リップシンク
作:夏目彩香


「ねぇ、これから私の部屋で飲み直さない?」

ここはとあるバー、仕事始めも終わり、初日から遅い時間になったにも関わらずやって来たのだが、カウンターの隣の席に座った女性から声をかけられてしまった。そして、出会ったばかりだと言うのに話が盛り上がり、バーの営業が終わる頃に話し足りなくなって、彼女の方から誘って来たのだ。30代が目の前に迫っている僕にとって、思いがけないチャンスだと言うこともあって。初対面ということにも関わらず、お酒の勢いもあって一緒に彼女の自宅へと向かっていた。僕に起きた出来事についてこれから書いていこう。

とにかく、社会人になってから一人暮らしを続けているという彼女、終電が終わりそうな時間だが、そんなことを気にする様子は全く無い。それもそのはず、彼女は都心のマンションに暮らしているのだ。ここからタクシーを使うこともなくすぐに帰宅できると言った。終電を逃してしまえば、タクシーで帰るしかない僕にとっては羨ましい限りである。

彼女の住むマンションはさっきのバーから歩いて10分もかからないで辿り着いた。共同エントランスの前にはまだ門松が飾られており、お正月の雰囲気が残っている。一戸建ての実家に未だに住み着いている僕としては、マンションに来るだけで新鮮に思えた。都心のマンションだからなおさらだった。

共同エントランスの前に立つ彼女は何やら端末に向かって自分の顔で覗き込んでいるように見えた。そう、このマンションでは顔認証が使われているのだ。共同エントランスはもちろん、エレベーター、自宅の玄関に至るまで全て顔認証が使われているとのことだった。

エントランスの扉が開くと、ハイヒールの音を軽快に響き渡らせ、エレベーターの前に立った。何杯もカクテルを嗜んでいたはずなのに、決してふらつくこともない立ち姿、なんだかカッコ良く感じてしまう。膝上丈のチャコールグレーのタイトスカートからは淡白いベージュストッキングに脚が包まれており、爪先部分がVの字にカットされたマットブラックのアーモンドトゥパンプスへと吸い込まれている。首元にリボンがアクセントになっているピンクのブラウスに、丈が短めのスカートと同系の色と素材でできているジャケット、その上にはベージュピンクのロングコートで覆われている。営業成績が抜群と言うことがよくわかるほど、何かオーラが漂っているのが見えた。

そして、エレベーターに乗り込むや彼女の自宅のある階数はすでに光っている。エントランスで認証すると行き先階を認識するシステムのようだった。短い移動時間でもエレベーターの中は二人から流れるアルコールの匂い、それに彼女からほんのりと香る香水の香りが広がっていた。

エレベーターから降り立つと、すぐ右にある部屋へと向かった。もちろんここも顔認証で玄関を開けるため、端末に向かっていた。顔認証を行う彼女の横顔を今は僕だけが独占している。そう思うだけでもなんだか嬉しくなった。肩よりも長く伸びたストレートの髪、ほんのりとした栗色が煌めいてみえる。ダークグレーのアイシャドウで目元が強調されてくりっとした瞳、眉間からすっと降りて来る鼻筋、ほんのり明るいシアーピンクのリップに包まれた唇、そして、頬に広がる紅色まで僕の目にしっかりと焼き付いた。

玄関の扉が開くと、彼女はパンプスを脱ぎ捨てて廊下の奥にある扉を開いた。続けて僕も入ったが、革靴を脱ぎキレイに揃えて置き直した。脱ぎ捨てられた彼女の温もりが残されたパンプスを手に取り、キレイに並べて置いた。仕事始めからとても疲れているように思えたので、パンプスを投げ捨てることも無理が無いと思った。

部屋の中へと入るとシンプルな家具で統一されており、女性でも男性でも問題のない無難なもので揃えられていた。リビングの中央に置かれた大画面のテレビと大きなスピーカーがあるのを見ると、シアタールームと呼んでもいいくらいだ。とにかく部屋は隅々までキレイにされている。

