アメ玉(前編)
 作:夏目彩香


目の前には目を瞑り次の行動を待つ彼女の姿があった。
僕は彼女から言われた通りに自分の顔を近づけ、口の中で半分くらいの大きさに溶けたアメ玉の残りを彼女の口の中に向けて送り込む。彼女もまたそのアメ玉を舐めてから半分くらい溶けると、その残りを僕の口の中に落として舐める。それを何度か繰り返す内にアメ玉が全部溶けてしまった。お互いの手を握手するかのように、しっかりと握りしめると二人の意識はどこか遠くに行ってしまった。



意識が戻ったのはそれから数分後のこと、座っているベンチがさっきよりもヒンヤリと感じた。横たわる身体を起こしてみると、いつもと違う感覚を覚えた。まっすぐ目の前にあるショーウィンドウに目を向けると、ディスプレイの中に鏡があるのに気づき、その鏡を覗き込むと違和感の正体に気づいた。なんとそこには僕の姿では無く彼女の姿が僕の方をジッと見つめて来たのだ。ツルツルした素材で作られたベージュのボウタイブラウスに身を包む彼女の姿、それはさっきまで僕が見ていた彼女の姿と同じ服装で、僕が手を動かすと鏡の中にいる彼女も同じように動いた。

現状をもっと詳しく把握するため今度は視線を手元に落としてみる。するとそこには、深まる秋を感じるようなダークブラウンのマットなネイルが細くてしなやかな指に丁寧に塗られ、さらに鬱陶しさを感じるほどの長い髪に自分の視界を遮られた。さらに小さな手を胸元にやるとその手では隠しきれないほどの膨らみを感じ、今までに感じたことのない弾力を指先に感じるが、それこそ彼女そのものに触れたように思った。

その上でおもむろに立ち上がってみると、足元がグラグラして落ち着かない感覚が襲って来た。ヒールの高いアッシュグリーンのパンプスによるものだった。淡いグリーンで裾がシースルーのフレアスカートは風に靡いて両脚に纏わりついて来た。両脚から腰にかけて全体的に締め付けられる感覚はまるで素肌のように見えるストッキングによるものだった。全てが僕にとっては初めての感覚だが、彼女の姿にとっては自然な感覚に過ぎないのだ。ヒールをコツコツ鳴らしショーウィンドウの方へと近づいて、鏡の前で表情やポージングを変えてみたが、彼女の姿以外の何者でもなかったのだ。

そうやって僕が自分の姿を確認している内に、ベンチの上に横たわる僕の姿が突然立ち上がり、駆け足で僕の側までやって来た。すぐ横に立って鏡の中を見つめながら、様々な表情を試し身体を動かして自分の身に起きたことを確認していた。起きた出来事に対して僕とは違って不安を感じる様子はみじんも無く、逆に喜びに溢れているように見えた。そして、僕の目の前に正面を向くように立つ位置を変えて、いつも鏡で見る自分とは違う自分の姿が目の前に立ちはだかった。

「江藤(えとう)くん。。。だよね」

目の前の僕は、聞き慣れない自分の声でそう言った。僕の姿で僕の名前を口に出すのはおかしなことだったが、僕はすぐに返事をしようと思ったのだが、自分の身に起きた出来事に驚いて声を出そうにも出せなかった。すると、目の前にいる自分が軽く肩や背中を叩いてくれて、ようやく声が出るようになった。

「あっ、あっ。あ〜、あ〜。江藤です」

彼女の姿で自分の名前を口に出すのは抵抗が合ったものの、目の前にいる僕に対して今の状況をしっかりと伝えねばと言う気持ちを前面に出したのだ。

「やった〜、私たち。無事に入れ替われたってことね」

確かにこの状況を説明するためにはお互いが入れ替わっていると考えるのがシンプルな答えではあったが、そんなことが現実に起きるはずが無いとにわかに信じがたく、僕は更なる混乱状態に陥っていた。

「私たち?ってことは、まさか峰岸(みねぎし)さん?」

目の前の僕はまるで呆れたかのような表情で僕の顔を見つめながら、言葉を続けていた。

「ピンポーン!この状況からして察しがつかないかしら?さっき私たちが舐めたアメ玉の効果で私が江藤くんで、江藤くんが私になったのよ。お母さんから峰岸家に代々生まれる女性だけが使用することを許されているこのアメ玉をようやく貰えたから、さっそく江藤くんに使うことを決めたってわけ」

