リップシンク、それから
作:夏目彩香


あの不思議な出来事から半年が経ち、本格的な暑さがやって来ていた。あの二人にもしばらく会っていなかった。何かと巻き込まれてしまうのを嫌ったためであることと、あの時に二人は本当に入籍を済ませ、よりお互いのことを大切にするようになったからだ。僕、高比良俊作(たかひらしゅんさく)の出る幕は無く、平穏無事に過ごせていると思った。しかし、一本の電話が入ってそれは一変した。

実は、ゴールデンウィークを過ぎた頃から、僕に彼女と呼べる存在ができていた。彼女と出会ったのもあの二人がきっかけだった。僕の彼女、岡本琳(おかもとりん)は韓国ドラマにハマって、韓国語の勉強を始めたのだが、その時に韓国語を教えてもらった先生が彼、金子聖仁(かねこきよひと)の妻である李銀河(イ・ウナ)だった。とにかく、そんな関係から琳と知り合って、ゴールデンウィークを一緒に過ごすことで、いつの間にかお互いが程よい距離を保ちながら過ごすのだった。

そして、海の日が目前となった金曜日、彼女から電話が入った。電話の内容を短く要約すると『明日、明後日に急用が入ってしまい、三連休中は海の日しか時間が取れない』と言うことだった。そこまでは何も問題が無かったのだが、数分後にまた電話が掛かって来て『明日、会えるようになったから、駅前で待ち合わせね』と言う連絡が来たのだ。彼女が言った駅前と言うのは金子聖仁・李銀河夫妻の住む最寄り駅だった。デートをする時には彼女と僕の家や会社のある駅を指定るすることが多いのだが、明日はなぜかあの二人の住む場所と言うのが気になった。それも、最初はどうしても会えないと言ったはずなのに、どういった風の吹き回しなのか、理解できなかった。それでも僕は彼女が言った通りに駅前で彼女を待つことにしたのだ。

ここに実際に来るのは、新年のあの出来事以来のことになる。あの二人の家に立ち寄ってみようかとも思ったが、朝の身支度に思ったよりも時間がかかってしまい、結局のところ彼女を待つ時間しか無くなってしまった。駅前にある大きな広場の前で、僕は彼女を待つのだった。昨日の電話以来、彼女とのメッセージのやり取りもレスポンスが悪くなり、既読スルーされているようにも思たし、よくよく考えてみると駅前で待ち合わせようと言う彼女の声はどことなくぎこちなさがあるようにも思えた。

「あっ、ごめんね。お待たせ~!」

広場の向こうから声が聞こえたかと思うと、必死に駆け寄って来る彼女の姿を見つけた。僕はいつものようにさっそく彼女の服装やメイクやヘアスタイルのチェックを行う。

今日の服装はティアードスカートの可愛らしいグリーンベージュのワンピース、スリーブレスなので彼女の二の腕が見えるのが嬉しい。低めのヒールのサンダルはワンピースよりも緑が濃いめ。肩まで伸びたセミロングの髪は結構赤みが強くなっていた。アイシャドウを入れたことでいつも以上に目に奥行きを感じ、オレンジの艶感のあるリップで唇のプルプル感が増していた。

彼女は息を切らせながら僕の目の前に立つと、僕は開口一番次のように言った。

「今日は90点!」

「えっ、何??? あっ、そっか。あ・り・が・と!」

彼女の表情が一瞬だけ曇ったものの、すぐにいつもの彼女に戻っていた。

「俊さぁ、あっ、いや俊くん!遅れちゃってゴメンネ」

僕は彼女から『俊くん』と呼ばれていた。彼女から呼び捨てされたかと思って一瞬焦ってしまったが、なんだかいつもの彼女よりもセクシーに感じる。

「なぁ、琳。全然待ってないんだから気にしないで」

すると彼女は軽く舌を出して僕に対して愛嬌を振る舞っていた。

「俊くんったら、やさしいんだよね。そんなところ、大好きだよ」

いつもなら愛情表現はほどほどにして欲しいと言うのだが、今日の彼女を目の前にしてはいつもよりも愛情を注いでも良いと思うほど愛おしく思えた。いつもよりも僕に接近しているせいなのか、彼女からほのかに放たれる香りが心地良かった。

