やっぱりスカート #24 マキシ

作:夏目彩香 by Saine

※この小説は夏目彩香風の小説が書けるように独自に調整したAIエンジン「Saine」(通称)を執筆に用いています。



秋の深まりを告げる乾いた風が、マンションの立ち並ぶ路地を吹き抜けていく。

午後二時。少し傾き始めた太陽が、アスファルトの上に建物の長い影を落としていた。その影と日向の境界線を縫うようにして、私――飯沼航(いいぬまわたる)の意識を宿した池田心優(いけだみゆう)の身体は、ノートパソコンを入れたキャンバス地のトートバッグを肩に掛け、ゆっくりと歩みを進めていた。

「私」。
頭の中で、あるいは口に出して自分のことをそう呼ぶことに、今の私はもう何の抵抗も感じなくなっていた。いつの間にか、息をするのと同じくらい自然に「私」という一人称がこの身体に馴染んでいる。
そしてそれは、本来の自分の大きな身体で留守番をしている彼女――中身が心優である航も同じだった。彼もまた、ごく自然に自分のことを「僕」と呼び、男性としての重圧を引き受けてくれている。
お互いに同じだった。互いの人生と役割を背負い合ううちに、だんだんと自分たちの境界線が変わり、ゆっくりと、しかし確実に「完全なる入れ替わり」が進行しているのだ。

向かっているのは、自宅から歩いて十分ほどの距離にある、仕事や読書のためのスペースが広く取られた近所のカフェだ。今日は在宅勤務の日だが、午後の数時間だけ気分を変えて、外でリモートワークの残りをこなそうと思い立った。

足元では、キャンバス地のスニーカーの平らなラバーソールが、アスファルトを規則正しいリズムで捉えている。キュッ、というかすかな摩擦音。ヒールのあるパンプスを履いている時のように、足の甲を強制的に締め付けられ、重心をピンポイントでコントロールしなければならない過酷な緊張感はない。スニーカーの靴紐が足全体を程よくホールドし、足の裏全体でしっかりと地面を踏みしめることができる。

しかし、足元がカジュアルで気取らないスニーカーであっても、歩幅はかつて大柄な男性であった頃のような大股にはならない。

一歩を踏み出すたびに、足首まですっぽりと覆い隠す、たっぷりと生地が使われたチャコールグレーのマキシスカートが、バサリと大きく重たい波を作っていたからだ。

落ち感のある滑らかなレーヨンとコットンの混紡生地。タイトスカートのように膝周りを拘束するわけではないが、その圧倒的な布の長さと質量が、脚の動きに独特のリズムを強制する。歩くたびに、重みのある生地がふくらはぎから足首にかけてしっとりと滑り落ち、また次の瞬間には空気を含んで柔らかく膨らむ。

脚のラインを一切外へ見せない、極端に長いシルエット。

外の世界からの視線という暴力に晒される恐怖を細胞レベルで知ってしまった今の私にとって、このマキシスカートがもたらす「包容力」は、何にも代えがたい圧倒的な安心感だった。布の総量が、そのまま私を外の冷たい空気と無遠慮な視線から守る、強固で柔らかいシェルターとして機能している。

そして、そのマキシスカートの安心感とは対照的に、上半身を包み込んでいるのは、ボーイッシュで少し厚みのあるネイビーのフーディー(パーカー)だった。

女性用のコンパクトなものではなく、あえて少しゆったりとしたオーバーサイズを選んだ。裏起毛の肉厚なスウェット生地が、華奢な肩のラインをすっぽりと隠し、背中から腰回りにかけてズシリとした重みを与えている。歩くたびに、首の後ろにある大きなフードが微かに揺れ、その重力が首筋から鎖骨へと伝わってくる。

このフーディーの無骨な厚みとカジュアルな重さは、私の中の奥底にまだ残っている「本来の自分の男性性」を、ほんの少しだけ呼び起こすような感覚があった。

以前の私なら、女性の身体でこうしたボーイッシュな服を着ることに、どこか「男のボロが出てしまうのではないか」という焦りや不安を覚えていたかもしれない。女性として完璧に振る舞わなければならないというプレッシャーから、無理にフェミニンな服ばかりを選ぼうとしていた時期もあった。

けれど今は違う。

上半身のフーディーの無骨な重みと、下半身のマキシスカートのしなやかで女性らしい揺れ。男性の残滓と女性の包容力が、極端なコントラストを描きながらも、この一つの華奢な身体の上で全く違和感なく混ざり合っている。