目の前にいる僕は紛れも無く峯岸さんだった。思い立ったらすぐに行動に出るのが峰岸さんらしかった。喋るときに両手の小指を重ね合わせる癖や喋り方もやっぱり峰岸さんのものだった。僕の姿で峰岸さんの喋り方をされると、慣れないブラの紐のせいもあるからなのか背中の辺りがくすぐったく感じた。彼女の話によるとこうなることは彼女はすでに知っていたのだ。そう思うと僕の同意を得ることも無く勝手に事を進めてしまった彼女に対して僕は腹立たしくなって仕方無い状態に陥った。

「普通のアメ玉だって言ってくれたのに、普通のアメ玉じゃなかったなんて、どういうことなんだ?こんなことが起こるなんて予想できるわけないじゃないか。ひっさりぶりに知り合いの女性から連絡が来て会ってみて、口渡しでアメ玉を舐めて欲しいって頼まれたら、断るに断れない僕の性格を知っているはずだし、最初から僕のことを利用する気でいたんだろ。峰岸さんにすっかり騙されてしまったって思うと腹が立ってしょうがないよ。峰岸さんに利用されたってことなんだよな!」

峯岸さんの口からは普段の彼女の姿からは想像することもできない怒り口調で言葉が飛び出していた。いつも聞いている彼女の声とは微妙に違う声で自分の中に響いていた。普段の冷静沈着な彼女なら、絶対にこんな風に喋ることなんかそうそうないはずだ。それだけではない僕は思わず右手で拳を作り僕の顔に向かって殴りかかるのだが、目の前にいる僕の右手に阻まれた。彼女の姿となっている以上、いつもの力強さは影を潜めていた。目の前にいる僕の姿はちょっとムッとした様子を見せて反論して来る。l

「まさか、私に向かって怒ってるようね?そもそも峰岸家に代々伝わるこのアメ玉を使うには、その秘密を悟られないで使わなきゃダメなのよね。使えるタイミングは限られてるから、絶対に信用のおける人物だったり自分の好きな人に対して使うのが大切だからね。それで、ずっと考えていたのが江藤くんだったってわけ、このアメ玉は自分のこれからの生き方を決めることになるんだし。峰岸家の跡取りとして相応しい人物である必要があるってね。だから、私がずっと好きだった人に使ってみることにしたのよ。これからあなたの人生も私が責任を持って守ってあげるんだからね。これって悪いことなの?」

彼女は僕の姿のまま神妙な面持ちで真剣に自分の思いを伝えてきた。アメ玉の秘密を悟られないように使うだなんて、なんだか信じられないことだったりするが、このアメ玉を使うことはかなり代償が大きく、それを相手の同意を得ること無く使わねばならないなんて、やっぱり気分が良くなかった。

「何が起こるのか分かっていたんだったら、ちゃんと説明してくれれば良かったのに。峰岸さんが僕を選んだってことは喜ばしいことなんだけど、これって逆に言うと僕の同意を得ることなく大切なことを決めるってことなんだからな。こうなることを知っていたのなら、せめてちゃんと話してからでも良かったんだよ」

目の前にいる僕はうまく説明できなかったもどかしさからなのか、涙腺に涙を溜めていた。その姿に見かねた僕はハンカチを取り出してその涙を拭ってあげた。

「ゴメンね。江藤くんに説明したら、このアメ玉の効果が無くなっちゃうんじゃないかって怖かったの。相手が心を閉ざしてしまったら、このアメ玉は何の効果も得られないってことも知ってたから、だから、江藤くんの優しさに漬け込んだことに付いては、謝ります。江藤くん、本当にゴメンなさいね」

彼女は誠心誠意謝ってくれた。それは僕の女々しい姿を見ることにもなったのだが、元に戻すことのできない今の状況に対して、結局のところは諦めるしか無かったのだ。きっと彼女もこのアメ玉をすんなりと使ったわけでは無く、真剣に考えて考え抜いた末に使ってくれたんだと思う。僕の人生に対しても責任を負うという決断に至るまで葛藤したに違い無かった。そんな彼女の意図することを汲み取ると全て水に流してしまおう。そう考えるように心を切り替えたのだ。

「こちらこそ取り乱してしまってゴメンなさい、峰岸家の女性にとって辛い決断をしなければならないってこと、そんな運命を持ってこの世に生を受けたってこと、気づいてあげられなかったよ。よくよく考えて見たら最愛の人と入れ替わることができてその人を守っていくこと、そんなことができるなんてとっても強いんだよね。僕も今の状況を素直に受け入れることにします」

