やっぱりスカート #11 ギャザー 作:夏目彩香 by Saine ※この小説は夏目彩香風の小説が書けるように独自に調整したAIエンジン「Saine」(通称)を執筆に用いています。 ラウンジに流れる静かなジャズのピアノの音が、夜の空気の中にゆっくりと溶けていく。それぞれのグラスやカップから立ち上る微かな湯気と、厚いガラス窓の向こうに広がる光の海。モールの奥にひっそりと佇むこの空間だけが、外の世界の時間の流れから完全に切り離されているようだった。 「なんだか、このままずっとここに座っていたくなりますね」 舞衣(まい)が、サテンのマーメイドスカートの膝をそっと撫的外ながら呟いた。サテン特有の滑らかな生地が、テーブルの上のアンバーの照明を吸い込んで艶やかに光る。彼女の少しだけ力の抜けた声は、この夜の時間の心地よさをそのまま代弁しているようだった。スニーカーというカジュアルな足元でありながら、スカートの光沢が彼女の所作に確かなしなやかさを与えている。 「夜の時間は、服の影の落ち方も変わりますからね」 美咲(みさき)が、ハーブティーのカップをソーサーへ静かに戻しながら微笑んだ。ネイビーのフレアスカートが、彼女のわずかな動きに合わせてソファの上で柔らかく波打つ。空気そのものを纏うような、ゆったりとした揺れ方。 「心優(みゆう)さんや舞衣さんが着ているマーメイドのように身体に沿うラインも、フレアのようなたっぷりと空気を含む揺れも、それぞれに良さがあります。でも、服って不思議なもので、ひとつの重みを受け入れると、また別の形を知りたくなるんですよ」 「別の形、ですか」 心優は、自分の足元で斜めに揃えられた黒のマーメイドスカートの裾を見つめながら復唱した。腰から膝までをしっかりとホールドし、そこから下で広がるこの服の重み。最初は歩きにくかったこの制限も、今では正しい姿勢を保つための支点として、ようやく身体に馴染んできたところだ。これ以外の形を自分が着るという想像は、まだすぐには追いつかない。 「例えば、ギャザースカートなんてどうですか?」 美咲の視線が、心優と、そして向かいの席に座る航(わたる)へと向けられた。 「ウエストにたっぷりとギャザーを寄せて、生地をふんわりと広げる形です。フレアスカートのような滑らかな波とは違って、もっと細かくて、歩くたびに柔らかく弾むような揺れ方をするんです。風をたくさん含むので、今日のような落ち着いた夜よりも、少し明るい休日の朝によく似合いますよ」 ギャザースカート。その言葉の響きに、心優の脳裏にふと、休日の日差しの中を歩く女性の姿が浮かんだ。今の自分がそれを着るのもいい。けれど。本当にその服を着て、その軽やかな揺れを感じるべきなのは、自分(男性である航)ではなく、本来この身体の持ち主である『彼女』自身なのではないのか。 そう思った瞬間だった。向かいの席に座る航が、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。黒のロングフレアスカートの深いドレープの中に、大柄な男性の身体をすっぽりと沈めた彼(の身体にいるミラベル)。その瞳が、心優の内心の葛藤を完全に見透かしたように、静かに細められた。 「そうですね」 航の低い声が、静寂のテーブルの上に落ちる。 「そろそろ、彼女にも新しい服の揺れを、自分の感覚として楽しんでもらいたい頃かもしれません」 その言葉の裏にある本当の意味に気づいたのは、心優だけだった。ミラベルは、約束していたのだ。自分の意識の下に預かっている、本物の心優の意識を、いつでも表面に呼び起こすことができると。今はまだ眠りについている彼女を、この静かな夜景の中で、目覚めさせようとしている。グラスの氷が、カラン、と小さく鳴った。その微かな音を合図にするかのように。 温かく、深い暗闇の中だった。何も見えず、何も聞こえない。ただ、柔らかな毛布のようなものに包まれて、ずっと長い眠りについていたような感覚。そこへ、外側から少しずつ、小さな波紋のように感覚が流れ込んできた。冷たいグラスの水滴。