男性性を無理に消し去るのではなく、女性ファッションの一部である「ミックスコーデ」として、見事に調和させて着こなしている。

肩に掛かるトートバッグの重みを感じながら、私は深く息を吸い込んだ。冷たい秋の空気が、肺の奥深くまで満ちていく。

身体の性別と、心の性別の境界線。かつては激しく反発し、葛藤を生んでいたその境界線が、今は完全に熱を失い、静かに溶け合っている。フーディーの温かさとマキシスカートの重みが、私の魂の究極の安定を、皮膚の表面から直接証明してくれていた。

やがて、目的のカフェが見えてきた。

大きなガラス張りのエントランス。店内には、コーヒーの深い焙煎の香りと、微かなジャズのBGMが流れている。公的な社会の空間でありながら、それぞれが自分の作業に没頭している、ほどよく私的(プライベート)な空間。

重い木製のドアを押し開け、店内へと足を踏み入れる。

「いらっしゃいませ」

カウンター越しの店員の声に軽く会釈を返し、アイスのカフェラテを注文する。

商品を受け取り、窓際から少し離れた、落ち着いた奥のテーブル席へと向かった。キャンバススニーカーの足音が、店内の静かなざわめきの中に溶け込んでいく。

椅子を引き、腰を下ろす。

その動作の瞬間、マキシスカートの真価が発揮された。

たっぷりと使われたチャコールグレーのレーヨンコットン生地が、座面に腰が着地するのと同時に、脚全体をすっぽりと覆い隠したまま、椅子の周りに豊かな波を作って落ちる。タイトスカートのように膝をぴたりと揃えて緊張を保つ必要はない。マキシ丈の圧倒的な布面積が、脚のラインを完全に隠し、外の世界の視線を完璧に遮断してくれている。

だからこそ、私はこの公的なカフェという空間にいながら、カフェのテーブルの下で、ほんの少しだけ脚を崩し、極限までリラックスした姿勢をとることができた。

トートバッグからノートパソコンを取り出し、テーブルの上へ広げる。

薄いピンクのネイルが施された指先で、タッチパッドに触れた。コンサルタントという機密情報を扱う職業柄、カフェのような公的な空間でクライアントの重要なデータを開くことはできない。だからこそ、ここで処理するのは、経費の精算やスケジュールの整理といった、セキュリティに関係のない単純な事務作業だけだ。

自宅の作業部屋では今頃、本来のこの身体の持ち主である心優(中身は航)が、外部の目に触れられない重要なシステム構築の業務に集中してくれているはずだ。互いの人生を完全に背負い合うと決めたからこそ、私が外でできる雑務を終わらせて、彼(彼女)の負担を少しでも減らしておきたい。

上半身のフーディーがもたらす無骨な安心感と、下半身のマキシスカートが守る絶対的なプライベート空間。その二つの重みに守られながら、私はキーボードへ指を滑らせ、予定していた雑務を三十分ほどで迅速に終わらせた。

「ふぅ……」

ノートパソコンを閉じ、トートバッグへと仕舞い込む。

グラスの氷が少し溶け出したアイスカフェラテを一口飲み、冷たいミルクの感覚が喉を通り抜けるのを確認してから、私はスマートフォンを取り出し、彼(中身は心優)から送られてきたメッセージの画面を開いた。

ここからのカフェの時間は、私にとって最も重要な「自由時間」であり、そして今週末に迫った最大の難関へ向けた「確認作業」だった。

画面に表示されている長文のタイトルは、『池田家 攻略プラン』。

今週末、私たちはいよいよ、彼女の本来の実家である「池田家」へ、結婚の挨拶に向かうことになっているのだ。

実は先週、私の本来の実家である「飯沼家」への挨拶は、拍子抜けするほどあっさりと終わっていた。息子が連れてきた結婚相手として敷居を跨いだ私だったが、家族からは何の異論も出ず、むしろ手放しで大歓迎された。私の両親があまりにも温かく「心優さん」と私を迎え入れてくれるものだから、危うく「お父さんお母さん、私が本当の息子の航だよ」と告白してしまいそうになったほど、私は自分の家族からすっかり気に入られてしまったのだ。

しかし、今週末に控えている『池田家』――本来の彼女の実家への挨拶は、そう簡単にはいかない。一人娘である心優を嫁に送り出すご両親としては、当然ながら慎重にならざるを得ず、その敷居は極めて高い。

