やっぱりスカート #25 セットアップ

作:夏目彩香 by Saine

※この小説は夏目彩香風の小説が書けるように独自に調整したAIエンジン「Saine」(通称)を執筆に用いています。



秋の冷気が、街路樹の葉を乾いた音とともに揺らしていた。

休日の午前。若本美咲(わかもとみさき)の自宅マンションを訪れた影山隼人(かげやまはやと)は、リビングのソファに浅く腰を掛け、分厚い両手を膝の上で固く握り合わせていた。

厚手のオリーブ色のマウンテンパーカーと、黒の丈夫なチノパン。その無骨な衣服の下で、彼の大柄な筋肉が極度の緊張でカチコチに硬直しているのが、美咲には一目でわかった。

「影山さん、そんなに緊張しないでください。今日は娘たちも、友達と出かけていて夕方まで戻りませんから」

美咲は、淹れたての温かい紅茶が入ったティーカップをローテーブルにコトンと置きながら、柔らかく微笑んだ。

今日が、美咲の誕生日であることを影山は知っていた。そして数日前から「休日に、少しだけお時間をいただけませんか」と不器用な誘いを受けていたのだ。美咲は、彼が自分を真っ当な食事か、あるいはプレゼントを買いに街へ連れ出してくれるのだろうと予想し、少しだけ背伸びをした外出着を選んでいた。

上半身を包んでいるのは、深いワインレッドの、とろみのあるシルク混のブラウスだった。ほんのりと開いたVネックが鎖骨のラインを美しく見せ、手首に向かって緩やかなドレープを作っている。そして下半身には、歩くたびにしっとりとした重みを持って波打つ、ネイビーのロングフレアスカート。たっぷりと生地が使われたウール混紡の布地は、腰回りをすっきりとタイトに抑え込みながらも、裾に向かって上品で豊かな広がりを見せている。

大人の女性としての気品と、休日らしい柔らかさを両立させた、アパレル店長ならではの完璧なコーディネートだ。

「……お気遣い、ありがとうございます。あの、美咲さん」

影山は、ティーカップには手を伸ばさず、真っ直ぐに美咲の目を見つめた。

「お誕生日、おめでとうございます。……それで、今日のデートのことなんですが」

美咲は、膝の上でネイビーのフレアスカートの生地をそっと撫でながら、「はい」と静かに相槌を打った。ウール生地の微かな摩擦音が響く。彼のような不器用な男性が、一体どんなデートプランを提案してくるのか。大人の女性としての微かな期待が、胸の奥で心地よく跳ねる。

しかし、影山の口から紡がれたのは、美咲の予想を遥かに超える、奇妙で、それでいてあまりにも彼らしい真っ直ぐな言葉だった。

「俺に……あなたの姿にならせてください。そして、あなたの双子の妹として、一緒に街を歩かせてほしいんです」

「……え?」

美咲は、驚きでわずかに目を丸くした。

「先日……あなたがバックヤードで、俺に大人向けのタイトなスカートとヒールを試着させてくれた時。あの身体を強固に縛り上げるような服の張力から、あなたが毎日、女手一つで娘たちを育てる母親として、そして店長として、どれほどの重圧を背負って社会に立っているのかを、少しだけ知りました」

影山は、無骨な大きな手を、自分の胸のあたりでギュッと握りしめた。

「俺は、あなたのことをもっと深く知りたい。あなたがどんな重さと痛みを背負って、その気高い姿勢を保っているのか。それを隣で見ているだけじゃなく、一日中、俺の細胞のすべてで共有したいんです。……だから、今日は俺に、あなたの人生の重さを背負わせてください」

静かなリビングに、大人の男性の低く誠実な声が響いた。

それは、どんな高価なアクセサリーや高級レストランの予約よりも、重く、そして狂おしいほどの愛に満ちた究極の献身だった。自分の最もプライベートな痛みや孤独を、彼が自らの身体を使って引き受けようとしてくれている。

美咲の胸の奥で、じんわりと熱いものが広がっていく。

「……ふふっ。本当に、影山さんは不器用な人ですね。誕生日のデートに、自分と同じ姿になって重圧を味わいたいだなんて」

美咲は、目尻に微かな涙を滲ませながら、艶やかに、そして心底愛おしそうに微笑んだ。

「でも……面白そう。あなたが私の隣で、私の重みを一緒に背負ってくれるなら。こんなに心強い誕生日のプレゼントは他にありません」

美咲が立ち上がり、ネイビーのフレアスカートをふわりと揺らして影山の目の前へと歩み寄った。

「じゃあ、今日一日、あなたは私の双子の妹の『美来(みく)』ね。……よろしくお願いします、美来ちゃん」

「あ、はい……っ」

影山が慌てて立ち上がる。彼の大きな身体と、美咲の華奢な身体が至近距離で向かい合った。

「私の服に触れて。そして、私を守りたいと強く願って」

美咲の静かな声に導かれ、影山は震える分厚い手を伸ばし、美咲のワインレッドのブラウスの袖口にそっと触れた。

彼女が一人で隠してきた痛み。そのすべてを、俺が盾になって引き受ける。限界を突破した強烈な庇護欲のスパークが、影山の脳内でバチリと弾けた。

ドンッ、という低い衝撃音とともに、影山の視界が急激に下がる。太く無骨だった筋肉が華奢な女性の骨格へと収縮し、着ていたマウンテンパーカーとチノパンの硬い感触が、スッと消失した。

