忘れちゃいけない(後編)

作:夏目彩香(2014年4月11日初公開)


 

どこに行こうか少し迷ったあげく、自宅から車で20分ほどのところにあるお寿司屋さんで食事をすることになった。実はこの店の主人が父さんの親友だったという事もあり、特別な日になるといつもここに来ていたのだ。家族が減ってからも特別な日毎にここにやって来ていたのだ。職人さんの中には僕ら兄妹のことをよく知っている人がいるため、まるで家にいるような雰囲気で過ごせるのが良かった。しかし、母さんは今日は予約を入れていて、普段は入ったことのないプライベートカウンターに通された。

プライベートカウンターとは大きなカウンターのある個室のことで、部屋も職人さんも貸し切りでお寿司を堪能することができるのだ。カウンターには30代中盤ながらまだ独身の職人さんが立っていた。背が高く顔立ちもいいのに恋人はいないとのこと、僕は密かに母さんと一緒になってくれたらお似合いなのにと思っていた。お互いに好意は持っているものの、それを表現できないでいるような雰囲気を感じていたのだ。

「いらっしゃいませ、村瀬様。本日担当させて頂きます浅田義朝(あさだよしとも)です。お召し上がりたいものがあれば、なんなりとお申し付けくださいませ」

プ ライベートな空間のため声を張り上げるよりも、丁寧な言葉遣いが要求されるらしく、浅田さんの雰囲気はいつもと違っていた。加えて、どうやら母さんの姿を直視することができないでいるようだ。3人だけだと、この空間は思った以上に大きく感じるのだ。なんとなく場の雰囲気が悪くなったところで、個室の扉をノックして女将さんがお茶とお絞りを持って入って来た。

「村瀬さん、いつもありがとうございます。あら、今日の彩音ちゃんはなんだかきれいね。もしかして、彩音ちゃんも卒業式だったのかしら?」

女 将さんはお茶をテキパキと差し出しながら、母さんと僕に挨拶してくれた。彩音にとっては生まれた頃からの付き合いなので、なんでもよく知っているのだ。もちろん今日が卒業式だって情報は当たり前に知っているし、そのためにこの個室を使ってもらうことができるように、他の予約は極力入れないように配慮してくれたそうだ。こんな細やかなサービスと家族ぐるみの付き合いをしていたからこそ、また来てみたいと思うようになるのだ。母さんと僕は女将さんと簡単に話を済ませると気分がリラックスして、個室の雰囲気に一気に溶け込むことができた。




浅 田さんの握るお寿司はとにかく美味しかった。シャリとネタの絶妙なバランスに加えて、どうやら女性が好む味付けにほんの少しだけ変えているとのことだった。さらに、彩音はお寿司が大好きだったので、それも影響しているようだ。食事が進むに連れて、浅田さんとも会話を楽しむことができるようになって来た。お腹がだいぶ膨れて来た頃、母さんに浅田さんがノンアルコールの赤ワインと共に一本の赤いバラを差し出した。震災をきっかけに母さんはアルコールを止めてしまったので、以前のようにワインは飲まなくなっていた。そもそも車でやって来たのでアルコールを飲むことはできなかった。しかし、これらの物を見た時に母さんの赤いピンヒールを思い出した。まるでお互いに約束していたかのように思えた。

「彩香ちゃん。浅田さんのことどう思う?」

ワイングラスを手に母さんは意味有り気な言葉を僕に投げかけた。

「浅田さんって、素敵な職人さんだと思うわ。ちょっと年の離れたお兄ちゃんって感じかな…あっ、まさか…やっぱり…そんなわけないよね…なんだか今日のお母さんってちょっと変な感じ」

そ う言いながら僕は二人の間に何かがあることに薄々感じ取っていた。あの日から3年が過ぎ、娘の彩音が中学校を卒業して、これから東京の全寮制高校へ行くことになっている。母さんからしたらこんな絶妙なタイミングは他にはないのかも知れない。大人には大人の事情というのがつきまとうらしいが、僕の予想はかなりいい線を行っているはずだ。母さんはバッグの中から化粧ポーチを取り出し化粧を直してくるとその場からいなくなった。僕を浅田さんと2人きりにするためにわざといなくなったのかも知れない。