「ワインでいいかしら?」

リビングに入るや否や彼女が尋ねてきた。僕は「もちろんです」とすぐに返事を返した。思ったよりも部屋は広くて二人暮らしも十分にできる感じがした。彼女はソファーに座って、その中央に小さな丸いテーブルを置いた。テーブルの上にはワインボトルとワイングラスが用意されていた。

「こっちに座ってくれない?」

僕は彼女に促されるがまま、空いていた隣の席に座った。初対面の独身女性の部屋で二人きりでいるなんて、普通はありえない状況だろう。彼女の実年齢はまだ聞き出せないでいたのだが、どう見ても僕よりは年上に見える。彼女のコートとジャケットはリビングの隅にあるコート掛けにかけられ、ブラウスとスカートだけとなったため、何かグッと来るものを感じた。その彼女はワイングラスに赤い液体を注いでくれ、片方のワイングラスを僕に差し出した。

「はい、どうぞ」

ワイングラスを受け取る際に彼女の指にちょっとだけ触れてしまったが、それがまたドキッとしてしまった。

「じゃあ、私が乾杯の音頭を取ってもいいかしら?」

静まり返った室内、僕は彼女に言われるがまま、頷いていた。

「私たちの新しい出会いに感謝します。さっきはバーで飲んだから言えなかったこともあるので、ここで飲み直しながら話しちゃいたいと思います。そっれじゃあ、私たちの新しい出会いに乾杯~!」

お互いのグラスを軽く当てて、一口だけ口に含むと飲み直しの時間が始まった。バーで途切れていた会話の続きから話し始め、二人の距離感はあっと言う間に縮まって行くのだった。




この部屋にやって来て二時間ほど、辺りはすっかり静かになっていた。グラスに注がれたロゼワイン。これが最後の一本でもうストックは底をついていた。ソファーの上で二人は体を密着させるようにしていた。ワインが置いてあるテーブルは少し離れた場所に島流しされてしまった。

彼女は徐にリモコンを手に取り、ブルーレイレコーダーを操作して、歌番組を見せてくれた。テロップに映し出されているのはハングルで韓国語の歌番組のようだった。かろうじて数字だけは読めて、どうやら西暦を表しているようだったので、その数字から計算すると15年前の映像ということも分かった。

「今でこそK-POPなんて言葉があるけど、私はまだそう呼ばれる前の時代の韓国歌謡が好きなの、この女性グループなんてリップシンクだったんだよ。要するに口パクのことなんだけど、振り付けが激しいダンスだから、最初から歌うことは諦めて、歌よりもパフォーマンスを優先したってこと、まぁ、そんな懐かしい時代もあるのよねぇ」

彼女は筋金入りのK-POPマニアということは話の中から伝わっていたが、ここまで古い映像を持っているとは知らなかった。同じ曲が繰り返し再生されるようにセットしてから、リビングの奥にある部屋へと入って行った。そして、戻って来るとリップスティックを手に持って戻って来た。彼女はそれをテーブルの上に置いて話を続けた。

「このリップスティック、さっき見せた女性グループのリーダーも昔からよく使ってるものなのよね。何か気づかないかな?」

なんとなく見ていたため、あまり気に留めずにいたのだが、もう一度大きな画面に目を向けて映像を再度確認してみると、パフォーマンスをしているアイドルグループはメンバーが3人、その中央で立ち居振る舞っているメンバーをよく見ると、僕は驚愕してしまった。

「まさか、あなたってこの女性グループのリーダーだったんですか?」

深夜なので近所に聞こえてしまうのではないかと心配するくらい、思わず大きな声で叫んでしまった。そんな僕の姿を見る彼女の姿はなんだかとても嬉しそうな表情を浮かべていた。

「そうよね。絶対そう思うわよね。確かに激似なのは認めるけど、私はそうじゃないのよ」

日本人が喋るような流暢な日本語、あの韓国人グループのメンバーでここまで流暢に喋られるのかはわからなかった。ただ、幼い頃に日本での生活経験があるならば、可能とも言える。