代わりに肌を包み込んだのは、とろみのあるワインレッドのブラウスと、腰から足首にかけてしっとりと重力で落ちる、ネイビーのフレアスカートだった。

「すごい……本当に、私と全く同じ」

美咲が、自分と瓜二つの姿になった影山(美来)を見て、感嘆の息を漏らした。

影山は、自分の白く細くなった手を見つめた。視線の高さも、呼吸をするたびに胸郭が動く感覚も、すべてが目の前にいる美咲と完全に同期している。ネイビーのフレアスカートの裏地が、太腿からふくらはぎにかけて滑らかに擦れる。大人の女性が休日に纏う、優雅で落ち着いた重み。

美咲は、目の前の自分自身と同じ姿をした影山をぐるりと見渡した後、少しだけ楽しそうに微笑んだ。

「でも、せっかくの双子デートだもの。完全に同じ服(ペアルック)じゃなくて、少しだけ外した『シミラールック』にしましょうか。美来ちゃんには、こっちを着てもらうわ」

美咲は寝室のクローゼットへ向かい、一組の服をハンガーごと持ってきた。

それは、アイボリーの柔らかなボウタイブラウスと、美咲が今穿いているものと同じシルエットを持つ、ダークブラウンのロングフレアスカートだった。

「スタイルは同じだけど、色が違うの。これなら、一緒に並んで歩いた時にすごく綺麗に見えるはずよ。……さあ、着替えてみて」

影山(美来の姿)は、手渡された服を持って洗面所へと入り、そっと着替えを始めた。

ワインレッドのブラウスを脱ぎ、アイボリーのボウタイブラウスへ腕を通す。シルク特有のひんやりとした滑らかさが素肌に触れ、首元でリボンを結ぶ動作に少し手間取った。そして、ダークブラウンのロングフレアスカート。脚を通し、背中に手を回して見えないファスナーを慎重に引き上げる。

腰骨の上にぴったりと生地が固定された瞬間、足元へ向かってズシリとしたウールの重みが落ちた。男性のズボンにはない、下半身全体を包み込むような広い布の面積。歩くたびに脚の裏側を撫でる裏地の摩擦。大人の女性の服が、どれほど緻密な構造と重力で成り立っているのかを、影山は自分の細胞で直接理解し始めていた。

洗面所から出ると、美咲が玄関の靴箱を開けて待っていた。

「靴は、魔法ではコピーされないみたいだから。……これ、私の予備だけど、今のあなたの足のサイズならぴったりだと思うわ。お誕生日にあなたに選んでもらったものと同じように見えるけど、普段私がお店で履いているものよりも、一センチだけヒールが高いパンプスなの」

美咲がたたきに置いたのは、彼女が履いているものと同じデザインの、キャメル色のパンプスだった。

影山(美来の姿)は、玄関のたたきに置かれたそのキャメル色のパンプスに、恐る恐る足先を滑り込ませた。

普段よりも一センチ高い、細いヒール。

足の甲が強制的に締め付けられ、踵が不自然な高さへと持ち上げられる。大柄な男性であった頃のように、足の裏全体でベタベタと歩くことはもう許されない。つま先から土踏まずにかけての極めて狭い面積だけで、全身の重心をコントロールしなければならない、強烈な緊張感。

「っ……」

影山がバランスを崩しかけた瞬間、美咲がそっと手を伸ばし、彼女(彼)の華奢な肩を支えた。

「背筋を真っ直ぐに伸ばして、骨盤を立てるの。そうすれば、ヒールの重さが自然と正しい姿勢を作ってくれるから」

美咲の優しいアドバイスに従い、影山は腹筋に力を入れ、背筋をスッと伸ばした。その瞬間、ダークブラウンのフレアスカートのドレープが美しく整い、鏡の中には、大人の余裕と気高さを兼ね備えた二人の美しい女性――ワインレッドとアイボリーのシミラールックに身を包んだ、双子の姉妹が並んで立っていた。

「……すごいですね。このヒールの高さが、姿勢を崩すことを許してくれない」

影山(美来の姿)は、パンプスの痛みと緊張感を脚の筋肉でしっかりと受け止めながら、静かに呟いた。

「ええ。それが、大人の女性が外の世界へ出るときの『鎧』よ。……さあ、行きましょうか」

美咲が玄関の扉を押し開ける。

秋の冷たい風が、二人の足元を通り抜けた。影山は、美咲と全く同じ歩幅で、ヒールのカツ、カツという音をアスファルトに響かせながら歩き出した。ネイビーとダークブラウンの二つのフレアスカートが、二人の歩調に合わせて全く同じリズムでバサリ、バサリと波打つ。

男性の無骨な筋肉で彼女を守るのではない。彼女と同じ痛みと重さを背負い、同じ気高さを纏って、双子の妹として隣を歩く。

大人の街へ向かう二人の女性の足取りには、これから始まる未知のショッピングデートへの期待と、衣服の重みがもたらす心地よい緊張感が、確かに満ちていた。

秋の澄んだ空気が流れる大通りから、重厚なガラス扉を押し開けて店内へと足を踏み入れた瞬間、空調の効いたひんやりとした空気が肌を撫でた。

大人の女性向けの洗練されたアイテムが並ぶ、ハイエンドなセレクトショップ。間接照明が上質なファブリックの陰影を柔らかく浮かび上がらせており、静かに流れるクラシック音楽が、足を踏み入れる者に自然と背筋を伸ばすような緊張感を与えてくる。

