やっぱりスカート #23 シフォン 作:夏目彩香 by Saine ※この小説は夏目彩香風の小説が書けるように独自に調整したAIエンジン「Saine」(通称)を執筆に用いています。 朝の光が差し込む、若本(わかもと)家のリビング。 若本咲(わかもとさき)は、ダイニングテーブルに突っ伏し、頭を抱えて唸り声を上げていた。彼女の目の前には、普段ボーイッシュなパンツスタイルばかり好む彼女には絶対に似つかわしくない、極めて薄く、ふんわりとしたオフホワイトのシフォンスカートが、恨めしそうに広げられていた。 キッチンカウンター越しに、母親の美咲(みさき)が困ったような溜息を吐いた。その横では、長女の美波(みなみ)が、指定のチェック柄プリーツスカートの箱ひだを整えながら、面白そうに妹を見下ろしている。 「自分で決めた罰ゲームなんでしょう? 休んだら出席日数が足りなくなるんだから、諦めて穿いていきなさい」 「無理! 絶対に無理! あんなフリフリのスカート穿いて学校行くなんて、死んだ方がマシだよぉ……っ!」 そこへ、美咲に頼まれていた店舗の備品を届けるため、影山隼人(かげやまはやと)が訪ねてきた。玄関からリビングへ通された影山は、テーブルに突っ伏して半泣きになっている咲の姿を見て、驚いて目を瞬かせた。 「おはようございます。……咲さん、どうかしたんですか?」 影山が遠慮がちに声をかけると、咲は弾かれたように顔を上げ、すがりつくような目で影山を見た。 「影山さん……! お願い、今日一日だけでいいから、私の身代わりになって学校に行って!」 「えっ……身代わりって、またですか?」 先日、美波の身代わりとして休日のデートへ行った時の、あの針のむしろのような視線の恐怖が影山の脳裏をよぎる。 「今日ね、クラスの仲良しグループで『一番女の子らしいフリフリのスカートを穿いて登校する』っていう罰ゲームみたいな縛りがあるの! お姉ちゃんから無理やりこのシフォンスカートを借りたんだけど……私、こんなの穿いて学校行くなんて絶対に無理! イジられるに決まってる! お願い、影山さん、私を助けて!」 「い、いや、いくらなんでも学校の身代わりは……。それに俺も、今日は午前中から建築現場のロケハンが入っていて――」 「お願い、一生のお願い! この恥ずかしさから私を守って!」 咲が両手を合わせ、本気で怯えた表情で懇願してくる。普段は活発で強気な彼女が、女の子らしい服を着るというプレッシャーに本気で追い詰められている。その姿を見た瞬間、影山の胸の奥底で、「この子を理不尽な恥ずかしさから守ってやらなければ」という、不器用で真っ直ぐな大人の庇護の感情が激しく弾けた。 思考するよりも先に、影山の分厚い手が、咲の着ていたスウェットの袖口を力強く掴み込んでいた。 ドンッ、という鈍い衝撃音。美咲と美波が目の前で息を呑む中、影山の視界が急激に下がり、分厚い筋肉が華奢な骨格へと収縮していく。リビングに立っていたのは、大柄な男性ではなく、咲と全く同じ姿をしたショートボブの少女だった。 「わあ、やっぱりすごい。……何度見ても信じられないけど」 美波が、感嘆の声を漏らしながら影山(咲の姿)の周りをぐるりと回る。彼女は先日、自分の姿に変身した影山にデートの身代わりをしてもらったばかりだ。目の前でその魔法が発動する瞬間を直接観測し、興奮を隠しきれない様子だった。 「やったー! 影山さん、本当にありがとう! じゃあ私、今日はお休みだー!」 影山(咲の姿)が状況を把握して止める間もなく、本物の咲は両手を挙げて歓喜の声を上げた。しかし、その直後。美咲の細く、けれど絶対に逆らえない力強い手が、咲のスウェットの首根っこをガシッと掴み上げた。 「……咲。自分の都合で影山さんにこんなことをさせておいて、自分だけ家でゴロゴロ遊ぶなんて、私が許すと思っているの?」 「えっ……お、お母さん?」 美咲の静かで冷たい声に、咲の顔が引き攣る。 「あなたは今日、私と一緒にお店に行きなさい。今日は学校に出席していることになっているんだから、お店の記録には残らない『匿名の臨時アルバイト』として、バックヤードの棚卸しと値札付けをみっちり手伝ってもらうからね」 「ええええっ!? そんなの聞いてないよー!」 抗議する咲を冷たくあしらい、美咲は申し訳なさそうに眉を下げて、影山(咲の姿)の方へと向き直った。 