「その女性グループのリーダーの身体を再現したものというのは間違いないけどね」

「再現?」

「あっ、言い過ぎちゃった」

「再現ってどう言うことなんですか?まさか、整形手術で彼女の姿に近づけたってことだったりして」

もう夜もかなり深くなっていることもあってか僕自身、自分が何を質問しているのかわからなくなっていた。すると、彼女はグラスに残っていた最後の液体を一気に口に放り込んでいた。

「じゃあ、もういいわよね。種明かししちゃいましょ!ルールとしては、質問に答えられなかったら、服を一枚ずつ脱いでもらうってことになってるからね、じゃあ、スタート」

もう反抗するような気力はあまり残っていないため、なんだか知らないがすっかり彼女のペースに飲まれていた。正確には酒と女に飲まれたと言うといいのだろう。彼女は立ち上がって玄関へと向かって行った。さきほどは気づかなかったが、玄関にはシューズクロークがあるのだった。

「では、第一問!これを見て何か感じることはありませんか?違和感の正体はなんでしょうか?」

シューズクロークに入ると、そこには彼女のものと思われる靴ばかりではなく、男物と思われる革靴やスニーカーなども一緒に並べられている。サイズが違い過ぎるため、これはどう見ても彼女の靴ではないと分かった。

「これって、あっ、ここには彼氏の靴を置いてあげてるとかですか?」

僕は渾身の思いで話したのだが、違ったようだった。

「ブッブー!不正解です!じゃあ、一枚脱いでください!」

彼女の表情はとっても嬉しそうだった。僕は上着として身につけているカッターシャツを脱いで、脱いだものはリビングの片隅に置いた。そうしているうちに、今度はリビングの奥にある部屋に彼女は入って行った。僕もそのあとをついて行く。彼女は部屋の奥にあるウォーキングクローゼットの扉を全開にしていた。ベッドの脇にあるが、思った以上に広くて、なんでも収まってしまいそうだ。ここでも半分は明らかに彼女のものではない、男物の衣装で占められていた。

「それでは、第二問!さっきと同様に、何か感じることはない?」

「彼氏の衣装を置いてるんじゃないなら、仕事用として使う男物を保管しているとかかな?」

「はぁい、残念でした。もう一枚脱いでね!」

彼女はニヤリとした表情を見せ、次なる場所に案内された。僕はスラックスを脱いでさっき脱いだシャツの上に被せておいた。残るはTシャツとトランクだけなので、あと2問落としてしまうと全裸になってしまう。彼女が恥ずかしくないなら別に構わないのだが、それがわからない今はさすがに恥ずかしく思った。そうこうするうちに、彼女はキッチンの方へと移動した。

「続いて、第三問!このあたりで何か気づくことはないかしら?」

狭いながら対面式のキッチンになっていることもあって、キッチンに立つとリビングの様子がはっきりと見えて来る。キッチンには必要最低限の家電が置かれているだけなので、リビングに見えるものがヒントなはず。しかし、ここでは何もわからなかった。

「降参です!最後に大ヒントをください!」

僕はTシャツを脱ぎながら無我夢中に声を出していた。あとはトランクスしか残されていなかった。

「じゃあ、次が最後ね!」

彼女はそう言って、キッチンから出てリビングの一面の壁へと向かって行った。

「最後はこの壁で〜す!何かわかるかしら?」

その壁をよく見てみると、さまざまな白黒写真によって壁紙が構成されていることがわかった。そして、入念に見てみるとこの中に仲の良さそうな男女が写っている写真が目に飛び込んで来たのだ。写真の中にいるその男性は大学時代の友人に間違いなかった。それほど親しかったわけではなかったので苗字も思い出せない状況だが、確かに彼に間違いはなかった。そして、その隣にいる女性は目の前にいる彼女の姿、それも女性アイドルグループ時代に着ていたかのような衣装を身につけているようだった。そして、周囲にある写真からすると街中がハングルで溢れていることからも、韓国で撮った写真と言うこともわかる。さらに二人の決定的な証拠写真も見つけて、なんとなく正解がわかった。

