教生先生

作:夏目彩香(2003年8月21日初公開)



夏休みが終わり、これからまた授業の日々が始まろうとしていた。また担任の植木隆(うえきたかし)の顔を見なくてはならないのかと思うとうんざりとしてしまう。もうすぐ大学受験だと言うのに勉強もそこそこしかやっていない俺にとっては退屈な朝の始まりだ。

教室の戸が開くと、いつものように担任の植木がやって来る。そして、なぜか見慣れない女性も一緒に入って来た。紺のツーピース、スカートはひざが見えないくらいの丈のものを着ていた、年の頃としてはまだ大学生くらい、知らない女性がそこに立っていた。

植木が教壇を背に向けて黒板に何か字を書き始める。いつものことだが、読めそうで読めない字だ。さっきの彼女は教室に入ってすぐのところで俺たちの方を見ながら背筋をぴーんと張って立っている。一体これから何がはじまると言うのやら……

植木が黒板に字を書き終えると、俺たちの方に向き直す。

「夏休みは元気に過ごしてきたかな。夏休みが終わって疲れ切っている奴もいるみたいだが、また授業をはじめるぞ。そして、今日から2週に渡ってうちのクラスに教育実習生が来ることになった。夏休みが始まる時に言っておいたと思うが覚えているか。立科史華(たてしなふみか)さんだ。担当科目は英語なので私が預かることになった。まずはみんなに挨拶をして」

植木が教壇から降りるとそこに史華が立つ。教室の中にいる約30名ほどの生徒から視線が集中してちょっとドキドキしていた。心を落ち着かせるように口を開き始めた。

「立科史華です。教育実習をさせてもらうことになりました。植木先生をはじめ、早くクラスのみんなと仲良くなりたいと思っています。これからよろしくお願い致します」

史華の話が手短に終わると、植木と一緒に職員室へと行ってしまった。さっき話をしていた時はなんだか俺の方をずっと見ていたように思って、教育実習生に興味を持ち始めた。休み時間に入ると教育実習生の話しで教室中持ちきりだった。

「なぁ。良太、教育実習生のことどう思う?俺の苦手な英語も頑張る気が出てきたってもんだぜ」

友達の上杉要(うえすぎかなめ)がさっそく俺に話して来た。

「そうだなぁ。名前なんて言ってたっけ」

「あそこを見なよ」

黒板に残された植木の文字を見る。

「あっ。そうか、立科史華だったよなぁ。さっき俺の方をずっと見られているような気がしてちょっとぼぉーっとしてたよ」

「そうだったか?きっとそれはお前の勘違いだよ」

「そうか?俺のこと気になっていたみたいだぜ」

そう言い合っているうちに最初の授業が始まるチャイムが鳴り出した。


夏休みが開けたばかりなので、妙に授業時間が長く感じる。こんなにつまんない授業ばかり受けていてはたまらない。俺のクラスはほとんどが大学に進もうとしている。文系のクラスなので女子の方が多いため、クラスの中では女子の方が権力が強い。みんな真剣に授業を受けているので悪ふざけもできないまじめなクラスだ。

そうこうしているとやっとのことで昼休みがはじまる。英語の授業は6時間目にくまれているため、朝にやって来た教育実習生の姿はまだ見ることが無かった。昼休みには上杉の横にランチボックスを持って行って、一緒に食べるのだが、久しぶりの学校だけになんだか体がかったるい感じだった。

昼飯を食べ終わると、体育館へ行くことにした。もちろん、上杉以外の友達も誘って一緒に行った。昼になるとこうして仲間うちでバスケをするのも楽しみの一つだ。上杉の奴とは夏休みの間にもこうやって一緒に運動をしていたが、他の奴とは久しぶりだった。いつもよりも体が軽く感じたのはたぶん俺だけではないだろう。

授業がはじまる5分前に一度チャイムが鳴ると、それは教室へ戻る合図ともなっている。制服姿ののままバスケをしたので、いつものようにワイシャツが汗で体にへばりついてくる。みんなは教室へ直行したが、俺は喉が渇いたので水飲み場へ向かう。そこで水を飲んでから顔を洗った。

