アメ玉(後編)
 作:夏目彩香


二人にとって一世一代のピンチがやって来た。逃げるに逃げられない状況で、ここをどう切り抜けるのかは今後の二人にとっても大事な場面だと思うしか無かった。私は頑張って平静を装うようにはしているものの、記憶は少しずつ読めるようにはなっているとは言え、この部屋の中で過ごすのは初めてのこと、紗代としての所作や癖、お気に入りのものややりたいこと、そう言った紗代としての仕草を見せるためにはどのようにしたらいいのか、自分一人で考える必要が出たのだ。クローゼットの中にいる翔平とは落ち着いて話すような時間はあまり無くなってしまった。とりあえず部屋の中で声が響かないように翔平と話をすることにした。そして、まずは翔平も私もさっきまで着ていた服に着替えをして次なる行動に備えることにした。

「ねぇ、翔平?お母さん帰って来るの早すぎるんじゃない?」

するとクローゼットの中からフィルターを通したような声が聞こえて来る。

「おかしいなぁ。今日は平日の中でも一番遅い日なのに、だからこそ今日実行しようと決めてたのに、シフトを変わってもらったりしたのかもな」
「シフトって?あっ、そっかぁ、お母さんってパートだったわよね。シフトによってはたまに早くなったりするんじゃないの?ってことよね。でも、そう簡単にシフト変えられたりしたかな?」
「まぁ、そんなこともたまにはあるけど、パートの中でもリーダー的な役割を持つシフトリーダーだから、そう簡単にシフトを譲ってもらうことはあんまり無いはずなんだよ。こんな風に早く帰って来るなんてことは滅多にあることじゃないよ」
「ねぇ。今の状況を乗り切るために、2階に上がってくる様子の無い今のうちに作戦を実行するしかないわよね?」
「まぁ、そうだけど、何かいい方法でもあるのか?」
「うん、私に考えがあるんだ」

私は翔平にとある作戦を提案して話し始めた。提案と言っても咄嗟に思いついたことを翔平に言っただけで、実際にはうまく行くのかはわからない作戦だった。翔平が母に見つかること無く家の外に抜け出せればいいわけなので、私が母を引き寄せて外に出るように誘導して、その間に翔平が外へと抜け出すという単純な作戦だった。そんな風に頭に浮かんだことをサッと伝えた。

「じゃあ、作戦決行するけどいいわよね」

私はそう言うと、部屋から出て階段をゆっくりと降りて行った。クローゼットの中で元の服装に着替えを済ませた翔平は、いつでも脱出できるようにと準備ができていた。紗代としての振る舞いはゆっくりとできるようになって来ているが、いつボロが出てしまうかもわからないので、本当はまだ母の前できちんと娘としての振るまいができるのか自信は無かった。ただ、今はやるしか無いので階段を降りながら紗代としての記憶がすぐに取り出せるように力を込めていた。紗代として完璧に振る舞えるようになってから紗代の両親にこのことを告白し伝えようと思っていたので、時期尚早ではあるのだが階段を一段一段降りていくたびに紗代としての記憶を呼び覚ましていた。そして、リビングのドアノブに手を載せた。ここで大きく深呼吸をしてからドアノブを回し中へと入って行った。

「お母さん!いつもは遅い日なはずなのに、今日はなんだか早かったんだね」

まさに完璧だった。いつも紗代が言うような口調そのもので、目つきも表情も寸分も狂い無く紗代そのものだった。紗代の母もそんな私が紗代であるかのようにそのまま接してくれた。リビングの奥にあるアイランドキッチンにいる紗代の母は、キッチンの上にエコバッグを並べて買い物で買って来た品物を冷蔵庫に入れるなりして片付けいてるところだった。

「あら、紗代ったら家にいたのね。玄関に靴が無かったから、すっかりまだ出かけているかと思ったわ。ちょっとこっちに来て手伝ってくれる?」

母に言われるままにキッチンへと周り、残りの品物をいつもの場所に置いていく、キッチンにも初めて入ったが紗代の記憶が自然と出て来るので、何をどこに置けばいいのかは自然とわかっていた。しかし、この状態だと翔平が玄関から出て行くのは難しい、キッチンからは玄関の出入りが自然と確認できるようになっているからだ。やはり、紗代の母を家の外に出す必要があるので、次の手を使おうとした。すると母は思いがけない一言を放った。