「いらっしゃいませ。……あら、もしかして、双子のお客様ですか?」

フロアの中央でトルソーの整理をしていた上品な女性店員が、並んで歩いてきた二人の顔を交互に見比べ、小さく感嘆の声を漏らした。

美咲は、自分が着ているワインレッドのブラウスと、影山が着ているアイボリーのボウタイブラウスの襟元を軽く指で示し、大人の女性らしい余裕のある微笑みを浮かべた。

「ええ。今日はこの子の誕生日なので、少しだけ背伸びをした特別なプレゼントを選んであげようと思って」

「まあ、お誕生日おめでとうございます。お二人ともシミラールックで、お顔立ちも本当によく似ていらして、とても素敵です。ぜひ、ごゆっくりご覧くださいね」

店員が静かに一礼して奥へ下がると、影山(美来の姿)は、ダークブラウンのフレアスカートの裾をほんの少しだけ握りしめ、小さく安堵の息を吐き出した。自分が今、美咲と全く同じ顔をした「双子の妹」として、この洗練された社会の空間に完全に溶け込んでいる。男性であった頃の無骨な自分が入り込む余地など一切ない、完成された女性のテリトリー。

「……すごく綺麗で、落ち着いたお店ですね」

影山が声を落として呟くと、美咲は店内をゆっくりと見渡しながら頷いた。

「ええ。素材の質がとても良いブランドなんです。……美来ちゃんには、普段使いの服じゃなくて、私がいつもお店に立つ時や、誰かの前に出る時に着ているのと同じ『鎧』を、着てみてほしくて」

美咲は、整然と並べられたラックの中から、一着の服をハンガーごと引き出した。

それは、チャコールグレーの上質なウールブレンド生地で仕立てられた、タイトスカートとノーカラージャケットのセットアップだった。装飾を極限まで削ぎ落とし、ただ布の落ち感とカッティングの美しさだけで着る者のシルエットを際立たせる、ごまかしのきかない服。

「私と同じものを、私も着るから。……隣の試着室へ入りましょう」

美咲は、自分用の全く同じセットアップを手にして、影山を奥のフィッティングルームへと促した。

重厚な木製のドアを閉め、一人きりの密室空間となる。

影山は、試着室の壁に掛けられた鏡に映る自分の姿――美咲の顔――をじっと見つめた。そして、着ていたアイボリーのボウタイブラウスと、ダークブラウンのロングフレアスカートを丁寧に脱ぎ、ハンガーに掛ける。

下着姿になった華奢な身体に、少しだけ冷たい空調の風が触れる。影山は、手渡されたチャコールグレーのタイトスカートを手に取り、両脚を通した。

腰骨のあたりで、見えないサイドファスナーを慎重に引き上げる。

「っ……」

ファスナーが上端まで上がり、フックを留めた瞬間。影山の口から、微かな息の詰まる音が漏れた。

先ほどまで穿いていたフレアスカート特有の、脚の周りをふんわりと包み込む優しい空間はどこにもない。厚手でストレッチ性の全くないウールブレンド生地が、腰から太腿、そして膝のすぐ下まで、まるで硬い筒のように隙間なく密着したのだ。

骨盤が、強固な繊維の張力によって垂直にガッチリとロックされる。腹部からヒップにかけてのラインが少しの弛みも許されず、強制的に正しい位置へと固定された。

さらに、ノーカラージャケットに腕を通す。肩幅はピッタリと計算されており、腕を前に出そうとすると背中の生地がピンと張り、無意識に背筋を伸ばし、胸を張る姿勢をとらざるを得なくなる。

影山は、試着室という狭い空間の中で、壁の鏡に向かって一歩を踏み出そうとした。

しかし、足元に重心を移動させた瞬間、タイトスカートの横糸が太腿の筋肉を容赦なく絞り上げ、前方への軌道を強制的に遮断した。大股で歩くことなど絶対に不可能だ。歩幅は強制的に三十センチ以下の狭い範囲へとデッドロックされ、両膝が自然と内側へ寄り、擦れ合うようにして脚を運ばなければならない。

足元には、美咲の予備として借りている、普段よりも一センチ高いキャメル色のパンプス。

極端に制限された歩幅と、つま先へ点荷重を強いるヒールの鋭い傾斜。その二つが組み合わさった時、身体の重心はもはやグラグラと左右に逃げることを許されず、脳天から足先までを一本の硬質なガラスの鉛直線で貫いたかのような、強烈な姿勢の補正が完了した。

鏡の中には、厳しい社会の最前線に立つ、凛とした大人の女性が立っていた。

少しの隙もなく、自らを律する気高いオーラ。しかしその内側では、腹部を締め付ける硬い生地と、歩幅を奪う繊維の張力、そして土踏まずに鋭く食い込むヒールの痛みが、影山の神経をギリギリと削り取っていた。

息が浅くなる。足先から腰にかけて、逃げ場のない鈍い疲労感が早くも蓄積し始めているのが分かった。

(……美咲さんは、毎日)