この時、腕時計をチラッと見ると授業の始まる1分前を指していた。次の授業はと言えば、時間にはめちゃくちゃうるさい、かみなり親父の田端(たばた)の数学だった。ここからだと走れば何とか間に合うので、俺は廊下を走って教室へ向かうことにした。

廊下を駆け抜け、教室のある3階目がけて階段を駆け上がる。2階から3階に上がろうとした時、あと1歩で3階と言うところで突然目の前に人影が現れ、そのままぶつかってしまった。そして、2階と3階の間で俺はしばらく気を失っていた。

気を失っていたのはほんの僅かな時間だったと思うが、なかなか目を開けることができなかった。体全体の感覚がおかしくて、自分の体さえも思うように動かすことができない。それでも俺はゆっくりと目を開けていくことにした。

すると、目の前に見えたのはさっきぶつかったと思われる人だった。どうやら男子生徒にぶつかったらしい、彼はまだ気を失っているようで、ぐったりとしていた。俺はそいつの顔を見てやろうと、感覚のおかしくなった手でそいつの顔を振り向かせた。

「わぁっ」

俺は驚いた。そいつの顔はまさに俺の顔だったからだ。一体何が起きたというのか、俺は冷静になって考えてみた。すると、俺の体の感覚がだんだんと戻って来た。しかし、いつもと何か違った感覚。さっきまで汗でぐっしょりだったはずなのに、汗の匂いよりもいい匂いがしてさらさらとした感覚が伝わって来る。

そうこうしているうちに、階段の下から見慣れている植木の顔が現れ、俺の体を抱き起こしながら変なことを言ってきた。

「立科先生、大丈夫ですか?山部(やまべ)の奴とぶつかったんですね。怪我でもしまんでしたか?」

いつもの植木とは違ったしゃべり方をして来る。それに俺のことを立科さんと呼んで来るのが妙だった。植木の奴に抱き起こされた俺は、体の違和感を感じずにはいられなかった。そして、その違和感がなぜ起きていたのかをようやく知ることができたのはこの時だった。うちの学校の階段には階と階の間に鏡がついているので、目の前に鏡が見えてきたのだ。そして、その中で立っているのは植木と教育実習生の立科史華しかいなかったからだ。

「もしかして、俺って教育実習生になったのか?」

そう言うと、スカートの裾を直しながら、鏡の中の立科史華と行動を見比べていた。俺が右手を挙げると鏡の中では左手を挙げ、左手を胸に持って行くと、鏡の中では右手を胸に持って行った。どうやら俺が立科史華と言う教育実習生になってしまったらしいのは事実のようだった。

「先生。おれ、いや私、山部くんと一緒に保健室へ行きたいんだけど、山部くんの体を担いでもらえないか?いや、もらえませんか?」

俺は立科史華という女を演じようと思ったがちょっと地が出てしまった。しかし、気が動転している状態だったので、植木は全く気づくことも無く、俺の体を担いで保健室へ行くことができた。あいにく保健の先生が不在だったが、保健室は空いていたので、植木が俺の体をベッドに寝かせた。

「立科先生。いきなり災難でしたね。教育実習生だからまだ知らないでしょうけど、この山部はうちのクラスでも手のつけない奴でして、これからも気を付けてください。私は先に職員室に戻りますので、落ち着いたら来てくださいね。次の授業の打ち合わせをしたいと思いますので」

そんなことを言うと、植木の奴は出て行った。これで保健室の中には俺の体と教育実習生である立科史華になった俺だけが残された。すると、俺には一つの考えが浮かんだ。俺の体はまだ気を失ったまま。だけど、俺が立科史華になっているから、俺の体はずっと意識を失ったままでは無いかって。