アンバー色の照明の温かさ。そして、自分の膝の上に幾重にも重なって広がる、たっぷりと使われた漆黒の布の重み。 ゆっくりと、意識が浮上していく。 まぶたの裏に、薄っすらと光が差した。重い視界をゆっくりと開く。真っ先に目に飛び込んできたのは、見たこともないほど遠くまで広がる、無数の光の粒だった。夜景。厚いガラス窓の向こうに、宝石を散りばめたような街の光が瞬いている。 「ここは……」 声を出そうとして、喉の奥から響いた音に、ふっと意識が覚醒した。自分の声ではない。低く、くぐもっていて、声帯の震えが直接鎖骨へ響くような、男性の声。驚いて、ソファのひじ掛けに置かれていた手を持ち上げる。視界の端に映ったその手は、指の関節がごつごつとしていて、手のひらに分厚い皮膚の感触がある、大きな男性の手だった。胸元にそっと触れてみれば、そこにあるはずの柔らかい膨らみはなく、代わりに平らで硬い胸板の感触がある。 ここまでは、ただ「違う」というだけの驚きだった。しかし、ソファの上で少しだけ姿勢を変えようと腰を動かした瞬間。心優の意識は、はっきりと自分の下半身にある「決定的な違い」を捉えた。 「あ……」 息が、微かに漏れる。両脚の付け根、身体の中心部分に、これまでの自分には絶対に存在しなかった異質な重みと構造があった。男性としての存在を象徴する、明確な身体的特徴。下着の生地越しに伝わってくるその微かな摩擦と重力は、女性である心優にとって、本来なら決して受け入れられるはずのない未知の感覚だった。自分の身体の一部として、まったく知らない器官がそこに付随しているという事実。それは、脳の奥底に本能的な拒絶反応を引き起こしかける。気持ち悪い。怖い。異物感がある。そんな生理的な嫌悪感が、一瞬だけ背筋を駆け上がろうとした。 けれど。自分の膝の上に置かれた大きな手のひらと、この平らな胸板の奥で規則正しく響く低い心音を感じた時。不思議なほどスッと、その恐怖が中和されていくのを感じた。 「航(こう)、くん……の身体なんだ」 自分の口から出た低い声の響きとともに、すとんと、心が凪いでいく。怖いものではない。見知らぬ誰かの、気味の悪い身体ではないのだ。自分がいつも隣で歩いていた、不器用で、優しくて、誠実な航。彼が今までずっと、この大きな身体と視線で、世界を見ていた。彼を男性として成り立たせている、その最も決定的な部分が今、自分の意識の下にある。 そう認識した途端、嫌悪感は静かに姿を変えた。女性としての戸惑いや「変な感じ」が完全に消えたわけではない。それでも、この男性特有の身体の構造が、大好きな彼の一部なのだと思うと、急にそれが愛おしく、守られているようなものに思えてきたのだ。この身体で、彼は自分を大切にしてくれていた。この骨格で、この重みで、この男性としてのすべてで、自分を愛してくれていた。その事実が、皮膚の境界線を越えて、自分の心の中へじんわりと温かく流れ込んでくる。 パニックになりかけた思考を、身体の奥から湧き上がってくる不思議な「安心感」が完全に押さえ込んでいた。そして何より、心優の心を落ち着かせたのは、下半身をすっぽりと覆う、圧倒的な布の重みだった。 自分の大きな手のひらで、膝の上をそっと撫でてみる。滑らかで、少しだけ張りのある生地。黒のロングフレアスカート。男性であるはずのこの身体が、たっぷりと生地が使われた女性の服を纏い、ソファの上に美しいドレープを作って座っている。漆黒の生地が、男性としての身体の異質さもすべて優しく包み込み、境界線を溶かしてくれているような気がした。自分が眠っている間に、この身体を動かしていた存在が、このスカートの揺れや摩擦を完全に受け入れ、自分のものとして定着させていたのだ。筋肉や神経の隅々にまで、その「当たり前の日常」がすでに染み込んでいるのが分かる。 『怖がらないで。今はただ、この感覚を感じてみて』 脳の奥で、見知らぬ、けれどとても優しい声が響いた気がした。 ゆっくりと、顔を上げる。向かいの席のソファ。そこに座っていたのは、間違いなく自分自身だった。チャコールグレーのブラウスに、黒のマーメイドスカートを履いた、池田心優の姿。