「彩音ちゃん。さっき、お母さんから変な質問されたよね…」

母さんがいなくなってから浅田さんはそんな風に切り出して来た。そしてその言葉からしばらく間を空けて、浅田さんが再び口が開いた。

「…彩音ちゃん。実は、以前彩音ちゃんのお母さんにプロポーズしていたんだ。お母さんからは、お父さんの命日にその返事をくれるってことになっていたんだ」

その言葉を聞いた瞬間、僕の心の内から何か熱いものがこみ上げてくるのがわかった。そして、それは自然と涙腺を潤し大粒の涙となって落ちていた。

「浅田さんとお母さんが一緒になったらいいって、心の中でずっと思っていたんです。浅田さんだったら私も安心できます。お母さんが浅田さんのことを受け入れるんだったら、私が反対する理由は全く無いです」

僕は大粒の涙を新しく渡されたお絞りで拭いながら、心を落ち着けて浅田さんに思いを伝えた。その瞬間、浅田さんは肩に載っていた得体の知れないものが無くなったかのように気分を昂揚させて言った。

「ありがとう、彩音ちゃん。お店に入って来た時にお母さんからすでに返事はもらっていたんだよ。プロポーズした時にお母さんから言われていたんだけど、プロポーズを承諾する時には赤いピンヒール、拒否する時には黒いパンプスで来店しますって約束していたんだよ」

そ の言葉を聞いたとき母さんが一人でいたいと言った理由をすぐに理解した。浅田さんとのプロポーズを受け入れたらいいのか、それを決めようとしていたんだ。それならお父さんからもらったツーピース姿やメイクにも何か意味があるはず。そんなことを思い始めた時に化粧室から母さんが戻って来た。メイクを直しただけでなく髪を上げて来た母さんの心のうちを僕は知りたいと思うようになっていた。

「彩音ちゃん。浅田さんから大事なことを聞いたわよね」

母さんもどうやら何か重荷が無くなったようだった。さっきまでとは違って軽やかな言葉遣いに変わっていた。

「お母さん、浅田さんからプロポーズされていたんだなんて、どうして私には黙っていたの?それに2人が交際していたなんて初耳だし」

カウンターの横に座り直している母さんに向かって僕はちょっとだけ愚痴をこぼしてしまった。

「だっ て、あの日から3年が経って彩音ちゃんが卒業するまでは私たちが交際していることも黙っておきましょうって約束していたの。そもそも私が仕事で忙しいからデートなんてなかなかできるわけでもないし、こうやってお店に来てはこっそりと連絡をするしか無かったのよ。今日、この個室を貸し切ったのは、新しい家族として一つの空間で過ごしてみたかったからなのよ」

浅田さんと母さんがこっそりと付き合っていたというのは意外なことだった。確かにいい雰囲気ではあったものの、付き合っているようには見えなかった。ここに来るたびにお互いに軽く挨拶する程度だと思っていたものの、2人は2人にしかわからない何かを決めていたらしい。

「ねぇ、お母さん。浅田さんがお父さんになるってことは、私の名前が村瀬から浅田になるんじゃないの?でも、浅田さんって母さんよりも年下なのよね」

カウンター越しに見つめ合う2人は、すでにカップルの領域を超えて夫婦のような雰囲気を醸し出し始めていた。母さんに投げかけた質問は浅田さんが代わりに答えてくれた。

「彩 音ちゃん。名字については大事なことだから3人でしっかりと決めたいと思っている。彩音ちゃんは15歳、彩音ちゃんのお母さんは38歳だよね。僕は彩音ちゃんが指摘した通り彩音ちゃんのお母さんよりも3歳年下の35歳だよ。僕が20歳の時に生まれたのが彩音ちゃんということになるから、やっぱりお兄さんというよりはお父さんだと思う」