「あら私ったら、いっけな~い。あれを買ってくるの忘れちゃってる。紗代、今からちょっとだけ出かけてくるからね」

母はそう言うとソファの上に置いていたグレーベージュのロングコートを手に取り、ダイニングテーブルの上にあるハンドバッグの中身を確認してすぐに出かける準備をしていた。

「ねぇ、紗代。母さんこれから買い忘れたものあるから、すぐに行ってくるわね。夕飯の準備もしなくちゃならないんだけど、お米研いでおいてくれるかしら?研いだら炊飯器の中にセットしておくだけで予約ボタンは押さなくていいからね」
「お母さん。お米、研いでおけばいいの?」
「そうよ。ちょっと急いで行ってくるからね」

そう言うと母は家からさっさと出て行ってしまった。作戦の中に含まれていなかったことが起きてしまったが、これはそのまま利用することができるチャンスと思って、とりあえず言われた通りにお米を研ぎ炊飯器の中にセットすると、すぐに自分の部屋へと戻った。部屋の中では元の服装に戻った翔平が片手に自分の靴を持って待っていた。

「お母さん、出て行ったみたいだけど?
「うん、なんだか買い忘れたものがあったって」
「そっかぁ。じゃあ、今のうちに僕は出て行って江藤家に帰るからね」
「そうよね。お母さんのさっきの様子からするとよっぽど慌てていたみたいだから、抜け出せる時間は今しか無いみたい」
「とにかく、これからのことはまた連絡するからな。とりあえず、身体に合った記憶はゆっくりでも確実に思い出せるようになってくるから、それで乗り切ってくれれば大丈夫だよ。もう少し自信を持って『紗代』として振る舞えるようになってから、紗代の両親にまず話してみような」
「うん、わかった。まだ不安がいっぱいあるんだけど、翔平がそう言ってくれるなら安心できるね」
「紗代の気持ちがまだ完璧にわかるんだからな。長く話もしてられないから、挨拶代わりにこれで勘弁」

そう言うと翔平は私の唇に軽くキスをしてくれた。このキスがなんとも言えないほどに心地良く、もっと続けていたいと思ってしまうのだが、すぐに出なくてはならない状況なので、すぐに切り上げて翔平は階段を駆け下りて行った。私は翔平をしっかりと見送ると玄関の鍵を掛け直して、リビングへと戻り、母が帰ってくるのをここで待つことにしたのだ。そして、数分後のこと。

「ただいまぁ、ちゃんとお米研いでくれた?」

リビングに入ってくるなり母は言った。その母の表情からするとなんとか翔平がこの家に来たことは気づかれずに済んだように思えた。母は何か買い忘れたものを買って来たはずだったが、とくにエコバッグを広げることも無かった。どうやら、ハンドバッグの中に入るほどの小さなものを買って来たようだ。母はハンドバッグに手を入れると中から何かを取りだして見せた。

「はい、紗代ちゃん、これあげるわね」

ハンドバッグの中から取り出したものを手渡されたのだが、それはなんと普通のどこにでもあるようなアメ玉だった。

「大丈夫よ。このアメ玉を舐めても何も起こらないから、紗代」

母はそう言いながら私の目をしっかりと見つめて来ていた。そうやって渡されたアメ玉を手に取ると今の状況を冷静に保つのが難しくなっていた。まさか、そのまさかではあるが、紗代の母は何か勘づいているのでは無いか、そう思ったからだ。手の平には少しずつ汗がにじみ出てきた。

「お母さん。ありがとう」

カモフラージュのために感謝の言葉を言うのだが、母の表情は何かにやついていて、まるで何か言いたそうに吹き出そうとしている様子だった。

「そうそう、紗代。ついさっきなんだけど、あなたが高校の時の同級生だった江藤くんだったのかな、さっき見かけたのよね。江藤くんの家ってここから近く無かったわよね。この近所で見かけるなんて不自然なように思えるんだけど、どう思う?」
「えっ、江藤くん?あっ、高校の時に一緒だった江藤くんね。お母さんったら、似ている人と見間違えただけじゃないかしら?」

私はなんとか誤魔化そうと話をするだけで精一杯だった。するとこのタイミングで玄関から音がして、リビングの扉が開いたかと思うと、紗代のお父さんも帰って来た。

「ただいまぁ~」

リビングにお父さんの声が響き渡ったかと思うと、誰かに手を振るような仕草をしていた。なんと、後ろから翔平の姿が現れたのだった。翔平は道行く途中で紗代のお父さんとばったりと会ってしまったらしい。