今週末、彼(中身は心優)は「飯沼航」という結婚相手の立場で、自分自身の厳しい両親の前に立たなければならない。胃が痛くなるようなプレッシャーに違いない。
そして私(中身は航)は、「池田心優」という一人娘として同行する。中身は他人の私が、外見上は「自分自身の家」に帰るという、正気を疑うような歪な構図だ。

だからこそ、彼が作って送ってくれたこの『池田家 攻略プラン』は、今の私にとって何より心強かった。

勝手の分からない彼女の実家で、私自身が娘としてボロを出さないように。そして何より、自分自身の家に行くという過酷なプレッシャーに晒される彼にこれ以上気を使わせないよう、この時間を使って、彼が私に託した「完璧な台本」を細胞にまで叩き込んでおく必要があった。

『お父さんは最初は無口で不機嫌そうに見えるけど、ただ緊張しているだけ。お酒の話題(特に日本酒の銘柄)を振れば絶対に饒舌になるから、私から自然に振ってあげて』

『お母さんへの手土産は、駅前のあのお店の抹茶ロールケーキ一択。洋菓子よりも和菓子派』

『最近の実家のリフォームの話は、業者の手抜きで揉めたらしいから絶対に触れないこと』

両親の地雷や性格を記した項目の下に、同行する「娘としての私」への極めて具体的で微細な指定が続いていた。

『呼び方:両親を呼ぶときは「お父さん」「お母さん」。その時、少しだけ語尾を甘えるように柔らかく伸ばすのが、私の昔からの癖だから忘れないで』

『当日の衣装は、昔からの私のスタイルに合わせて、落ち着いたネイビーのタック入りストレートパンツかワイドパンツ。急にスカートなんか穿いて行ったらお母さんに怪しまれるからね』

『履き物は、玄関でスムーズに脱ぎ履きできるストラップのないローヒールのパンプス。お母さんは靴を脱いで揃える時のつま先の所作を絶対に見ているから』

さらに、テキストの最後には、クラウド上の共有フォルダへのリンクが一つ貼り付けられていた。

『これ、実家にあった昔の家族写真のデータ。お父さんとお母さんの顔、ちゃんと暗記しておいてね。久しぶりに帰ってきた娘が親の顔を忘れてたら大事件だから!』

私はリンクをタップし、画面に並んだ写真のサムネイルを一つひとつ開いていった。
七五三の時の写真。中学校の入学式。高校の卒業式。少し強面で不器用そうな父親と、穏やかだがどこか鋭い眼差しを持った母親の顔が、成長していく心優の隣に並んでいる。写真の中の彼らが、今週末、私を「娘」として迎え入れるのだ。他人の過去の足跡をなぞるような奇妙な感覚。しかし、私の指先は、画面の中の家族の姿をとても愛おしく感じていた。

だが、その温かい気持ちは、フォルダの最後にポツンと置かれていた『池田家・極秘事項』という恐ろしいタイトルのテキストファイルを開いた瞬間に、見事に吹き飛ぶことになった。

『極秘1:中学の時、お父さんが大切に育てていた盆栽を私がうっかり割っちゃったんだけど、未だに庭の野良猫の仕業だって信じてるから、絶対にボロを出さないでね』

『極秘2:高校の修学旅行でノリで買った「洞爺湖」って彫られた木刀。なぜかお母さんがすごく気に入って、今でも玄関の傘立てに防犯用として突き刺さってるから、靴を脱ぐ時に見つけても絶対に笑っちゃダメだよ』

「……どんな家だよ」

私は、マキシスカートの膝の上でスマートフォンを持つ手を微かに震わせた。
これから敵陣に乗り込むスパイに渡された極秘文書にしては、内容があまりにもしょうもなさすぎる。静かなカフェの中で危うく声を上げて吹き出しそうになり、私は慌ててアイスカフェラテのグラスを掴んだ。

気を取り直し、視線は最後にあるメイクアップの項目へと移る。

『メイクの方法と道具:実家にいた頃のナチュラルな雰囲気を出すこと。いつものブラウン系のアイシャドウパレットを使って、目元は薄めに。ルージュは派手な赤を避けて、コーラルピンクのものを筆で丁寧に乗せること。実家の洗面台の古びた鏡に映っても違和感がない、昔から変わらない娘の顔を作ってね』