そんなことを考えた矢先、ベッドの上に寝ている俺の体の目が開いたのだった。

「あれ?ここはどこ」

聞き取れにくい小さな声だったが、確かに俺の体がしゃべり始めた。そして、俺の体は目の前にいる俺の方を見て、声を失っているようだった。

「あたしがいる。どうして?どうしてなの?」

俺の体からはたしかに「あたし」と言う言葉が出てきた。この時俺はもしやと思うのだった。

「もしかして、立科先生?」

その声に反応するように俺の体がゆっくりと頷いた。やっぱり、俺たちは心と体が入れ替わっていたようだった。俺の体には立科史華の心が入り、立科史華の体には俺の心が入ってしまった。考えにくいがどうやらこれが目の前に起こった現実だった。


そんなことをしているうちに、保健室の戸ががらりと開いて、保健の先生が入ってきた。年齢から言って俺の母さんとあまり変わらないが、年の割には美人な先生で評判がいい。

「あら。立科先生。教育実習生がどうしてここにいるの?」

保健の先生に聞かれると、良太の口が動きそうになったが、俺がその口を塞ぎながら話した。

「あっ。先生。山部くんが具合が悪くなって、私が連れてきたんです」

さっきは、とっさに出なかった女言葉も今度はうまくいっている。俺は調子に乗って話を続けだした。

「私、職員室へ戻らなければなりませんので、山部くんのこと頼みます。もう少し休ませればいいと思いますので、それでは、失礼します」

そういいながら、俺は保健室の中から抜け出して来た。とにかく、俺と教育実習生が入れ替わったなんてことを理解できる人はいないだろうから、とりあえず俺は彼女として行動を取ることにしたのだ。立科史華には悪いけどしょうがないことだからと強く心に言い聞かせた。

廊下を歩くのもいつもと違って新鮮な感じがする。低めのグレーのパンプスの音と、歩くたびにスカートの延びる感じがおもしろかった。いつもよりも低い目線で、長い黒髪をなびかせながら職員室へと向かっていった。

職員室に入る前に思わず、ノックをしてしまったが、今は立科先生と言う立場、別にする必要が無かった。植木の机に向かって行くと、俺を見つけて逆に植木が立ち上がって来た。

「待っていましたよ。立科先生。6時間目の授業ですが、どうやるつもりですか?」

さすがに若い女性の前だけとあってか植木の態度がおかしい、俺の知っている植木とは偉い違いである。とりあえず授業の進行予定を書いた紙を植木が持っていたので、それを俺のきれいな手で取り上げながら、立科史華のように言ってみせる。

「そうですね。この通りになんとかやるだけやってみます」

立科史華がしっかりと用意したものらしく、なかなかしっかりできていたので、植木はすっかりと安心した。

「私もこれでいいと思います。あとは生徒たちの前で緊張しないように頑張ってください」

そう言うと俺は植木の前から離れて職員室の隅に臨時につくられた立科史華のデスクへ歩いて行く。職員室の中には他にも何人か先生がいるが、俺の知っている先生はいなかった。そのまま立科史華のデスクに座るとスカートがピーンと張っている感覚が伝わってきた。あとは授業の始まる時間を待つだけだ。机の上に置かれた見慣れた教科書も今日は違った感じで見えてくる。


もうすぐ授業がはじまるので、この間に俺はトイレに行くことにした。どうやら男の時よりも我慢ができそうになく、女子トイレに駆け込んだ。スカートのホックを取ると洋式に腰をかける。いつもとは違った音と開放感が伝わってきた。トイレットペーパーで濡れた部分を拭くときには思わず声を出してしまいそうだった。やはり、女の体は男とは違うんだと俺は思った。

トイレから出てくるとチャイムが鳴っていた。これは5時間目の終わったチャイム。ということは、次はいよいよ俺の授業が始まる時間だ。自分のクラスにこの姿で行くのはちょっとだけ楽しみなことがある。いつも俺のことを気にしてくれない女子連中や友達である上杉の反応がとても気になるところだ。急いで職員室に行き植木と一緒に俺のクラスを目指して歩いて行く。

植木と一緒に歩きながら当たり障りのない話をしてくる。これから授業に入る「立科先生」の緊張感をほぐそうとでも思っているのか、それともただのくだらない話なのか、俺は適当にあしらっておいた。そして、廊下を歩いている時には周りから異常なくらいに視線を感じる。女の先生ということも関係があるのか、ますます気をつけながら歩いていた。