「影山さん……本当に、ごめんなさい。この子は私がお店でしっかり監視して、裏方作業で働かせておきますから。魔法が解けないと困るでしょうから、学校が終わったら、直接お店のほうへいらしてくださいね」 「あ……はい。わかりました」 影山は、自分の白く細い手を見つめたまま、こくりと頷いた。対象である咲本人が家からいなくなってしまう以上、お店で合流して彼女の耳たぶに触れるまで、この変身魔法は絶対に解除されない。 「い、いえ、美咲さんが謝ることではありません。俺が勝手に手を出してしまったことですから。……ただ、仕事の連絡だけ、どうにかしないと」 影山は、元々自分が穿いていたチノパンから転送されたポケットの中のスマートフォンを取り出した。現場監督にチャットアプリを開いて連絡をしなければならない。今の自分の喉から出るのは、低く太い大人の男性の声ではなく、少し高くて艶のある女子高生の声帯の震えだ。この声で電話に出れば、不審がられるどころか完全に変質者扱いされてしまう。 影山は頭を抱え、震える細い指先で文字を打ち込んだ。 『急な発熱に見舞われ、声も出せない状態になってしまいました。本日のロケハンを明日に延期させていただけないでしょうか。プロとして自己管理がなっておらず、大変申し訳ありません』 働き方改革が進む現代の現場において、体調不良によるロケハンの日程変更は決して珍しいことではなく、チャットで代わりのカメラマンを手配することも可能な環境ではある。しかし、生真面目で職人気質な影山にとって、自分の都合で仕事を飛ばすというのは、身を切られるような苦渋の決断だった。送信ボタンを押す指先が、申し訳なさで小さく震える。すぐに『お大事に。明日の午後で再調整します』という返信が来て、影山は深く、重い溜息を吐き出した。 これで、もう後には引けなくなった。 影山は、ダイニングテーブルの上に残されたオフホワイトのシフォンスカートを見つめた。極めて薄く、柔らかく透き通るポリエステルシフォンの生地。細かいギャザーがウエストからたっぷりと寄せられ、少し触れただけでも、綿毛のようにふんわりと空気を孕んで舞い上がる。 影山は、薄手のブラウスにネイビーのカーディガンを羽織り、美咲と美波に見守られながらそのシフォンスカートを穿いた。 洗面所の鏡に映る自分の姿を見て、影山は小さく息を呑んだ。透き通るようなシフォン生地が幾重にも重なり合い、柔らかな奥行きを作り出している。動くたびに空気を捕まえてふわりと膨らむそのシルエットは、ボーイッシュな咲の輪郭を、見違えるほど繊細で可憐な少女へと変貌させていた。 「影山さん……本当に、気をつけてくださいね。その生地、少しでもどこかに引っ掛けるとすぐに傷がついてしまいますから」 美咲が、申し訳なさと気遣いの混ざった声で送り出す。 「影山さん、私の時みたいに無茶しないでね。今日は私服校の咲の代わりなんだから、ただ座ってるだけでいいんだよ」 美波も、自分の制服のプリーツスカートを整えながら、少しだけ心配そうに声をかけた。 「……はい。行ってきます」 影山はこくりと頷き、ローファーに足を滑らせて、美波と一緒に玄関の扉を開けた。 外へ出た瞬間、秋の朝の冷たい風が、影山の足元を通り抜けた。 その途端、シフォンスカートの生地が、まるで意思を持った生き物のようにフワリと大きく空中に舞い上がった。 「うわっ……!」 影山は、反射的に両手を太腿の横へ叩きつけるようにして、舞い上がった生地を押さえ込んだ。心臓が、女子高生の華奢な肋骨の内側で嫌な音を立てて跳ね上がる。これまでに美波の服で経験した、重みのあるプリーツスカートの揺れとは、根本的に物理法則が違っていた。 シフォン生地には、風に逆らうための「質量」というものが一切存在しない。 少しの空気の流れでも敏感に捕まえてしまい、無防備に、そして簡単に形を変えてしまう。両脚の間に布がない女性特有の心許なさが、生地の極端な軽さによって何倍にも増幅され、影山の下半身をスースーとした冷気と圧倒的な不安感で包み込んだ。 「こんなに……軽いのか。まるで、何も穿いていないみたいだ……」 影山は、スカートの裾を押さえたまま、アスファルトの上で数歩だけ歩みを進めた。ローファーの硬い靴底がカツ、カツと音を立てるたび、何層にも重なった薄いチュールが擦れ合い、シャラッ、シャラリと、耳を澄まさなければ聞こえないほど静かで繊細な摩擦音を立てる。 