私はスマートフォンを片手に立ち上がると、トートバッグからメイクポーチを取り出し、カフェの奥にある化粧室へと向かった。

誰もいない化粧室の、広くて明るい洗面台の前に立つ。
振り返ってドアを閉めた瞬間、マキシスカートがバサリと重たい波を作り、静かな空間に豊かなドレープを落とした。

ポーチのファスナーを開き、彼が指定したブラウン系のアイシャドウパレットを取り出す。小さなブラシの柄を細い指先で摘み、まぶたにそっと色を乗せていく。粉の微細な摩擦が、薄い皮膚に重なる。続いて、コーラルピンクのルージュを紅筆に取り、鏡を見つめながら唇の輪郭を丁寧になぞる。

鏡の中に映る自分を見つめる。
そこには、他人のフリをして怯えるスパイではなく、紛れもない「池田心優」という一人の女性が立っていた。

唇を覆うルージュのしっとりとした重みと密閉感。アイシャドウを乗せる筆の微細なタッチ。パンプスを脱ぎ、かかとを浮かせてつま先を揃える所作。そして、少し高めの声帯を震わせて甘えるように発声するイントネーション。
彼がリストに記したそれらの女性としての感覚は、もはや私にとって「借り物の知識」や「単なる真似事」ではなかった。この数ヶ月間、私がこの身体で日々社会と向き合い、衣服の重みや摩擦を通じて、自らの細胞に完璧に定着させてきた確かな私の「日常」そのものだった。

私はもう、過去の男性としての自分を無理に消し去ろうとはしていない。
今の私は、間違いなく「池田心優」という一人の女性として、この世界に存在している。このマキシスカートの圧倒的な布の面積と重みが、私が池田心優であるという揺るぎない自尊心を、確固たるシェルターとして温かく肯定してくれていた。

席に戻り、私はスマートフォンの画面に打ち込まれたカンペをすべて暗記し、彼(中身は心優)のアカウント宛てにメッセージを送信した。

『ありがとう! このプランと写真があれば絶対に大丈夫。メイクも今、指示通りにやってみたよ。完璧。……でも、盆栽と木刀のプレッシャーが一番きついんだけど(笑)』

すぐに、画面の向こうから既読がつき、返信が返ってくる。

『任せて! 一生懸命に娘のフリをして笑いを堪える心優を見るの、ちょっと楽しみかも(笑)……どんなことがあっても、絶対僕が守るから、安心してね』

その力強くも少しだけおどけた数文字を見つめた瞬間、私の胸の奥が熱く震えた。
自分自身が一番厳しいプレッシャーに晒されるはずなのに。私の実家(飯沼家)で完璧に息子として振る舞い、そして今度は自分の実家(池田家)へ乗り込むという過酷な試練を前にしても、私に気を使わせまいとこんなにも緻密でコミカルなプランを練って送ってくれる彼。

フーディーの背中を包み込む無骨な温かさが、彼からの「絶対に僕が守るから」という深い愛情と、絶対的な安心感となって私を強く抱きしめていた。
マキシスカートの女性的な包容力(自尊心)と、フーディーの男性的な重み(彼からの愛)。この二つの極端なコントラストが、今、私という一つの身体の上で見事に調和し、溶け合っている。

グラスに残った最後のアイスカフェラテを飲み干す。氷がカラン、と小さく鳴った。
ノートパソコンとポーチをバッグに仕舞い、私は静かにカフェを後にした。

夕暮れ時のマンションの扉を開けると、在宅での仕事を終えた航(中身は心優)がリビングのソファで出迎えてくれた。

「おかえり。プランと写真、確認してくれた?」

「うん。すごく助かる。これで実家に行っても大丈夫そう。……でもさ、一つ聞きたいんだけど」

私は、キャンバス地のスニーカーを脱ぎ、マキシスカートの裾をふわりと揺らしながらリビングへ入り、ソファの彼の隣に腰を下ろした。たっぷりと使われたチャコールグレーの生地が、ソファの上で豊かに広がり、脚のラインをすっぽりと隠していく。

「なに?」

「……あの極秘事項のリスト、反則じゃない? カフェでアイスカフェラテ吹き出しそうになったんだけど。盆栽の話、本当にそのまま野良猫のせいになってるの?」

私の呆れたようなツッコミに、航はバツが悪そうに大きな手で後頭部を掻いた。

「あはは、ごめんごめん。でもあれ、本当に重要だから。未だにうちのお父さん、庭で野良猫見るたびに『アイツの末裔め、俺の丹精込めた五葉松を……!』って睨みつけてるからね。お酒が入ると絶対にその話になるから、その時は申し訳なさそうな顔で『お父さん、大変だったね』って同調してあげてね」

