アメ玉(中編)
 作:夏目彩香


「ただいま〜」

冷たい空間が広がる家の中に甲高い声が響いたが、誰もおらず返事が返ってくることは無かった。
西の空にまだ太陽が残る中、玄関で脱ぎ捨てたパンプスをキレイに置き直し、冷え切った廊下に一歩踏み出してみたが、薄いストッキングは意外に冷たく感じることは無かった。それなりに生きて来た割に、世の中には知らないことがまだまだあるのだ。

教えられた通りに階段を駆け上がり、廊下の突き当たりにある木のプレートが掲げられている部屋の前へと向かった。アルファベットでSayoと書かれているのだが、ゆっくりと深呼吸をしてからノックをしそうになったが、ここは今の自分にとって帰るべき場所、何も気にせずに扉を開けて中へと入った。

自分の居場所ではあっても初めての帰宅、いつもならベージュの壁紙で覆われた無機質な空間に出迎えられるのだが、パステル調の淡いピンクとブルーで覆われた壁面に、幼い頃からよく知るキャラクターの色合に出迎えられた。調度品の一つ一つも実際には初めて見るものばかり、一つ一つ眺めるたびに記憶の箱が開けられて自分の知らない記憶が次々と思い出された。部屋の中を見回すだけでもなぜかドキドキが止まらないでいた。

「どう?気に入ってくれた?」

私が部屋の中に足を踏み入れた直後、そうやって背後から声が聞こえた。振り返って部屋の入口の方に目を向けると、開けっ放しにしていた扉の前には見慣れた男性の姿が立っていた。

「びっくりするじゃない、どうしてここにあなたがいるのよ?」

すると男性は手の平を開き、隠し持っていた鍵を振り子のように揺り動かしてみせた。

「家のスペアキー、万一の場合に備えて自宅の外に隠してあるんだけど、それを使って入って来たんだ」

聞き覚えのある懐かしい声、その声の持ち主は当然のことながら私よりもこの家のことを知り尽くしている。家の前で別れてすぐに自分の家に帰ってくれたものと思っていたのだが、どうやら心配になって戻って来たようだった。私に鍵を渡してくれたのですっかり入れないばかりと思っていたが、スペアキーの存在は直前まで覚えていなかった。

「スペアキーがあるなんて。。。あっ、そっか、いつもあそこに置いてあるんだよね」

脳の中に隠された記憶の断片からスペアキーの置き場所も思い出される。もともとは小学生の頃に紗代が学校から帰って来て、両親が不在でも家の中に入れるように自宅の外に鍵を隠し置くものだが、何かあった時のためにと今もずっと置いておく習慣となっていた。どうやら自分の身体に相応しい記憶は断片的にしか思い出せない、記憶を辿るようにして初めて記憶が湧き上がって来るのだ。まぁ、ゆっくりと時間をかければありのままの状態に近づくに違い無かった。

「やっぱり、気になっちゃって戻って来たんだ。ちゃんと鍵は閉めてあるから、安心して」

そんな風に話す姿を見ていると、鏡の前に立っているような感覚も受けるのだが、目の前にいる『翔平』は今は自分が動かせる存在では無かった。アメ玉で入れ替わったなんてことを受け入れても、しっかりと信じられずにいたのだが、自分の知らない自分に直面すると、新しい世界に向かっていくしかないのだと勇気を与えられるようだった。

「ありがとう。実はまだ一人じゃ不安だったんだよね。『紗代』としてちゃんとできるのか自信も無かったし、ましてや『紗代』の両親とうまくやってけるのか、それはさらに不安なんだし」
「紗代。君なら大丈夫だって」

途中まで話しかけたところで彼の言葉を聞くと、安堵感と何か心の奥底でキュンとする思いが同時に湧き上がって来た。元の自分だったら感じることが無い異質な感情に対しては、ありのままを受け入れるしか無いと感じた。

「じゃあ。翔平の方はもう平気だって言うの?」

自分が使っていた『翔平』と言う名前を呼ぶのはまだ違和感があるものの、口から自然と出るようになっていた。

「平気も何も、僕は江藤翔平。こうなることは自分から望んでいたことだし、昔からこうなりたいと思ってたことが実現できたわけだよね。今まで峯岸紗代として生きて来たのはあくまでもこうなるための準備のためだし、男性になるための準備として幼い頃からたたき込まれて来たからね。最近になってからは僕は翔平として生きると予め決めていたから、この身体が持っていた全ての記憶はすぐ自由に引き出せるようになったよ」