隣を歩く美波の足元では、箱ひだのプリーツスカートが規則正しく、安定した重みを持って揺れている。そのカチッとした立体感のある揺れとは対照的に、影山の足元では、少しの風でシフォンが膝の裏側にフワリとまとわりつき、すぐにまた風に乗って離れていく。その掴みどころのない感触が、影山の神経を極限まで尖らせていた。 「ふふっ。影山さん、ガチガチだよ。……でも、そのスカート、咲よりずっと綺麗に着こなしてる気がする」 美波が、隣で必死にスカートの裾を押さえている影山を見て、クスリと笑った。先日、自分の身代わりとして男たちの視線から守り抜いてくれたこの不器用な大人の誠実さを知っているからこそ、彼女の瞳には深い信頼と微かな頼もしさが宿っていた。 「わ、笑い事じゃありませんよ。こんなに脆い服で外を歩くなんて……爆発物を運んでいるような気分だ」 影山は、ローファーの中で足の指をギュッと丸め、歩幅を意図的に狭くコントロールし始めた。大柄で無骨な男性の精神が、たった数ミリの厚さしかないポリエステルの層を守るために、全身の筋肉を張り詰めさせている。 通学用のスクールバッグを持つ手の角度すら、カバンがスカートの生地に擦れないように、少しだけ身体から離して浮かせていた。 駅の改札を抜け、美波と別れて自分の乗るべき満員電車に乗り込む。 周囲の乗客のバッグの金具や、傘の先端が、凶器のように見えた。影山は無意識のうちに壁際に背中を張り付け、両手でカバンを抱え込むようにして、自分の足元で揺れるシフォン生地を他者との接触から完全に隔離した。 「……ふぅっ」 電車が揺れるたび、シャラリと微かに擦れ合うシフォンの音を聞きながら、影山は浅く息を吐いた。ここから先は、無数の学生たちがひしめき合う「学校」という過酷な環境が待っている。 学校に到着した影山を待っていたのは、無数の「凶器」に囲まれた教室という名の戦場だった。 昇降口でローファーから上履きに履き替える動作ひとつとっても、極薄のシフォンスカートが下駄箱の金属の角や錆びた金網に擦れないよう、影山は細心の注意を払わなければならなかった。少しでも気を抜いて裾が引っ掛かれば、何層にも重なったチュール生地は一瞬で無惨に引き裂かれてしまう。 息を詰まらせながら廊下を歩き、一年B組の札が掛かったスライドドアに細い指を掛ける。 ガラリ、と乾いた音を立ててドアを開けた瞬間。教室の中で雑談していた生徒たちの視線の束が、一斉にこちらへと突き刺さった。 「えっ……嘘でしょ!? 咲、本当にそれ穿いてきたの!?」 甲高い悲鳴のような声が響き、教室内が一瞬にして沸き立った。 「やばっ、めっちゃフリフリじゃん! ウケる!」 「でも意外と似合ってない? 悔しいけど可愛い!」 普段はボーイッシュなパンツスタイルでガサツに振る舞っているはずの咲が、オフホワイトの極薄シフォンスカートを穿いて現れたのだ。罰ゲームを企画した張本人であろう仲良し女子グループの数人が、弾かれたように影山(咲の姿)の周りを取り囲み、容赦なくスカートの裾を覗き込んだり、背中をバシバシと叩いてきたりする。 「お、おい……引っ張るな。破れるから……っ」 影山は、女子高生たちの遠慮のないボディタッチに冷や汗をかきながら、両手で必死にシフォンの裾を太腿の横へ押さえ込んだ。大人の男性として彼女たちを威圧するわけにもいかず、華奢な身体を縮こまらせて防御の姿勢をとるしかない。 「何ガチで照れてんのー? ほら、もうすぐホームルーム始まるから、早く席座りなよ」 リーダー格らしき女子生徒が、笑いながら影山の肩を小突いた。 「あ……うん」 影山は曖昧に頷いたものの、その場から一歩も動くことができなかった。 無理もない。中身は四十三歳のカメラマンである影山にとって、ここが咲の教室であることは分かっても、四十人近くある机の中で『若本咲の座席』がどこにあるのかなど、知る由もなかったのだ。 「……どうしたの? 緊張しすぎて席忘れたとか?」 立ち尽くす影山を見て、別の友人が不思議そうに首を傾げた。 「いや……ちょっと、貧血気味で。目が回ってて……」 影山が女子高生の高い声帯を震わせて苦しい言い訳を捻り出すと、友人たちは「大丈夫?」と顔を見合わせた後、「ほら、あんたの席あそこの窓際でしょ」と、教室の中央付近にある一つの机を指差してくれた。 「あ……ありがとう」 影山は安堵の息を吐き出しながら、教えられた窓際の席へと向かった。 