンコクンと頷いた。

「本当にユキは泣き虫だよね」

私はニコッと微笑んだ。

「一体どうなってんのよ。あんた一体誰になってるの?」

ユキは涙をハンカチで拭うと、興奮気味に早口で訊ねてきた。

私は死んでからのことをユキに話し始めた。

死んだら霊になっていたこと。

ずっと葬儀を見ていたこと。

そして、彼女の体に乗り移ったこと。

でも、さすがに私がなぜ彼女に飛び掛ったのかということは話さなかった。

「メグの同級生なんだ。すっごく美人だね」

「でしょ。しかも、ここ全然狭くない」

私は微笑んだ。

私はいつもユキの車に乗り込むと狭い狭いと文句を言っていた。

実際、座席の位置を一番奥まで押し込んでスペースを作っても、私には足を収めるのが精一杯で、窮屈で仕方なかった。

でも、今は細い足が綺麗に収まり、なおかつ空間には充分すぎる余裕があった。

まだ乗り移ってから20分も経っていなかったが、別人になったということを実感するには十分の時間だった。

「羨ましい」

ユキは笑った。


「どうするの?」

ユキの問いの意味は分かっていた。

これから私はどうするつもりなのか?

ユキはそう訊いている。

でも、私にはそれを正確に答えられるだけの知識は持ち合わせていなかった。

どうしたらいいのだろう?

母や父にでも言うべきだろうか?