プロポーズの結果待ちとは言っても、2人はすでにだいぶ先のことまですでに考えていたようだった。確かに20代のカップルとは違って結婚を前提に付き合っていたというのは間違いないことだろう。浅田さんが話してくれたようにこれからの新しい家族については僕も意見を出すことができるのだ。名字が変わるのは確かに不便なことだが、夫婦別姓がまだ認められていないこの国では、どちらか一方の姓に統一しなくてはならないのだ。

「やっぱりお母さんよりも3歳年下なんですよね。浅田さんがこれから新しいお父さんになる
ことに関しては私が反対する余地はありません。私はお母さんのことを応援する立場、2人の間に子どもができるのも構いません。村瀬という名字にやっぱり愛着がありますけど、ちょうど高校に入学するタイミングで浅田に変えるのも私としてはいいと思います。東京に出て行くタイミングで村瀬彩音が浅田彩音に自然に変えるのって、そんなに抵抗無いかと思っています」

浅田さんと母さんが結婚する。それは、2人がお似合いだと思っていた段階とは違って現実的には色々と考えることでいっぱいだった。娘が中学校を卒業するまで2人とも黙っていたのにはやっぱりそれなりの訳があるのだろう。

「彩 音ちゃん、ありがとう。君からも承諾をもらったならまずは入籍だけでも早く済ませたいと思う。名字についは2人で一緒に考えていたんだけど、どうやら彩音ちゃんも同じ考えのようだから、お母さんと彩音ちゃんの名字は村瀬から浅田に変わることになるよ。名前が変わることによる手続きが色々と必要になるだろうけど、高校に入学するまでにはなんとか終わらせるようにするよ」

どうやら2人も同じ考えのようだった。父さんから引き継いだ村瀬という姓が無くなるのは寂しくなるものの、いつまでも村瀬という姓に縛られたくなかった。これからは浅田彩音として新しく生まれ変わるのだ。浅田彩音として女子力に磨きをかけてもっと女性としての人生を楽しもうと思っていた。まだ残っている男としてのプライドは金繰り捨ててしまおう。そう決心した瞬間でもある。僕…いや、私のこれからの人生は浅田彩音として完全に新しくなるのだ。

「お母さん。2人が入籍すると私は浅田彩音ということになるのよね。お母さんは村瀬香織(かおり)から浅田香織(かおり)になるのよね」

私はカウンターの横に座っている母さんに向かい、そう言いながらまるで自分に自己暗示をかけるかのように言っていた。

「仕 事上の名前は今まで通り村瀬香織を使えばいいから、母さんとしてはそんなに問題が無いのよ。村瀬というのはもともとあの人の名字で、結婚する前は木村香織だったから、母さんにとっては3つ目の名字になるわ。それよりも、彩音の高校に再婚したことによる名字変更を連絡したりそっちの方が面倒そうよ。彩音ちゃん自身で必要な手続きは特に無いからそのあたりは心配しなくていいわよ」

カウンター越しに立っている浅田さんは調理場の中を片付けながら話しかけて来た。

「ねぇ、彩音ちゃん。これからは彩音ちゃんのお父さんになるんだから、彩音ちゃんの前でお母さんのことは香織、彩音ちゃんのことは彩音って呼んでいいかな?」

「いいわよ。お父さん!」

私がそう言うと個室の中は3人の笑い声でいっぱいに包まれた。

パーン!パン!パン!

明るい雰囲気に包まれた個室の扉が開くと、女将さんと父さんの親友であるご主人がクラッカーを鳴らしながら入って来た。

「浅田さん、村瀬さん。この度はおめでとう! 2人が織りなす新しい家庭に祝福がありますように! そして彩音ちゃんのこれからについても祈ります」

女将さんとご主人が個室にやって来ると、浅田さんも調理場から出て来て同じ場所にみんなで集まった。

「女将さんたちも2人のことを知っていたんですか?」

疑問に思った私は女将さんに聞いてみた。

「私たちもさっき知ったばかりなのよ。香織さん…彩音ちゃんのお母さんが化粧室に行ったその後で伝えてくれたの。浅田さんっていい人だから早く落ち着いてもらいたかったくって私たちはお見合い相手を探していたんだけど、彼ったらずっと話を断っていたのよね。香織さんよくお店に来ていたし、2人ってなんとなく仲がいいとは思っていたんだけど、まさか結婚まで話が進んでいたなんてことは思いもよらなかったわ」