合流した僕らはいつものように早めのランチを食べるために、とある洋食屋さんを見つけ中に入った。

「何食べよっかぁ」

「何があるのかな~?」

「じゃあ、僕はオムライス、琳はどうする?」

メニューを開き一通り眺めると彼女も決まったようだ。

「じゃあ、私はこれ!」

いつもなら私も同じのにするっとか言うのだが、今日は違うものを食べたいようだ。

「エビ入りなんとか!」

「エビ入り?」

「お前ったら甲殻類アレルギーがあるんじゃなかった?」

「あはっ、そうだったね。私ったら、朝から体調が悪くってさぁ、その影響もあるだけだから心配しないでね」

確かに彼女の様子はいつとよりも落ち着きも無く、何か気にしているような感じもしていた。ここは結局のところオムレツを2つ頼むのだった。注文を終えると彼女は化粧室に行くと言って席を立つのだった。

一人残された僕はスマホを開き、届いていた通知を一つ一つ片付けて行く。すると、確認している途中に、大学時代の友人である金子聖仁からのメッセージが久しぶりに届いた。

━━よっ、元気してるか?僕の妻から聞いて知ったんだけど、彼女ができたんだって?今度近くに来た時にでも会わせてくれよな。じゃ、またな。

短いメッセージではあるものの、あの日以来、時々こうやってメッセージのやり取りをしている。元気にしていると返事を返し、結婚生活はうまくいっているのか聞いてみる。すると、すぐに返事が帰ってきた。

━━結婚生活は楽しんでいるさ。同棲とは安心感が違うね。それで、今でも僕はあのリップスティックを使って彼女の姿になって過ごしたりもしてるよ。非公開で二人でデュオをしてみたりしてるのさ。弟にとってもデータが回収できるから、次の開発も進められているみたいだよ。いつでも、連絡してくれたらいいから。