いや、言ったところでどうすることも出来ない。

ユキのように冷静に私を見てくれはしないだろう。

理性とは皆無の感情で動く短気な父親。

人一倍の心配性の母親。

二人には言えない。

姉にも相談できない。

お喋りな姉に言うということは、全員に言うのと同じことだった。

結局、相談できるのはユキ以外いなかった。

「ねぇ、ユキ。私、このままじゃダメかな?」

「えっ!?」

ユキはギョッとした顔をした。

ユキは眉間に皺を寄せて「でも、その人は?」と言った。

私は「彼女には酷いことだっていうのはわかってる。でも、体から離れる方法が分からないから、彼女に返してあげたくても返すことが出来ない」と答えた。

半分は嘘だった。

体から抜け出す方法を知らないのは事実だったが、でも体を返してあげたいとは全く思っていなかった。

本当に私って最低な女よね。

私は自分自身で自分を軽蔑しながらユキに訴え続けた。

「私、生きたいの。生きていたいの。もう死にたくない。だから、私がこのまま生きていいってもいいかな・・・協力してくれない?」

ユキは黙ったままジッと眼を瞑ったまま私の話を聞いていた。

そして、私が喋り終わると、「うん。わかった」と微笑んだ。

「ありがとう」

私はユキの手をギュッと握った。

「ねえ、そういえば名前はなんていうの?」

「中田美紀だったと思うよ。確か」

「何よ。これから自分の名前にしようっていうのに『確か』なんてないじゃない?」とユキは笑った。

「だって、10年ぶりなんだもん。仕方ないでしょ」

でも、ユキの言うとおりだった。

私は名前ですら正確に思い出せないほど、何一つ彼女のことを知らない。

けれど、何とかなる。

少なくとも今の私は生きている。

それも、私よりもずっと綺麗な女になっている。

生きてやる。

美紀として生きてやる。

私が出来なかったことを、今度は美紀としてやってやる。

私が生きていた証をこの世に残してやる。

私は根拠のない自信で満ち溢れていた。







ここ最近、明らかに美紀の態度は変わった。

妙にテンションが高かったり、妙にしおらしかったりするのだ。

以前のような落ち着いた雰囲気はあまり感じない。

それまでは美紀には綺麗という言葉が似合っていた。

もちろん、今も十分、美紀の容姿は綺麗だ。

けれどここ数ヶ月で、可愛いという形容詞も似合うようになった。

僕の話には笑顔で聞いてくれるし、前より笑うことが多くなった。

それに、小馬鹿にする態度は全くというほどなくなった。

「知らなかったの?」

「しっかりしてよね」

「ちゃんと考えてから言ってよ」

美紀はよく上から目線で話すことが多かった。

そういう態度に腹が立ったし、そのことで喧嘩になったことも何度もあった。

けれど、今はそれがないのだ。

しかも、美紀の変化はセックスの時まで及んでいた。


2ヶ月前までは、僕に主導権があった。

それまでの美紀は常に受身で、人形のようなものだった。

それなのに今では美紀と僕の立場は入れ替わってしまった。

僕はベットの上で仰向けの状態にさせられると、上から美紀がのしかかってきた。

下から見上げる状態で見る美紀の雰囲気は、清楚という感じはまるでなく、まるで娼婦のようにいやらしい目つきをしていた。

美紀は僕の両腕を頭の上に挙げるように誘導すると「カズ君は何もしちゃだめだよ」と言って微笑んだ。

そして僕のシャツのボタンを外すと、僕の乳首に唇を押しつけた。

「ああっ・・・」

気持ちいい。

乳首を舐められた刺激で、僕は喘いでしまった。

「ふふ」

美紀は嬉しそうに笑うと、歯で僕の乳首を噛んだ。

その力加減が絶妙だった。

「うっ・・・」

さらに美紀は、僕のズボンのチャックを下ろすと、ズボンとパンツをずり下ろした。

冷たい。

美紀の手が僕の肉棒に触れたときの彼女の手の冷たさにビクッと反応してしまった。

何をするのかと思っていたら、美紀は僕の股間に顔を埋め込んだ。

嘘だろ。

美紀がフェラをするなんて。

そう思ったのに、脳に伝わってくる刺激は、フェラそのものだった。

「ああ・・・」

僕の肉棒が生温かい美紀の口の中の感触を感じると伴に、クチュクチュという艶かしい音が響いてくる。

頭を軽く上げると、美紀が顔を小刻みに上下させているのが見えた。

「私、フェラ嫌いなの」

昔、そう美紀に言われてから僕はしてくれとは言わなくなった。

けれど、やってもらいたいという気持ちが無くなったわけではなかった。

諦めていた。

それなのに、美紀はフェラをしてくれている。

僕が望んでいたことを知っていたのだろうか。

嬉しくてたまらなかった。

「い、いく・・・いきそう。出ちゃうから・・・美紀いいよ」

いくらなんでも飲んでもらうわけにはいかない。

そう思ったのに、美紀は一向に止めなかった。

そればかりか、止めようとする僕の手を払いのけた。

ああ、出そう。

そう思った瞬間、僕はいってしまった。

「んん・・・」

美紀は鼻息を荒くしながら、僕の精液を飲んでくれた、

しかも口に溜まったものまでゴクリと飲み干してくれた。

「カズ君の美味しい」

顔を上げた美紀は淫らに舌なめずりをし、添い寝しながら言った。

僕は半ば放心状態だったが、美紀の方に顔を向けた。

「フェラ嫌いじゃなかったの?」

そう僕が訊くと、美紀は反対に「カズ君は嫌なの?」と訊いてきた。

美紀の上目使いに、僕はドキッとした。

「嫌いじゃないよ。嬉しいよ」

僕がそう言うと美紀は嬉しそうに笑った。

そして優しい口調で「私はいつでもやってあげるよ」と言った。

何だか別人のようだ。

けれども、間違いなく目の前にいるのは美紀以外の何者でもなかった。

整った顔。

程よい膨らみを持った胸。

くびれたウエスト。

白い肌。

何度見ても美紀の体は美しい。

腕枕をしている美紀を横目で見ていると、肉棒はムクムクッと再び勃起をし始めた。

僕の回復を悟ったのか、美紀はニコッと微笑んだ。

そして甘い声で「今日はゴムつけなくていいよ」と囁いた。

「えっ、結婚式をするまでダメだって言ってたじゃん」

「今日は危険日じゃないし、それに出来たら出来たときだよ。私はカズ君の赤ちゃんを早く産みたいな」

美紀の目は冗談を言っているような目ではなかった。

美紀はその場の勢いで言っているわけじゃない。

口調そのものは軽いものだったが、それは美紀が真剣に考えた言葉だと僕は感じた。

けれどそれは余裕たっぷりに見えた以前の美紀の言葉ではなく、何かに追い詰められた末に出た言葉のようにも思えた。

本当に美紀は変わった。

何が彼女を変えたのだろうか。

それが何なのかは分からなかったが、僕は美紀をどこまでも愛していた。







おわり


 




〜あとがき〜

 toshi9さん、11周年おめでとうございます!!