影山は、チャコールグレーの硬いウール生地を、自分の細い指先でそっと握りしめた。

彼女は、この息が詰まるような拘束感と、足元から突き上げてくるような痛みに耐えながら、アパレル店長として店頭に立ち続けている。女手一つで二人の娘の将来を背負い、誰にも弱音を吐くことなく、この「鎧」を纏って社会という戦場で戦い続けてきたのだ。

自分がカメラのレンズ越しに安全圏から眺めていた女性たちの姿の裏側には、これほどまでに生々しく、重く、痛切な現実が存在していたのか。彼女たちが美しく気高くあろうとするために、どれほどの我慢と血の滲むような努力がこの布の裏側に隠されているのか。

それが、他人の借り物の知識ではなく、自分自身の痛覚と息苦しさとなって、影山の細胞の奥深くまで突き刺さってくる。

「……美咲さん。あなたは、こんな重さを一人で背負って……」

影山の声が、試着室の静かな空間に微かに震えて溶けた。彼女の気高さの裏にある孤独と痛みが、彼の中にある大人の男性としての強烈な自己嫌悪と、それ以上の深い敬意を同時に引き出していた。

『美来ちゃん、着替え終わったかしら?』

試着室の外から、美咲の落ち着いた声が掛かった。

「あ……はい。今、開けます」

影山は、小さく深呼吸をして、拘束された骨盤と背筋をさらにピンと張り詰めた。彼女が毎日背負っているこの気高い鎧の形を、自分の無骨な中身のせいで無様に崩してしまうことだけは絶対に許されなかった。

ヒールの痛みを足首の筋肉で必死に抑え込み、影山はゆっくりと試着室の木製ドアを押し開けた。

カツ、という涼やかなヒールの音とともに一歩を踏み出す。

そこには、フロアに置かれた大きな姿見の前に立つ、本物の美咲の姿があった。影山が着ているのと同じ、チャコールグレーの上質なセットアップ。全く同じ服、全く同じ顔。しかし、美咲が纏うそのシルエットは、影山とは比べ物にならないほど自然で、しなやかで、圧倒的な気品に満ちていた。

鏡の中に、全く同じ顔、全く同じチャコールグレーの上質なセットアップを着た二人の大人の女性が並んでいた。

「……どうかしら、美来ちゃん」

美咲が、姿見の前でゆっくりと振り返り、影山に向かって柔らかく微笑んだ。

美咲の問いかけに、影山は自分の姿と、隣に立つ本物の美咲の姿を交互に見比べた。

美咲の着こなしは、圧倒的だった。ストレッチ性のない硬いウール生地のタイトスカートに骨盤を包まれながらも、彼女の重心は完璧にコントロールされている。足元のヒールから脳天までが、一本のしなやかなガラスの糸で吊られているように自然で、一切の力みがない。

本当にヒールを履きこなす彼女にとって、そこに痛みなど存在しない。ただ、自立した大人の女性としての気高さを支える確固たる土台として、美しく機能しているのだ。

対して自分はどうか。

腰から膝下までを密着させるチャコールグレーのウール生地が歩幅を完全に奪い、つま先に突き刺さるヒールの鋭い傾斜が、慣れない足首とふくらはぎの筋肉をギリギリと容赦なく絞り上げている。女性の靴を履きこなすための筋肉も、正しい重心移動の歩き方も知らない無骨な男性の身体では、ただ立っているだけで脚の筋肉が激しい疲労の悲鳴を上げ、重心がグラグラと左右に揺れてしまう。

(俺の不様な立ち姿のせいで、美咲さんのこの気高い服を、汚すわけにはいかない)

限界を突破した庇護欲が、影山の意識を強く引き締める。

慣れない筋肉の震えを気力で堪え、腹筋に力を込め、骨盤を強引に引き上げる。タイトスカートの横糸がピシッと限界まで張り詰め、チャコールグレーの生地が影山の身体にシワ一つないIラインのシルエットを作り出した。脚の筋肉の過酷な疲労を完全に押さえ込み、美咲の隣で、ただ真っ直ぐに、気高く立とうと耐える。

その不器用なほどに張り詰めた姿勢を、隣に立つ美咲は静かに見つめていた。

アパレル店長としての彼女のプロフェッショナルな観測眼は、影山が今、どれほどの筋肉の疲労と重心の補正に苦しんでいるかを完璧に見抜いていた。

ヒールを履いて足が痛むのは、支える筋肉が弱っているか、歩き方が間違っているからだ。美咲のように完全に履きこなしている女性にとって、ヒールは痛みを伴うものではない。けれど、大柄な男性の骨格で生きてきた彼が、女性の靴を履くための筋肉もコツも持たないまま、見よう見まねでこの普段よりも一センチ高い傾斜に耐え、強引に姿勢を保とうとするのがどれほど過酷なことか。

それなのに、彼は一言も「辛い」とは言わない。

ただ、隣に立つ自分の美しさを汚さないように。自分が社会で背負っている『女手一つで娘を育てる母親であり、店長としての自立と重圧』を、たった一人で理解し、共有しようと、慣れない服の拘束と筋肉の疲労に必死に耐え抜いているのだ。