女将さんもご主人にどうやら黙っていたようだが、2人が入籍を決めたことによって簡単なお祝いをしたいとさっそく準備したようだった。

「村瀬の奴が香織さんを初めてこの店に連れて来た時のことを思い出すよ。あの時も同じような赤いピンヒールで店にやって来て、若い女性と結婚した村瀬の奴がとっても羨ましかったんだよ。今でもこうして家族ぐるみの付き合いをさせてもらっているが、この店の若きエースの浅田くんが奴の後を引き継ぐように香織さんと再婚することになるなんて、なんだか俺にとっては感慨無量なことなんだよ。今日は奴が3年前に死んだ日だけど、たった今から祝福の日に変わったようだよ」

父さんの親友だったご主人だが、仕事のせいもあってか父さんと同じ年齢にしてはずいぶんと貫禄を持っていた。親友の妻だった母さんが浅田さんと再婚することについて、なんのわだかまりも持っていないことは幸いなことだった。

「浅田さん、これからも店を頼みますよ。私たち夫婦の間には子どもが授からなかったから、このお店の将来は浅田さんたちにかかっていると思ってるのよ」

「女将さん、ありがとうございます。これからは家族共々よろしくお願いいたします。お互いの両親には2人の間で結婚する意思があれば入籍していいという確約をすでに取り付けておりますので、ホワイトデーにでも入籍の手続きをしようと考えているところです」

「彩音の入学があったりと忙しい時期なので、落ち着いてから結婚式を挙げることにしたいんです。プロポーズ受ける前から2人で色々と話をしたのですが、私にとっては2度目の結婚式になりますし挙げなくてもいいって思っていたんですけど、浅田さんは初婚なわけだし子連れでもしっかりと式を挙げたいと思ってます」

「まぁ、とにかく良かった良かった。浅田くんはこの辺で上がっていいよ。今から香織さんたちとゆっくりと時間を過ごすといい。彩音ちゃんにもきちんと納得してもらわないと今後大変だろうしね…」

そこまでご主人が言うと、浅田さんに向けていた視線を母さんの方に向けて言葉を続けた。

「あっ、それと香織さん。本日のお代はいりませんよ。この席は私たちからのお祝いと思って受け取ってください。香織さんは私にとっては親友の大切な人だ。まさか浅田と新しく結ばれるとは思ってはいなかったけど、あいつのことだからこの再婚を喜んでくれるはずだよ」

浅田さんは帰り支度をすると言って準備を始めていた。

「大 将。香織さんが大将の親友である村瀬さんの妻だったということは僕にとってどうってこと無い問題でした。むしろ、亡くなった村瀬さんのことを考えるとこんな早くに再婚に踏み切っていいのか迷ったくらいです。大将がそう言うのでしたら村瀬さんはむしろ喜んでるのかも知れませんね。これからは香織さんと彩音ちゃんと3人一緒にあたらしい家族を築き上げていきたいと思います。今後ともよろしくお願いします」

浅田さんはそう言ってご主人に深々とお辞儀をすると、店の奥の休憩スペースに着替えをしに行った。




母 さんと一緒にあるマンションの駐車場に辿り着いた。私の住むのは人口が十万人にもみたない小さな都市だが、ここでもマンション開発は進められているのだ。
そう、ここは浅田さんが住むマンションだった。母さんがオートロックの部屋番号を押すと浅田さんがすぐに解除した。マンションの外と中を隔てている扉が開くや、母さんは迷うことなくエレベーターがあると思われる方向に向かっていた。東京あたりでは当たり前だろうけど、この街にしてはずいぶんとグレードの高いマンションに思えた。