しかし、その瞳の奥にある真っ直ぐで少し不器用な光は、間違いなく航のものだった。彼が、自分の身体を大切に扱い、女性としての服の重みを受け入れ、脚を斜めに綺麗に揃えて、こちらをじっと見つめている。 私は今、彼の身体の中から、私自身を見ている。そして彼は、私の身体の中から、私を見つめている。 「航、くん……」 低く響く声が、微かに震えた。心優は、黒のロングフレアスカートの生地を、大きな両手でそっと握りしめた。自分が男性の身体に入っているという戸惑いよりも、大好きな彼が自分の代わりに女性としての世界を受け入れてくれていたという事実が、スカートの重みとともに直接伝わってくる。 その静かな感動が、アンバーの光の中で、少しずつ胸の奥底へ広がっていくのを感じていた。 アンバーの照明に彩られたラウンジカフェの空間。その景色は、まるで分厚い水槽のガラス越しに眺めているように、どこか静かで現実離れして見えた。 心優は今、大柄な男性の身体の奥深く、柔らかな揺りかごのような意識の底に沈んでいた。視覚や聴覚、肌に触れる布の摩擦といった「感覚」ははっきりと伝わってくるのに、身体を動かす主導権は自分にはない。しかし、そこに恐怖や束縛感は一切なかった。自分をすっぽりと包み込んでいるもう一つの大きな意識が、極めて優しく、慎重に、この男性の身体(航の身体)を制御してくれているのが分かるからだ。 『落ち着いたかしら、心優』 ふと、脳の奥底に直接響くような、静かで中性的な声が波紋のように広がった。耳から聞こえる音ではない。意識の膜を直接撫でるような、不思議な温度を持った声だった。 『あなたは……誰?』 心優は、声に出す代わりに意識の中でそう問い返した。 『ワタシはミラベル。ヤッファの世界から来て、少しの間だけ、あなたの意識を預からせてもらっている者よ。そして今、この航の身体を動かしているのもワタシ』 ミラベル。その名前に聞き覚えはなかったが、この声の主が自分たちに悪意を持っていないことだけは、神経を伝わってくる穏やかな呼吸のリズムから十分に理解できた。 『驚かせてしまってごめんなさいね。でも、どうしてもあなたに、今の彼を見てほしかったの』 ミラベルの意識が、視線をそっと前方へ誘導する。航の身体の視覚を通して、向かいのソファに座る「自分自身」の姿がはっきりと映し出された。 チャコールグレーのブラウスに、黒のマーメイドスカート。揃えられた脚と、膝の上に静かに重ねられた手。間違いなく池田心優の身体だ。しかし、その身体に宿っている航は、まるでずっと前からそうであったかのように、女性としての衣服の重みを受け入れ、極めて自然な姿勢で座っている。 『彼、とても綺麗な姿勢で座っているでしょう?』 ミラベルの声が、優しく微笑むように響いた。 『あなたの身体を借りてから、彼は本当にたくさんのことを学んだわ。歩幅を狭めること。ヒールでバランスを取ること。そして何より、スカートの裾が作る空間や、他者から向けられる視線を、自分の日常として受け入れること。最初は戸惑ってばかりだったけれど、彼はあなたのために、女性としての世界を心から理解しようとしたのよ』 その言葉とともに、航が体験してきたこれまでの記憶の断片が、温かい雫のように心優の意識へ落ちてきた。初めてワンピースを着た時の緊張。タイトスカートで歩く時の窮屈さと、それを越えた先にある凛とした感覚。周囲の視線から自分(心優の身体)を守ろうとする、不器用で誠実な決意。 『航くんが……私の代わりに……』 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなった。自分がずっと避けてきたスカートという服。女性としての視線に晒されることへの、無意識の恐怖と拒絶。航はそれを無理強いするのではなく、自らその制限の中に身を投じ、その重みごと愛そうとしてくれていたのだ。 『あなたがスカートを避けていた理由、彼も少しずつ気づいていたわ。だからこそ、彼は自分の身体であなたを縛るのではなく、あなたの身体で世界を知ろうとした。