「……ハードル高すぎない? 絶対に笑っちゃうってば。じゃあ、お母さんの木刀は?」

「あれはね、実家の玄関で靴を脱ぐときに、絶対に目に入る位置にあるの。傘立ての中から『洞爺湖』って文字がこっちを見てるから」

「……なんで防犯用に木刀なのよ。もっと普通のにしなよ」

「お母さん、時代劇好きだから……。とにかく、靴を揃える時に視界に入っても、絶対に平常心を保つこと。これが第一関門」

「もう、挨拶っていうか、笑ってはいけない戦いに行くんじゃないの、これ」

私が溜息を吐きながら肩をすくめると、航は大きな身体を揺らして低く笑った。

「実際、戦いだからね。でも大丈夫、お父さんが日本酒で機嫌が良くなったら、あとは僕が全部うまく立ち回るから。心優はただ、いつも通りに可愛い娘として隣でニコニコしていてくれればいいんだ」

その温かい言葉に、私の胸の奥がじんわりと解けていく。

「……うん。頼りにしてる」

少しだけ和んだ空気の中、航が私の顔を見つめながら、少し真面目なトーンで切り出した。

「それでね、挨拶の日の服なんだけど」

航の大きな顔がわずかに心配そうな色を帯びる。

「プランにも書いた通り、タック入りのストレートパンツか、ワイドパンツにしようと思うんだ。心優の両親は、心優が昔から絶対にスカートを穿かないパンツ派だって知っているからね。ただでさえ木刀や盆栽のプレッシャーで気を張っている心優に、これ以上余計な負担をかけたくないんだ」

その言葉には、ただの作戦以上のものが込められていた。
中身が他人である私(航)が、彼女自身の家で少しでもボロを出さず、安全にプレッシャーを乗り切れるようにという、彼自身の防衛本能と強烈な庇護欲の表れ。私に無理をさせまいと、かつての彼女が着ていた「パンツルック」という無難な隠れ蓑を用意してくれたのだ。

しかし。
私は自分の脚の周りで豊かな波を作っているチャコールグレーのマキシスカートの生地を、両手でそっと握りしめた。レーヨンとコットンの混紡生地が、微かな摩擦音を立てる。

「……ううん。私、パンツは穿きたくない」

「えっ?」

航が、驚いたように目を丸くして私の顔を見つめた。分厚い肩が微かに揺れ、想定外の答えに対する戸惑いが、その大きな身体全体から伝わってくる。

「でも、実家のお父さんやお母さんの前で、慣れない服を着て気を張るのは大変じゃないか?
プランには、玄関で脱ぎ履きしやすいローヒールのパンプスって書いたけど、それだって気を遣うだろうし。それに、心優がスカートなんか穿いて帰ってきたら、ご両親も驚いて……」

「驚かれてもいいの。……ううん、むしろ、驚かせたいくらい」

私は、マキシスカートの裾を撫でていた手を離し、自分の膝の上で静かに、けれど力強く重ね合わせた。

「私ね、最近ずっとスカートを穿いて過ごしてきて、この布の重みや、歩幅が制限される感覚が、今の私を支えてくれる大切なものだって気づいたの」

私の言葉に、航は黙って耳を傾けている。

「……それにね。いつか、あのミラベルって子がヤッファの世界から戻ってきて、私たちにかかったこの魔法が解けてしまう日が来るかもしれないじゃない?」

その言葉に、航の大きな肩が微かに強張った。
ミラベルが戻ってきて、元の身体に戻されてしまうかもしれないという恐れ。それは、二人で一生を生きていくと誓い合った今の私たちにとって、心の奥底に常に張り付いている共通の不安だった。

「もし元の身体に戻ってしまったら、私がこうして『池田心優』という一人の女性として、航くんの両親の前に立てる機会は、もう二度とないかもしれない。……だからこそ、パンツスーツという安全な隠れ蓑に隠れるんじゃなくて。私は、今の私が一番誇りを持てる服で、真っ直ぐにご挨拶に行きたいの」