「僕の大学時代の友人である彼と君が付き合っているってことですか?そして、この家はその彼の自宅!」

「わぁ、大正解!トランクスを脱いだ姿も見たかったけど、今は我慢するわね。実は、彼が韓国に語学留学してる時から付き合い始めたんだけど、私も必死になって日本語を勉強して、日本の会社に就職を決めたのよね。やっぱりアイドルって、売れなくなると使われなくなっちゃうから、それならと思って歌のレッスンの時から始めた日本語の勉強をして、日本でも語学勉強した上で就職を決めたってわけ、今では日本人との区別もなく働いているのよ」

「なんだ、そんなことだったんですか、今彼は外出中なんですか?でも、そんな時に僕をここに連れ込むなんていいのかなぁ」

僕がそんな風に言うと彼女は高笑いを始めた。

「そう、そう、そう。そう言うと思ってたわ。実は、今ここにいないのは彼じゃなくて彼女の方なのよ」

目の前にいる彼女はおかしなことを言い始めた?目の前に彼女がいるのに、彼女はここにいないなんて、いったいどう言うことなのかわからなくなってしまった。

「まぁ、リップシンクしていたらわからないわよね。彼女の身体を再現したものだって言ったでしょ。ちょっと待っててね」

すると、彼女は寝室へと入りリップリムーバーでリップを落とし、身につけていたものを全て脱ぎ捨て、男物のトランクスとTシャツを身につけ、大きめのトレーナーを着て出て来ると口を開いた。

「準備完了、それでは。ヘィ、ティニ。リップシンク解除!」

すると彼女の容姿が徐々に変化していき、身体の輪郭の曲線ががっしりとした形へと変形し、栗色の長髪は白髪混じりの黒髪になった。そして、胸の膨らみも消えて、逆に陰部からブラブラした膨らみができていた。スベスベだった脚も毛が生えて逞しさを増していた。そして、一度下を向いてしまった顔を見上げると、彼の顔へと変わっていた。

「へっ、へっ、へぇ。久しぶりだね。外出中なのは彼じゃ無くて彼女だってことがわかったよね」

彼女が彼に変身するのを目の当たりにした僕は、いったい何が起きたのか把握できないでいた。

「まさか、君が彼女に変身してたってことかい?ここが君の家なんだよね。それにリップシンクって何なんだい?」

「まぁまぁまぁ、落ち着いて、落ち着いて。君の疑問にはゆっくり答えてあげるからさぁ。僕の家に君を連れて来るために彼女の姿に変身してたんだよ。でもって、変身するために使ったのがこのリップスティックで、リップシンクと言う機能によって変身ができる特殊なリップスティックなんだよ。ここには彼女の持ち物もあるので、それを使えば君をここまで誘い出せると思ったんだよ」

僕はようやく状況を把握できた。今まで彼女だと思っていたのは彼が変身した姿であって、彼が彼女を演じていたのだ。

「なんとなくわかってきたんだけどさぁ。どうして僕を誘い出そうなんて思ったんだい?普通に会えばいいことのように思うんだけど」

「なかかないい質問だね!実は折を言っての頼みがあるんだよね。夜も遅くてすぐに休みたいから単刀直入に言うけど、君に彼女になって欲しいんだ」

そう言うと彼はとても真剣な眼差しで僕を見つめ返していた。

「彼女になるって?」

「そう、彼女になってもらいたいんだ。じゃあ、せっかくなのでもう一度見せてあげるよ」

彼はそう言うと、さきほどのリップスティックを持って、唇にラインを引くように塗っていった。

「まずは、こんな風にリップをしっかりと塗ると準備完了。続いては、ヘィ、ティニ。リップシンク開始」

彼がそう言った途端に、彼の身体の輪郭は次第に曲線に変えられていき、髪が長く伸びて栗色へと変わっていく、トランクスの中でイキリ立っていた膨らみも無くなり、トレーナーをいっぱいに押し付けるかのように胸が膨らんでいた。頭を上げると、そこにはさっきまで一緒にいた彼女の姿に変わっていたのだ。