……そしてワタシもね、この航の大きな身体で世界を観察するうちに、思いがけないことに気がついたの』 ミラベルの意識が、少しだけ熱を帯びたように揺らいだ。心優の意識に、下半身をすっぽりと包み込んでいる黒のロングフレアスカートの感覚が、より鮮明に流れ込んでくる。たっぷりと使われた漆黒の布地が、ソファの上で幾重にもドレープを作り、重力に従って静かに沈み込んでいる感触。 『ワタシたちの世界には物理的な肉体がないから、当然「性別」という概念も存在しないの。だから人間の世界に来た時も、ただ便宜上、女として振る舞おうとしていただけだった。でもね。この大柄な男性の身体を借りて、女性の服という「重み」を纏ってみて、初めて分かったのよ』 分厚い男性の手のひらが、膝の上に広がる黒い生地をそっと撫でる。その滑らかな摩擦の心地よさが、心優の奥深くまで伝達される。 『スカートが歩幅を制限する感覚。ヒールの高さが重心を変える感覚。そして、たくさんの布に包まれて、こうして静かに景色を見つめる穏やかな時間。……それらすべてが、ワタシ自身の魂の形に、あまりにもしっくりと馴染んだの。彼という「男性」の骨格を通して世界を見たからこそ、ワタシは自分がこの人間の世界においては「女性」という存在に属しているんだって、はっきりと自覚できたのよ』 『ミラベルも……服に、教えられたのね』 『そうね。服が、ワタシに境界線の引き方と、その溶かし方を教えてくれたの』 向かいの席で、心優の身体に入った航が、ゆっくりとこちらを見つめ返してきた。その瞳の奥にある、どこまでも優しく、凪いだ海のような光。言葉は交わしていなくても、航がこちらを心から大切に想っていることが、皮膚の境界線を越えて直接流れ込んでくる。 『だから、怖がらないで、心優』 ミラベルの声が、心地よい子守唄のように響く。 『あなたはもう、自分の女性性を隠す必要はないの。彼がこうして、あなたのために全てを受け入れてくれた。そしてワタシも、この服のおかげで自分自身を見つけることができた。……次にあなたが自分の身体に戻った時、きっと世界は、今までよりずっと優しく、美しく見えるはずよ』 『うん……わかった。私、もう怖くない』 心優は、意識の奥底で深く、深く頷いた。男性の身体に入っているという戸惑いも、未知の感覚への恐怖も、今は完全に消え去っていた。ただ、航の心臓の鼓動と、下半身を包み込むロングフレアスカートの確かな重みだけが、限りなく愛おしいものとしてそこにあった。 『ありがとう、ミラベル。航くんを守ってくれて、私に大切なことを教えてくれて』 『どういたしまして。ワタシの卒論にとっても、あなたたちの絆とワタシ自身のこの気づきは、最高のデータになりそうだからね』 ミラベルの意識が、少しだけ悪戯っぽく、けれど深い慈しみを持って笑った気がした。グラスの氷が溶ける、微かな音が耳に届く。心優の意識は、ミラベルという温かい毛布に包まれたまま、再びゆっくりと深い微睡みの中へ沈んでいった。しかしそれは、逃避のための眠りではない。次に自分の身体で目覚め、新しい服を選び、彼と手を取って歩き出すための、静かで幸福な準備の時間だった。 アンバーの照明の下、黒のロングフレアスカートの裾が、二人の意識の融解を祝福するように、ふわりと柔らかく揺れた。 「……そろそろ、行きましょうか」 美咲の落ち着いた声が、ラウンジカフェの静かな空間に響いた。 その声を合図にするように、心優の意識を温かく包み込んでいたミラベルの気配が、すっと身体の奥深くへ退いていくのを感じた。まるで、車のハンドルをそっと手渡されたような感覚。心優は、大きく息を吸い込んだ。分厚い胸板がゆっくりと膨らみ、肺の奥深くまで冷たい空気が満ちていく。その十分すぎるほどの酸素が血液に乗って全身へ巡るのを確認してから、心優は、自分の意志で、航の身体を動かして立ち上がった。 「っ……」 視界が、一気に上空へと引き上げられる。数十センチも高くなった視線の先で、カフェのテーブルがずっと下の方に見えた。