「よっ!紗代。久しぶり」

久しぶりだなんて言っても紗代の父親と一緒にのこのこと家に戻って来るとは、私たちの関係を公然するようなものだった。

「あっ、江藤くんよね。どうしてここに?」

私はできるだけ他人のフリをしたつもりだったが、どうやら時は既に遅かったようだった。紗代のお父さんは笑いを堪えきれないでいた。

「なぁ、紗代。江藤くんとは久しぶりなんかじゃないんだろう。二人の関係は父さんたちが薄々気づいていたから、二人で例のアメ玉を舐めていたことも分かってるんだぞ」
「えっ?」

私は狐につままれたような表情を見せていた。すると紗代の母親は重くなった口を動かし始めた。

「紗代ったら、ようやく気づいたようねぇ。私たちはあなたたちがあのアメ玉を使って入れ替わったところを目撃してたのよ。紗代の姿をしているけど、本当は江藤くんだってことすぐにわかったわ。まだ、自分の身体に慣れないようだけど、もうすぐ自分自身が紗代だって自我が生まれてくるわ。だって、私たちも20年以上前に経験したことだったから、あなたたちのことを誰よりもよく分かっているつもりよ」

二人は私たちが入れ替わっている現場を目撃していたのだ。ダイニングテーブルを囲むようにして紗代の向かいに紗代のお母さん、紗代の左隣に翔平、翔平の向かいには紗代のお父さんが座るのだった。

「じゃあ、ここは私がまとめて行っていいかしら?」
「あぁ、いいよ。この場は母さんに任せるから」
「分かりました。ここでは峯岸紗代の母である峯岸紗枝(さえ)が進行役を務めさせていただきます。こちらは私の生涯の伴侶であり紗代の父親であり、二十歳の頃までの私だった。旧姓後藤、今は峯岸拓真(たくま)です。よろしくお願いします」
「母さん、ここには我々しかいないんだし、もっと力を抜いてもいいんじゃないか?」

紗代の父親は口元に蓄えられたヒゲを指先で触りながら、紗代の母親を諭していた。さすがに峯岸家の当主であり、元は紗枝としてこの家で生まれたこともあり、この家の大黒柱としての権力を持っているのだ。

「はい、はい。もうすっかりその身体に馴染んでしまってるわよね。元々は私の身体だったわけだけど、今ではすっかり板についちゃって、私よりも私らしい感じがするわ。とにかく、話を続けましょうか」

ここからは話の主導権を紗枝が持って話を進めた。紗枝の口からは私たちがアメ玉の力で入れ替わった様子を最初から見守っていたということだった。それだけではない、紗代と入れ替わった相手の江藤翔平についての情報も事細かく知っていたのだ。まるで背後に何か調査を行う組織が絡んでいるように思った。私たちが入れ替わりそうだと思った時から入念に準備をしていたのだ。

「と言うことだったのよ。だから、これからはあなたのことを本当の自分の娘である。峯岸紗代としてはっきりと認識させて頂戴ね。そして、今までの紗代は婚約者の江藤翔平として接していきますね。今日で一度親子の縁は切らせてもらいますが、改めて婚約式、結婚式を決めていくので、江藤家にご理解いただけるようによろしくね」
「はい、お母さん、わかりました!」
「まぁ、江藤くんったら、まだお母さんと呼ぶのは早いでしょ、お母さんって呼ぶなら峯岸さんのお母さん、紗枝さんでもいいわ」
「あっ、僕としたことがうっかりしてました。じゃあ、峯岸さんのお母さんである紗枝さん、これからも僕たちのことを暖かく見守ってください」

翔平がそう言うと、私にもお辞儀をするように身振りで伝えていた。

「よろしくお願いいたします。お母さん」

私はとびっきりの愛情を込めてお母さんと呼ぶのだった。

「あらまぁ、紗代ったら。そんなに改まらなくても結構なのよ。それにしても、男勝りだったあなたがすっかり淑女の色気を漂わせるようになったわよね。紗代の人を見る目は誰に似たんでしょうね」