「またお会いできたわね!こんな感じで、このリップスティックを使ってリップを塗ると、そのリップスティックにセットされたDNAチップ、まぁこれってデータが格納されているメモリみたいなものなんだけど、そのチップに書き込まれた情報を使った姿に変身できるってわけ、ただし今は姿形だけなので、彼女の記憶や振る舞いはまだできないんだけどね。開発している弟が次に改良しようとは聞いているから、そのうち簡単に人間のコピーができてしまうかも知れないわ」

「ねぇ。触ってみてもいいかな」

「触りたいの?もちろんいいわよ。君が彼女になってくれるって決意してくれるならお安い御用だし」

すると僕は彼女の姿になった彼の髪を確認し、腕を持ってみたり、丸みを帯びた肩を触ってみた。シリコンのような人工物でできているわけではない、本物の触感が伝わって来るのだ。

「彼に遠慮しなくてもいいんだよ。どうせこの身体は模造(フェイク)なんだし、彼の同意のもとでやってるんだから、もっと気になるところを触って欲しいな」

すっかり酔いが覚めていたこともあってか僕は真面目なことしかできないでいた。そんな僕にも眠気がやって来て、ハッと目を開けると彼女が身につけているものを全て脱ぎ去ろうとしていたのだ。そして、ソファの上で体をくねらせながら、まるで猫のように迫って来ていた。

「い・ま・だ・け・よ」

自分の息子に手をやるとビンビンにイキリ立っている状態だった。目の前にいるのが彼だなんて微塵も思わずに、何か吹っ切れてしまったのだ。彼女の膨らんだ胸に顔を埋めながら、自分の息子を彼女の空洞へと差し込んだ。そして、そのまま力尽きて眠ってしまうのだった。




部屋の中に朝日が差し込んで来た。カーテンを全開にすると強烈な日の光が入って来たので、それに気づいて僕は目を覚ました。起き上がった場所はソファの上では無く、ベッドの上だった。ちゃんと掛け布団もかけられていたのだ。そして、キッチンの方から何やらコーヒーの良い香りが漂って来た。起き上がってリビングに入ると、キッチンで朝ごはんの支度をする彼女の姿があった。

「あっ、おはよう!」

僕が起きて来たのに気づいた彼女は元気に挨拶をして来た。

「おはよう」

「昨日のこと覚えているかしら?」

彼女に話かけられるが頭がガンガンして何を言っているのか耳に入って来なかった。

「あなたったら、この部屋に入った途端に倒れるかのように眠っちゃったのよ。ベッドまで運ぶの大変だったんだからね」

黒のマーメイドワンピースに身を包み、エプロン姿の彼女はトレイの上にコーヒーとトースト、それにスクランブルエッグと言うシンプルな朝ごはんを持ってソファの中央に置いた丸いテーブルの上に置いた。

「こんなのしかないけど、良かったら食べてね」

僕はソファに座るとまずはコーヒーを一気に口に入れた。出された朝食でお腹の中が満たされると、ようやく周りの景色がだんだんと見えるようになって来たのだ。しっかりと立てるようになって来たので、トイレに向かうついでにシューズクロークを確認した。男物の靴なんて一つも無く、彼女の所有物だけだった。僕は慌てるかのように寝室へと向かい、ウォーキングクローゼットを開いてみた。

「ちょっと、いきなり何するのよ」

彼女の声が聞こえたが、ウォーキングクローゼットの中には男物の衣装は存在しておらず、彼女の物で溢れかえっていたのだ。そして、リビングに戻って壁紙を確認するのだが、そこには写真のようなものは無く、ただの模様に過ぎないことも確認できた。

「あなたが飲み過ぎてあまりにも気持ちよさそうに寝てたから起こせなくなっちゃってね。寝起きだって言うのはわかるんだけど、いきなり私生活を覗き見されるのって普通だったら嫌なのよね」