立ち上がるために力を込めた太腿やふくらはぎからは、これまでの自分の身体では絶対に感じたことのない、強烈な反発力が返ってきた。少し力を入れただけで、皮膚の下にある太い筋繊維が岩のように硬く張り詰めるのが分かる。女性としての自分の身体が持っていた、あのしなやかに沈み込むような柔らかさはどこにもない。ただ、無骨で圧倒的な質量だけがそこにあった。 バサリ、という微かな重低音。大柄な男性の身体が立ち上がったことで、ソファの上に幾重にも広がっていた黒のロングフレアスカートの生地が、重力に従って一気に下へと落ちた。たっぷりと使われた漆黒の布地が、航の長い脚のラインに沿ってストンと落ち、足首のあたりで美しいドレープを作り出して静止する。脚と脚の間にズボンの布地がない、すっぽりと空気が通る感覚。しかし、その無防備さを補って余りあるほどの、しっかりとした生地の重みと安心感が、下半身全体を優しく覆い隠していた。 会計を済ませた美咲を先頭に、重厚なガラス扉を押し開けてモールの通路へ出る。夜のモールは、昼間のような喧騒はすっかり影を潜め、アンバーの間接照明が床に長い影を落とす、大人びた静寂に包まれていた。 心優は、航の大きな足の裏で、ダークブラウンの木目調の床をしっかりと捉え、一歩を踏み出した。その瞬間、強烈な違和感が全身を駆け抜けた。 「あ、れ……?」 心優は、無意識のうちに「これまでの自分(女性)」の歩き方をしようとしていた。両膝を軽く擦り合わせるようにして歩幅を狭め、一直線上を歩くような感覚。しかし、航の身体はそれを激しく拒絶した。両膝を内側へ寄せようとした瞬間、太腿の内側に、まるで固いゴムの塊が挟まっているような強い反発を感じたのだ。力を入れなくても自然と脚が閉じていた自分の身体とは全く違う。航の太腿には、外側に向かって張り出した分厚く硬い筋肉がびっしりと詰まっていた。膝を内側に絞り込もうとすると、その硬い筋繊維が『そちらには曲がらない』とでも言うように、ゴツゴツとした力強い抵抗を返してくる。さらに、一歩を踏み出そうと膝を曲げただけで、ふくらはぎの筋肉がピクリと硬く収縮し、過剰なほどの推進力を生み出してしまう。 怖い。自分が全く知らない骨格。思い通りに曲がってくれない硬い筋肉。女性としての「正しい姿勢」が一切通用しない、圧倒的な男性の身体という現実が、足元から突き上げてくるような戸惑いとなって心優を襲う。どう歩けばいいのか分からない。この硬くて大きな脚を、どう前に出せば自然なのか。 迷いの中で、心優は自分の足元へ視線を落とした。そこには、航の太く硬い脚をすっぽりと隠すように、たっぷりと広がる黒のロングフレアスカートがあった。心優は、小さく深呼吸をして、今度は女性としての歩き方を捨て、航の筋肉の反発に逆らわないように、少しだけ歩幅を広げて真っ直ぐに脚を前へ振り出してみた。 その瞬間、足元で黒のロングフレアスカートが大きく、波を打つように揺れた。男性の骨格が持つ、真っ直ぐで力強い歩行。本来なら、女性服であるスカートはこの歩幅の広さに耐えきれず、脚にまとわりついて歩きにくくなるはずだった。しかし、美咲が見立てたこのモード系のロングスカートは違った。布量が圧倒的に多いからこそ、前へ振り出された航の硬い脚の動きを一切妨げることなく、歩幅の限界まで滑らかに生地が広がり、そして美しいドレープとなって後ろへ流れていく。 一歩歩くたびに、裏地の滑らかな感触が、硬く張った太腿からふくらはぎを優しく撫でる。無骨で強靭な男性の筋肉の動きを、フレアスカートの柔らかな波が受け止め、包み込んでいる。無理に膝を擦り合わせなくていい。この服は、男性の直線的な力強さや筋肉の硬ささえも、大きな布の揺れの中に溶かして、一種の「静謐なリズム」へと変えてくれるのだ。 『これが……航くんが感じていた重み』 心優は、歩きながら自分の足元で揺れる黒い波を見つめた。少し前まで、自分が男性の身体に入っていることなど想像しただけで拒絶反応が出ていたはずだった。けれど今は違う。このたくさんの布が、思い通りに動かない硬い筋肉への戸惑いを隠し、周囲の空気を感じ取るための「余白」を作ってくれている。