美咲の胸の奥で、静かに、けれど圧倒的な熱を持った何かが弾けた。

「とてもよくお似合いですよ、お二人とも。本当に、鏡を合わせているかのようにそっくりで、息を呑むほど素敵です」

フロアを歩いていた先ほどの店員が、感嘆の声を上げて近づいてきた。

「ええ。……双子の妹の、美来なんです」

美咲は、咄嗟にそう答えていた。

隣で息を詰まらせている彼を守るため。そして、二人だけのこの奇妙で、けれど愛おしい共犯関係を、この洗練された社会の空間で成立させるための、とっさの嘘。

「美来様ですね。お姉様と同じセットアップ、抜群のプロポーションで完璧に着こなしていらっしゃいます。お背が高いので、ジャケットのラインもとても綺麗に出ていますよ」

店員の言葉に、影山(美来の姿)はビクッと肩を揺らし、チャコールグレーのタイトスカートの裾を指先で微かに握りしめた。

「あ、ありがとうございます……」

少し高めの女性の声帯から絞り出されたその声は、緊張で微かに震えていたが、それは店員には「少し人見知りな妹」のようにしか映らなかっただろう。

「これ、二着ともいただきます」

美咲が微笑みながら店員にクレジットカードを渡すと、店員は「ありがとうございます」と一礼してレジへと向かった。

再び、鏡の前に二人きりになる。

美咲は、隣で必死に背筋を伸ばし続けている影山の方へ向き直った。

「……美来ちゃん」

「はい」

「慣れないヒールで、足の筋肉が辛いでしょ。そして、苦しいでしょ、そのスカート」

美咲の静かな声に、影山はわずかに目を見開いた。

「……いえ。大丈夫、です」

必死に強がる影山。しかし、美咲はゆっくりと手を伸ばし、影山の強張った指先を、自分の両手でそっと包み込んだ。

「無理しないで。……あなたが、私の見えない重圧を、その身体で引き受けて、必死に立とうとしてくれていること。私には、痛いほど伝わっていますから」

自分のすべてを見透かしたような、深く、温かい美咲の瞳。

影山の中で、張り詰めていた筋肉の緊張が、ふっと一瞬だけ緩んだ。タイトスカートの生地の張りが少しだけ弱まり、ヒールの点荷重に耐えていた足首から力が抜ける。

その瞬間、バランスを崩しかけた影山の華奢な身体を、美咲がしっかりと支えた。

全く同じ顔、全く同じチャコールグレーのセットアップを着た二人が、互いに支え合うようにして立つ。

「……美咲さん。俺は、勘違いしていました。あなたが毎日、この靴の痛みを堪えて戦っているんだって」

影山の声が、深い敬意で微かに震えていた。

「でも、違うんですね。あなたは、俺が立っているだけでも筋肉が悲鳴を上げるようなこのシビアな靴や服を、自らの意志と力で完璧に使いこなしている。誰に頼ることもなく、ごまかしのきかない社会の最前線で、気高く戦い続けている。……俺は、そんなあなたの本当の強さに気づかず、ただレンズ越しに……」

美咲は、首を横に振った。

「ヒールを履きこなすのと同じように、一人で立つことには慣れていました。でも……一人じゃないって、今、あなたが教えてくれました」

美咲の指先から伝わる熱が、チャコールグレーの冷たいウール生地越しに、影山の細胞の奥深くまで浸透していく。

「私の孤独な重圧を、一緒に背負おうとしてくれる人がいる。そのことが、どれほど私を救ってくれているか」

彼が自分と同じ姿になり、慣れない筋肉の疲労を共有してくれたこと。それは、いかなる言葉よりも強烈で、誠実な愛情の証明だった。美咲の胸の中で、彼に対する感情が「信頼できる不器用な友人」から、自分のすべてを預けられる「絶対的な愛」へと、完全に昇華した瞬間だった。

「……このまま、少しだけ外を歩きませんか。着替える前に、もう少しだけ……あなたとお話ししたいんです」

「外を、ですか?」

「ええ。実は今日、この近くのホテルに部屋をとってあるんです。この部屋、ルームチャージで予約したので、何人泊まっても料金は同じなんですよ。だから、あそこでなら、誰の目も気にせずに……」

美咲は、影山を促してブティックのフロアを後にした。

タイトなウールブレンドの生地が、二人の歩調に合わせて、シャリッ、シャリッと静かで気高い衣擦れの音を響かせていた。

洗練されたホテルの廊下を進み、客室の重厚な木製ドアが静かに閉まる。廊下の微かなざわめきが完全に遮断され、外部の視線が一切届かない完全な密室には、空調の静かな音だけが残った。

ふかふかの絨毯が敷かれた落ち着いた空間に、チャコールグレーの上質なセットアップを着た二人の「若本美咲」が立っている。

「パンプス、脱いでいいですよ。慣れない靴で、筋肉が悲鳴を上げていたでしょうから」

美咲の言葉に、影山は小さく息を吐きながらヒールを脱ぎ、備え付けのスリッパへと足を滑り込ませた。足の甲を締め付けていた拘束と、点荷重によるふくらはぎの痛みがふっと和らぐ。しかし、下半身を包むタイトスカートの硬い生地は、依然として骨盤を垂直にロックし、大人の女性としての気高い緊張感を背筋に強要し続けていた。