母さんと一緒に401と書かれている扉の前までやって来た。とは言ってもエレベーターから降りると右と左に1軒ずつしか無いので、エレベーターから降りてすぐの場所だ。4階がこのマンションにとっての最上階なので、どうやらこのマンションで一番高額な物件だと言うことは私でもすぐに理解することができた。玄関の扉が開くと男性が一人で住んでいるとは思えないくらい広々とした玄関が現れた。玄関の横にはシューズクロークが備え付けられているものの、電子機器や電子製品のダンボールが積まれており、靴置き場というよりもまるで物置のように使われていた。

リビングへと通じる長い廊下には浅田さんが所有しているCDやDVDがズラリと並べられていた。この道を通り抜けるとリビングが現れたが、そこはホームシアターそのものだった。浅田さんに母さんがコートとバッグ預けると、部屋の隅にあるコート掛けにかけ、バッグもどうやらいつもの場所と思われるサイドテーブルの上に置いてくれた。もちろん私のコートも母さんのコートと一緒にぶら下がっていた。

母 さんと一緒に大きなテレビの向かい側に置かれてある大きなソファに腰を降ろすと、ローテーブルの上に浅田さんのタブレットが置かれているのに気がついた。自分の持っているスマートフォンとお揃いの端末は、前々から自分で使ってみたいと思っていたもので、手に取ってみたくなった私は浅田さんに聞いてみた。

「これ触ってみてもいいですか?」

初めての部屋に入っていきなり口に出す一言としてはどうかと思うものの、これから新しいお父さんになる人なのでこのくらいの一言は平気だと思った。

「あっ、それなら勝手に使っていいよ。パスワードは彩音ちゃんのお母さんの誕生日になってるから」

浅田さんはそう言ってすぐに返事をしてくれた。他人なら勝手には触れないものでも、そうやって応えてくれるところに新しい家族ができたことを感じ、嬉しくなった。タブレットのカバーを開くと、いつも自分が見ている画面よりもずっと大きな画面が現れた。まずは写真という名前のアプリを起動してみることにした。写真アルバムは完全にプライベートなものだが、浅田さんはむしろ自由に中を覗いていいよという感じだった。スマホで撮った写真がすぐに転送されて、タブレットの大きな画面で見ることができるのは新鮮な体験だった。スマホで撮影した写真の中は浅田さんの日常が反映されているだけだった。ここにはお母さんとの写真は一枚も出て来ない。

「この中にはお母さんとの写真は無いんですか?」

我慢できなくなってしまったので思わず浅田さんに不満を漏らしてしまった。すると浅田さんは僕のそばに寄り添うようにソファに座って、タブレットを自由自在に操り始めた。すると写真アプリでは無く、何か別のアプリを起動させていた。それはソーシャルネットワークのアプリだった。浅田さんはそこにたくさんのアルバムを作成していて、お母さんと一緒の写真を格納していたのだ。

「彩音ちゃんのお母さんの写真を入れているアルバムは、僕とお母さんしか見ることができないように設定しているから、ここを使ってプライベートでデートした写真をやり取りしているんだよ。今まではずっと周りに知られるとまずいと思っていたからね。でも、入籍すれば正式に夫婦となるわけだから、これからは友だちには公開することができるよ」

2 人が付き合っていることは徹底して隠して来たようだ。しかし、2人が付き合って来た記憶は2人のタイムラインに残されているのだ。女子として中学校生活をなんとか過ごして来た私は、なんだか自分が妹の彩音として定着することに一生懸命で、母さんのことを気にしていなかったのかも知れない。浅田さんに私のアカウントを教えると、さっそく友だち申請をしてくれた。すぐにスマホに通知が届いたので、こちらもすぐに友だち承諾をしていた。母さんは仕事で忙しい割にこまめにアップデートしていたが、私はメッセージングを行う別のアプリに夢中になっていたので、ほとんど読む専用と化していたものの、浅田さんと繋がったことによって、これからはもう少し起動する頻度があがりそうだった。久しぶりに起動してみると浅田さんの投稿がタイムラインにたくさん流れて来ていた。
そこには母さんと一緒の写真も時々見えるのだ。