僕がそう言うと、目の前にいる僕は流し続けていた涙が一瞬で乾いてしまった。そして、それはお互いに仲直りした瞬間でもあった。背筋に軽く電気が走るような感覚を覚えたかと思うと、目の前のガッチリとした上半身が僕の上に覆い被さって来た。お互いの距離が一気に縮まり、息遣いを感じる距離を一気に越えお互いの唇を密着させ、そのまま二人の時間が止まっていた。



数分後、二人の鼓動が戻って来たかと思うと時間が再び動き始めていた。沈黙の時間から目覚めると、視界に飛び込んで来るもの全てが新鮮に感じる。目の前にいるのは友人では無く恋人、それもお互いには何も言ってないが婚約を済ませたも同然の関係にステップアップしていた。これからは過去の自分を脱ぎ捨て前進するのみ。お互いに高ぶる気持ちを抑えようとするが、抑えきれないでいた。そして、目の前にいる恋人が言った。

「ねぇ、江藤くん。そろそろお互いの姿に合わせて行動しない?」

唐突にそう言われたものの、自分の心の内はすでに決めていた。

「えっ、江藤くんって?誰のこと?私は峰岸紗代(さよ)でしょ。私のことはこれから紗代って呼んで欲しいな。私は江藤くんのこと、翔平(しょうへい)って呼ぶからね。いいわよね?」

そう、いつの間にか身体に合わせた言葉使いができるようになっているだけで無く、自分のことが峰岸紗代だと認識すればするほどに、それが自然なことのように思えるのだ。最初に感じた違和感の一つ一つも心の中ですっかり受け入れてしまったようだった。

「もちろん!僕のことは翔平って呼んでくれて構わないよ」

翔平が返事をするや私は嬉しくなって思わず飛び上がってしまった。スカートの裾がまくれ上がり、まだ慣れないヒールによる不安定な着地で思わず転びそうになったところを、すかさず翔平が私の腰を支えてくれてなんとか持ちこたえた。

「おい、紗代ったら。ヒール履いる時は無闇に飛び上がるもんじゃないんだぞ、気を付けてくれなきゃ」
「ありがと。あっ、翔平って、なんだか身を持って知ってるみたい」
「まぁな。紗代のことは誰よりも僕がよく知ってるんだ。これからよろしくな」
「うん」

自分のことをよく知っている「翔平」の存在感、それはとても大きかった。一つのアメ玉がもたらした出来事はいつの間にか不幸なことでは無く、幸せという名の恵み深き道の序章となっていた。そう、これは私が私であるために必要な出来事だったのに違い無かった。確信に満ちる私の表情は輝きを増して、それをサポートしてくる大切なパートナーが側にいることが本当に嬉しかった。



そんな幸せに満ちたショーウィンドウの目の前にいる二人を見守るかのように、遠くのカフェから優しく見つめる男女の姿があった。コーヒーカップを片手に持ちながら女性は男性に向かって喋っていた。

「紗代ったら、どうやら江藤くんに使ったみたいね。このアメ玉は私たちの家系に生まれた女の子が二十歳になって初めて使えるじゃない。私たちも二十歳の時にこのアメ玉の効果でこうなったのよね。私たちの場合はこのアメ玉を見つけたばかりだったから、元に戻れないものか何度も試したもんだけどね」
「結局は戻れなくて、俺はこうやって立派な紳士になってしまったってわけだ。紗代はそのことをよく知っていたからこそ、第二の人生を江藤翔平として生きることを決断したんだよな。紗代もやっぱり俺たちの娘だったってわけだよな。江藤くん。紗代のこと、いや紗代として末永くよろしく頼んだよ」
「私たちがそうだったように、婿養子として受け入れる準備もしておかなきゃね」
「そうだな。峰岸の名を消すことがないように、今度こそ男の子が生まれて欲しいけど、こればっかりはどうしようもないからな」
「そうよね。孫の顔を見る日が今から楽しみなんだけど、その時はこのアメ玉が必要になるかも知れないなんて」
「そんな時期になれば、二人で考えてくれるさ。その時でも遅くないだろ」

手に持ったコーヒーカップをテーブルの上に置くと、二人はまるで遠い昔の記憶を辿り、未来のことまで見据えるようにその場に佇んでいた。テーブルの上に紗代に渡したものと同じアメ玉が置かれていたが、アメ玉の包み紙には『このアメ玉の特殊な効果は峰岸家の遺伝子を引き継ぐ二十歳以上の者が一回だけ使用可能です。使う相手をしっかりと見極めて継承してください』と書かれていた。