そんな内容の文書が一気に届き、その後で細かいやりとりが続き、一通り終えるてからちょっと経つと彼女が席に戻って来た。

「お待たせしちゃったでしょ。ゴメンネ」

彼女は席に着くや否やそう言った。全然気にしていない僕は彼女を安心させようと笑顔で答える。

「全然だよ。それに、さっきまで大学時代の友人からメッセージが届いてやり取りしてたんだよね。だから、待ってるのも平気だったからね」

すると、彼女はさっきまでのオドオドした様子から安堵の表情を見せてくれた。

「俊くん、今日はありがとう。いきなり用事が無くなって会えるようになったけど、スケジュール合わせてくれたんだよね」

すると彼女は自分の手を僕の目の前に差し伸ばして来た。

「まぁ、当然だろ」

「他になんかないの?何か気づくことないの?」

差し伸ばされた彼女の白くて長い指を見るとあることに気づいた。

「もしかしてネイルチェンジした?この前とはずいぶんと雰囲気が違うよね。それに、何か文字が刻まれているみたいに見えるんだけど」

すると彼女は指をピーんと伸ばして文字が読みやすくなるようにしてくれた。

「わかってくれて嬉しいな」

「あっ、わかった。『俊くんLOVE』ってハングルで書かれているんじゃない?」

「わっ、大正解!じゃあ、こっちの方、右手も読める?こっちはちょっと難しいかも」

僕が読めたのは文字数が少なく英語も混ざっている左手だけだった。

「さすがに右手はわからないなぁ」

「じゃあ、そっちはわかるまで宿題よ」

すると僕は彼女の両手を写真に収めて、いつでも確認できるようにしたのだ。

「お待たせしました~」

そんなことをしていると店員さんがやって来て、二人分のオムライスがテーブルの上に用意されるのだった。

「ご注文の品は以上でよろしいでしょうか?」

僕らが「はい」と頷くと店員さんは「では、ごゆっくりとお過ごしください」と丁寧にお辞儀をして立ち去って行くのだった。

「じゃ、熱々のうちに食べよっか」

こうして僕らの早めのランチタイムが始まるのだった。

「お待たせいたしました。食後のコーヒーでございます」

食後のコーヒーがやって来た。どこかコーヒーショップで飲もうかと思っていたものの、このお店はランチタイムは食後のコーヒーも含まれていた上、ゆっくりと過ごすことに問題の無い店だったから、食事に続けてカフェタイムもここで過ごすことにしたのだ。

僕は出されたコーヒーカップを丁寧に持って一口啜ると、彼女のポシェットから取り出したものを見て思わず吹き出してしまうところだった。彼女はポシェットの中からリップスティックを取り出すと、テーブルの中央に置いたのだ。

「どうして琳がそれを持っているんだい?」

僕は思いがけず言ってしまった。そのリップスティックはどう見ても例のアレに違いなかったからだ。

「えへっ、俊くん、ごめんね。実はさぁ~」

そこまで話しかけたところで、僕らのテーブルにある人物が近づいて来ていた。

「よっ、久しぶり!」

その人物と言うのは金子聖仁だった。僕は目の前にいる彼女が彼の変身した姿だと思ったのだか、これは一体どういうことなのか、ちょっとわからなくなってしまった。

「一緒に座ってもいいかな?」

突然やって来た金子はテーブルの上のリップスティックに驚くこともなく、一緒に座ろうとして来たのだ。ここは徹底的に問い詰めるしか無いと思ったので、僕の隣にある椅子を引いて座るように促した。

「おっ、ありがとう!」

彼が座ると店員さんがやって来て注文をさっと取りに来ていた。

「ブレンド」

店員さんが注文を受け取っていなくなると、彼は大きく深呼吸をしてから、テーブルの上に置かれたリップスティックを手に取り言った。

「これ気になっただろ?」

すると彼はリップスティックのキャップを外して回してみせた。するとオレンジ色のリップが顔を出すのだった。

「実はな、琳ちゃんにも協力してもらって、リップシンクの新バージョンをテストすることになったんだよね」

「新バージョン?」

「言ってなかったっけ?このリップスティックってソフトウェアをバージョンアップするだけで新機能を追加できるんだよ。ちょっとだけ教えただろ」

そう言えば、年始に会った時には姿形が変わるだけと言って、記憶や振る舞いはまだできないと言っていたことを思い出した。もしかして、それができるようになったと言うことなんだろうか。とにかく、目の前にいる彼女は彼女では無かったようだ。

「これを見たら分かったと思うけど、先生に協力して欲しいって言われたもんだからね。私、岡本琳のDNAセットも作ってもらってテストに協力することにしたの。DNAセットを作るのに莫大なお金がいるみたいなんだけど、私の分は特別モニターとしてテストに全面協力する代わりに免除してもらったんだよね」