6時間目のチャイムが鳴り止むと廊下には誰もいなくなっていた。他の先生たちも教室へと入っていく。植木が最初に教室の中へ入り、そのあとに俺が入る。植木は教室の隅で俺を見守るような感じで座り込み、俺は教壇の上に立った。すると、例によってまずは挨拶が自動的に始まった。号令をかけているのは上杉だ。

挨拶が終わると、いよいよ俺は授業を始めなくてはならない、しかし、本来生徒である俺に先生が務まるのかわからない、とにかく自己紹介をはじめることにした。

「それじゃ、授業をはじめる前に先生の自己紹介からはじめたいと思います」

そう言うと黒板に向かって字を書き始める。いつも俺の書くような字とは違った字体が現れたがきれいな字とは言えない。ともかくもして、黒板に「立科史華」の文字を書いた。

「先生の名前は立科史華です。大学では英文科に通っていて、将来は先生になりたいと思って教職課程もとっています。何か質問はありませんか?」

するとある生徒が手を挙げずに勝手に質問を投げつけてきた。

「先生。ボーイフレンドはいるんですか?」

よくある質問だ。これは上杉が質問をして来た。

「そうですねぇ。今はボーイフレンドはいないわ。でも、好きな人がいるのよ」

俺は教室を見回して見たが、俺の姿、すなわち立科史華の入った俺はいなかった。

「あれ?山部くんはどうしたの?」

俺がそう問いかけると、上杉が答えた。

「先生。山部の奴はまだ保健室にいます。先生とさっき階段でぶつかったって聞いたんですけど、大丈夫でした?」

「先生は大丈夫だったわ。かすり傷一つ無くてね。それで、先生は山部くんのような人が好みだわ。山部くんって格好いいでしょ」

すると、すぐに上杉が反応する。

「ホントっすか。じゃあ山部の奴が言ってたことってマジかよ」

俺は上杉に近づいて行き、その目を見つめながら

「そりゃマジに決まってるじゃん」

と言ってから教壇に再び戻った。

「他に質問はある?何でもいいわよ」

それからはそんな感じで、質問のし放題になっていた。肝心の授業になかなか入らないので、植木がチャチャを入れてきた。

「立科先生。ちゃんと授業をしてください。先生は教育実習生なんですから、授業をしてもらわないと困ります」

すると、俺は植木に向かってまるで叱りつけるような激しい口調で言い返した。

「大丈夫ですよ。植木先生の生徒さんはみなさん優秀みたいですから、今日の授業は初めてですので、私がこのクラスに慣れないといけないかと思いまして。植木先生は黙っていて
ください。この授業は私のやり方で進めます」

生徒たちの目からすると女学生からいじめられる植木に写ったかもしれない。俺はあくまでも強気な態度を授業が終わるまで続けた。結局、英語の授業は本格的には何も進むことが無かった。

しかし、授業が終わると、俺は植木に怒られることもなかった。最初の授業だと言うことで大目に見てくれたようだ。そして、保健室へ行って俺の姿をした立科史華の様子を見に行こうと思っていたので、階段を下りていくことにした。

階段の昇り降りをするのはいつもと違って、ちょっと大変だ。タイトスカートなので1段1段しか降りられない。いつもは段飛ばしをしているから、下の階が遠く感じるのだ。俺は思いきってこの格好のまま段飛ばしをしてみることにした。思った以上にバランスを取るのが難しくなって、その場で足を引っかけてしまった。今度は、目の前にいる人にぶつかってしまったのだ。そして、気を失ってしまった。

俺が、気がついたときには階段の下で倒れていた。ゆっくりと意識が戻ってきたが、なんだかまたもや感覚がおかしい。俺は自分の姿を確認しはじめた。目の前に見えてきたのはうちの学校の制服。階段の前にある鏡に顔を写すとそこには上杉の顔があった。

「なんでだよ~」

俺は気絶したままの「立科先生」を羨ましそうに見るしかなかったのだ。





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