ズボンを穿いて大股で急ぐのではなく、布の揺れと重みを感じながら、骨格のままに一歩一歩を確かめるように歩くこと。その心地よさが、硬い筋肉や神経を通して少しずつ分かってきた気がした。 「なんか、すごい堂々と歩けてるね」 ふと、すぐ隣から声がした。少しだけ見下ろす形になるその視線の先に、チャコールグレーのブラウスと黒のマーメイドスカートを纏った「自分自身」の姿があった。池田心優の身体に入った、航だった。 「航、くん……」 心優は、歩調を合わせながら航の姿を見つめた。彼(の入った自分の身体)の歩き方は、まだ少しだけぎこちなかった。数センチのヒールのあるパンプスを履き、マーメイドスカートの裾が綺麗に揺れるように、膝を軽く擦り合わせるような歩幅で歩こうと、足元に意識を集中させているのが分かる。男性の心を持った彼が、自分の柔らかい身体で転ばないように、そして服を綺麗に見せようと、一生懸命に「女性身体運用」を実践してくれているのだ。 その少し不器用な姿が、なんだかとてもくすぐったくて、嬉しかった。 「そのスカート、本当に君の……いや、今の僕の身体によく似合ってるよ。なんだか、ずっと前からそれを着ていたみたいに自然だ」 航が、少しだけ照れたように、自分の身体の顔で微笑んだ。 「うん……わかる気がする」 心優は、黒のロングフレアスカートのサイドの生地を、大きな男性の手でそっと撫でた。分厚い指先から、しっかりとした生地の摩擦が真っ直ぐに伝わってくる。 「最初は、筋肉がすごく硬くて、いつもの歩き方が全然できなくて戸惑っちゃったけど。でもね、今こうして歩いていると、このたくさんの布が、すごく落ち着くの。……航くんも、私の身体でヒール履いて歩くの、大変でしょ?」 「まあね。でも、心優がいつもこんな風に歩いてたんだって思うと、ちょっと新鮮だよ」 航は誤魔化すように、少しだけ前を歩く美咲と舞衣の方へ視線を逸らした。結婚を前提にしながらも、まだ一線を越えていないプラトニックな同棲を続けてきた二人にとって、お互いの身体に入り、お互いの服の重みを感じ合いながら歩いている今の状況は、少しだけ照れくさく、けれど不思議なほど安心できるものだった。熱烈な感情のぶつかり合いではない。ただ、相手が自分のために少しだけ無理をして、新しい世界を歩こうとしてくれていることへの、静かな信頼。 二人は、アンバーの照明が落ちるモールの通路を、並んで歩いた。 前を歩く美咲のネイビーのフレアスカートが優雅に揺れ、隣を歩く舞衣のサテンのマーメイドスカートが軽快な光沢を放っている。そして心優は、自分自身の身体が不器用に鳴らすパンプスの小さな足音を聞きながら、航の大きく硬い筋肉を持った身体で、漆黒のロングフレアスカートを大きく波打たせて歩いていた。 夜のモールの落ち着いた空気が、静かに二人を包み込んでいる。心優の足元で、黒のロングフレアスカートが、二人の少しだけ近づいた距離を祝福するように、大きく、滑らかに揺れた。 (つづく) あとがき Saineを利用して1作を仕上げるようになりましたが、執筆の速度は桁違いに早くなりました。じっくりと10日ほど時間をかけていたのが半日で済む位の変化です。時間ができた分、1話に対する修正アイデアを出す時間がとても長くなりました。対話しながら出力された文章を確認、その文章をより深みのある文章に変えて行くには『人間』の持つアイデアが欠かせないようです。この作品の全体像ですが、10話ごとに1部として、全部で5部かけて完結するような流れを考えています。今作より2部が始まったのですが、2部は今月中に公開するようなペースで公開したいと思います。 今作では2部の始まりとして、ついに本物の心優に登場してもらいました。自分のよく知る人物の身体で目覚めたものの、ミラベルが導くことで自然と受け入れるようになります。ここからはミラベルにはしばらく退場してもらい、航と心優がお互いの身体で生活して行くようになります。感想やリクエスト等ありましたらX(旧Twitter)で @skyseafar までDMをお送りいただければと思います。 |