しかし、本当の地獄はここからだった。 長年使い込まれた教室の木製椅子。その表面や角には、無数の小さなささくれやひび割れが潜んでいる。丈夫なチノパンやジーンズなら全く気にも留めないその微細な凹凸が、極薄のポリエステルシフォンにとっては致命的な脅威となる。 影山は、自分の席に座るというただそれだけの動作に、全神経を集中させていた。 椅子の座面に少しでも布が擦れないよう、両手でシフォンの裾をふわりと持ち上げ、裏地の部分だけが直接椅子に触れるように慎重に腰を下ろす。そして、幾重にも重なったチュール生地が椅子の脚や金具に引っ掛からないよう、脚の間にきっちりと挟み込み、両膝を万力のように硬く閉じて固定した。背もたれにもたれかかることすらできず、授業中ずっと、浅く腰掛けたまま背筋をピンと伸ばして耐え続けるしかなかった。 今日は午前中のみで授業が終わり、午後はまるごとフリーになるという特異な日だった。だからこそ、クラスの女子グループは「放課後の時間がたっぷりある日に、とびきりフリフリのスカートで過ごす」という残酷な罰ゲームの対象日に今日を選んだのだろう。しかし、その「たった半日」の授業時間が、影山にとっては永遠のように長く感じられた。 休み時間になれば、狭い通路を無神経に走り回る男子生徒たちのカバンの角や、机を移動させる時の乱暴な動きが視界の端を掠める。 「うおっ、わりぃ池田……じゃなかった、若本!」 ふざけ合っていた男子生徒の一人が、影山の机の横スレスレを通り抜け、椅子にぶつかりそうになった。 「危ねえっ……!」 影山は、無意識のうちに男性特有の野太い怒声を上げそうになるのを必死に喉の奥で飲み込み、シフォンの生地を両手で庇うように抱え込んだ。女子高生の小さな胸郭の中で、心臓が破裂しそうなほど荒い呼吸を繰り返す。 自分が男の身体で生きてきた時には、女性の服がこれほどまでに繊細で、これほどまでに脆いものだとは想像すらしていなかった。世の女性たちは、少し引っ掛ければ破れてしまうようなこの美しい境界線を守るため、日常のあらゆる場面でどれほどの緊張と労力を払い続けているというのか。 そして昼過ぎ。終わりのチャイムが鳴り響き、ようやく学校からの解放を告げる声が教室に響き渡った。 「やったー! 終わった! ねぇ咲、この後みんなでカラオケ行こうよ! その服でプリクラも絶対撮らなきゃ!」 朝の女子グループが、再び影山の机を囲んで押し寄せてきた。午後のフリータイムを満喫しようとする彼女たちの無邪気な誘い。しかし、影山の精神と筋肉はすでに限界に達していた。 「ご、ごめん! 今日は、家の用事があって……すぐお店に行かないと、お母さんに怒られるから!」 影山は、裏返りそうな高い声で必死に断りを入れた。 「えー、つまんなーい。せっかくの罰ゲームなのに!」 不満の声を上げる友人たちに何度も頭を下げながら、影山はスクールバッグを掴むと、シフォンスカートの裾をふわりと浮かせて教室から逃げるように飛び出した。 校門を抜け、秋の風が吹き抜ける通学路へと出た時、影山は全身の筋肉が疲労で重く強張っているのを感じていた。 朝、美咲からは「学校が終わったら、直接お店のほうへいらしてください」と言われている。対象である咲本人が家からいなくなってしまった以上、彼女が匿名の臨時アルバイトとして働かされている美咲のショップで合流して耳たぶに触れるまで、この変身魔法は絶対に解除されない。 安全な場所。この服の脆さを理解し、無遠慮な視線や障害物から自分を匿ってくれる場所。影山が藁にもすがる思いで重い足取りを向けたのは、美咲が店長を務め、そして本物の咲が手伝いをしているはずの大型モールのアパレルショップだった。 安全な場所。この服の脆さを理解し、無遠慮な視線や障害物から自分を匿ってくれる場所。影山隼人が藁にもすがる思いで重い足取りを向けたのは、若本美咲が店長を務め、そして本物の若本咲(わかもとさき)が手伝いをしているはずの大型モールのアパレルショップだった。 午後のモールは、平日の穏やかな空気が流れていた。 ショップの入り口で、影山(咲の姿)は周囲の様子を窺うようにピタリと足を止めた。本物の咲がこの店で手伝いをしている以上、スタッフたちに「二人の咲」がいるところを見られるわけにはいかない。