私は、少しだけ背筋を伸ばし、真っ直ぐに航の目を見返した。
私が「池田心優」であるという、揺るぎない自尊心。彼が私のために引き受けてくれた男性としての重圧を、私はこの女性の身体で、女性としての柔らかな重みと気高さを纏って、彼と一緒に両親の前に立ちたいという強い意志。

「ネイビーの、ミモレ丈のフレアワンピースを新調したいの。……ダメ、かな?」

航は、驚きで少しだけ開いていた口を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。ミニでもマキシでもない、最も大人の気品と節度が求められる丈。ごまかしのきかない両親の目を乗り切るための、私の決意の固さを、その大きな身体でしっかりと受け止めてくれているのが分かる。

「ネイビーのミモレ丈のフレアワンピース……。そっか。でも、それなら足元も変えないといけないね。プランにはローヒールのパンプスって書いたけど……」

「足元も、ローヒールのパンプスやローファーじゃなくて、ハイヒールにしたいの。どれくらいの高さにするかは、週末にお店で実際に履いてみて、私が一番綺麗に立てるヒールを一緒に選んでほしい」

「ハイヒール? でも、実家の玄関で脱ぎ履きする時にふらついたり、畳の部屋に上がる時に緊張したりするかもしれないよ? あの木刀もあるのに」

彼の心配そうな声に、私は首を横に振って、柔らかく微笑んだ。

「大丈夫。ヒールで強制的に重心を引き上げて、背筋を真っ直ぐに伸ばした方が、ごまかしのきかないお母さんたちの目にも、私が『一人の大人の女性』として、ちゃんと自立して立っているように映るはずだから。木刀があっても絶対に笑わないし、ふらつかない」

私は、彼のごつごつとした大きな手に、自分の細い手をそっと重ねた。

「それに……航くんが私にプレゼントしてくれる、そのヒールの痛みが、私を一番強くしてくれるって、もう分かっているから」

私のその言葉を聞いて、航の大きな男性の顔が、わずかに見開かれた。
パンツという安全な隠れ蓑を捨て、ハイヒールとミモレ丈のフレアワンピースという気高い鎧を纏って、彼と共に戦い抜くという私の覚悟。いつか魔法が解けてしまうかもしれない恐れを抱えながらも、今の自分たちを全力で生き抜こうとするその想いを、彼が全身で理解し、肯定してくれた瞬間だった。

そして、航の瞳の奥に、何か熱い決意のような光が宿った。

「……そっか。僕たちには、いつまでこの時間が続くのか分からないんだもんね。心優が、そこまで言ってくれるなら」

彼は、私に重ねられた手をそっと握り返し、静かに、けれど力強く言った。

「それなら……僕も、心優のその気高いフレアワンピースにふさわしい服を、新調したい」

「えっ?」

「心優の両親にご挨拶に行くんだ。心優がそこまで覚悟を決めてくれるなら、僕も、昔のままのスーツじゃなくて、今の心優の隣に堂々と立てる『男性としての鎧』を新しく選びたいんだ」

彼のごつごつとした大きな手が伸びてきて、私の頭をそっと撫でた。男性の太い指先から、不器用で、けれど絶対的な安心感が伝わってくる。

「せっかくだから、今度の週末……お互いの『一番誇りを持てる服』を、プレゼントし合わないか?」

その言葉に、私の胸の奥が熱く震えた。
いつ終わるか分からない魔法の時間の中でも、私が彼のために気高さを纏うように、彼もまた、私のために男性としての責任と重圧を新しいスーツとして身に纏おうとしてくれている。互いの覚悟を、衣服という形で贈り合うという最高の提案。

「うんっ……! 私、航くんに一番似合うスーツを、絶対に選んでみせるから」

「ありがとう。……でもね、僕からも少しだけリクエストがあるんだ」

航は少しだけ照れくさそうに、大きな手で自分の後頭部を掻いた。

「リクエスト?」

「うん。……いかにも男の人っていうような、肩幅を強調する四角くて堅いスーツじゃなくて、ウエストが少しシェイプされた、レディースに近い柔らかいシルエットのスーツがいいな。ネクタイも、堅苦しいストライプとかじゃなくて、色や柄がちょっと可愛い感じのやつ。……それにね」