目の前にいる彼にとっては、入れ替わることが前提の生き方をして来たのだった。それは過去の記憶をたぐり寄せると私にも理解できることだった。私の心の片隅にはまた元の姿に戻れるのではないかという浅はかな願いが残っており、それがまだ邪魔をしているのが現実だった。

「そうだったんだ。なんか意外だよね。自分の人生をどうしたらいいのかとっても悩んでいたんだけど、アメ玉で入れ替わってしまった時に、これからは『紗代』として生きろだなんて言われて戸惑うしかなかったからね。『翔平として生きるって予め決めていた』って言ったけど、なんだか自分が認められたみたいで正直なところは嬉しく思ったんだ。自分が『紗代』になってしまったことに対しては相変わらず受け入れ難いことではあるんだけど、翔平と話をしている内に色々と思い出して来て『紗代』としてしっかり生きていこうって思えるようになったのよね」

私がそう話している途中、彼は部屋の扉を閉めいていた。廊下まで響いていた声が部屋の中だけで反響するように切り替わる。そして、ベッドの上に座るように促されたので、二人でベッドの上に横並びになるように座った。

「わかってくれて嬉しいよ。勝手に入れ替えられたら取り乱すことも予想していたんだけど、しっかりと受け止めてくれたからなおさら嬉しいよ。峰岸家で女性が生まれると二十歳を過ぎてからあのアメ玉を使わなければならないと言うのは江戸時代ぐらいから代々決められて来たことなんだけど、紗代のお婆ちゃんの世代になるとようやく医学的・科学的な根拠が見つかったんだ」

彼の表情は真剣な表情に切り替わり、さらに言葉を繋げた。

「難しくなるから簡単に説明すると、峰岸家で生まれる生物学的な女性が遺伝子の中に持つ特殊な酵素があって、二十歳を過ぎるとその酵素が活発に働くようになって細胞をゆっくりと破壊していくんだ。そこであのアメ玉の力で入れ替わることでその酵素の動きをピタッと止めることができるってわけ。峰岸家は薬の開発を代々行って来たんだけど、先祖によってこのアメ玉の製法が確立されてね。それ以来、峰岸家では女性として生まれるとあのアメ玉を使うことを徹底して教え込まれるってわけ、入れ替わった上で養子縁組をするのは峰岸家が秘密裏に開発しているこのアメ玉の製法を守っていくためもあってね。峰岸家で無ければこのアメ玉を作ることはできない、その製法は跡取りとなる宗主に代々引き継がれていくんだ。普通の家ならあり得ないことだけど、医学的・科学的に証明されていることでもあるんだよ」

彼の言っていることが本当だというのは、自分の心の奥底から湧き出てくる記憶からも明らかだった。峰岸家の女性は先天的に短命であったということも分かっており、あのアメ玉が開発されてからようやく平均寿命を全うできるように変えられたのだ。

「だから、僕が江藤翔平になったのは必然だったって言うわけ、これですぐに死んでしまうという余命の恐怖からは解放されて、残りの人生は翔平として生きていけることに感謝してるよ」

私の眼からは自然と涙がこぼれて来ていた。いつもなら涙を流すこともないのだが、この身体になってから涙腺が弱くなっているようだ。

「私もまだ峰岸紗代としては未熟なのかも知れないけれど、一人の人を生かすことができたんだって思うと、この突然のできごとが嬉しいことなんだって、自然と嬉し涙が出て来ちゃったみたい」

すると次の瞬間、目の前にいる彼は私に抱きついて来た。肩の後ろに腕を入れてしっかりと抱擁されるとなんだか気持ちが落ち着いて、私も強く抱きしめる。部屋に飾られている時計の長身が九十度動くだけのわずかな時間だったが、二人にとってはとても長い時間のように思えた。

気持ちが落ち着いたところで、彼は立ち上がってウォーキングクローゼットの扉に手を取りゆっくりと開いていた。中からはハンガーに吊されている色とりどりの洋服がずらりと並べられており、衣装ケースもキレイに揃えられている。

「ここにある洋服ももちろん紗代の物だからな。これからは気にすることなく自由に使っていいんだよ」

クローゼットの中もちょっとした部屋くらいはある大きさで、コの字型に造りつけられた吊り棚には何百着もの洋服で溢れ返っていた。足元にはシューズボックスが置かれ、スニーカーや運動靴をはじめとしてパンプスやハイヒールと言った女性ならではの持ち物も所狭しと置かれている。記憶からは思い出されるのだが、実際に見るのは初めてのことで本当に使いこなせるのか自信は揺らいでしまう。