窓際のソファに、二人が向かい合うようにして腰を下ろす。

「……影山さん」

美咲の声が、静寂の部屋に柔らかく響く。

「はい」

影山は、緊張で背筋をピンと張り詰めたまま答えた。ヒールの痛みから解放されたとはいえ、美咲の気高さを汚すまいと、彼は姿勢を崩すことはしなかった。

美咲は、そんな彼の不器用で誠実な座り姿を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。

「私ね。前の夫とは、お互いの気持ちがすれ違って、結局失敗してしまったから……。それ以来、誰かの隣に立つのが、また誰かを愛するのが、ずっと怖かったんです」

美咲の視線が、影山が着ているチャコールグレーのノーカラージャケットの襟元に落ちた。

「女手一つで娘たちを育てて、店を守って。……少しでも隙を見せたら崩れてしまいそうで、ずっとこの硬い服を鎧にして、一人で立っていようと決めていたの」

「美咲さん……」

「でも」

美咲は、身を乗り出し、自分の姿をした彼の細い手をそっと握った。

「あなたが、私の着ている服の痛みを分かってくれた。私が見えないところで背負っていた孤独を、自分の慣れない筋肉を震わせてまで、一緒に引き受けようとしてくれた。……見た目は全く同じ『私』の姿をしているのに。その中身には、誰よりも不器用で、真っ直ぐな『あなた』がいる」

美咲の指先から伝わる温もりが、チャコールグレーの冷たいウール生地越しに、影山の細胞の奥深くまで浸透していく。

「同じ顔をしていても、中身が違う『あなた』だから。……私、もう一度、恋ができると思ったんです」

静寂に包まれた密室の中。タイトなウール生地の微かな摩擦音だけが、彼女の究極に純粋でエモーショナルな告白を包み込んでいた。

影山の胸の奥で、長年彼を縛り付けていた過去の罪悪感と強張りが、静かに溶けていくのを感じた。

大人の男として、彼女の過去のトラウマも、今の重圧も、すべてを受け止めて守り抜きたい。その強烈な思いが、女性の華奢な声帯を震わせる。

「……俺みたいな、不完全で無骨な男ですが」

影山は、美咲に握られた手をそっと握り返し、真っ直ぐに彼女の目を見つめ返した。

「あなたの背負っている鎧の重さを、一緒に背負わせてください。……もう二度と、あなたを一人で孤独に戦わせたりはしません」

言葉による大仰な愛の誓いは必要なかった。互いの服の重みを共有し、痛みを細胞レベルで理解し合ったという事実が、いかなる言葉よりも強烈なプロポーズとして二人の魂を完全に結びつけていた。

美咲の瞳が、嬉しそうに、そして深く安堵したように細められる。

「……ありがとう。よろしくお願いしますね、影山さん」

美咲は、ふわりと微笑んだ。そして、ソファに並んで座る影山の頬へそっと手を添え、目を閉じてゆっくりと顔を近づけていった。

影山もまた、目を閉じ、彼女の唇を受け入れようと身を固くした。

しかし。

あと数センチという距離で、美咲の動きがピタリと止まった。影山が恐る恐る目を開けると、美咲も目を開け、至近距離で「自分と全く同じ顔」を見つめたまま、不思議そうに首を傾げていた。

「……ふふっ」

美咲が、堪えきれずに小さな笑い声をこぼし、ゆっくりと顔を離した。

「ごめんなさい。……やっぱり、自分自身とキスをするのは、なんだか変な感じがしてしまって。……これは、影山さんが元の姿に戻った時への楽しみに、取っておきましょうか」

美咲が少しだけ残念そうに、悪戯っぽく微笑む。

「元の、姿……でも俺、この状態からどうやって戻ればいいのか……」

影山が困惑したように自分の細い女性の手を見つめると、美咲は思い出したように小さく手を打った。

「そういえばこの間、娘の美波が、お店の裏で見つけた変なノートを解読したって言っていたんです。……魔法の解き方、でしたっけ」

美咲は、影山の前に少しだけ身を乗り出した。

「対象である私本人の耳たぶに触れて、絶対的な安堵の息を吐き出すこと。……そうすれば、呪縛は解けるらしいですよ」

「耳たぶに、触れて……」

影山は、ごくりと息を呑んだ。そして、美咲の言葉に導かれるように、震える細い指先をそっと伸ばし、目の前にいる本物の美咲の柔らかな耳たぶへ微かに触れた。

確かな体温。そして、彼女が自分のような不完全な男を完全に受け入れてくれたという、揺るぎない事実。

「……俺を、見つけてくれて。本当にありがとうございます」

影山は、心の底からの深い安堵とともに、長く、熱い息を吐き出した。

その瞬間だった。

ドンッ、という低い衝撃音が密室に響き、視界が急激に上空へと引き上げられた。華奢だった骨格が音もなく広がり、太く無骨な筋肉が手足に満ちていく。チャコールグレーのセットアップの拘束感が一瞬にして消失し、厚手のマウンテンパーカーとチノパンの硬い感触が、太腿や背中へと戻ってきた。