彼はシフォンスカートの裾を両手でしっかりと押さえ込み、陳列された衣服のラックの陰に身を隠しながら、誰にも見つからないように極めて慎重な足取りでレジカウンターの奥へと向かった。 「いらっしゃいませ――あら、咲?」 レジで作業をしていた美咲が、顔を上げて少しだけ目を丸くした。しかし、すぐにその表情は深い労わりと温かい理解の色へと変わった。彼女は、今朝、自分の目の前で彼が咲の姿に変身し、この極端に脆いシフォンスカートを穿いて学校へ向かったことを知っているのだ。 「今日は随分と早いのね。お昼で終わったの?」 美咲は、周囲のスタッフや他のお客様に配慮して「咲」として話しかけながらも、その目線は真っ直ぐに、大人の男性である彼自身の疲労しきった精神を気遣っていた。 「あ……う、うん。今日は午前中だけで……。あの、お母さん、本物は……?」 女子高生の高い声帯を震わせて、影山は必死に咲の口調を模倣しながら、小声で尋ねた。 「ああ、あの子なら、今は売り場の裏手で品出しをさせているわ。今日は学校に出席していることになっているから、お店の記録には残らない『匿名の臨時アルバイト』として処理してあるの。社会的な矛盾が出ないように、人目につかない裏方作業だけね」 美咲が小さくウインクするように説明すると、影山は心底ホッと息を吐き出した。 「……よく頑張ったわね。少し奥のソファで休んでいく? 私、これから休憩に入るから、一緒にバックヤードでお茶でもどう?」 美咲の優しい提案に、影山は「……ありがとう」と深く頷いて、バックヤードへと案内された。 バックヤードの隅に置かれた、従業員用の小さな合皮のソファ。 美咲が温かいお茶を淹れるために背を向けている間、影山はその後ろで、ゆっくりとソファの前に立ち止まった。そして、今日一日、自分の精神を極限まで削りながら守り抜いてきたシフォンスカートを、絶対に傷つけないための「儀式」を始めた。 まず、膝を軽く曲げながら、両手で太腿の横にあるシフォン生地をそっと掴む。決して引っ張らず、極薄のチュールが重なり合うふんわりとした空気の層を壊さないように、親指と人差し指の腹だけで優しく、愛おしむように生地を摘み上げた。 そのまま、お尻の下に裏地のシワが寄らないよう、生地を前へと滑らかに撫で下ろしながら、ゆっくりと腰を沈めていく。合皮のソファに腰が着地するのと同時に、両膝をぴたりと隙間なく揃え、持ち上げていたシフォンの裾を、膝の上へ綿毛を着地させるようにふわりと静かに下ろした。 幾重にも重なった極薄のチュールが、シャラリ、という微かな摩擦音を立てて美しいドーム型を作り、影山の膝の上で静かに落ち着いた。 「お待たせ。はい、お茶――」 マグカップを二つ持って振り返った美咲は、その瞬間、ソファに座っている「彼(彼女)」の姿を見て、優しく目を細めた。 普段、パンツスタイルばかりでガサツに脚を開いて座る咲が、今日いきなりシフォンスカートを穿いたからといって、あんなにも生地の重みと脆さを完全に理解した、完璧で美しい座り方ができるはずがない。服の尊厳を知り尽くし、少しの摩擦や引っ掛かりをも恐れるような、あの過剰なまでに丁寧で、慈しむような生地の扱い方。 大柄な男性が、娘の服を絶対に傷つけまいと無理をして小さな枠に身を収めようとしている、その不器用で硬い緊張感。朝、彼がこの服を穿いて出かけた時から、美咲は彼がどれほど気苦労をするか想像がついていた。そして今、彼がその服を完璧な状態で守り抜いて帰ってきてくれたことが、たまらなく嬉しかった。 美咲は、マグカップをローテーブルにコトンと置いた。そして、膝の上で両手を固く握り合わせている影山(咲の姿)の隣に、ゆっくりと腰を下ろした。 「……今日一日、その服を守るのは、すごく大変だったでしょう」 美咲の静かで、どこまでも穏やかな声が、バックヤードの空気に溶けた。 「あ……いえ……」 影山(咲の姿)は、女子高生の高い声帯から、泣き出しそうなほど震える音を漏らした。美咲がすべてを知っていてくれるという絶対的な安心感が、彼の張り詰めていた太い緊張の糸を、プツリと音を立てて切ってしまったのだ。 「うちの咲は、服の扱いが雑だから。……影山さんが、そのシフォンの脆さを傷つけないように、ずっと気を張って、娘の尊厳を守ってくれていたんですね」 美咲は、ふわりと柔らかく微笑み、影山の握りしめている細い手の上に、自分の手をそっと重ねた。 「お疲れ様でした。