「彩音ちゃん。今までずっと黙っていてごめんなさいね」

ソファの片隅に座っている母さんがなんとなく神妙そうな顔をして私に話て来た。

「大丈夫。私はお母さんのことを応援しているんだからね。浅田さんと一緒になったらお似合いだって思っていたくらいだし」

「この子ったら、何か誤解しているわね。浅田さんと結婚することは父さんが亡くなってからほぼ決まっていたことなのよ。浅田さんが私のことを本当に理解してくれたからこそ、プロポーズしてくれたんだし、私もそれに応えることができたってわけなのよ。母さんが赤いピンヒールを履く自信は持っていなかったんだけど、父さんからその力をもらったのよ。だってね……」

母さんが途中まで言いかけると、浅田さんが話を中断させるように母さんの口を塞いだかと思うと、リビングの隣にある大きな寝室に2人で入ってしまった。部屋の中で何かを話し合っているような声はするものの、何を話しているのかわからなかった。父さんとの間に何かあるのかも知れない。そもそも私にも自分だけが抱えている大事な秘密があった。この秘密を隠し続けたまま新しい家族としてうまくやっていけるのかよくわからなかった。せめて母さんにだけでも伝えようかとずっと思い続けていたが、浅田さんが新しいお父さんになるのだとしたら、浅田さんにも知らせないといけないはずだ。




村瀬彩音は3年前までは村瀬克彦だった。克彦として浅田さんに初めて会った時のことを今でもよく覚えている。いつものように家族4人で店のカウンター席に座ると、その日はご主人が病気で倒れていて、新しく入ったという新人職人さんに握ってもらったのだが、それが浅田さんだった。浅田さんはそこから父とすぐに仲良くなり、父が冗談混じりで俺が死んだら香織はお前に任せてやっていいと言うほどだった。親友のご主人と一緒にプライベートでも付き合っていたので、父さんと浅田さんはまるで兄弟のようだった。

父が亡くなった時にも、ご主人と浅田さんは2人で男泣きに泣いていた。震災の直後ですぐに葬儀を行うことができなかったから、避難所に遺体が運び込まれて来た時に一緒に身元確認を行ったくらいだった。父と僕の遺体確認の際にはもちろん母さんと妹の彩音がしっかりと確認したものの、この2人も死という現実を目の前にして心の中にはち切れんばかりの思いが込み上がって来たらしかった。その時はこの2人の方がたくさんの涙を流していたのだ。




そ んなことを思いながら、タブレットに映し出された写真アルバムを遡りながら見ていた。浅田さんと母さんの写真が中心ではあるものの、時には家族写真であったり、集合写真であったり、色々な写真を見ることができた。そして、浅田さんと母さんに加えて父さんが一緒に写っている写真が出て来たのだ。撮影日が震災の直前となっているから、父の生前最後の写真と言ってもいいくらい貴重な写真だった。この頃は母さんと浅田さんが付き合っているのではなく、父さん母さんと一緒に浅田さんが行動していた時の写真なんだろう。この写真と次の写真には1年以上もの時間が過ぎており、それは母さんと浅田さんのツーショットになっているので、この間に震災が発生して父さんが亡くなり、それからしばらくして2人が付き合い始めたんだと思う。寝室から母さんが出て来ると、写真を眺めていたタブレットを手に取り、また何か別のアプリを立ち上げ、とある画面を見せてくれた。

「あの人が使っていたメールアドレスを覚えてるかしら?」

画面の左上にメールアドレスが表示されていたが、そのメールアドレスは紛れもなく父さんがよく使っていたものだった。父さんの部屋や荷物は片付けたことがあったが、メールアドレスは等のデジタルデータがどうなったかは私は知ることがなかった。母さんが一人で整理したのだろうか? それとも浅田さんに助けてもらったのだろうか? 私の中に色々と疑問がわいて来た。