そうだった。彼女の韓国語の先生が彼の妻と言うことをすっかり忘れていた。僕と彼女が付き合っていることなんてまるで筒抜けだったのだ。

「今回のバージョンを試してもらってるんだけどね。今日の彼女って何か違和感を感じなかった?」

「違和感。あっ、そうそう。おかしいなって思うには思ったけど、体調が悪いからそうなのかって思ってたよ」

彼の質問に対して僕は率直な感想を伝えた。

「そっかぁ。じゃあ、全然気づいていなかったってこと?」

「まっ、そうだなぁ。リップスティックを見せられるまで気づかなかったよ」

「えっ、本当?それって100%疑ってなかったってことかな?」

「完全にって言われたら、確かに20%ぐらいは疑ってたんだけど、でも、琳だろなって思ったんだよ」

そして、ここから彼のインタビューは彼女に向けられる。

「琳ちゃんにとって彼は一体どんな存在なんでしょうか?」

すると彼女は恥ずかしそうな表情を浮かべて言うのだった。

「えっ、ここで言わなきゃダメなんですか?どこか個室でもあれば、そこで話せるといいんだけど」

「それだったら、個室に移動しよっか。このお店って実は個室もあるんだよ。ちゃんと予約しておいたらから、移動しよっか」

そういうやテーブル席から立ち上がって個室へと移動するのだった。

僕らは三人で二階にある個室へと移動して来た。用意されている個室は和風モダンな室内空間で、店の人の計らいでコーヒーも入れ直して持って来てくれた。ここなら他のお客さんの目を気にすることも無い。テーブルを囲むように三人で座るとインタビューの続きが始まった。

「じゃあ、改めて琳ちゃんにとって彼は一体どんな存在なんでしょうか?」

個室に移ったとは言え、彼女の恥ずかしそうな表情は変わらない。

「俊くんなんですけど、私にとって大・大・大好きな存在なんです」

「そうなんだ。でも、それってありがちな受け答えだよね」

「だって、それ以上何か言葉で表現するのは難しいの」

そう言って彼女は僕の頬にキスをして来た。オレンジ色のキスマークを受け取ると、彼女はリップリムーバーをコットンに含ませて唇を洗い流していた。その様子を見た僕は冗談半分に「ヘィ、ティニ。リップシンク解除!」と言ってみるのだった。すると、彼女の姿形は消え失せ、肩幅が大きくて広い金子聖仁の姿形へと変わっていた。ワンピースに身を包んだ金子の姿はなんとも滑稽な姿だった。そして、金子聖仁だと思っていた彼の姿形も変化し、見知らぬ男性に変わっていた。

「初めまして、金子聖仁の弟、明仁(あきひと)です。兄がいつもお世話になっています」

見知らぬ男性はリップスティックの開発者、その人だったのだ。金子兄弟と一緒に個室にいるなんて思うと、個室の雰囲気の華やかさがどこかへ消えてしまったようだった。

そして、金子聖仁は付箋のついているリップスティックをポシェットの中から取り出し、唇に塗り始めると、パールピンクのツヤツヤな唇ができあがった。

「兄さんにこれから使ってもらうのは、また別のバージョンを入れたものだよ。こっちの方が出来がいいはずだから、敢えて正体を明かしてから使ってもらうことにしてたんだ」

今度のは何やら自信作とのことだった。金子聖仁はさきほどの付箋紙を確認してから言葉を発した。

「ヘィ、ティニ。リップシンク融合!」

彼がそう言うと、今度はパールピンクの唇が眩い琳の姿に変わっていた。姿形は全くもって琳そのものだが、さっきまでの姿よりも琳そのものの自然な表情が反映されていた。

「俊くん、お・待・た・せ!」

なんだかより生き生きしていると言うか、さっきまであった違和感はすっかり無くなっていた。

「さっき使ってもらった時にはリップシンク開始のコマンドだったんだけど、今回はリップシンク融合、元のDNAとリップスティックのDNAセットが混ざり合って、表面上はセットしたDNAが強くなるんだけど、よりその人物の情報を取り込んでいるんだ。簡単に言えば、記憶や仕草も自由にコントロールできるってこと」

そうなのだ。さっきまで使っていたものとは全く違って、その人らしく演じる必要が無くなっていた。自然に接するだけでいいのだ。だからこそ、僕は正直言って目の前にいる彼女の扱いに困ってしまった。