……影山さん」 アパレルのプロとしての眼差しと、一人の女性としての深い包容力が、影山の抱えていた極限の疲労をすべて温かく溶かしていく。 影山は、もう隠す必要はないのだと悟り、膝の上で美咲の手を力強く握り返した。 「俺は……ただ、この服が、この子が傷つくのが怖くて……。女性が、毎日こんなにも脆い服を着て、息の詰まるような世界を歩いているなんて……知らなかったんです」 「ええ。知っています。あなたが、誰よりも服の重みを分かってくれていること」 美咲は、影山の言葉を優しく肯定するように、その細い手をもう一度強く握り、それからゆっくりと立ち上がった。 「本物の咲が裏方の作業を終えて戻ってくるまで、まだ少し時間があります。……影山さん、もしかしてその時間まで、そのソファの上でずっとシフォンに怯えながら固まっているつもりですか?」 「えっ……は、はい。美咲さん。動くと、どこかに引っ掛けて破ってしまいそうで……」 影山が膝の上のドーム状の生地を恐る恐る見つめながら、低い大人の男の口調で頷くと、美咲は少しだけ悪戯っぽく、艶やかな笑みを浮かべた。 「それは、アパレルの店長として見過ごせませんね。せっかくですから、その服の呪縛から少しだけ解放されて、もっと『服を楽しむ』時間を作ってみませんか?」 「服を、楽しむ……?」 美咲はバックヤードの奥にあるストックルームへ向かい、ハンガーに掛けられた数着のスカートを持って戻ってきた。 「うちの店は学生さん向けの制服がメインですが、隣のフロアにある大人向けの系列店から、新作のサンプルもいくつか預かっているんです。うちの咲はパンツ派だから、新しい服のモデルを頼んでも絶対に着てくれなくて困っていたんですよ」 美咲は、持ってきたスカートのハンガーを影山の目の前に並べ、楽しそうに目を輝かせた。 「影山さん。本物が戻ってくるまでの間、少しだけ私の『着せ替えモデル』になってくれませんか?」 「ええっ!? お、俺が、着せ替え人形に……!?」 影山(咲の姿)は女子高生の高い声で素っ頓狂な悲鳴を上げ、ソファの上で縮み上がった。しかし美咲は、「ほら、まずはこのシフォンを脱いでください。安心してください、私がちゃんとハンガーに掛けてお守りしますから」と、半ば強引に彼を立ち上がらせた。 抵抗する間もなく、影山はシフォンスカートのサイドファスナーを下ろし、極薄のポリエステル生地から脚を抜いた。 その瞬間、咲の穿いていた下着と素足が露わになる。美咲にとっては見慣れた実の娘の姿そのものであり、そこにいやらしい感情など微塵もなく、気にする素振りも見せない。しかし、中身が四十三歳の男性である影山にとっては違った。いくら借り物の少女の姿とはいえ、好意を寄せる大人の女性の目の前で下着姿を晒すことなど、まるで本来の自分の無骨な下着姿を直接見透かされているような、身の置き所のない強烈な羞恥心を伴っていた。 その極度の恥じらいと同時に、たった数ミリの空気の層を一日中守り抜くという、針の穴を通すような極限の緊張感からはようやく解放され、影山は深く、長いため息を吐き出した。 「じゃあ、次はこの新作の制服スカートを試してみてください」 美咲から手渡されたのは、落ち着いたネイビーと深いグリーンが交差するタータンチェックのプリーツスカートだった。 影山は、言われるがままにそのスカートへ脚を通し、ウエストのホックを留めた。 「あっ……」 穿いた瞬間、影山の口から安堵の吐息が漏れた。ウールとポリエステルが混紡されたしっかりとした生地の重みが、腰から太腿にかけてズシリと乗る。シフォン生地のような風に怯える心許なさはどこにもない。規則正しく折られたプリーツのヒダが、脚を覆う強固な「鎧」のように感じられた。 「どうですか?」 「……すごく、落ち着きます。重みがあるから、これなら少し動いても破れる心配がなくて……守られているみたいです」 影山が大人の男性としての素直な感想を漏らすと、美咲は自分のスマートフォンを取り出し、「ちょっとこちらを向いてくださいね」とカメラのレンズを向けた。 カシャッ。 「すごく良いです。影山さんは姿勢が真っ直ぐで骨盤がブレないから、プリーツの縦のラインが一切崩れませんね」 美咲は画面を確認して満足そうに頷いた後、ふと顔を上げ、影山に向かって少しだけ甘えるように、艶やかな上目遣いを向けた。 「影山さん。