「お母さん、このメールを見るにはパスワードを知っている必要があるよね。お父さんがどこかにメモしていたわけじゃ無いよね。どうやってパスワードがわかったの?」

パスワードを知らなければメールを開くことはできないはずだ。それをどうやって母さんが知ったのか、それがとても気になったのだ。

「父 さんは万一自分に何かあった時の為に自分が使っているネットサービスのパスワードを浅田さんに教えていたのよ。2人はとても強い友情関係で結ばれていたのよね。父さんが亡くなって、しばらくしてからあの人からメールが届いたの。それは浅田さんが送ったものだったのよ。父さんが亡くなった時に伝えられた通りに母さんに送ってくれたのよ。それで私は浅田さんに直接会いに行って、それから時々会っては父さんのことを話し合うようになったの。そのうち、それが自然とお互いを恋人として意識するようになって、周りには気づかれないようにこっそりとデートを始めたってわけ」

「そして、そうやって付き合っているうちに結婚することになったのね。自然と2人が結ばれたなんて、なんだか素敵だよね。浅田さんにとっては父さんが亡くなったことが人生の転機になったんだ」

「まぁ、客観的に見ればそうなるんだけど。。。彩音ちゃん、落ち着いて聞いてくれる?」

手に持っていたタブレットをローテーブルの上に置き、母さんはソファにゆっくりと私の隣に座った。

「さっ き、父さんから力をもらったって私は言ったけど、今まで彩音ちゃんとしっかりと向き合う時間が持てなくてごめんなさいね。確かにこの3年間は仕事に夢中で、その上浅田さんとのお付き合いもあったから、あなたと一緒に過ごす時間が本当に少なかったと思うわ。母さんはあなたに対してできる限りのことはやって来たと思うけど、あの人が亡くなって一人で子育てするのに自信がなくて逃げてたんだと思うわ」

「母さん。そんなこと無いよ。私は母さんがいないことで一人で何でもできるようになったのよ。勉強するために必要なものも生活に必要なものも全部母さんが稼いでくれたから得られたんじゃない」

「それはそれで確かなことよね、彩音ちゃん」

そう言うと、母さんは私の目に向けていた目線を天井の方に移した。

「彩 音ちゃん。。。いいえ、克彦だよね。母さんは知っていたのよ。震災が起こった後に彩音ちゃんとして克彦が生きているんだって気づいていたの。生まれてからずっと育てて来たんだからね。私の前ではできるだけ彩音として振舞っていても分かるのよ。見た目は彩音に見えてもやっぱり克彦だった。でも、頑張って彩音ちゃんの人生を引き継ごうとしていたから、今までずっと黙って見守っていたの。今のあなたはどこからどう見ても彩音ちゃんにしか見えないわよ。もし彩音が生きていたとしたら違った彩音ちゃんがここにいたんだろうけどね。とにかく、母さんは知っていたのよ」

私の目から大粒の涙が流れて来た。周りには彩音として気づかれないように完璧に過ごしていたように思っていたのに、実は母さんにはばれていたなんて、それを知っていながら今までずっと知らないふりをして来たというのだ。それによって今の彩音がいると言うわけだった。

「実はね。浅田さんもこのことを知っているの。結婚を考えているんだったらしっかりと知っていて欲しい事実が幾つかあったけど、その一つとして彼はしっかりと理解してくれたわ」

そう母さんが話すと浅田さんがリビングへとやって話を付け足した。

「彩 音ちゃんの秘密は付き合い始めた頃は知らなかったんだが、本格的に結婚を考え始めた頃に彩音ちゃんのお母さんが話してくれたんだ。震災の後、彩音ちゃんの様子がおかしいって、まるっで克彦くんみたいだって言われてね。僕も信じたらいいのかわからなかったけど、彩音ちゃんを育てて来たから分かるんだって言ってくれたんだよ。克彦くんのことだから、本当のことがわからないように彩音ちゃんのように振舞おうとしているんだってね。僕がプロポーズをした時のデートでも、今の彩音ちゃんは彩音ちゃん以上に彩音ちゃんらしいって言ってたよ」