「わぁ〜、ここあるのって全部私の物なんだよね。クローゼットの中にある物だけでも翔平が持っている十倍以上の物があって、なんだか目移りして気を使っちゃってなかなか決められそうにないわ」

部屋の中はキレイに片付けられてスッキリとしているのだが、それと比べるとクローゼットの中は物も多くて少々乱雑に散らばっているようだった。紗代の持っている数々の品物、翔平の所有品よりも明らかに多くて、これを使いこなしていくことがこれから自分が紗代として生きて行くために必要なことだった。

「紗代、全然大丈夫だって、ゆっくりと慣れて行けばいいだけだろ」

すると翔平は部屋の隅にあるテーブルの上に置かれたメイクボックスを開いた。

「こっちの使い方にも慣れてもらないとな。そんなにきついメイクをする方じゃないけど、それでも最低限の身だしなみには気を付けて欲しいしね。分からないって言うなら、ちゃんと教えてあげるし」

端から見ればおかしなカップルに見えるかも知れないが、今の二人にとっては全くもって自然なことだ。

「そうだよね。彼からメイクされるわけにはいかないもんね。そうだ!せっかくだから、翔平がいる前でどれか着替えてみてもらってもいいかな?」
「じゃあ、どれにしようか?気になる服ってあるの?」

自分の記憶を辿ればなんとかなるに違い無いものの、翔平がいる内に色々と教えてもらいたくなったので、さっそくクローゼットの中にある洋服を一つ一つ丁寧に確認していた。すると、とある服を見つけて手が止まってしまった。

「この服がまだ残っていたなんて」

手を止めた先にあったのはどこにでもよくあるセーラー服だった。白の三本線が入ったネイビーのセーラーと細かいヒダが特徴のプリーツスカート、胸元のポケットには校章バッチが輝いている。クローゼットの中からハンガーごと取り出すとベッドの上に広げる。

私たち二人は高校2年からの2年間を同じ高校で過ごしていたのだが、その高校の指定制服はブレザー、ここにあるセーラー服は紗代が転校する前の地方にある高校のものだった。新しい制服が準備できるまでの一週間ぐらいはこの制服を着て通っていたのを思い出した。

「大切に保管したものだけど、クローゼットの中から取り出すのは何年ぶりのことかな、本当に懐かしい気分になるよなぁ」

セーラー服を見つめる翔平はまるでその時の空気感を見つめているように見える。

「そういえばこの制服、2年の学園祭の時に翔平に着せたことがあったわよね。男女で制服交換をするってクラスで決まって、体格が近い同士でペアにしてお互いの制服を取り替えて学園祭の日を過ごすってことになったわよね。他のペアは上着はブレザーだったからあんまり変わったように思えなくて、ボトムスのスラックスとスカートを交換したのがやっとだったけど、翔平には私が北海道に住んでいた頃に着ていたこのセーラー服を着せたから、一人だけ浮いちゃって女子たちの視線を独り占めしてたわよね。あの時に見せてくれた『紗代』の微笑みは今でも忘れられないのよね」

私の中に高校時代の思い出が沸々と甦って来ていた。同じように翔平もその頃の出来事を思い出していた。

「あっ、確かにそんなことあったよな。ペアを組まされて制服交換したんだけど、ブレザーの制服を交換しても面白く無いって時にこのセーラー服を着せることを思いついて、江藤くんがセーラー服に着替えた姿を見ながら思ったんだ。アメ玉を使う相手は絶対に江藤くんじゃなきゃダメだって、心の中で決めたってわけ。翔平の姿になった今だからこそ言えるんだけど、江藤くんの方が紗代のセーラー服を着るんだったらと、ムダ毛の処理と新品のストッキングまで用意して徹底的にJKになるんだって言ってくれたよね。だからこそ、こんなステキな人になって生きて行くのは悪く無いなって思ったんだ」

確かに学園祭では翔平だった私が紗代のセーラー服に身を包んでいた。それだけじゃない、紗代が使っている同じストッキングを用意してもらって、スカートから見える脚も紗代のように見せたいと思ったし、その時のなんとも言えない感覚を覚えている。そんな風に行動したことが紗代がアメ玉を使う相手を決めた大きな要因だなんて思いもしなかった。