せっかくその姿なんですから、喋り方も咲の真似をしてもらえませんか? うちの子はこんな可愛い制服、絶対に素直に着てくれませんから……少しだけ『素直で可愛い咲』の夢を、お母さんに見させてくれませんか?」 「えっ……!? いや、お母さ……じゃなくて、美咲さん! 喋り方までって、そんな……」 「お願いします。アパレル店長としてではなく、一人の母親としてのお願いです」 美咲にじっと見つめられ、影山は羞恥心で顔から火が出そうになった。大人の男が、女子高生の制服を着せられた上に、ぶりっ子な娘のフリまで要求されているのだ。しかし、今日一日、自分の無骨な行動で彼女の娘に迷惑をかけてしまった負い目と、何より彼女のあの嬉しそうな笑顔に逆らうことなど、影山には絶対にできなかった。 影山は、プリーツスカートの裾をギュッと握りしめ、顔を真っ赤にしながら、高い声帯を震わせて必死に「可愛い女子高生」を演じ始めた。 「こ、これでいいのかな……お母さん。私、今までスカートなんて穿いたことなかったし、穿きたいと思ったこともなかったけど。……でも、このスカート、すごく可愛くて安心するし。……スカートを穿くのも、なんだか嫌いじゃなくなった、かも」 語尾を少しだけ上げ、恥ずかしそうにモジモジと身をよじる影山の姿に、美咲は堪えきれずに「ふふっ!」と声を上げて笑った。 「すっごく可愛いです! 咲ちゃん、本当に優しいのね」 カシャッ、カシャッ。 「み、美咲さん……あんまり撮らないでください、恥ずかしいです……っ」 「あ、今の素の口調も素敵ですけどね。さあ、次はこれです。系列店に入ったばかりの秋物の新作ですよ」 美咲が次に差し出したのは、深みのあるテラコッタ色の、スエード調のマーメイドスカートだった。 プリーツスカートを脱ぎ、スエードのスカートへと穿き替える。起毛した生地が、少しひんやりとしていた脚に温かく密着する。腰から膝まではぴったりと肌に寄り添い、そこから下で滑らかに広がる大人の女性のシルエット。 「これは……歩幅が、かなり制限されますね。でも……」 影山は、咲の口調のまま、バックヤードの狭い空間を数歩だけ歩いてみせた。スエード生地が膝裏で滑らかに擦れ合い、重力に従って美しく揺れる。その確かな重みと摩擦は、彼に「大人の女性の気高さ」を直接教えてくれるようだった。 「これ、すごく大人っぽくて歩きやすいね。私、こういうのも好きかも……お母さん、なんてね」 影山が咲の口調で少しおどけてみせると、美咲は心底楽しそうに微笑み、再びシャッターを切った。 「本当に、どんな服でも綺麗に着こなしてくれますね。影山さんが服の尊厳を分かって丁寧に扱ってくれるから、服の表情がすごく豊かに出るんです」 美咲はスマートフォンの画面を確認しながら、嬉しそうに目を細めた。 影山は、スエードのスカートの裾を少しだけ掴みながら、恥ずかしそうに下を向いた。しかし、その胸の奥は、不思議なほどの温かさと心地よさで満たされていた。 彼女の前で、服の重みを知り、服の摩擦を感じ、こうして笑い合う。自分がかつてカメラのレンズ越しに一方的に消費していた女性の服。それが今、自分の身体を包み込み、彼女との距離を縮めるための、こんなにも温かいコミュニケーションの道具になっている。 「……お母さんが、そう言ってくれるなら。私、着せ替え人形でもなんでもなるよ」 影山が咲の口調を借りて、けれど中身の四十三歳の男性としての誠実さを込めて呟くと、美咲は少しだけ目を丸くし、それから本当に嬉しそうに微笑んだ。 トントン、とバックヤードの扉が軽くノックされ、向こう側からスタッフの声が掛かった。 「店長ー、咲ちゃん、品出し終わってもうすぐこっちに戻ってきますよ!」 スタッフは、咲が匿名の臨時アルバイトとして裏方作業をしていることだけを知っている。バックヤードのさらに奥、店長専用の休憩スペースに「もう一人の咲」が隠れていることなど、もちろん知る由もない。 「分かったわ、ありがとう!」 美咲がドア越しに明るい声で応えると、スタッフの足音が売り場の方へと遠ざかっていった。 「……そろそろ、魔法が解ける時間みたいですね」 美咲が、ハンガーに掛けて守っていたオフホワイトのシフォンスカートを影山へ差し出した。 「はい。……元の姿に、戻らないと」 影山は、大人の男性の声に戻り、名残惜しそうにスエードのスカートのサイドファスナーに手を掛けた。