影山は、荒い息を吐きながら自分の分厚くごつごつとした手を見つめた。

ソファの上には、大柄な大人の男性としての、本来の影山隼人が座っていた。

「……お帰りなさい、影山さん」

美咲が、少しだけ見上げるような角度から、艶やかに微笑んだ。

影山は、大きく息を吸い込んだ。タイトスカートとヒールの激痛から解放され、本来の男性の骨格に戻った今、彼の中にある大人の男としての理性が、限界まで高まっていた。

「……今度は、俺から」

影山の分厚い手が伸び、美咲の頬を熱く包み込んだ。美咲もまた、逃げることなく静かに目を閉じた。

重なり合う唇。

口紅のしっとりとした潤いと、唇がぴったりと重なり合う密着感が、無骨な影山の唇を熱く塞いでいく。

実は、四十三歳の影山にとって、これが人生で初めてのキスだった。ずっと日陰を歩き、カメラのレンズ越しにしか女性を見られなかった彼に、真っ当な恋愛の経験などない。
しかし、大人としての膨大な知識だけは頭の中に詰まっていた。それが今、大好きな女性を目の前にして、全身を焦がすような愛しさと混ざり合い、彼の不器用な理性を完全に溶かしていく。

影山は、美咲の柔らかな下唇を小さく吸い上げ、戸惑うように僅かに開かれた彼女の唇の隙間へ、熱を持った舌先を滑り込ませた。滑らかな粘膜をなぞり、互いの呼吸を深く絡めとっていく。大柄な男性の骨格と、華奢な大人の女性の骨格。質量の全く違う二つの身体が、互いの体温を確かめ合うように密着する。

「……んっ」

美咲の喉から微かな甘い吐息が漏れ、チャコールグレーのタイトスカートが影山のチノパンに擦れて、シャリッと艶やかな衣擦れの音を立てた。

「……美咲、さん……」

唇を重ねたまま、影山の低い声が熱く震えて漏れ出す。最初は遠慮がちだったその呼び方が、粘膜が深く触れ合い、彼女の体温を細胞レベルで感じるうちに、抑えきれない独占欲へと変わっていく。

「……美咲……」

知識だけのファーストキスは、愛する女性のすべてを自分の中に刻み込もうとする、濃密で甘やかな大人のキスへと完全に昇華していた。プラトニックな境界線を踏み越え、互いの魂の形を直接撫で回すような熱い時間が、静寂の密室を支配する。

やがて、ゆっくりと唇が離れる。美咲は、少しだけ頬を染めながら、潤んだ瞳で影山を見つめ返した。

「……でも、私たちがこれから一緒に生きていくためには、もう一つだけ、絶対に乗り越えなければならない壁があるんです」

「壁、ですか」

影山の太い声に、美咲はこくりと頷いた。

「ええ。娘たちのことです。美波と咲が、影山さんを新しい家族として、父親として受け入れてくれるかどうか」

その言葉に、影山の肩がビクッと強張った。自分が彼女たちの父親になる。その責任の重さと、年頃の娘たちが自分のような過去のある男をすんなりと受け入れてくれるのかという強烈な不安が、一気に押し寄せてくる。

「そこで、美来ちゃん」

美咲が、突然「双子の妹」の名前を呼んだ。

「えっ?」

「影山さんに、お願いがあります。……もう一度、私の姿になって、このまま家に帰って、娘たちと違和感なく過ごせるかテストしてきてくれませんか?」

「なっ……!?」

影山の喉から、裏返ったような声が漏れた。

「お、俺が、もう一度あの姿になって……あの娘たちのいる家へ帰るんですか!?」

「ええ。美波も咲も、あなたが私の姿で家にいれば、きっと普段通りの顔を見せてくれるはずです。影山さん自身も、あの家で『若本家の空気』を体験できるでしょう?
私は今日、このホテルの部屋に泊まりますから。……もし何かあったら、迷わずこの部屋に来てくださいね。先ほども言った通り、ここなら4人で泊まっても料金は変わりませんから」

逃げ場のない、究極のミッション。

しかし、影山は目の前に座る愛する女性の顔を見て、もう後退りすることはできなかった。彼女が自分を信頼し、最も大切な家族の領域へと送り出そうとしてくれているのだ。それに、あの痛みを伴う気高い鎧を、もう一度自分が引き受ける覚悟が彼にはあった。

「……分かりました。俺が、しっかりと、お預かりします」

影山は、立ち上がり、美咲の着ているチャコールグレーのノーカラージャケットの肩口へ、分厚い手をそっと添えた。

彼女のすべてを、そして娘たちを、俺が盾になって守り抜く。

限界を突破した強烈な庇護欲のスパークが、再びバチリと弾けた。

ドンッ、という衝撃音。太い筋肉が収縮し、再びチャコールグレーのタイトスカートが骨盤を強固にロックする。足元には、脱ぎ捨てたはずのキャメル色のパンプスが、再び鋭い点荷重の痛みを持って復活していた。

しかし、今の影山にもう戸惑いや恐怖は一切なかった。ヒールの痛みを足首の筋肉で完全に制圧し、影山(美咲の姿)は腹筋に力を込めて背筋をピンと伸ばす。

顔を上げ、ホテルの姿見に映る自分自身――『若本美咲』の姿を見据える。そこには、初めてこの服を着た時の怯えたような表情は微塵もない。愛する女性と全く同じ顔つきで、自信に満ち溢れた力強い瞳がこちらを見返していた。

影山(美咲の姿)は、鏡に向かって様々な表情を試すように、少しだけ小首を傾げたり、口角を柔らかく上げてみたりした。そして、傍らで見守っている本物の美咲の方へ振り返り、艶やかな微笑みを浮かべて言った。