「ねぇ、コーヒー飲まないの、冷めちゃうわよ」

そう言ってコーヒーカップを持つ仕草を見ても、琳がいつものように小指を半分立てる角度がそのまま再現されていた。

「なぁ、こんなにも違って来るのか?金子(あいつ)が変身していると言うよりも、さっきの瞬間だけ琳が金子(あいつ)に変身していたかのように思うよ」

本当にそう思った。目の前にいるのが正真正銘の琳にしか思えないのだ。

「そうでしょ。だって、私は岡本琳なんだからね、うふふっ」

キラキラ輝く瞳を見ても彼が変身している姿とは全く思う余地が無かった。すると目の前にいる琳は、さっきと反対の僕の頬に軽くキスをして来た。

「俊くん、大好き!」

そして、左右にキスマークが残る状態で琳のスマホで写真を撮られてしまったのだ。

「この写真、壁紙にしちゃおっかな」

確かに彼女ならそんなことを考えてしまいそうだと思った。

「すっかり琳になっちゃったみたいだね。優しさも全て受け入れたくなっちゃう、でも、本当は金子(あいつ)なんだよな」

そう尋ねると琳は首を軽く縦に振って頷いた。

「なんと言えばいいかなぁ。何も考えなくで自分は琳だと言う意識しか無いのよね。でも、元々の自分の記憶があるので、潜在意識は金子聖仁だって認識してるのよ」

僕もコーヒーを飲んで心を落ち着かせていた。

「じゃあ、本当の琳と全く変わらない上に金子(あいつ)の意識があるってことか、なんか複雑だなぁ、こんなの誰が作ったんだよ」

「えっ、すごい発明だと思うよね!まだまだ改良の余地はあるんだけど、今回はここまでかな。ただし、完全に元の意識は無くすのはまずいから、身体の所有者は変身しても変わらないんだ。そこが、僕の決めたポリシーなんだし」

金子(あいつ)の弟はそう偉ぶることもなく淡々と語っていた。そうやって三人でしばらく歓談の時を持っていた。

「お・待・た・せ!」

個室の仕切りが開いたかと思うや、そこには琳と金子の奥さんの姿があった。たくさんの大きな紙袋を手から提げ、スーツケースまで持って来ていた。

「ここまで持って来るの大変だったんだからね。義弟(おとうと)から被験者は多ければ多いほど良いって言われて彼女の家で物色して来たんだからね」

二人がやって来たのに驚く暇もなく、次から次へと時間が過ぎて行く。それにしても、目の前に琳が二人いると言う光景はなんとも言えなかった。金子聖仁が変身している琳の姿も完璧に琳としか思えないからだ。本物の琳はと言えば驚くそぶりもなく、二人で並ぶように座るのだった。

「本当に先生の夫なんですか?目の前に私がいるみたい、ここにあるホクロだってちゃんと再現されてるんだから、すごいなぁ」

普段は自分の姿は鏡で見ることが多いわけで、いつも見る自分トラブル左右が反対だったりする。客観的に自分のことを眺める感覚はいったいどんな感じなのか、ちょっぴり琳が羨ましく思った。

「先生と私も一杯だけ飲んでから、次の場所へと移動しましょうね」

どうやらこれからの流れを知らないのは僕だけらしかった。琳も含めてみんなに仲間外れにされていた気分は、僕が知らなかっただけらしかった。人も増え、二人の飲み物も差し出されて個室の中は熱気に溢れて来た。個室の中にある長方形のテーブルには三人掛けのソファーとそれに向かい合うようにして3脚の椅子が用意されている。部屋の扉の半分は半透明となっていて、廊下の外は見えるが、外からは少し見にくい感じとなっている。部屋の中は全体的に木目の壁紙が使われていて、長時間いるのにも適していた。

ソファー席の一番奥に、金子明仁が座っている、この部屋に入るまでは聖仁に変身していたが、今は自分の姿になっている。その隣に座っているのが金子聖仁が変身している岡本琳、そして、その隣が正真正銘の岡本琳だった。そして、僕は椅子席側の真ん中に構えていて、この部屋に入るまでは自分の彼女と向き合っていると思っていたが、それは違っていたのだ。入口側の椅子に李銀河さんが座っていた。国際結婚なので夫婦別姓と言うことだった。