私はいつの間にか浅田さんの胸の中に飛び込んで泣いていた。何も言えずにただただ泣き続けた。




桜 の花びらが彩りを増している並木道を歩いていた。真新しい茶色いチェック柄のブレザーとプリーツスカート、足元は紺のハイソックスと黒のローファーというスタイルで女子高校生としての新しい生活がこれから始まるのだ。寮と校舎を結ぶ通路がこの桜並木となっていて、暖かく爽やかな風に混ざって桜の花びらが舞う様子は本当に春がやって来たことを感じさせていた。

校舎に入ると下駄箱の中から自分の名前を探し始めた。学年毎、クラス毎に分かれている下駄箱の中から自分のクラスの下駄箱を見つけると、後ろの方から「村瀬」という名前をさがしてみたが、やっぱり無かった。一番最初に「浅田」というネームプレートが貼り付けられているのを見つけた。そう、今日からはここが私の下駄箱なのだ。

私の下駄箱 の隣は「川崎」の文字が貼り付けられていた。親友だった沙織とは同じクラスになったのだ。寮のルームメイトでもありクラスメイトになったのはもしかして学校側の配慮かもと思ってしまう。そう、これから全く新しい生活が始まるのだ。ローファーを脱ぎ鞄の中から上履きを取り出し履き替えていると、沙織がやって来た。

「今日から浅田だよね。なんか新鮮な感じがするけど、私はもう慣れたよ。私たちクラスも一緒だったんだね。これから3年間一緒に過ごす時間が長くなるけど、ますます仲良くしようね」

「サオ、ありがとう。私のことをしっかりとサポートとしてちょうだいね。高校から東京で生活するなんて思ってもいなかったから」

「そうだね。アヤがいたから私はここに入れたんだよ。私ってアヤみたく頭良く無かったじゃない。私の方こそ、これから助けてもらうことがいっぱいだって」

沙織は靴を履き替えるとさっさと教室に向かったが、私は廊下をゆっくりと歩くことにした。それはまるで新しい生活を始める校舎に挨拶をするような感じだ。

同じ制服に身を包んだ沙織の笑顔を見ると、なんだか私はホッとしていた。私が彩音であるのはなんといっても沙織のおかげなのだ。沙織が女の子としての、彩音としての色々なことを教えてくれたから、こうやって彩音らしく振る舞えるようになったのだ。

私は廊下にある大きな鏡の前で立ち止まると、自分の姿をじっと見つめてみた。どこからどう見ても浅田彩音は浅田彩音だ。中学校の時から全くと言っていいほどに成長したと思う。そんな風に自分の顔をじっと見つめていると『お兄ちゃん、後は任せたわね』と言う声が心の中から聞こえて来た。そして、『これからは過去も現在も未来も彩音として生きていってね』と言う声がした。

私は今も過去もこれからも彩音として生きていくのだ。自分が克彦だったと言う記憶をこれからは捨てて、私のお兄ちゃんの思い出に変えていこうと決心した。私は本当の意味で生まれ変わったのだ。こうやって彩音として生きていることに感謝しよう。
私が決意するとともに『お兄ちゃん、ありがとう』と言う声が聞こえた。

「お兄ちゃん、ありがとう!」

私の甲高い声が廊下に響き渡るのに合わせて桜が微笑むかのように揺れ動いていた。

(おわり)



【作者からのひとこと】

あ れから3年の月日が過ぎ去りました。前編・後編と分けての作品となりましたが、しばらく時間を頂いて完全版を準備する予定でおります。3年という時間の長さを作品の中に散りばめてみましたが、まだまだ不自由な感じもします。この3年間という時間もそれ以前のものとは全く別の概念に変わったのではないかと思います。被災された方々の事を思うたびにお祈りしています。そして、これから本当の意味で日本が回復していきますように。







 

本作品の著作権等について

・本作品はフィクションであり、登場人物・団体名等はすべて架空のものです。
・本作品についてのあらゆる著作権は、全て作者の夏目彩香が有するものとします。
・本作品を無断で転載、公開することはご遠慮願いします。

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