「……影山さん、好きです」

自分の声帯から紡がれた、美咲そっくりの声と表情でのストレートな愛の告白。

それを聞いた美咲は、少しだけ目を丸くした後、たまらなく愛おしそうにくすりと笑った。本来の影山の無骨で不器用な性格のままでは、そんな風に露骨で甘い愛の告白など絶対に口にできないからだ。彼が自分の姿という『鎧』を借りているからこそ引き出された、嘘のない彼自身の本音。それが、美咲の胸の奥を甘く満たしていく。

彼女が毎日、この息が詰まるような気高い鎧を纏って、社会の荒波からたった一人で娘たちを守り抜いてきたのだ。今度は、俺がこの身体で、彼女の最も大切な宝物である娘たちに、最高の愛情を注ぐ番だ。娘たちを愛おしむ母親としての圧倒的な包容力と、「双子の妹・美来」という役を完璧にやり切るという揺るぎない覚悟が、シワ一つないタイトスカートの美しいシルエットに満ちていた。

「……完璧です、美来ちゃん」

美咲は満足そうに微笑むと、自分の傍らに置いてあった黒のレザーバッグを取り上げ、影山に手渡した。さらに、バッグの中から自分のスマートフォンを取り出し、これも影山の華奢な手の中へと握らせた。

「私の代わりに、お母さんをしてきてください。これは私のスマホ。何かあったら困るから……影山さんのスマホを私に預けて。パスコードも教えてくださいね」

「あっ、ここからは私が美来ちゃんね。美咲お姉ちゃん、頑張って」

美咲が悪戯っぽくウインクをして「妹」としての役を演じ始めると、影山は少しだけ照れたように微笑み返した。

「あ、はい」

影山(美咲の姿)は、チノパンから転送され、セットアップのジャケットのポケットに入っていた無骨なデザインの自分のスマートフォンを取り出し、美咲へと手渡した。

「パスコードは、……こちらの番号です」

「ふふっ。分かりました。明日の朝、私が家に帰るまで。私の大切な娘たちのこと、よろしくお願いしますね」

物理的にも、完全に美咲の代替として仕上げられた影山。彼は美咲の黒いレザーバッグを華奢な腕に掛けた。

先ほどまでは、慣れないヒールの上でグラグラと揺れていた重心。しかし今は違った。愛する女性と全く同じ姿になり、彼女が社会で戦うための気高い鎧を今度は自分が纏い、彼女の家族を守り抜く。その強烈な誇りと決意が、ブレのない一本の鉛直線を彼の背筋に貫いていた。

足首の筋肉でヒールの痛みを完全に制圧し、影山(美咲の姿)は美来を演じる美咲に向かって、大人の女性としての余裕と気高さを持った微笑みを向けた。

「それじゃあ、美来……行くわね」

「ええ。行ってらっしゃい、お姉ちゃん」

互いの役割を交換した不思議で愛おしい挨拶を交わし、ホテルの客室の重厚なドアが開く。

一人はこの部屋に残り、もう一人は次なる試練の待つ家へと、それぞれの重みを纏って歩き出していく。

洗練されたホテルの廊下。チャコールグレーのタイトスカートの横糸がピシッと張り、シャリッ、シャリッと静かで力強い衣擦れの音が響く。大股で歩くことの許されない狭い歩幅だが、そこにはもう戸惑いは一切ない。カツ、カツというヒールの鋭い点荷重の音は、大切な存在を守り抜く大人の女性の堂々とした足取りそのものだった。

影山は、胸を張り、颯爽と歩きながら美咲のスマートフォンの画面を迷いなくタップした。登録されている自宅への発信ボタンを押す。

数回のコールの後、相手が電話に出た。

『あ、お母さん? どうしたの?』

スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、微塵も疑う様子がない、普段通りの美波の少し気怠げな声だった。母親からの電話だと完全に思い込んでいるその反応に、影山の胸に一瞬だけ罪悪感と緊張が走る。しかし、すぐに背筋の張力でそれを押さえ込んだ。

「……ええ、お母さんよ。今から家に帰るから。……うん、少し話したいこともあるし。待っててね」

『わかったー。気をつけてね』

全く疑われることなく、あっさりと通話が切れる。少し高めの女性の声帯から紡がれるその響きには、微塵の震えもなかった。そこにあるのは、完全に「若本美咲」の毅然とした包容力と、大人の余裕だった。

秋の夜の街へ。完全に彼女の気高さを引き継いだ影山は、次なる試練の待つ家へ向かって、一切の迷いなく歩みを進めていく。

(つづく)


あとがき

読んでいただきありがとうございます。夏目彩香です。Saineによる作品はいかがでしたか。

タイトなウール生地のセットアップと細く高いヒール。女手一つで娘を育てる母親であり、店長として立つ美咲の「気高い鎧」の重圧を、影山は激しい筋肉の悲鳴とともに細胞レベルで引き受けました。言葉による告白よりも雄弁な、痛みの共有という究極の共感。過去のトラウマを越えて再び恋に踏み出す美咲の思いと、自分と同じ顔へのキスを躊躇う静かな密室の儀式。元の無骨な姿に戻ってからの人生初めての濃厚なキスと、再びあの痛みを引き受けて「家族の試練」へと向かう影山の覚悟の余韻を、皆様にもご一緒に感じていただけたなら幸いです。

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