それにしても、いい思いをしているのは金子(あいつ)ばかりのように思った。以前はリップシンクによって彼女になっていたが、今は僕の彼女になってしまうなんて、僕という彼氏がいるにも関わらず、こっそりこんなことに付き合っているのに呆れてしまっていた。

「じゃあ、続いての試験のことについて話しておこうね」

金子明仁はカバンの中から何やら取り出すとテーブルの真ん中にゆっくりと並べていた。やはりリップスティックなのだが3本取り出していた。全て同じサーモンピンクでそれぞれについている付箋のメモには「聖、明、李」の文字が書かれている。

「これを準備するの大変だったんだよ。3本のリップスティックは全く同じもので、琳ちゃんのDNAセットを使ったもので統一されている。本体も中身のソフトも全く同じバージョンで、今回のテストバージョンが入っているからね。付箋はどのリップを使ったのかがわかるようにするためのものなんだ」

3本とも同じものと言うことはまさか、3人とも琳に変身すると言うことなのだろうか。明仁は説明を続けていた。

「高比良さん。この3本を3人で同時に使うとどういうことが起こるのかわかりますよね」

「それって、琳が3人増えるってことだよね」

「ピンポーン!大正解です。高比良さんには、4人の中から本物の琳ちゃんを当ててもらうことになるんです。いいですか?」

いいですか?と質問されたかのように見えるが、実際には確認の意味に過ぎなかった。僕はそれに対して力無く「はい」と返事するしか無かったのだ。

「じゃあ、そう言うことなので次の場所に向かいましょ」

このようにして僕らは次なる場所であるカラオケボックスへと向かい、琳が4人いる状態が再現されていたが、僕は辛うじて本物の琳を見分けることができた。それでも、外見だけでは全く見分けがつかなかったので、リップスティックの開発者である明仁はデータを元に次なる改良を進めるとのことだった。

あれから2週間が経ち、琳の誕生日がやって来たので、二人で眺めのいい高層ビルの最上階にある鉄板焼きのお店で食事をすることになった。琳の服装を見てドキッとしてしまったのだが、セクシーなスリッドが入った。紺のパーティードレスに身を包んでおり、タイトに締め付けられて彼女の胸が膨よかに実っていた。カウンター席に並んでいた僕らは食前酒として出された赤ワイングラスで乾杯をしてから、会話を始めていた。

「その衣装って、まさかあの時の」

「そう!あの時に聖仁さんが身につけてた衣装よ。あの時に揃えた衣装は明仁くんがレンタルしたものだったんだけど、この衣装だけは買い取ってもらったんだよね」

僕はこの衣装を見るだけで、あの時の記憶が蘇って来てしまう。琳の姿をした聖仁はこのセクシーなドレスでもって琳のセクシーな面を僕にしっかりと見せてくれたのだ。最後まで本物の琳と区別が付きにくかったのだが、一瞬だけ出た聖仁の癖を見逃さず、彼だと見抜いたのだ。本物の琳はどこにでもある普通の2本線のセーラー服に身を包んでいた。学生時代は身につけなかったミニスカだったので、騙されるところだった。そんなことが頭の中に浮かんで来てしまうのだ。