「あっ、ごめんなさい。ちょっと確認したかったものだから」

僕はひたすら彼女に謝るのだった。

「あなたが確認したかったものって、これでしょ」

すると彼女はあのリップスティックを僕の目の前に差し出したのだ。

「悪い子にはね。このリップスティックを塗ってあげるからね!」

なんだか彼女は楽しげな表情で僕の唇にリップを塗り始め、時折ティッシュオフしながら、キレイに整えていくのだった。

「ヘィ、ティニ。リップシンク開始!」

彼女がその言葉を発すると僕は記憶が遠のいていき、気を失ってしまった。




部屋の中に朝日が差し込んで来た。カーテンを全開にすると強烈な日の光が入って来たので、それに気づいて僕は目を覚ました。今度はソファの上に横たわっているようだった。ムクッと起き上がると何か違和感を感じることでいっぱいだった。髪が長く栗色となり、胸の辺りがなんだか重たくなっていた。なによりも全身の感覚がいつもとは違う。

「あっ、目覚めてくれたんだね。マイハニー!」

目の前には大学時代の友人である彼の姿が迫って来た。そして、ご飯に味噌汁だけをお盆に乗せたものがテーブルの上置かれている。

「まずは、食べてよ。元気出していかなくちゃね。やっぱり君がいてくれると僕は本当に心強くなれるね。いつもありがとう」

僕は立ち上がって自分に起きたことを確認しに洗面所へと行った。

「わぁ、これって一体?」

鏡の中にはキョトンとした顔でこちらを見つめる彼女がいた。その彼女は、さっき目の前で見た黒のマーメイドワンピースを着ている姿だった。そんな風に戸惑っていると、背後から彼がやって来て言った。

「リップシンクの機能を初めて使うと幻覚や幻聴を見てしまうからね、まずは冷静になることが大切なんだよ。まずは深呼吸をして心を落ち着かせて」

彼に言われるがまま深呼吸をすると、だんだんと心が落ち着いてきた。

「リップシンクって、まさかリップシンクしちゃったの?」

「だって、それに同意した上で君は触っちゃったんだからね。大丈夫、下着もちゃんと着替えておいたから、あとは、なんだって僕がサポートしてあげるからね」

彼の表情は本当に自分の愛する人に接するかのようで、僕と接するのとは全く違った。

「リップシンクって、完璧にその人の容姿をコピーできるってことなんですよね。自分の意思とは関係なくリップシンクされてしまうってこともあるんですか?」

目覚めてからもなお彼に色々と質問をした。

「なんだか興醒めしちゃうじゃないか、マイハニー。今だけ君に話してあげるけど、このリップシンク機能の付いたリップスティックは音声認識で実行できるようになってるんだよね。リップをしっかりと塗ると音声認識が使えるようになって、その時に例の音声認識の呼び出しコマンドを言ってから『リップシンク開始』って言うとリップを塗った身体の細胞にDNAの同期が行われて全ての細胞が書き換わり、結果的に変身が行われるってことになるんだよね。全ての細胞で同期が終われば、もう本人と区別をつけることはできないよ。顔認識だって破れるくらいなんだからね、以上。最後に何か聞きたいことは無いかい?」

質問できる最後のチャンスとなってしまうのだろうか。最後に聞いておきたいことがあったのを思い出した。

「どうして僕に彼女になってもらおうって白羽の矢が立ったってわけ?僕が彼女になるなんて思ったりしたの?」

「だって、君のSNSを見たらさぁ、異性装で楽しんでいる写真がアップされていて、女として生まれて来たら良かったかもねって書いてあったよね。だから、ここに巻き込めるんじゃないかって考えたってわけ」

あっ、確かにSNSにそんな写真をアップしたことがあった。女性物を男性が着ても構わないとは言っても、やはり周りからすれば、女装にしか見えないわけで、それなら女になって着てみたかったと言う感じのニュアンスで書いただけだった。僕の質問は一通り終わった。