「じゃあ、あの時に『紗代』は江藤翔平として生きて行くって決意したの?じゃあ、唐突に決めたことじゃ無かったんだね。私はこの身体になってうまく生きていけるのか自信が無くて、今もちょっと躊躇ってるところがあるんだけど、『紗代』、今の翔平はそんなにも前から覚悟を決めていたのね」
「まぁな。実際にはそれだけじゃないけど、あの学園祭の日は翔平として生きて行くことを決意した日であることは確かさ。なぁ紗代、このセーラー服着てくれないか?江藤翔平が峰岸紗代に初めて会ったその時の思い出が再び戻ってくるんじゃないかって思うんだけど」
「大切にしてる制服だけど、本当にそれでイイの?」
「言ったじゃないか、ここにある物は全て『紗代』の物だって、もうお前の好きにしていいんだよ。カレシに相談するなんておかしいだろ?」
「確かにそうよね。ここにある洋服は私のものなんだから、私の好きにすればいいのよね」
「僕も好きにさせてもうらうし、それはお互い様だろ?それに......」
「それに何?」
「それに僕らは結婚するんだから、思ってることはどんどん言って欲しい」

確かに翔平の言う通りだった。私たちがお互いに入れ替わったこと、それによってお互いの持ち物も全て取り替えられたんだし、将来的に結婚を約束しただけに、全ての持ち物は二人の物でもあったのだ。何も気兼ねすることは無い。

「ねぇ、翔平。これから着替えようと思うんだけど」
「じゃあ着替えるなら、部屋から出ようか?」

翔平は部屋の外に行こうとしたのだが、それを行かせまいと右手で遮るように私は動いていた。

「ねぇ。ここにいてくれない?自分の身体に見られても恥ずかしいことなんてないじゃない
「そっか、わかったよ。ここにいてやるって」

翔平の一言に対して私は自然と頷くのだった。



着替えが終ると静まり返っていた部屋の中がまた騒がしくなって来た。

「紗代って、卒業してからも全くスタイル変わっていないよな。というか、さらにウエスト細くなってるよな。このスカートはホックの位置を調節できるけど、ウエストの括れを強調するならもう少し調整しないと、こうするんだ」

そう言って翔平は私のスカートのホックに手を入れて一旦外し、アジャスターの位置を変えてくれた。さっきまでとは違ってウエストが安定したように思えた。

「翔平、ありがとう。やっぱりここにいてもらって正解だったよね」

クローゼットの中にある大きな全身姿見の前に立つと、そこに現れたのはまさに女子高生姿の峰岸紗代だった。

「なぁ、紗代。どうせなら僕も着替えていいかな?」
「翔平も着替えるって?」
「女子高生姿に戻った紗代を見ていたら、学園祭の時にこの制服を着たのを強烈に思い出しちゃってさ、元の身体に発情してるわけじゃないけど、好きな子が着ている服に着替えてみたいって思ったんだ」

そして、翔平はクローゼットの奥から白いセーラー服を取り出した。

「こっちは夏服なんだ。別に外に出るわけじゃないから、生地が薄くても問題無いだろ?」
「まさか!翔平ったら夏服に着替える気?」
「いいや、この夏服は紗代に着てもらうよ。僕は紗代が今着ている冬服を着るってのはどうかな?」
「学園祭以来の翔平のセーラー服姿かぁ、しかも今度は客観的に見られるなんてね。楽しみ!」
「じゃあ、そうと決まれば善は急げだ」

私は着たばかりのセーラー服を脱ぎ始めようとすると翔平が大きな声を上げていた。

「あっ、ストップ!その前に……」

翔平は自分のスマホを取り出して、私を被写体にして撮影したいと言ったのだ。私は言われるがままに自分の身を委ねて翔平の気が済むまで撮影してもらった。それから私は夏服のセーラー服に着替え、翔平が冬服のセーラー服に身を包み込むと、二人で一緒に写真や動画を撮り合ったのだ。

紗代が脱ぎ捨てた冬服のスカートを翔平が身につけても、意外なことにアジャスターの位置はそのままでウエストにピッタリと収まった。今でも二人の体型はほぼ同じで変わっていなかったのだ。一緒に並んで確認するほど私の方がヒップが大きいくらいだが、スカートの裾からはみ出る翔平の美脚には驚いてしまった。さらに新調したストッキングでサポートされた脚は二十歳の男性とは思えないほどにキレイなスタイルで私を魅了して来たのだ。

「ただいまぁ」

いつもならまだ帰って来る時間じゃないと記憶の片隅が語っているのに、部屋の外では紛れも無く紗代の母親の声が鳴り響いていた。翔平の靴はこの部屋に持って来たが、部屋までやって来たらバレてしまうのは時間の問題だった。まずは冷静に元の服に素早く着替えをして、翔平をクローゼットの中に閉じ込めた上で私はいつも部屋で過ごしているように、平静を取り繕うのだった。

(つづく)