「なんかこのドレスって、胸元が寂しいからね。ここに何かあるともっとステキに見えると思わない?」

そう琳に言われると僕はさっそく準備しておいた誕生日プレゼントの箱を手渡した。

「あっ、縦に長い小さい箱、開けてみていいかしら?」

琳はゆっくりと箱を開けてみると、中には胸元に当たる部分がキラキラと光るシルバーネックレスが入っていた。

「わっ、まさに私が欲しかったものだ」

そう言って感情を抑えきれなくなったのか琳は僕に抱きついて来た。

「俊くん!ありがとうね!」

耳元でささやくように言ったかと思うや、そのまま軽く口づけされてしまった。

「まだ、早いだろ。これから食事なんだし」

「だって、我慢できなかったんだもの」

そんな風に無邪気に笑う琳の姿が僕は好きだった。そして、さっそく寂しくなっていた琳の胸元にネックレスを当て、琳のパーティードレス姿が一層華やかに彩られていた。着飾った二人に鉄板焼きのフルコースが振る舞われ、しばらくはゆっくりとした食事の時を楽しむのだった。

「じゃあ、改めて乾杯!」

最上階のレストランから、下のフロアにあるホテルへと場所を移し、飲み直すことにした僕ら、まずは缶ビールで乾杯を済ませていた。婚前交渉はしないと決めているので、ベッドの上で寄り添いながら飲み直していくのだが、缶ビールを飲み干すと、もっと刺激の強いお酒が飲みたくなって、韓国焼酎の瓶を開けるのだった。

「またまた、乾杯!」

ここまで飲んでいたのは食前の赤ワイン1杯と缶ビール1本だけ、ここから一気に度数の高いお酒にしたせいか、二人は妙にハイな気分になっていった。韓国焼酎を二人で1本飲み干したところで琳はさらにご機嫌となり、2週間前の出来事についてまた語り始めるのだった。

「このドレスを着ていた琳は、結局聖仁だったんだけど、どう思った?とってもセクシーで今にも抱きしめたいと思ったんじゃない?」

「いや、あの時は本物の琳かどうか見分けるのに必死だったから、そこまでは考えて無かったよ」

「うっそだぁ。あの時は4人の琳がいたけど、この姿が圧倒的に大人な琳だったよね。セーラー服の琳に加えて、他はスーツ姿と競泳水着だったんだけど、あの時の俊くんったら、この姿の琳にデレデレだったでしょ」

確かに琳の言うことはある程度間違ってはいなかった。だが、あの時は本物の琳である確率が4分の1だったので、どうしても引いて考えるしかなかったので、かなり理性が働いていた。

「まぁ、私はね。俊くんのことが好きだって気持ちをもっと素直に伝えたいだけよ」

そう言って、またまた僕の唇を奪っていく、しかも沈黙の時はかなり長い時間続いていった。

そんなことをしていると突然部屋の玄関が開くのだった。なんと部屋の玄関から入って来たのは、セーラー服に身を包んだ琳の姿だった。その姿を見た瞬間、しまったと思った。まさか、今まで一緒にいたのは本物の琳では無かったのだろうか、そんな考えが浮かんだのだ。

「俊くん!」

セーラー服姿の琳はそう言ってから、言葉を続けた。

「もしかして、金子(あいつ)の変装だって気づかなかったの?私のことちゃんとわかってるって、見分けてくれたじゃない」

彼女の表情は物悲しい中にも怒りのこもった、そんな表情だった。そして、パーティードレスに身を包む彼女も負けじと、僕をしっかりと抱き抱えていた。

「俊くん!そっちこそ金子(あいつ)よ。騙されないでね」

彼女は温もりを感じさせながら、執拗に僕に迫って来た。なんだか、それこそ金子(あいつ)のような気がしてしまう。僕は二人のリップを拭き取り「ヘィ、ティニ。リップシンク解除」と素早く言うのだった。変身している方は元の姿に戻ったはず。この先の話を書くと長くなりそうなので、今はここまでに書き留めたいと思う。

(つづくかも)




(あとがき)
「リップシンク」で完結としていたのですが、
続きを書くことにして4ヶ月に渡ってここまで書き上げました。
次の作品で完結となると思いますが、
続きが書き上がるまでは、
とりあえずもやもやしながら待ってくださればと思います。

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Xのアカウントは @skyseafar です。
では、夏目彩香でした。