「じゃあ、ここからしばらくはマイハニーとして接してもらうからね」

「しばらく?それってどのくらいですか?」

「今ちょうど帰省しているんだよね。いつ帰って来るかによるけど、早ければ今日にも帰って来るかも知れないし、一ヶ月になるかもわからない」

再就職活動中の僕にしては、現実世界から逃げてみるのも楽しいことだった。そう思うと気持ちは一気に楽になっていた。

「せっかくだから、気持ちの切り替えをするためにも、自分でリップシンクをオンオフしてもらおうっか」

そうするとリップリムーバーでリップを落としてから「ヘィ、ティニ。リップシンク解除!」と言ってみたのだ。着ているものはそのままに僕の姿が戻って来た。そして、下着から息子がはみ出てしまったこともあって、すぐにリップを丁寧に塗って「ヘィ、ティニ。リップシンク開始!」と自分自身の意思でリップシンクを行ってみたのだ。一瞬気を失ったかと思うとすぐに意識が戻って来た。

「やったぁ。自分でも成功したね!僕の愛しのハニーが帰って来てくれるのはやっぱり嬉しいな!」

彼は全身でオーバーリアクションしながら喜びを噛み締めていた。僕は自分の身体に起こった変化に再び戸惑っていた。さっきとは違ってスムーズに事を運べずにいた。そして、声を出してみようとおもうのだが、なんだかいつもとは勝手が違うらしく、喉を震わせるだけで言葉にならなかった。

「うぅ、うぅ、うっ、うっ、あっ、あっ、あ~、あ~、は~、は~っ、はっ、はっ」

そして、ゆっくりと深呼吸をしてから自分から変身して、この身体として最初の言葉を発してみた。

「初めにことばがあった!あっ、出た~出た。ちゃんと声が出た」

自分の声は周りに聞こえる声と違って聞こえる。だから、彼女から聞こえて来た声とは若干違う声で聞こえていた。隅から隅まで彼女の身体に変化しているかどうか確認するのだった。これがリップシンクの実力なのかと思った。せっかくなので、僕、いや私は寝室のウォーキングクローゼットへと入り、彼が気にいりそうな服を見つけたので、それを身につけてみる。さらに、ドレッサーでお化粧を始めてみたが、時折女装しているからやり方はわかっているが、まるで彼女の身体が覚えているようでスムーズに捗った。




「お・待・た・せ」

リビングにいる彼にとびっきりの声を浴びせていた。彼の背中が一瞬ドキッと動いたのを見逃すことは無かった。

「だいぶ時間がかかったみたいだけど、とってキレイだね」

「ありがと、このドレスってドキッとするわよね」

胸元と背中が大きく開いたピンクのパーティードレスに袖を通し、部屋の中ではあるが9cmのピンヒールを履いて彼の前に出て行ったのだ。きらりと光るさりげないピアスも輝かせ。女性グループのリーダーの身体を再現した者としてふさわしい声と話し方をしてみた。