その時、美咲が少しだけ寂しそうな、けれど悪戯っぽい艶を帯びた瞳で影山を見つめた。 「魔法が解けて元の姿に戻ってしまったら、こんな風に素直に可愛い服を着てくれる咲には、もう二度と会えなくなってしまいますね」 美咲の言葉に、影山はファスナーに掛けた指先をピタリと止めた。 「だから……影山さん」 美咲は、一歩だけ影山に近づき、上目遣いで彼(彼女)を見つめた。 「また機会があったら、今日みたいに娘たちの姿になって、私の『専用の着せ替えモデル』になってくれませんか?」 影山の心臓が、女子高生の小さな胸郭の中で大きく跳ねた。 対象の服に触れ、その人を全力で守りたいと強く願うこと。二回の変身を経て、影山自身もその不可思議な能力の発動条件を、確かな身体感覚として掴み始めていた。その条件さえ満たせば、やろうと思えば娘たちだけでなく、誰の姿にだってなれるのかもしれない。 けれど、そんな理屈はどうでもよかった。彼にとって重要なのは、自分が思いを寄せる気高い大人の女性が、自分に対して無邪気な甘えを見せ、自分を必要としてくれているという事実だけだ。彼女からのそんなお茶目なお願いを、不器用な彼が断れるはずがなかった。 「……美咲さんが望むなら。俺は、いつでも」 影山は、真っ赤になった顔を誤魔化すように下を向きながら、大人の男性の誠実さを込めて深く頷いた。 「ふふっ。約束ですよ」 美咲の満ち足りた笑顔に見守られながら、影山はスエードのスカートを脱ぎ、再びあの極端に脆いシフォンスカートへ脚を通した。 彼が約束してくれた事実。それは友人としての深い信頼や、アパレル店長としての探究心を満たすだけではない。彼という不器用で誠実な一人の男性に対して、一人の女性としての甘い熱――ほんの少しの、けれど確かな恋愛感情が、美咲の胸の奥で静かに芽生え始めていた。 さらに美咲の脳裏には、もう一つ、アパレル店長としての密かな、そして大人の女性としての悪戯っぽい企みが浮かんでいた。 (対象の服に触れ、強く守りたいと願えば姿が変わる……。それなら、娘たちの服だけではなく『私の服』を着せたら、私の姿になってもらうこともできるんじゃないかしら) 隣の系列店から依頼されている、新作の大人向けブランドのSNS用プロモーション撮影。自分がモデルをやるには少し気恥ずかしさがあったが、もし彼が「若本美咲の姿」になり、今日のように服の重みと気高さを完璧に表現してくれたなら、これ以上ない最高のモデルになるはずだ。 (次に彼が元の姿に戻ってホッとした直後を狙って、今度は私の服を着せて試してみようかしら。……ふふっ、怒るかしらね) 美咲は、再びシフォンスカートのドームを膝の上に作って縮こまっている彼(彼女)を見つめながら、艶やかな唇の端を少しだけ吊り上げた。 朝、家を出た時に感じたあの極限の恐怖と心細さは、もうどこにもなかった。美咲と共有したこの温かい時間と、彼女が提案してくれた二人だけの秘密の約束が、彼の下半身をスースーと通り抜けるシフォンの軽さを、少しだけ愛おしく、心地よいものへと変えてくれていた。 再びソファへ座り、膝の上にシフォンのドームを丁寧に作る。 間もなく本物の咲が扉を開けて入ってきて、この非日常の魔法は静かに終わりを告げるだろう。しかし、影山隼人という不器用な大人の男性と、若本美咲という大人の女性の間に結ばれた、服の重みを介した嘘のない信頼の糸は、もう決して切れることはない。 バックヤードの静かな空間で、シフォンの生地が微かに擦れる柔らかな音が、彼らの新しい関係の始まりと、これから訪れるであろう少しだけ悪戯な未来を優しく祝福していた。 (つづく) あとがき 読んでいただきありがとうございます。夏目彩香です。Saineによる作品はいかがでしたか。少しの摩擦で破れてしまう極薄のシフォンスカート。その極端な脆さと軽さは、女性が日常の中でどれほどの緊張と注意を払って生きているかを容赦なく突きつけました。しかし、それを理解したからこそ生まれた気高い所作と、アパレル店長が提案した秘密の「着せ替え撮影会」が、極限の緊張を甘く温かい時間へと変えていきました。魔法が解けた後の彼らの関係と、美咲の密かな企みを想像させる、静かで深い信頼の余韻を感じていただけたなら幸いです。 読後のご感想などありましたら、X(旧Twitter)の @skyseafar までそっとお寄せいただけると嬉しいです。 |