彼は、私に重ねていた手に少しだけ力を込めた。

「どこかワンポイントでいいから、心優が着るネイビーのフレアワンピースと、さりげなくお揃いにしたいんだ。……ダメかな?」

お揃い。
その言葉を聞いて、私の目は少しだけ大きく見開かれた。
大きな男性の身体で、厳しい両親の前に立つという最大の重圧を引き受けようとしている彼。けれどその中には、間違いなく本来の「池田心優」としての柔らかで可愛らしい乙女の心が息づいている。私とお揃いの服にしたいと言ってくれるその願いが、たまらなく愛おしかった。

「ううん、絶対に素敵だと思う!
じゃあ、私のネイビーのワンピースに合わせて、ネクタイをネイビーベースの可愛いドット柄にするとか。あ、胸元のポケットチーフをお揃いの色にしてもいいかも!」

「それ、すごくいい! じゃあ僕は、心優が一番美しく立てるミモレ丈のフレアワンピースと、それに合う最高のハイヒールを選ぶからね」

航が底知れぬほど優しく、そして愛おしげな微笑みを浮かべた。

その無防備で大きな優しさを見つめていると、私の胸の奥で、どうしようもない愛おしさが熱く弾けた。
私は、彼の隣でソファに沈ませていたマキシスカートの裾を微かに揺らし、少しだけ身を乗り出した。

「……修正するのは、衣装と靴だけじゃないかもね」

「えっ?」

航が不思議そうに目を瞬かせた瞬間。私は、彼が指定した『昔から変わらない娘の顔』を作った自分の顔を、彼の大きな顔へとそっと近づけた。
そして、戸惑う航くんの唇を、私からさりげなく、けれど確かな熱を持って奪い取った。

チュッ、という小さな音が静かなリビングに響く。
軽く触れるだけのキスではない。コーラルピンクのルージュを筆で丁寧に乗せた私の唇が、彼の真っ直ぐな唇に密着し、蝋のしっとりとした重みと油分が、二人だけの空間を熱く密閉していく。少しだけ開かれた唇の隙間から、温かい吐息が混ざり合った。

「んっ……」

私の細い腕を彼の広い背中に回すと、ネイビーのフーディーの無骨な厚みが手のひらに伝わってくる。彼のごつごつとした大きな手が、驚きながらも私の腰を引き寄せ、たっぷりと生地が使われたチャコールグレーのマキシスカートがソファの上でシャリッと微かな摩擦音を立てて大きく乱れた。

プラトニックな境界線の内側。だからこそ、少しだけ踏み込んだこの大人のキスは、互いの魂の形を直接撫で回すような、濃密で甘やかなエロティシズムを帯びていた。

やがて、ゆっくりと唇を離す。
彼の顔は耳の先まで赤く染まり、大きな身体が微かに強張っていた。私は、彼から奪った熱の余韻をコーラルピンクのルージュに滲ませながら、艶やかに微笑んだ。

「実家に行く前の、メイクの最終確認。……合格、かな?」

「……っ、合格どころか、心臓が止まるかと思ったよ」

航が分厚い手で顔を覆って照れ悶える。私は小さく笑い声をこぼしながら、ソファから少しだけ身体を離し、乱れた自分の髪を指先でそっと梳き直した。そして、彼の大きな手に引き寄せられた拍子にずり上がってしまったマキシスカートの裾を、膝下まで丁寧に撫で下ろして豊かなドレープを元の形へと整える。

自分たちが今度の週末に選び、プレゼントし合う新しい衣服と靴が、どれほどの重みと美しい揺れを持って、あの実家の敷居を跨ぐ勇気をくれるだろうか。

秋の夕暮れの光が、リビングの床をオレンジ色に染めている。
フーディーの無骨な温かさと、マキシスカートの女性らしい包容力。性別の境界線が完全に溶け合い、互いの人生の重みを衣服として贈り合う二人の日常は、すぐそこまで迫った未来の扉へ向かって、力強く歩み出していた。

(つづく)

あとがき

読んでいただきありがとうございます。夏目彩香です。Saineによる作品はいかがでしたか。
足首まで覆うマキシスカートの布量と、無骨なフーディーの重み。相反する要素が見事に調和するミックスコーデは、性別の境界線が溶け合った航の魂の究極の安定を体現しています。「池田家への挨拶」へ向け、いつか元に戻る恐れを抱えながらも「一番誇りを持てる服とヒールで行きたい」と主張する自尊心。そして彼もスーツを新調し、さりげなくお揃いを提案するという最高の愛情の形。たっぷりと揺れる生地の重みが生み出す、穏やかで力強い余韻を感じていただけたなら幸いです。

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