「ねぇ。私って、キレイかしら?」

「もちろん、キレイだよ」

「私がもともと男の姿だってことは気にならないの?」

「そんなの全然気にならないさ、僕は君の姿形が一番好きなんだし」

私はそう言って、彼の背後から抱きついてみる。

「そうだったのね。教えてくれて、あ・り・が・と・う」

背後から手を回していた私は、そう言ってから彼の唇にキスをした。ほんの少しだけ息ができなくなるほどの状態が続き、彼は私の虜になってしまったようだった。

「このままずっと君が彼女をやってくれるなら、彼女が帰って来なくても大丈夫なんだけどなぁ」

ちょっとサービスが行き過ぎてしまったようだ。彼の気持ちを高めようとは思ってもいなかったのだ。

「あっ、ちょっと待って。この姿ってDNA情報を再現したものって言ってたわよね。と言うことは、出て行った彼女って言うのもDNA情報を再現した彼女ってことなの?」

「えっと、それは~」

彼がそこまで言いかけたところで、玄関の扉がゆっくりと開くと、大きめのスーツケースと免税品バッグを抱えた女性の姿があった。

「ただいま~、また誰か連れ込んで来たのね。本当に懲りないんだから、いつも帰る時は連絡してるのに、今回もメッセージ送っても未読スルーだったから心配したんだよ~」

どうやら、女性グループのリーダーだった彼女に間違いが無かった。本物のパスポートを持っているためDNA情報で操作した彼女と言うことではなく正真正銘の本物だった。

「二人とも同棲じゃなくて、ちゃんと結婚したらどうですか?」

ドレス姿の私を見る彼女は何やら言いたげにしていた。

「結婚したいのは山々なんですけど、彼がなかなかOKしてくれなくってね。私の服を勝手に着てもらうのは別に構わないんだけど、このドレス姿って本当に可愛過ぎ!こうやって客観的に自分のことを眺めるってのもいいわね」

本物の彼女が帰って来たので、私の役目は終わった。

「本物の彼女も帰って来たわけだし、私の役目は終わったわよね。これで帰らせてもらうからね」

私がリップリムーバーで唇を拭おうとすると、彼女が遮って来た。

「せっかく、私が二人もいるんだし、すぐに帰ってもらうには惜しいわね。ねぇ、もし良かったら今日だけでいいんで『双子』として楽しんでみない?」

私にとってはまさかの展開だったが、時すでに遅し、彼女のペースに引き込まれてしまっていた。

「おっ、二人のデュオでも結成されるのかな。なんかいいねぇ!そうは言ってもこうなると推しは彼女だけだけどね。せっかく彼女の姿形を再現してもらったんだから、みんなでデートしよっか」

「賛成~!」

もちろんこうなってしまうと、私の意見は通らないわけだが、とりあえず、一緒に過ごすことにして、やけになって言ってしまった。

「やったー!じゃあ、私たちは着替えとメイク直しして来るわね」

「なぁ、結婚届出しにいかないか?」

「えっ、それってまさかのプロポーズ?」

「まぁ、そう言うこと、もう僕たち一緒にならないと落ち着けないなって、持ってるものは何もないけど二人で一緒に歩んで行けたらって、区切りつけようと思ってね!」

「もちろん、喜んで!あなたに証人の一人になってもらって、もう一人いればすぐに届出できるわよね」

「私が証人だなんて勝手に決めないでくださいよ~!」

「だって、手っ取り早いでしょ。もう一人の証人はどうしようかしら?彼の実家も近くないので、私の友人にでも頼みに行こうかな?もちろん、あなたに行ってもらうわね」

なんだか変な展開になってしまったのだが、なぜか私は今の状況が嫌では無かった。二人を一気にゴールへと向かわせるお手伝いができたのだ。それはそれでいいじゃないかと思いながら、彼女からメイクの手直しをしてもらうのだった。ラメの入ったリップコートを塗ると、気分はすでに上げ上げとなったのだ。その透き通るような私の唇に彼が惚れてしまい、また一悶着あったものの無事に婚姻届を出せたと言うのは、また機会があれば書いてみたいと思う。

(おしまい)



(あとがき)
久しぶりに書き上げることができました。初めての作品を世に出してから24年となるのですが、今は年間に1,2本ペースの超スローペースで続けています。
この作品は私自身が韓国に興味を持ち、実際に行ったり来たりするようになった頃、よく見ていた韓国の歌番組が出て来るのですが、当時はリップシンク(口パク)が全盛の時代でした。今では歌いながらのパフォーマンスが当然となりましたが、状況によっては今も使われています。
リップスティックを使っているときにそんなことを思い出し、DNAを同期するアイデアが出て来ました。今回のものはまだ初期バージョンのため機能が未熟ですが、そのうち改良が加わるのではないかと思っています。
よろしければ、ご感想などありましたらXの方にお送りください。
Xのアカウントは @skyseafar です。
では、夏目彩香でした。