そう言って紗枝の視線は隣にいる拓真に向かっていた。

「人を見る目は一朝一夕でできたものじゃないだろ。峯岸家の女性は幼い頃から男性を見極める技術を徹底的に学ぶからな」

拓真が言うと、紗枝は微笑んでいた。

「この人との出会いについては、また別の機会にお話ししましょうね。まずは、紗代たちの結婚のためにしっかりと準備をしていきましょう」
「まぁ、そうだな。そのうち紗代たちにも話さなきゃらなないだろうし、結婚してから新しい家族で時間を過ごすようになったらにしよう」

外はすでに真っ暗になってしまっていた。そろそろ翔平は自分の家に戻らなければならない時間となっていた。

「じゃあ、僕はこの辺りで失礼させていただきます」

翔平はそう言って、軽く私の頬に別れのキスをしてくれた。もちろん物足りない短さだった。

「じゃ、またね。婚約式のこととかこれからのことについて連絡するからね」

翔平がいなくなると私と両親の三人が残された。気まずい雰囲気が漂うかと思ったが、二人はすっかり私のことを娘として受け入れてくれているので、本当の自分の家にいるかのように振る舞うだけだった。

「ねぇ、紗枝。ちょっと母さんのドレスルームまで来てくれないかしら?」

そう言って、紗枝は二階の夫婦の部屋奥にあるドレスルームへと先に向かっていた。私もその後をついて行ったのだが、紗枝はとある衣装を取り出して見せてくれた。

「これって、私が身につけたものなんだけど、あなたにそのまま入るかしら?」

それは、純白に輝くレース模様とシースルーのウエディングドレスだった。その衣装を一目見るだけでもすぐにでも着てみたいという衝動に駆られるのだった。

「ねぇ、お母さん、これって着てみていいかしら?」
「もちろんよ。これからあなたの物になるんだからね。万一は入らなかった時はお直しに出せばいいしね」

母がそう言うのを受けると、私は目の前に広がる純白の衣装に袖を通すのだが、とてもとても幸せな気持ちが胸いっぱいとなり、鏡の前にいる自分の姿をいち早く翔平に見てもらいたいと思うのだった。



「おめでとうございます!」
「おめでとう」
「二人の新しい門出を祝います」

あれから、半年後。二人の結婚式は無事に行われ、二人で飛行機の中にいた。母から受け継いだ純白のウエディングドレスは、式の途中からは新調した真っ赤なウエディングドレスに着替えており、そのままハネムーンへと突入することになっていた。飛行機の座席で私は純白のワンピースに身を包んでいたが、客室乗務員からハネムーンのためのささやかなプレゼントとして小さなケーキも贈られていた。そして、食事を取った後の口直しにアメ玉を配っている姿を見ると、思わず手を出して一つだけもらった。その一つを隣に座る翔平に渡すと、二人でそのアメ玉を見つめた。

「このアメ玉では何も起きることはないけど、あの日のようにこのアメ玉を舐めてみたいな」

翔平に言われるまま、あの日のようにアメ玉をしっかりと口に入れて、お互いに交互に舐めていって最後は熱い口付けを続けた。身も心も彼を愛する女性となった私にとっては、あの日に感じたような違和感もなく、本当に素直に翔平の愛情を受け取めることができていたのだ。

「ありがとう、そして、これからも、よろしく」

二人で一緒に歩む人生はまだ始まったばかりだった。ともに歩むことを通して、また新しい出会いと別れが続いていくことだろう。子どもはまだ身ごもっていなかったが、なんとなく次は男の子が生まれる予感を感じていた。男の子が生まれた場合は、あのアメ玉の出番は無くなるはずだったが、新しい当主である翔平によってそれは書き換えられることになった。峯岸家に生まれた子どもは、アメ玉によって二十歳を過ぎてから入れ替わる運命と定められたので、どちらが生まれても平等に扱うこと、新しい時代を担う私たちにとって守らなければならないことであり、希望であった。

「ねぇ、あの鳥の口先を見て、早く!」

窓際に座っている私は翔平にも外が見えるようにすると、遠くに見える鳥の姿を翔平に見てもらいたかった。その鳥はなぜか口先にアメ玉を咥えながら飛んでいたのだ。アメ玉によってもたらされた災いも、それは転じて今では祝福へと変えられていた。これからは、紗代としてしっかりと生きていこう、そして、新しいいのちを授けられたら自分の信じるものを引き継いでもらおう。そう思うと遠く広がっていく雲の海を見つめ続けるのだった。

(おわり)